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Ⅴ.後日談
第6話 恋情 一夜明けて①
しおりを挟む【イルマ】
目が覚めたら、温かい腕の中にいた。
金色の光がさらさらと降ってくる。触れてみれば、絹糸みたいだ。
起こしたら悪いな。
腕の中で、そっと見上げる。
シェンは、とても綺麗だ。
閉じたまぶたには、繊細な長いまつ毛が揃っている。
染み一つない肌は白磁のようで、体温があるのが不思議なくらいだ。
筆で描いたようなほっそりした眉の下に、輝く瞳がある。以前は深い瑠璃色だった。
スターディア王家に伝わる瑠璃色の瞳。
女神の湖は様々に色を変える。時折、シェンの瞳と同じ色を映し出す。
ゆらゆらと揺蕩う時の中に囚われていた時。
大切なものがいくつも、泡のように浮かんでは消えていった。
意識が曖昧になる中で、何度も繰り返し呼んだ名前がある。
⋯⋯サフィード、セツ、ユーディト。ルチア。
王子、と呼ぼうとは思わなかった。ただ。
何か言いたげなシェンの顔が浮かんだ。
湖で、シェンの瞳の色を捉えるたびに、心の奥で何かが動いた。
──ちょっとだけ、触れてもいいかな。
逞しい胸に当てていた手を動かして、指先で形のいい唇を撫でる。
そう言えば、初めて会った時も裸だったな。
あの時は⋯⋯。
色々思い出すと、もやもやする。
この肌は、たくさんの人を知っている。
そう思った途端に、今まで知らなかった気持ちが押し寄せた。
【シェンバー】
さっきから、ずっと我慢している。
『イルマ殿下は、小動物みたいなんですって』
セツから聞いた、とレイが笑いながら言った。
たしかにそうかもしれない。
腕の中の生き物が、小刻みに動いている。たぶん、本人は意識していないのだろう。
だが、こちらは長年、訓練と実戦経験を積んできたのだ。
相手の気配や動きの変化は、すぐにわかる。
イルマが起きる前から、目覚めていた。
腕の中の温もりが愛しくて、強く抱きしめたら壊れてしまうような気がして。
そっと抱きしめたまま、動けなかっただけなのだ。
髪に触ったり、顔を近づけてみたり。
肌を摺り寄せてくるのは⋯⋯。無意識なんだろうが、困る。
何も身につけずに、抱き合っているのだ。
下半身が思わず反応しそうになるのを、ひたすらに堪えていた。
経験豊富な相手ならまだしも、昨夜初めて肌を合わせたばかりなのだ。
驚かせてはいけない。
細い指先が、ちょんと唇に触れてくる。
確かめるように、すり、と撫でている。
このまま、咥えて食べてしまおうか。
胸の中に、そろりと獣のような情念が動き出す。
☆★☆
シェンバーが、形のいい唇を開く。
イルマの小さな指先を口にしようとした時。
胸に、ぽとんと温かいものが落ちてきた。
「⋯⋯イルマ? なんで、泣いてる?」
やわらかい髪を撫で頬に触れれば、涙が幾筋も伝っていく。
額に口づけを落として優しく尋ねた。
「どうした?」
「⋯⋯れば、よかった」
「え?」
「⋯⋯もっと、たくさん経験があれば、よかった」
シェンバーに衝撃が走った。
小動物は時々、思いもよらぬ攻撃を仕掛けてくる。
──今言われた言葉を、うまく咀嚼して返さなければ。
「そ⋯⋯れは、どういう?」
イルマがシェンバーの胸に頬を寄せた。
「だって、シェンは⋯⋯たくさん⋯⋯知ってるのに。ぼくは、ろくに知識も⋯⋯わ、技も知らないんだ」
イルマの言葉に、いちいち動悸が激しくなる。シェンバーは、自分に強く語りかけた。
──落ち着こう。相手は素直なだけだ。純粋培養されてきたのだ。
「シェ、シェンは、今までもたくさん⋯⋯付き合った人がいるでしょう。そう思ったら⋯⋯」
イルマのふわふわした髪が、しょんぼりと萎れ始めている。
シェンバーは、イルマの体を引き寄せた。イルマの髪からはふわりと花の香りが漂う。
まぶたに、頬に、鼻に。いくつも口づけを落としていく。この気持ちが彼に少しでも伝わるようにと。
シェンバーは、目を伏せて言った。
「⋯⋯イルマは、私を汚いと思うだろうか」
「え?」
「たくさんの人間と肌を重ねてきた。そんな人間は、嫌だっただろうか⋯⋯」
イルマは、目を大きく見開いた
「そんなこと、思ってない。ぼくが思ったのは⋯⋯。もっと、自分に何かできたら。⋯⋯好きになってくれるかな、って」
⋯⋯シェンが、今まで触れてきた人たちよりも。
呟くように言う声は、シェンバーの耳に届いた。
──この愛しい人は、嫉妬と言う言葉を知らないのかもしれない。
フィスタの王族たちが、イルマに何も教えずに育てた意味が分かるような気がした。
女神の下に旅立つ祝福の子たちは、この世の柵から解き放たれているように。
肉欲すらも、その身から離れているように。
シェンバーが目の縁に溜まった涙を舐めれば、イルマはぱちぱちと目を瞬いた。
そんな仕草さえ愛らしいな、と思う。
「⋯⋯こんなに泣いたら、目がはれてしまう」
目元に口づけ、唇を軽くついばむ。
「過去を変えることはできないから⋯⋯。イルマが私を嫌わないでいてくれたら嬉しい。それに。私は、イルマが私のようでなくて良かったと思う」
「⋯⋯シェン?」
「経験だけあればいいというものじゃない。快感があっても気持ちの伴わない行為は虚しい。それを教えてくれたのは、イルマだ」
シェンバーは、イルマに向かって微笑みかけた。
「イルマが、たくさん経験を積んでいたら⋯⋯」
シェンバーは、独り言のように呟いた。
「⋯⋯相手を一人ずつ、⋯⋯にしたかもしれないな」
「シェン?」
イルマが、聞き損ねた言葉をもう一度聞こうとした時だった。
シェンバーが、起き上がってイルマの腕を捉えた。
「知らないことは、これから知ればいい。一緒に」
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