魔道暗殺者と救国の騎士

空月 瞭明

文字の大きさ
上 下
4 / 71

第2話 影の目(1)

しおりを挟む
 狭いアパートに帰宅すると、リーサは便所で嘔吐した。時刻はもう夜の十一時を回ろうとしていた。
 ここのところ毎日、仕事帰りに嘔吐している。悪阻つわりというものがこれ程辛いものとは知らなかった。
 喉を焼くような汚物を吐き終わると、リーサはうがいをし、水を飲み、口を拭った。

 ふうと息をつく。
 小汚いベッドに腰をかけ、まだ目立つほどはせり出していない腹をさすった。
 平民の立場で貴族の手つきになり、身ごもった。彼女は一人で子供を産み、育てようとしている。
 王都ではよくある話。いや古今東西、どこでもよくある話だろう。とは言え二十七にもなって何をやっているのだと、人は笑うだろうか。
 笑われても構わなかった。彼女はあの悪名高い女たらしの子爵を、それでも愛していたから。
 傍目にどれほど不幸で愚かな女に見えようと、彼女は今、幸せだった。女手一つで愛する人の子を育てていく。お腹の子供は、きっと彼女の孤独を埋めてくれるだろう。
 自分自身を鼓舞するように、意思の強そうな口をぐっと引き結んだ時。

 部屋に異変が起きた。
 部屋の影が、蠢き始めた。
 最初、ゴキブリかと思った。たくさんのゴキブリが四隅から這い出てきたのかと。だが虫ではなかった。
 影、あるいは闇、としか言いようの無いもの。テーブルの下から、ベッドの下から、タンスの裏から。部屋中の影という影が、部屋の中心部に寄り集まっていく。
 リーサが青ざめる。

(なに、これ)

 幻覚かと思った。疲労のあまり、妙な幻覚を見ているのかと。あるいは夢か。
 呆然と眺めているうちに、影はどんどん集合し、縦に大きく盛り上がった。
 真っ黒な巨大な影の塊が、目の前にあった。

(夢よね?夢なのよね?)

 リーサは恐怖に震えながら、ベッドの上にへたり込み、後ろ手をついて後ずさる。
 巨大な影は空間で蠢きながら形を変えた。それはやがて、一つのはっきりとした形となる。
 人型だった。
 リーサはごくりと唾を飲み込み、まさか、と思う。

(影の目……?)

 かの魔道暗殺者「影の目」は、影の中から姿をあらわす、という話を聞いたことがあった。

 人型の影が、色彩を帯び、実体を持った。
 リーサの目の前に、身の丈二メートルは越すだろう怪物がいた。

 リーサはひっと息を飲んだ。噂通りのその姿に。

 怪物は赤黒いビロードのローブに身を包んでいた。フードの中の大きな顔は灰色でシワだらけ。悪魔のようなかぎ鼻と、耳まで裂けた大きな口、口の中には剥き出しの歯ぐきとギザギザの鋭い牙。
 そして、目は影に隠れている。目のあたりにだけ靄のような影がかかっているのだ。
 ゆえに、「影の目」と呼ばれている。髪は白く、長く、縮れていた。

(夢よ夢よ夢よ夢よ!影の目なんて、やっぱり夢だわ!だって私は)

 リーサは誰かに恨まれるようなことをした覚えはない。誰かにねたまれるような幸運に恵まれたことも、勿論ない。
 こんな自分を殺して何になるのか。ありえない、だからこれは夢だ。

 影の目が左腕を伸ばしてきた。金属でできていた。銀色の骨のような手。五本の指はかちゃかちゃと金属の擦れる音を立て、鋭利なナイフのように青白く光った。
 リーサはベッドの上、背中を壁にぴったりつけて、ハアハアと荒い呼吸をあげた。

(夢、これは夢、誰が私を殺したがるっていうの!)

 だが。
 その時ふいに、一つの名前が、一つの心当たりがリーサの脳裏に雷光のようにひらめいた。
 お腹の子の父親、ルーランド子爵サーネス・ドルトリー。
 すっと血の気が引いていった。衝撃に身を震わせる。あなた、なのか。
 怒りと悲しみが、恐怖を凌駕し激烈な勢いで膨張した。そしてはじけ飛ぶ。
 リーサは血を吐くような思いで、怪物に叫んだ。

「依頼人はドルトリー卿なの?私があの人の子を宿したから?いやよお願い助けて、私はあの人に迷惑なんてかけないわ!誰にもあの人の子供だなんて言ってないし、これからも一生言わない!一人でこの子を育てるし、二度とあの人に会うつもりもないわ!だからお願い、殺さないで!」

 金属の左手がリーサの肩を掴み、引き寄せ、固定した。

「いやっ!お願いたすけてドルトリー卿!私、死にたくな……」

 金属の右手が、リーサの胸を貫いた。
 貫通された手の中には、リーサの心臓が掴まれていた。

 影の目はその心臓を握りつぶした。大量の血が飛び散った。ベッドの上も壁も真っ赤な染みに汚れた。

 影の目はリーサの体から右手を引き抜いた。恐怖と絶望に歪んだ顔で、リーサの亡骸がベッドにうつ伏せに倒れる。

 影の目の体が、再び色彩を失っていく。
 赤黒いローブも、銀色の手も、灰色の顔も、黒く塗りつぶされ、影へと戻っていく。
 そして黒砂糖が溶けるように、影の塊は崩れた。影たちは、部屋の四隅へと戻っていった。

 あとはただ、一人の女の穴の空いた遺体と、血まみれの狭い部屋だけが残された。
しおりを挟む
↓第9回BL小説大賞奨励賞いただけました
忘れられた王子は剣闘士奴隷に愛を乞う
感想 92

あなたにおすすめの小説

【完結】I adore you

ひつじのめい
BL
幼馴染みの蒼はルックスはモテる要素しかないのに、性格まで良くて羨ましく思いながらも夏樹は蒼の事を1番の友達だと思っていた。 そんな時、夏樹に彼女が出来た事が引き金となり2人の関係に変化が訪れる。 ※小説家になろうさんでも公開しているものを修正しています。

諦めようとした話。

みつば
BL
もう限界だった。僕がどうしても君に与えられない幸せに目を背けているのは。 どうか幸せになって 溺愛攻め(微執着)×ネガティブ受け(めんどくさい)

『これで最後だから』と、抱きしめた腕の中で泣いていた

和泉奏
BL
「…俺も、愛しています」と返した従者の表情は、泣きそうなのに綺麗で。 皇太子×従者

もしかして俺の人生って詰んでるかもしれない

バナナ男さん
BL
唯一の仇名が《 根暗の根本君 》である地味男である< 根本 源 >には、まるで王子様の様なキラキラ幼馴染< 空野 翔 >がいる。 ある日、そんな幼馴染と仲良くなりたいカースト上位女子に呼び出され、金魚のフンと言われてしまい、改めて自分の立ち位置というモノを冷静に考えたが……あれ?なんか俺達っておかしくない?? イケメンヤンデレ男子✕地味な平凡男子のちょっとした日常の一コマ話です。

パラレルワールドの世界で俺はあなたに嫌われている

いちみやりょう
BL
彼が負傷した隊員を庇って敵から剣で斬られそうになった時、自然と体が動いた。 「ジル!!!」 俺の体から血飛沫が出るのと、隊長が俺の名前を叫んだのは同時だった。 隊長はすぐさま敵をなぎ倒して、俺の体を抱き寄せてくれた。 「ジル!」 「……隊長……お怪我は……?」 「……ない。ジルが庇ってくれたからな」 隊長は俺の傷の具合でもう助からないのだと、悟ってしまったようだ。 目を細めて俺を見て、涙を耐えるように不器用に笑った。 ーーーー 『愛してる、ジル』 前の世界の隊長の声を思い出す。 この世界の貴方は俺にそんなことを言わない。 だけど俺は、前の世界にいた時の貴方の優しさが忘れられない。 俺のことを憎んで、俺に冷たく当たっても俺は貴方を信じたい。

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】

彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』 高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。 その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。 そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?

騎士団で一目惚れをした話

菫野
BL
ずっと側にいてくれた美形の幼馴染×主人公 憧れの騎士団に見習いとして入団した主人公は、ある日出会った年上の騎士に一目惚れをしてしまうが妻子がいたようで爆速で失恋する。

顔も知らない番のアルファよ、オメガの前に跪け!

小池 月
BL
 男性オメガの「本田ルカ」は中学三年のときにアルファにうなじを噛まれた。性的暴行はされていなかったが、通り魔的犯行により知らない相手と番になってしまった。  それからルカは、孤独な発情期を耐えて過ごすことになる。  ルカは十九歳でオメガモデルにスカウトされる。順調にモデルとして活動する中、仕事で出会った俳優の男性アルファ「神宮寺蓮」がルカの番相手と判明する。  ルカは蓮が許せないがオメガの本能は蓮を欲する。そんな相反する思いに悩むルカ。そのルカの苦しみを理解してくれていた周囲の裏切りが発覚し、ルカは誰を信じていいのか混乱してーー。 ★バース性に苦しみながら前を向くルカと、ルカに惹かれることで変わっていく蓮のオメガバースBL★ 性描写のある話には※印をつけます。第12回BL大賞に参加作品です。読んでいただけたら嬉しいです。応援よろしくお願いします(^^♪ 11月27日完結しました✨✨ ありがとうございました☆

処理中です...