忘れられた王子は剣闘士奴隷に愛を乞う

空月瞭明

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第19話　逃亡

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　階段を駆け下り、ホテルを飛び出て馬に乗った。
　馬の腹を蹴り、通りを駆け抜けた。目指すは海とは反対方向。王城を迂回し、市壁の北門を閉門のぎりぎりで潜り抜け、緑の丘を駆け上る。

　そして北の森へ。森の奥へ。

　鬱蒼と茂る森を、アルキバは疾駆した。やがて森の中に目標の屋敷を、その明かりを見つける。
　なぜここに存在するのか分からない程立派な邸宅の戸を、攻め立てるように激しく叩いた。

「アルキバだ！バルヌーイ剣闘士団の！急患なんだ頼むロワ！」

　しばらくして扉が内から開けられた。軽口を叩く声と共に。

「バルヌーイ剣闘士団、懐かしい名前だ。しかしアルキバか。どうせならルシスの方が良かった。あの色男は元気にしてるかい？」

　出てきたのは、漆黒のローブを身にまとう、無造作に黒髪を伸ばした男。
　青白い肌に世を斜めに見るような目つきは、いかにも魔術師然としているが、事実、魔術師である。
　切れ長の緑の瞳は神秘的で、顔立ちも大層整っているのに、かもし出す胡散臭さが美形を台無しにしていた。

「急患を背負ってるんだ、腹を刺されてる、一応止血はした。頼む！」

「はいよ」

　ロワは鷹揚にアルキバを中に通した。

　医術に長ける魔術師であるロワは、かつてバルヌーイ剣闘士団の専属医師だった。
　今はなんの仕事をしているのかよく分からないが金に困っている様子もなく、誰も住まない北の森の奥、たった一人で大邸宅に住んでいる。
　なお年齢は不詳。見た目はアルキバと同じくらいだが、実年齢はもっと上のようだ。

　つまり諸々いかがわしい人物なのだが、腕は確かだった。

　アルキバは背負っていたリチェルを、案内された寝室のベッドに横たえた。止血したはずだが、縛ったシーツは真っ赤に染まっている。アルキバは不安な様子でロワを見た。

　だがロワはアルキバの視線など意に介さず、リチェルを見て「おっ」とつぶやき、舌なめずりした。

「べっぴんじゃないか」

「顔じゃなくて傷を見ろ！まったくお前って奴は！」

「この血染めのべっぴんを助ければいいんだろう？お安い御用だ。お前は邪魔だから向こうで適当にくつろいでおけ」

　言いながらベッドのかたわらに立ち、手際よく、血に濡れたシーツを解いていく。

「分かった、頼む」

　そう言って部屋を出て行こうとしたが、何故か釘を差したくなった。ちょっと迷いながらアルキバは言う。

「……手を出すなよ」

「死に掛けに手を出す変態に見えるか？」

　血染めのシーツをわきに置き、傷の具合を確かめながらロワは答える。

「見える」

「ひどいなあ、でもキスくらいならしたくなる寝顔だね」

「殺すぞ」

　我知らず物騒な言葉が口をついた。
　そこでロワが顔をあげた。驚いたような、面白そうな顔つきでアルキバを見る。

「……へえ」

「な、なんだ」

「いや、いいね。すごく嬉しいよ」

　ロワは再びリチェルの腹に視線を下ろし、傷口に手をかざし光を放つ。ぱっくり割れた腹の中身が、ちらちらと発光を始める。

「なにがだ」

「お前は一度、恋をすべきだと常々思ってたんでね。信奉者の女どもとの愛のないまぐわいしかしたことのないお前が、やっと落とされたか。遅い初恋だったな、闘技場の王者殿」

「下らない！とにかく治せ」

　ロワは微笑した。

「ああ、必ず助けよう、お前の初めての恋人を」

「勘違いするな！俺は自分が冤罪を免れたいだけだ、俺にこいつの殺害容疑がかかりかねない状況なんだよ！」

「そういうことに、しておいてやる」

　アルキバは舌打ちをすると、不機嫌そうにふいと顔をそらし、部屋を後にした。
　背後にばたんとドアを閉め、アルキバは息をつく。
　ロワの様子からして、おそらく大事ではないのだろう。ほっとした。文字通り肩の荷が降りた。

　これでリチェル王子は助かり、自分に嫌疑がかけられることもない。全て元通り、ただ一人の謀反人従者が死んだだけ。

　だが。
　肩の荷を降ろしてみれば、胸の内に別の錘がずしりとぶら下がるのを感じた。この錘の正体はなんなのか。

　脳裏にあの空っぽの瞳が蘇った。そして、耳に残る恐ろしい絶叫。
　アルキバは手で額を抑えた。ひどい渋面で。

　剣闘士の誇りを傷つけた悪党への懲罰、なんてのは言い訳に過ぎないことに、アルキバは既に気づいていた。

　あの時自分は、ただ獣欲に支配されリチェルを犯そうとしていた。拒絶されていたのに無理矢理、体を押し開こうとした。リチェルが心に傷を負っていると知っても、なお。

　嫌がる相手に無理を通したことなど、今まで一度もなかったのに。
　なぜ自分はあんなことを。

　アルキバはらしくもない、ため息をつく。

　目覚めたリチェルは果たして、自分とまともに口を聞けるのだろうか。獣けだもののごとく怯えられるのではないか。
　早く目覚めて欲しいのに、目覚めが恐ろしくもあった。