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第一話 人肌
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人肌は暖かいということを、サギトは十歳の時初めて知った。
サギトはその頃、入ったばかりの孤児院で、いじめられていた。
その晩、誰かがサギトのベッドの上に泥水をぶちまけた。枕も毛布もシーツも、徹底的にびしょびしょになっていた。
十個くらいベッドの並ぶ大きな寝室の隅。
サギトは自分の泥まみれのベッドを前に、呆然としていた。
子供達のクスクス笑いが聞こえた。彼らはベッドの中で毛布にくるまり、サギトを揶揄した。
「おいもう消灯時間だぞ、早くベッド入れよサギト」
「先生に怒られるぞ、ほら入れよ紫眼野郎」
サギトは喉のあたりに苦いものを感じながら言った。
「ベッドがぬれている。泥もついてる」
「え!?マジで!?」
わざとらしい甲高い声で誰かが返し、みんな爆笑した。
「サギトもらしたの!?」
「きったねえー!」
サギトは寝室を出ようと、ドアの方に向かった。
誰かがサギトの手を掴んで止めた。
「おい待てよサギト、どこ行くんだよ。消灯時間過ぎてるんだから寝ろよ」
「ぬれてるから寝られない」
「お前がもらしたんだろ!」
「貴様らがぬらしたんだろ」
「はあ?貴様らって誰のこと?俺たちのこと?おいおい、証拠あんのかよ!言いがかりやめろよ」
サギトは手を振り払おうともがいた。
「離せ!」
でもその頃からサギトは非力で貧弱な体型で、振りほどきたくてもできなかった。
「よしみんな、こいつベッドに寝かせてやろうぜ!」
子供達がわらわらと寄って来た。四方から乱暴に捕まれ、泥水ベッドへと引きずられて行く。サギトは叫んだ。
「やめろ、離せ!」
その時、ガチャリとドアが開いた。
背が高く体格のいい少年が、大きな声でぼやきながら入って来た。
「あーやっと皿洗い終わった!お仕置き、きっつー、夜までやらせる普通?先生ほんと鬼なんだけど。うあーねみいー」
ぼやきながら入ってきた少年は、サギトの体を皆が取り押さえてる様子を見て、眉を上げて口をつぐんだ。
短い茶髪と利発そうな黒い瞳。体格はいいがそれ程粗野な感じはしない、よく見ると整った容姿。
サギトはその少年が、子供達のリーダー格であることを知っていた。歳はサギトと同じ。いつも皆の中心にいて、ちやほやされてる少年だった。
ボス登場か、とサギトはただ憂鬱に思う。
サギトを掴んでる一人が、ボス少年に声をかけた。
「おー、お疲れグレアム」
「何やってんの?お前ら」
「サギトが消灯時間終わったのに寝ないから、ベッドに運んであげてんの」
「なんで寝ないの、サギト」
グレアムと呼ばれたボス少年は、不思議そうな顔をして聞いてきた。
どうせお前も知ってるんだろ、と思いながら、サギトは無表情で答えた。
「ベッドが泥水でぬれてる」
「ほんとに?」
グレアムはすたすたとサギトたちの横を抜けると、一番端にあるサギトのベッドを確認した。そのシーツを触り、うわっと手を離す。
「何これ、きたねっ!ビショビショじゃん!」
その大きな声とオーバーリアクションに、子供達がケラケラ笑って、サギトは舌打ちをした。
「それ紫眼野郎のションベンとうんこだぜ!」
「あっはっはっは」
だが馬鹿笑いの渦が、グレアムの次の一言でぴたと止まった。
「……いや、どう見ても泥水じゃんこれ。誰がやったの?」
グレアムのその静かな声音は、妙に部屋に響いた。
皆がしん、となる。グレアムは穏やかな口調で、さらにこう付け加えた。
「俺さ、こういうのすげえ嫌いなんだけど」
子供達の表情が変わった。
気まずそうな様子で互いに目を見合わせる。そして皆、すっとサギトから手を離した。
肩を回したり、伸びをしたりして、子供達はそれぞれのベッドに戻って行く。
「そ、そろそろ寝るかぁ」
「明日起きれねえしなあ」
みんな逃げるようにベッドに潜り込み、立っているのはサギトとグレアムだけになった。
サギトは戸惑っていた。
まさか助けられるとは思っていなかった。この孤児院に入る前から、サギトはいつも誰かにいたぶられていた。
なぜならサギトは、「紫眼」だから。魔物のように不気味な紫の目を持つから。
この国には何種か「忌人」と呼ばれる被差別人種がいるが、紫眼はその一種だ。だから何度もこういう目に遭ってきた。でも、誰かに助けられたことは、一度もなかった。
グレアムはこの後さらに、サギトを戸惑わせる言動をした。
「お前今夜は、俺のベッドで寝ろ」
「は?」
サギトはグレアムに腕を取られ、グレアムのベッドへと引きずられて行く。グレアムは毛布をあげてベッドの中に潜り込むと、
「ほら、入れ」
とサギトを促した。
「で、でも……」
グレアムはためらうサギトの手を掴んで引き寄せた。サギトはグレアムの腕の中に倒れこむ。
「うわっ」
「ほら毛布かぶれって」
グレアムは倒れてきたサギトをベッドに仰向けに横たえると、包み込むように毛布をかけた。
まるで大きなぬいぐるみを隣に寝かせるみたいに手際よく。
「狭いけど、泥水よりいいだろ」
サギトに毛布をかけて上から見下ろしながら、グレアムはにいと笑った。サギトの胸がトクンと鳴った。グレアムは間近で見るとやはり、とても整った顔をしていた。
「うーさむっ、毛布薄いよな」
そしてサギトの隣に潜り込み、ぶるりと身を震わせた。彼はくるりとサギトの方を向くと、体を抱きすくめてきた。
ぬいぐるみを抱くみたいにごく自然に。グレアムの左腕がサギトの背中に、右腕がサギトの髪に、巻きつくようにぴったりとひっつく。
「あったか。寒いからちょうどいいな」
サギトはびっくりして硬直した。
母親すらサギトを一度も抱きしめたことはなかった。紫眼の客に孕まされた不幸な娼婦。今どこで何をしているのかも分からない。サギトは母親の顔も覚えていない。
サギトは娼婦の子供達が集められる、ゴミだめのような育児所で育った。だが長引く戦乱の煽りを受けて、生まれ育った娼館街が寂れた。
見捨てられた子供達は浮浪児となる。サギトは食料と寝床を探しながら行き着いたどこかの街の商店で、盗みを働いた。そして捕まって、ここにやって来た。
サギトは、人肌の温もりというものを知らずに育った。だからグレアムに抱きしめられたこの体験は、サギトにとって忘れられないような強烈な出来事だった。
人肌とは、こんなに暖かいものだったのか。
硬直していたサギトはやがて、あまりの心地よさに、口元を綻ばせた。
グレアムは腕の中のサギトを見て、驚いたように言った。
「お前、笑うんだ」
「あ、当たり前だ」
「それもそうだな」
グレアムはふっと笑って、サギトの黒髪に顔をうずめた。
「お前、髪の毛さらっさらだなー……」
そんなことを言われてサギトは困惑した。艶やかすぎる直毛の黒髪もまた紫眼の特色の一つであって、不気味がられたことしかなかったから。
よくわからないことが立て続けに起き過ぎて、混乱しながら黙っていると、グレアムの呼吸が寝息に変っていった。
その、悩みなんてなさそうな平和な寝息のリズムが、不思議と聴き心地よかったのを覚えている。
そして、いい匂いだな、とも思った。
グレアムは太陽の匂いがした。
※※※
それがサギトとグレアムが友になった、最初のきっかけだった。
あれから随分年月がたち、そして色々なことがあり、グレアムとはもう、会うことも話すこともなくなった。
ただ大人になった今も時々、寒い夜毛布にくるまると、あの温もりを思い出すことがあった。
胸を千切られるようなひどい、苦味と共に。
人と深く関われないサギトに、様々なことを教えてくれた唯一の友。サギトに人の温度と優しさを教えてくれた。
同時に、葛藤や妬みや痛み、厄介で面倒な、心にべっとりとまとわりつく真っ黒い邪念も。
――あいつさえいなければ、俺はこんなに醜い感情に苦しむことはなかったのに。
時々、そんなことすら考えて、そんなことを考える自分への嫌悪で、サギトは気が狂いそうになる。
サギトはその頃、入ったばかりの孤児院で、いじめられていた。
その晩、誰かがサギトのベッドの上に泥水をぶちまけた。枕も毛布もシーツも、徹底的にびしょびしょになっていた。
十個くらいベッドの並ぶ大きな寝室の隅。
サギトは自分の泥まみれのベッドを前に、呆然としていた。
子供達のクスクス笑いが聞こえた。彼らはベッドの中で毛布にくるまり、サギトを揶揄した。
「おいもう消灯時間だぞ、早くベッド入れよサギト」
「先生に怒られるぞ、ほら入れよ紫眼野郎」
サギトは喉のあたりに苦いものを感じながら言った。
「ベッドがぬれている。泥もついてる」
「え!?マジで!?」
わざとらしい甲高い声で誰かが返し、みんな爆笑した。
「サギトもらしたの!?」
「きったねえー!」
サギトは寝室を出ようと、ドアの方に向かった。
誰かがサギトの手を掴んで止めた。
「おい待てよサギト、どこ行くんだよ。消灯時間過ぎてるんだから寝ろよ」
「ぬれてるから寝られない」
「お前がもらしたんだろ!」
「貴様らがぬらしたんだろ」
「はあ?貴様らって誰のこと?俺たちのこと?おいおい、証拠あんのかよ!言いがかりやめろよ」
サギトは手を振り払おうともがいた。
「離せ!」
でもその頃からサギトは非力で貧弱な体型で、振りほどきたくてもできなかった。
「よしみんな、こいつベッドに寝かせてやろうぜ!」
子供達がわらわらと寄って来た。四方から乱暴に捕まれ、泥水ベッドへと引きずられて行く。サギトは叫んだ。
「やめろ、離せ!」
その時、ガチャリとドアが開いた。
背が高く体格のいい少年が、大きな声でぼやきながら入って来た。
「あーやっと皿洗い終わった!お仕置き、きっつー、夜までやらせる普通?先生ほんと鬼なんだけど。うあーねみいー」
ぼやきながら入ってきた少年は、サギトの体を皆が取り押さえてる様子を見て、眉を上げて口をつぐんだ。
短い茶髪と利発そうな黒い瞳。体格はいいがそれ程粗野な感じはしない、よく見ると整った容姿。
サギトはその少年が、子供達のリーダー格であることを知っていた。歳はサギトと同じ。いつも皆の中心にいて、ちやほやされてる少年だった。
ボス登場か、とサギトはただ憂鬱に思う。
サギトを掴んでる一人が、ボス少年に声をかけた。
「おー、お疲れグレアム」
「何やってんの?お前ら」
「サギトが消灯時間終わったのに寝ないから、ベッドに運んであげてんの」
「なんで寝ないの、サギト」
グレアムと呼ばれたボス少年は、不思議そうな顔をして聞いてきた。
どうせお前も知ってるんだろ、と思いながら、サギトは無表情で答えた。
「ベッドが泥水でぬれてる」
「ほんとに?」
グレアムはすたすたとサギトたちの横を抜けると、一番端にあるサギトのベッドを確認した。そのシーツを触り、うわっと手を離す。
「何これ、きたねっ!ビショビショじゃん!」
その大きな声とオーバーリアクションに、子供達がケラケラ笑って、サギトは舌打ちをした。
「それ紫眼野郎のションベンとうんこだぜ!」
「あっはっはっは」
だが馬鹿笑いの渦が、グレアムの次の一言でぴたと止まった。
「……いや、どう見ても泥水じゃんこれ。誰がやったの?」
グレアムのその静かな声音は、妙に部屋に響いた。
皆がしん、となる。グレアムは穏やかな口調で、さらにこう付け加えた。
「俺さ、こういうのすげえ嫌いなんだけど」
子供達の表情が変わった。
気まずそうな様子で互いに目を見合わせる。そして皆、すっとサギトから手を離した。
肩を回したり、伸びをしたりして、子供達はそれぞれのベッドに戻って行く。
「そ、そろそろ寝るかぁ」
「明日起きれねえしなあ」
みんな逃げるようにベッドに潜り込み、立っているのはサギトとグレアムだけになった。
サギトは戸惑っていた。
まさか助けられるとは思っていなかった。この孤児院に入る前から、サギトはいつも誰かにいたぶられていた。
なぜならサギトは、「紫眼」だから。魔物のように不気味な紫の目を持つから。
この国には何種か「忌人」と呼ばれる被差別人種がいるが、紫眼はその一種だ。だから何度もこういう目に遭ってきた。でも、誰かに助けられたことは、一度もなかった。
グレアムはこの後さらに、サギトを戸惑わせる言動をした。
「お前今夜は、俺のベッドで寝ろ」
「は?」
サギトはグレアムに腕を取られ、グレアムのベッドへと引きずられて行く。グレアムは毛布をあげてベッドの中に潜り込むと、
「ほら、入れ」
とサギトを促した。
「で、でも……」
グレアムはためらうサギトの手を掴んで引き寄せた。サギトはグレアムの腕の中に倒れこむ。
「うわっ」
「ほら毛布かぶれって」
グレアムは倒れてきたサギトをベッドに仰向けに横たえると、包み込むように毛布をかけた。
まるで大きなぬいぐるみを隣に寝かせるみたいに手際よく。
「狭いけど、泥水よりいいだろ」
サギトに毛布をかけて上から見下ろしながら、グレアムはにいと笑った。サギトの胸がトクンと鳴った。グレアムは間近で見るとやはり、とても整った顔をしていた。
「うーさむっ、毛布薄いよな」
そしてサギトの隣に潜り込み、ぶるりと身を震わせた。彼はくるりとサギトの方を向くと、体を抱きすくめてきた。
ぬいぐるみを抱くみたいにごく自然に。グレアムの左腕がサギトの背中に、右腕がサギトの髪に、巻きつくようにぴったりとひっつく。
「あったか。寒いからちょうどいいな」
サギトはびっくりして硬直した。
母親すらサギトを一度も抱きしめたことはなかった。紫眼の客に孕まされた不幸な娼婦。今どこで何をしているのかも分からない。サギトは母親の顔も覚えていない。
サギトは娼婦の子供達が集められる、ゴミだめのような育児所で育った。だが長引く戦乱の煽りを受けて、生まれ育った娼館街が寂れた。
見捨てられた子供達は浮浪児となる。サギトは食料と寝床を探しながら行き着いたどこかの街の商店で、盗みを働いた。そして捕まって、ここにやって来た。
サギトは、人肌の温もりというものを知らずに育った。だからグレアムに抱きしめられたこの体験は、サギトにとって忘れられないような強烈な出来事だった。
人肌とは、こんなに暖かいものだったのか。
硬直していたサギトはやがて、あまりの心地よさに、口元を綻ばせた。
グレアムは腕の中のサギトを見て、驚いたように言った。
「お前、笑うんだ」
「あ、当たり前だ」
「それもそうだな」
グレアムはふっと笑って、サギトの黒髪に顔をうずめた。
「お前、髪の毛さらっさらだなー……」
そんなことを言われてサギトは困惑した。艶やかすぎる直毛の黒髪もまた紫眼の特色の一つであって、不気味がられたことしかなかったから。
よくわからないことが立て続けに起き過ぎて、混乱しながら黙っていると、グレアムの呼吸が寝息に変っていった。
その、悩みなんてなさそうな平和な寝息のリズムが、不思議と聴き心地よかったのを覚えている。
そして、いい匂いだな、とも思った。
グレアムは太陽の匂いがした。
※※※
それがサギトとグレアムが友になった、最初のきっかけだった。
あれから随分年月がたち、そして色々なことがあり、グレアムとはもう、会うことも話すこともなくなった。
ただ大人になった今も時々、寒い夜毛布にくるまると、あの温もりを思い出すことがあった。
胸を千切られるようなひどい、苦味と共に。
人と深く関われないサギトに、様々なことを教えてくれた唯一の友。サギトに人の温度と優しさを教えてくれた。
同時に、葛藤や妬みや痛み、厄介で面倒な、心にべっとりとまとわりつく真っ黒い邪念も。
――あいつさえいなければ、俺はこんなに醜い感情に苦しむことはなかったのに。
時々、そんなことすら考えて、そんなことを考える自分への嫌悪で、サギトは気が狂いそうになる。
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