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第22話 魂の傷跡 (3)

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 ――リチェルに名を呼ばれた。

 自分でも滑稽なほど、それだけの事実を嬉しく思った。
 狼狽を押し隠し、アルキバは自分に喝を入れ、一瞬で態度をつくろった。大舞台で勝ち抜いてきた剣闘士、緊張をねじ伏せ自分も観客も騙すのは得意である。

 ごく冷静な声と表情で言った。

「起きたか。痛みはないか?ここは俺の友人のロワって魔術師の家だ」

 リチェルは自分の腹をさすり、驚きの声を漏らす。

「傷が消えている」

「ロワが治してくれた」

「その者に礼を言わねば……。待て、まさか、アルキバが私をここまで運んでくれたのか?」

「もちろんそうだ」

 リチェルは信じられない、という顔でアルキバを凝視した。

「なぜ……?」

「なぜって言われてもな」

 リチェルはまだ困惑した様子で尋ねる。

「一体、どういう状況だったのか、教えてもらえるだろうか」

「護衛はあんたを刺した後、俺に罪を被せて殺そうとした。俺は護衛を返り討ちにして、あんたを抱えてここまで逃げてきた」

 リチェルは息を呑み、しばし沈黙した。

「……ヴィルターを殺したのか」

「ああ」

「そうか……」

「すまん」

 アルキバは頭を下げた。
 リチェルは生気の宿らない顔で、ゆっくりと首を横に振った。そして何かに納得したように、落ち着いた声音になる。

「いいや、謝らねばならないのは私だ。ひどい目に合わせたな、殺人の濡れ衣を着せられるところだったなんて。我々の事情にそなたを巻き込んですまなかった。私がそなたのヴィルターへの正当防衛を証言しよう」

「助かるよ。王子様が一晩戻って来なくて、城は大騒ぎになってるんじゃないのか?」

「私が無断で外泊することはよくある。誰も心配などしていない」

「とんだ放蕩息子だな」

「そうだな」

 リチェルは自嘲気味に言うと、毛布を外し、ベッドから立ち上がった。

「城に帰らねば」

 脇をすり抜けようとしたリチェルの腕を、アルキバはつい掴んでしまった。

「待て!」

「なん……だ」

 リチェルがアルキバを見上げる。その瞳が明らかに恐怖に揺れていて、アルキバは慌てて腕を離した。
 昨日と同じガウン姿が、生々しくベッドの上の出来事を思い出させた。

「か、勘違いするな!昨日は悪かった。俺が大人気なかった。反省してる。本当に……悪かった」

 リチェルが驚いた様子でアルキバを見る。
 謝罪されると思っていなかったのだろう。謝罪しただけで驚かれるとは。自分はどれだけ酷い印象を与えてしまったのだろう。

「ごめんな。それだけ謝りたかった」

 リチェルはうつむいた。そしてポツリ、と呟く。

「やはり優しいな、アルキバは」

「は?」

 予想外のことを言われてアルキバの目が点になる。

 リチェルは気まずそうに髪をかき上げた。

「罰を下してくれてありがとう。いや、罰も未遂だったな。ちゃんと罰を受けろと言われるのかと思ったのに、まさか謝られるなんて」

 アルキバは苦笑する。

「いや、俺は地獄の番人じゃないから……」

 あんな風に絶叫する相手をどうこうすることなど、できない。
 しかしどうやら罰と思われているらしい。
 まあアルキバ自身がそのように言ったのだが、「仕置き」だの「罰」だのと。なぜか複雑な心地がした。

「私はずっと、最低なことをしていたな。恥ずべきことをしている自覚はあったんだ。でも止められなかった」

「まあ、金と権力を持つあんたに魔が差すのも分からなくはない。剣闘士は所詮は奴隷だからな。反省して、二度とやらなければもうそれでいい、俺は」

「奴隷……。亡き母上は、この国の奴隷制度は野蛮だといつも言っていた。世の中には奴隷のない国が沢山あるのに、と。幼い頃、私もその通りだと思っていたはずなのに。いつの間にか私はこれ程、野蛮な人間に成り下がっていたんだな……」

 アルキバの口元が緩む。

「案外、真面目なんだな。立派な王子様じゃないか」

 リチェルの顔ばせに、すっと憂いが差す。

「まさか、私はただの落ちぶれた、奴隷以下の何かだ」

「そいつは自虐が過ぎるんじゃないか?」

 言いながら、アルキバの脳裏に先ほど聞いた傷病歴の話がよみがえり、苦いものがこみあげた。

「もう投資主はやめる、二度と剣闘士の尊厳を傷つけることはしないと誓う」

「ああ、あんなこと続けるもんじゃない、あんた自身の為にもな。いままで俺以外に狼藉者がいなかったことが奇跡だ」

 リチェルはうんとうなずいた。

 アルキバは不愉快な気分でヴィルターの顔を思い浮かべる。
 剣闘士と細身の王子を二人きりにして閉じ込めて、ヴィルターは毎度、期待をしていたことだろう。いつか王子を犯そうとする剣闘士が現れるはずだ、と。それに乗じて王子を殺せると。 

 ところで、とアルキバは言葉を続ける。

「あんたの兄貴たちのことなんだが……」

「なんだ?」

  リチェルは無表情にたずねる。底に何かを沈めて隠す、ひんやりとした「無」がそこにある。

「その、あんたまだ……、やられてんのか?」

 リチェルは静かに首を振った。

「いいや。一年前までの話だ。今は何もない」

「そう……か」

 二人の間にしじまが降りる。

「では、世話になった」

 言って、リチェルは寝室を出た。
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