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第2話 影の目(1)
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狭いアパートに帰宅すると、リーサは便所で嘔吐した。時刻はもう夜の十一時を回ろうとしていた。
ここのところ毎日、仕事帰りに嘔吐している。悪阻というものがこれ程辛いものとは知らなかった。
喉を焼くような汚物を吐き終わると、リーサはうがいをし、水を飲み、口を拭った。
ふうと息をつく。
小汚いベッドに腰をかけ、まだ目立つほどはせり出していない腹をさすった。
平民の立場で貴族の手つきになり、身ごもった。彼女は一人で子供を産み、育てようとしている。
王都ではよくある話。いや古今東西、どこでもよくある話だろう。とは言え二十七にもなって何をやっているのだと、人は笑うだろうか。
笑われても構わなかった。彼女はあの悪名高い女たらしの子爵を、それでも愛していたから。
傍目にどれほど不幸で愚かな女に見えようと、彼女は今、幸せだった。女手一つで愛する人の子を育てていく。お腹の子供は、きっと彼女の孤独を埋めてくれるだろう。
自分自身を鼓舞するように、意思の強そうな口をぐっと引き結んだ時。
部屋に異変が起きた。
部屋の影が、蠢き始めた。
最初、ゴキブリかと思った。たくさんのゴキブリが四隅から這い出てきたのかと。だが虫ではなかった。
影、あるいは闇、としか言いようの無いもの。テーブルの下から、ベッドの下から、タンスの裏から。部屋中の影という影が、部屋の中心部に寄り集まっていく。
リーサが青ざめる。
(なに、これ)
幻覚かと思った。疲労のあまり、妙な幻覚を見ているのかと。あるいは夢か。
呆然と眺めているうちに、影はどんどん集合し、縦に大きく盛り上がった。
真っ黒な巨大な影の塊が、目の前にあった。
(夢よね?夢なのよね?)
リーサは恐怖に震えながら、ベッドの上にへたり込み、後ろ手をついて後ずさる。
巨大な影は空間で蠢きながら形を変えた。それはやがて、一つのはっきりとした形となる。
人型だった。
リーサはごくりと唾を飲み込み、まさか、と思う。
(影の目……?)
かの魔道暗殺者「影の目」は、影の中から姿をあらわす、という話を聞いたことがあった。
人型の影が、色彩を帯び、実体を持った。
リーサの目の前に、身の丈二メートルは越すだろう怪物がいた。
リーサはひっと息を飲んだ。噂通りのその姿に。
怪物は赤黒いビロードのローブに身を包んでいた。フードの中の大きな顔は灰色でシワだらけ。悪魔のようなかぎ鼻と、耳まで裂けた大きな口、口の中には剥き出しの歯ぐきとギザギザの鋭い牙。
そして、目は影に隠れている。目のあたりにだけ靄のような影がかかっているのだ。
ゆえに、「影の目」と呼ばれている。髪は白く、長く、縮れていた。
(夢よ夢よ夢よ夢よ!影の目なんて、やっぱり夢だわ!だって私は)
リーサは誰かに恨まれるようなことをした覚えはない。誰かに妬まれるような幸運に恵まれたことも、勿論ない。
こんな自分を殺して何になるのか。ありえない、だからこれは夢だ。
影の目が左腕を伸ばしてきた。金属でできていた。銀色の骨のような手。五本の指はかちゃかちゃと金属の擦れる音を立て、鋭利なナイフのように青白く光った。
リーサはベッドの上、背中を壁にぴったりつけて、ハアハアと荒い呼吸をあげた。
(夢、これは夢、誰が私を殺したがるっていうの!)
だが。
その時ふいに、一つの名前が、一つの心当たりがリーサの脳裏に雷光のようにひらめいた。
お腹の子の父親、ルーランド子爵サーネス・ドルトリー。
すっと血の気が引いていった。衝撃に身を震わせる。あなた、なのか。
怒りと悲しみが、恐怖を凌駕し激烈な勢いで膨張した。そしてはじけ飛ぶ。
リーサは血を吐くような思いで、怪物に叫んだ。
「依頼人はドルトリー卿なの?私があの人の子を宿したから?いやよお願い助けて、私はあの人に迷惑なんてかけないわ!誰にもあの人の子供だなんて言ってないし、これからも一生言わない!一人でこの子を育てるし、二度とあの人に会うつもりもないわ!だからお願い、殺さないで!」
金属の左手がリーサの肩を掴み、引き寄せ、固定した。
「いやっ!お願いたすけてドルトリー卿!私、死にたくな……」
金属の右手が、リーサの胸を貫いた。
貫通された手の中には、リーサの心臓が掴まれていた。
影の目はその心臓を握りつぶした。大量の血が飛び散った。ベッドの上も壁も真っ赤な染みに汚れた。
影の目はリーサの体から右手を引き抜いた。恐怖と絶望に歪んだ顔で、リーサの亡骸がベッドにうつ伏せに倒れる。
影の目の体が、再び色彩を失っていく。
赤黒いローブも、銀色の手も、灰色の顔も、黒く塗りつぶされ、影へと戻っていく。
そして黒砂糖が溶けるように、影の塊は崩れた。影たちは、部屋の四隅へと戻っていった。
あとはただ、一人の女の穴の空いた遺体と、血まみれの狭い部屋だけが残された。
ここのところ毎日、仕事帰りに嘔吐している。悪阻というものがこれ程辛いものとは知らなかった。
喉を焼くような汚物を吐き終わると、リーサはうがいをし、水を飲み、口を拭った。
ふうと息をつく。
小汚いベッドに腰をかけ、まだ目立つほどはせり出していない腹をさすった。
平民の立場で貴族の手つきになり、身ごもった。彼女は一人で子供を産み、育てようとしている。
王都ではよくある話。いや古今東西、どこでもよくある話だろう。とは言え二十七にもなって何をやっているのだと、人は笑うだろうか。
笑われても構わなかった。彼女はあの悪名高い女たらしの子爵を、それでも愛していたから。
傍目にどれほど不幸で愚かな女に見えようと、彼女は今、幸せだった。女手一つで愛する人の子を育てていく。お腹の子供は、きっと彼女の孤独を埋めてくれるだろう。
自分自身を鼓舞するように、意思の強そうな口をぐっと引き結んだ時。
部屋に異変が起きた。
部屋の影が、蠢き始めた。
最初、ゴキブリかと思った。たくさんのゴキブリが四隅から這い出てきたのかと。だが虫ではなかった。
影、あるいは闇、としか言いようの無いもの。テーブルの下から、ベッドの下から、タンスの裏から。部屋中の影という影が、部屋の中心部に寄り集まっていく。
リーサが青ざめる。
(なに、これ)
幻覚かと思った。疲労のあまり、妙な幻覚を見ているのかと。あるいは夢か。
呆然と眺めているうちに、影はどんどん集合し、縦に大きく盛り上がった。
真っ黒な巨大な影の塊が、目の前にあった。
(夢よね?夢なのよね?)
リーサは恐怖に震えながら、ベッドの上にへたり込み、後ろ手をついて後ずさる。
巨大な影は空間で蠢きながら形を変えた。それはやがて、一つのはっきりとした形となる。
人型だった。
リーサはごくりと唾を飲み込み、まさか、と思う。
(影の目……?)
かの魔道暗殺者「影の目」は、影の中から姿をあらわす、という話を聞いたことがあった。
人型の影が、色彩を帯び、実体を持った。
リーサの目の前に、身の丈二メートルは越すだろう怪物がいた。
リーサはひっと息を飲んだ。噂通りのその姿に。
怪物は赤黒いビロードのローブに身を包んでいた。フードの中の大きな顔は灰色でシワだらけ。悪魔のようなかぎ鼻と、耳まで裂けた大きな口、口の中には剥き出しの歯ぐきとギザギザの鋭い牙。
そして、目は影に隠れている。目のあたりにだけ靄のような影がかかっているのだ。
ゆえに、「影の目」と呼ばれている。髪は白く、長く、縮れていた。
(夢よ夢よ夢よ夢よ!影の目なんて、やっぱり夢だわ!だって私は)
リーサは誰かに恨まれるようなことをした覚えはない。誰かに妬まれるような幸運に恵まれたことも、勿論ない。
こんな自分を殺して何になるのか。ありえない、だからこれは夢だ。
影の目が左腕を伸ばしてきた。金属でできていた。銀色の骨のような手。五本の指はかちゃかちゃと金属の擦れる音を立て、鋭利なナイフのように青白く光った。
リーサはベッドの上、背中を壁にぴったりつけて、ハアハアと荒い呼吸をあげた。
(夢、これは夢、誰が私を殺したがるっていうの!)
だが。
その時ふいに、一つの名前が、一つの心当たりがリーサの脳裏に雷光のようにひらめいた。
お腹の子の父親、ルーランド子爵サーネス・ドルトリー。
すっと血の気が引いていった。衝撃に身を震わせる。あなた、なのか。
怒りと悲しみが、恐怖を凌駕し激烈な勢いで膨張した。そしてはじけ飛ぶ。
リーサは血を吐くような思いで、怪物に叫んだ。
「依頼人はドルトリー卿なの?私があの人の子を宿したから?いやよお願い助けて、私はあの人に迷惑なんてかけないわ!誰にもあの人の子供だなんて言ってないし、これからも一生言わない!一人でこの子を育てるし、二度とあの人に会うつもりもないわ!だからお願い、殺さないで!」
金属の左手がリーサの肩を掴み、引き寄せ、固定した。
「いやっ!お願いたすけてドルトリー卿!私、死にたくな……」
金属の右手が、リーサの胸を貫いた。
貫通された手の中には、リーサの心臓が掴まれていた。
影の目はその心臓を握りつぶした。大量の血が飛び散った。ベッドの上も壁も真っ赤な染みに汚れた。
影の目はリーサの体から右手を引き抜いた。恐怖と絶望に歪んだ顔で、リーサの亡骸がベッドにうつ伏せに倒れる。
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