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第7話 良い領主 ②

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「グラス……?は、はいかしこまりました、すぐに」

 ラーランド伯は、モルマーレの意図が理解できないまま、女中を呼び、グラスを持ってこさせた。
 モルマーレはグラスを受け取り、卓の上に置いた。
 女中が下がるとモルマーレは、祭服のたっぷりした袖の中にもう一方の手を差し入れ、中からナイフを取り出した。
 そのナイフで、自らの手のひらに一文字の傷を入れる。
 
「何を!」

 慌てるラーランド伯の前、モルマーレはグラスに自らの血を滴らせた。
 モルマーレの手の傷からぼたぼたと、の液体がグラスの中に注がれる。
 ラーランド伯はごくりと喉を鳴らした。
 噂に聞いていた通りだった。
 神子の血は血の色をしていない。

(化け物……!)

 色のない血をグラスの中に注ぎながら、モルマーレは薄く笑う。

「驚かないのですね、この血を見ても。ラーランド伯爵はそれなりに色々な事を知っておられるようだ」

 なんと答えればいいのか分からない。

「お、恐れ入ります」

「では、聖統神子と神子の違いは知っていますか?なぜ、聖統神子は神子よりも上位とされているのか」

「違い……」

 ただの身分の違いではなさそうなのは直感で分かる。神子は基本的に皆、禍々しいが、聖統神子の禍々しさはまさに人外級だ。
 だが詳しいことは知らない。ラーランド伯は正直に首を振った。

「存じ上げません。どちらも、神のご加護をお授かりになった尊い方々ということしか」 

「厳密な意味で『神のご加護』を頂戴しているのは聖統神子だけなのです。神子は、聖統神子から加護を分与された存在です。いわばご加護のおすそ分けですね」

 モルマーレの手から、「血」は流水のようにグラスへと注がれる。見る間に容量を満たしていく。

「は、ええと、つまり」

「聖統神子の血は、只人を神子にすることができるのです」

 グラスからあふれる寸前で、流血はぴたりと止まった。同時にナイフの傷も消失する。魔法のように。
 モルマーレは、自らの血を満たしたグラスを持つと、ずいとラーランド伯に差し出した。

「お飲みなさい。これを『聖血の分与』と呼びます。飲めばあなたは、栄えある神子となります」

(はあっ!?)

 ラーランド伯はパニックに陥りながら、必死に断る口実を探した。

「お待ちください!かような、かような……お、お恵みを賜るのは、あまりに恐れ多く!私などにはとてもとても、勿体ないことでございます!」

(神子になるだって?ふざけるな!どうして私が化け物にならなきゃいけないんだ!ああなんておぞましい液体だ、吐き気がする!)

 モルマーレの瞳の虹彩が、またすうっと細くなった。
 魔物は低い声で問う。

「まさか、拒否するおつもりですか?私はあなたを信じたいと申しましたよね?どうか行動で示してください。飲めばあなたの信仰心を認めましょう」

「うぐう……」

 ラーランド伯は自分の置かれた状況を思い出す。
 断ることなど、できるわけがない。
 断れば死、異端審問所行きだ。無論、娘たちもどうなるか分かったものではない。
 選択肢などない。飲むしかないのだ、悪魔の血を。
 
 ラーランド伯は震える手で、モルマーレからグラスを受け取る。
 無色透明に加えて無臭。そうと知らなければ、ただの水にしか見えない液体だ。

「ちなみに、ひとつご忠告を。飲んだら必ず神子になれるというものではありません。ラーランド伯爵は、神子になれないかもしれない」

 ラーランド伯は、えっと顔を上げてモルマーレを見る。
 喜びが顔色に出ないよう、必死にこらえた。
 水と思ってこれを飲めば、「信仰心」を示すことができる。異端審問所行きを免れ、娘たちも聖女にされない。
 そして飲んでも神子にならないなら、まさにただ水を飲んだだけで目の前の危機を回避できるということだ。

 急に、悪くない賭けに思えてきた。
 ラーランド伯はグラスを見つめ、心を決める。

「ターラ神の恩賜、つつしんで拝受いたします!」

 グラスに口をつけ振り仰ぎ、喉奥へと注ぎ込んだ。無味無臭の液体が、しかし水とも違う不思議な液が、喉を下り食道を下り、胃の腑へと落ちていく。
 一気に飲み干し空にしたグラスを、音を立てて卓に置いた。

「はあ、はあ、はあ」

 緊張と恐怖と不安で、心臓が早鐘を打つ。

(頼む、変化しないでくれ。神子にはなりたくない、神子にだけは!)

 モルマーレは、白目なき青眼をすがめた。

「ああ残念です、失敗だ。あなたは神子にはなれなかった」

 その言葉に、ラーランド伯は今度こそ笑みを抑えることができなかった。瞳を輝かせモルマーレを見上げる。

「まっ、まことですか!?」

「ええ。聖血の分与の成否は、血を受け入れたものの信仰心の度合いで決まる。信仰心の強いものは神子になれますが、信仰心の弱いものは……自我を失い、理性を失い、『断罪の獣』になってしまいます」

 ラーランド伯は眉をひそめた。

「……は?」

 断罪の獣の名は知っている。ターラ教の聖典に登場する神獣の名前だ。
 人々がターラ神への信心を怠り退廃、堕落した時にどこからともなく現れて、罰を下す恐ろしい神獣。
 どこかに実際に出現した、という真偽不明の話が時折この街にも入ってくる。人々は半信半疑で、怪談話のように噂をした。

 と、ふいに体の内側から強烈な吐き気がせり上がってきた。何者かに内臓を引っ掻き回されているような気持ち悪さ。遅れて、激痛も加わる。
 ラーランド伯は目を見開き、その場でえずいた。

「うお、おえ、おえ、うおええええええええええええ」

 ラーランド伯の口から、大量に何かが吐き出される。
 それは胃の中のもの、ではく「胃」そのものだった。
 胃だけではない。大腸、小腸、膀胱、腎臓、膵臓、肝臓、肺、心臓、食道、横隔膜、脳。
 あらゆる内臓がその口から吐き出される。
 吐き出された臓物は、大きな肉団子のように自ら丸まった。
 そしてむくむくと膨む。巨大化していく。
 かと思えば、アメーバのように広がり、ラーランド伯の体を飲み込んだ。

 まるで肉体を裏返すかの如く。

 裏返った肉体に、新たな目が生じた。新たな口と、鼻と、耳が。新たな腕が、否、「脚」が生える。

 モルマーレは悲しそうに、同時に愉快そうに、笑みを浮かべる。

「ひどい匂いだ、なんというになってしまったことか。私はあなたを信じたかった。正直、残念です」

 「裏返った」ラーランド伯の耳にはもうそんな言葉は届かない。

 それよりも、喉が渇いて仕方なかった。
 ラーランド伯は部屋を這いずり出ていく。
 渇きを癒すため。喉を潤す何かを探すため。

◇ ◇ ◇
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