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第四部 婚礼
第42話 シェンバー、子どもになる⑤
しおりを挟む「まだ子どもたちには見せていません。殿下がおいでになった時に、手ずからお渡しいただければと思いました」
孤児院の隣の神殿では、週末に神官たちが読み書きを教えてくれる。子どもたちは、少しずつ字を学ぶだろう。本は何よりの助けになる。
「シェンは、これをいつから⋯⋯?」
「孤児院を建てる時にはもう、お考えに入れておられました。こちらの完成までに手に入れられればいいがと仰って」
胸がぎゅっと締め付けられる。
今すぐに、会いたいと思った。
机の上の本をそっと撫でていると、服の裾がぐいと引かれた。瑠璃色の瞳が強い光を帯びて、ぼくを見上げている。
「院長、素晴らしいものを見せてもらって感謝している。少し失礼する」
そういうが早いか、シェンはぼくの手を取って部屋の外に出た。廊下をずんずんと歩いていくと、突き当りに扉が開かれた大きな部屋があった。くるりと振り返ったシェンが言う。
「⋯⋯イルマ王子や院長の言うシェンバーは、誰だ?」
「⋯⋯誰だ、と言われても」
燃え立つような瞳に、ぼくはたちまち挫けそうになった。
ああもう、どうしたらいいんだ。いっそ、それは君だと叫べたら。
そんな気持ちを相手が知るはずもなく、自分だって何故こんなことになったのか説明できもしないのだ。
輝く黄金の髪にきらめく宝石の瞳を持つ少年は、ぼくから目を逸らさずに言葉を続けた。
「本を贈ったのはシェンバー殿下だと院長は言った。イルマ王子も、さっきシェンと呼んでいるのを聞いた」
「えっと、それは⋯⋯」
「⋯⋯私もシェンと呼ばれている。ただ、そう呼ぶのは父上と母上、それに兄上の三人だけだ」
そうだったのか。今は両陛下も王太子殿下もシェンを愛称で呼ぶことはないから、知らなかった。
「この孤児院を建てるのに尽力した者がいる。それがあの本を贈ったシェンバーと言う人物だろう? そして、イルマ王子にはシェンと呼ばれている。殿下と呼ばれるからには身分は高い」
ぼくは、ごくりと唾を飲みこんだ。
「もう一人、同じ名の人物がいるのか? それも王族として動いているのか」
「ん、んー⋯⋯」
「イルマ王子は、その、シェンバーと親しいのだな?」
「え? ななななんでッ」
思わず動揺してどもると、シェンがぼそりと呟いた。
「名を呼ぶ時、とても優しい声をしていた」
顔が急に熱くなる。まさか本人に指摘されるなんて。急に鼓動が大きくなった。
「そ、そうだった?」
「⋯⋯私だって、シェン、なのに」
うん、君こそがシェンだよ、と言いかけて、自分でもよくわからなくなってくる。
「イルマ王子」
「はい」
少年は、握っていたぼくの手を両手で包む。
「私のことも⋯⋯シェンと呼んでほしい」
切なくなるほど真剣な声で言われて、胸の奥で何かがトクンと動いた。
何だ、これは。
帰りの馬車の中で、幼いシェンはぼくにもたれかかって眠っていた。小さな手は、ぼくの手を握ったままだ。今日は色々なことがあって疲れたのだろう。
帰り際に院長に干果を託そうとしたシェンは、ぜひ子どもたちに渡してくれと言われて、子どもたちと話す機会を得た。平民の、孤児の子どもたちと話す経験なんて、今までなかったはずだ。
「⋯⋯お疲れ様」
ぼくの腕に、すり、と温かな頬が触れた。
南の離宮に着いた後、馬車からシェンを抱き上げてベッドに運んだ。サフィードが運んでくれると言ったが、ぴったりと自分に張り付いている体を引き剝がすのはためらわれた。
9歳は結構大きいんだな、と実感する。すっかり力の抜けた体を抱えて運ぶのは注意がいる。よろけないように、起こさないようにと慎重に階段を上ると、時折、ぎゅっと首に手を回して抱きつかれた。起きたのかと思えば、また力が抜けていく。
そういえば、ぼくはしょっちゅうシェンに抱えて運んでもらっていた。申し訳ないことをしたと思うが、同時に嬉しさと恥ずかしさが湧きおこる。
シェンの靴を脱がせてベッドにそっと横たえると、すやすや眠る顔はとても可愛らしい。睫毛は長いし、髪も肌もきらきら。頬と唇だけがほんのり淡い薔薇色だった。生意気な口を聞いても、なんだか怒りが続かないのはどうしてだろう。あの瑠璃色の瞳の輝きと意志の強さに、変わらぬものを感じるからだろうか。
じっと見つめていたら、シェンの睫毛が震えて、ぱっちり目が開いた。
「シェン? 起きたの?」
「な⋯⋯、ま、え⋯⋯」
無意識に名を呼んだことに気づいて、あっと声をあげた。まるで花が咲いたように、少年が笑う。
「イル、マ⋯⋯だい⋯⋯すき」
「え? ええっ」
細い腕が伸びてきて、ベッドの上に置いたぼくの手を取る。すっと引き寄せられたかと思うと、指先に、ふわりと柔らかな唇が触れた。
「!!!」
何だ、これは。
ちょっと、待て。落ち着こう。
どきどき鳴る胸を抑えようと思わず深呼吸をする。静かに息を吐けば、傍らから、すう、と寝息が聞こえた。今度こそ寝入ってしまった少年の手からは、すっかり力が抜けていた。
「君は一体⋯⋯、どんな大人になるんだ」
そう言った後で、どんな大人になったかは十二分に知っていることに気がついた。
ぼくは、寝衣に着替えてそっとベッドに入った。上掛けをはねのけている子に、肩まで布を引き上げてかけ直す。
シェンがずっとこのままなのは困る。離宮はまだしも、王宮に帰れない。だからと言って子どものシェンに真実を話してもいいだろうか? 記憶も体も戻らないのに、怯えさせるだけじゃないのか?
悩んでいると、シェンが寝返りを打った。小さな手を握り、額に一つ、口づけを落とす。口元に微笑みを浮かべるのが見えた。
「おやすみ、シェン。よい夢を」
我らの女神よ、どうぞ彼をお守りください。⋯⋯そして、いつか、元の姿にお戻しを。
そっと呟いて、ぼくは目を閉じた。
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