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Ⅲ.祝福の子

第13話 湖①

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 子どもたちを呼ぶ母親の声がする。
 兄弟の手を取り、それぞれが次々に走り出す。

 常よりは遅くまで起きていた子どもたちも、もう眠る時間だ。

「イル、またね!」
「サフィーも、おやすみ!!」

「イル、また来る?」
 幼い子を背におぶった年嵩としかさの少年が言う。

「湖には休暇で来てたから、もう家に帰るんだ。今までありがとう」
 少年は真剣な瞳で聞いてくる。
「またいつか、来る?」

 ──いつか。それは、未来がある約束。

「わからない。そうだなあ。もし来られたら、また釣りを一緒にしてもいい?」
「うん! イルが次に来る時までに、俺もっとうまくなってるから!! きっと、村一番になってる!」

 ぼくは笑って頷いた。
 少年たちに大きく手を振って、何度も振り返る姿を見送った。

 中空には大きな月が、冴え冴えとした光を投げかけている。
 いつのまにかサフィードと二人きりになって、かがりの近くに座り込む。

「ねえ、サフィード」
「はい、殿下」
「またいつか、ここに来られるかな」
「殿下がお望みでしたら、いつでも」

「⋯⋯ぼくが望んだら、か」
 ぼくはちょっと、意地悪を言ってみたくなった。
「サフィー、ぼくが望んだら、あの月でも取ってきてくれる?」

 天に煌煌と輝く月を指させば、サフィードは静かに言った。
「殿下がお望みなら」
 穏やかな騎士の笑顔に、心の奥まで見透かされたような気持ちになる。

「もう、いい」
 馬鹿なことを言ったと恥ずかしくなってうつむいていると、騎士が立ち上がった。
 湖に向かって歩いて行くと、子どもたちが忘れていったのか、小さな木桶が一つ転がっている。
 サフィードが戻ってきた時、桶の中には湖の水が張られていた。
 桶の中の水が静かになると、中には月が映っている。

「サフィー、これ」
「本物は、いささか難しくて。どうかこれでお許しください」
 ぼくは、心の中にじわじわと温かいものが広がるのを感じた。優しいサフィード。幼い頃から、ずっとぼくの一番身近にいた騎士。

「ありがとう、きれいだ」
 水に映る月。本物には手が届かなくても、ちゃんとここにある。

「楽しかったな、ずっと。スターディアでは色々なことがあったけれど、サフィードとセツがいてくれてよかった」
「⋯⋯殿下?」

「ユーディトにね、告白されたんだ。ずっと好きだった、って言われた。こんなぼくでも誰かに好きになってもらえるんだと思って嬉しかった」
「何を仰るのです! 殿下のことを嫌う者など⋯⋯」
「ぼくは、『祝福の子』だからね」

 サフィードの言葉を遮るように口にした。
 大きな月は桶の中だけではなく、湖面にも穏やかな光を投げかけている。
 祭りの楽の音が響く中。
 月明かりが、暗い湖面に銀色の光の欠片単語かけらをきらめかせた。

「ふふ。女神の大事な子じゃなかったら、誰が好きになってくれるのかなあって、ずっと思ってた」

「殿下!!」
「大丈夫だよ。セツも、ルチアも、サフィードも、ぼくのことを大事に思ってくれてるって知ってる。それでも。ただ誰かに好きになってもらえる、って嬉しいことなんだなって思ったんだ」

 サフィードの手が、白くなるほど固く握りしめられていることに、ぼくは気づかなかった。

「イルマ殿下! サフィード殿!! どちらにおいでですか!?」
 シヴィルの呼ぶ声がする。

「ああ、心配かけちゃったかな。宴に戻ろうか」
 ぼくが立ち上がろうとすると、サフィードは、ぼくの手を掴んだ。

「サフィー?」
「殿下、私は⋯⋯。私はずっと殿下のお側におります」
「⋯⋯うん」

 ぼくが手を握り返せば、騎士はさらに何か言いかけるように唇を開いた。

「イルマ殿下!」
「シヴィル」

 振り向いた瞬間に繋いだ手は離され、シヴィルが走ってくる。

「どちらにおいでなのかと思いましたよ。どうぞ宴の席に」
 ちらりと視線が投げかけられ、サフィードを見て微笑む。

「騎士殿がご一緒なら何も心配はないですが。

 サフィードは、それきり口を閉じた。



 大きな篝火の周りでたくさんの人々が踊っている。どの顔も葡萄酒の酔いが回っているのだろう。赤くほてっている。セツやレイまでが頬を赤く染めていた。

 ぼくたちは、席に促されて座った。
 人々が次々に酒を注ぎにくる。勧められるままに飲んでいるのに、少しも顔色が変わらないのは、ユーディトとサフィードだ。

「きゃー!! いい飲みっぷり!」
「もっと召し上がってくださいな!」

 仮面をつけた女たちが二人の隣に陣取って、次々に酒を勧めている。それにつけても、席に戻ってからのサフィードのペースは早すぎないだろうか。騎士たちは、元々酒に強いものだけれど。
 ぼくは、自分の酒をちびちび舐めながら、二人が飲むたびに歓声が上がるのを眺めていた。

 少ししか飲んでいないのに、体が熱い。少しぐらい離れていてもいいだろうと、こっそり席を外して歩き出す。何しろ、座っていたらいたで、酒を注がれたり声をかけられたりと忙しい。

 湖の端まで歩くと、茂みの中にちらりと金色の髪が見えた。

「シェンバー王子?」
「しっ、殿下! お静かに」

 ぼくに気づいた王子にいきなり手で口をふさがれ、近くの茂みの中に引きずり込まれた。
 目の前の木々の間を、少女たちが歩き回っている。どうやら王子を探しているようだ。あきらめたのか、渋々宴に戻っていく。

「⋯⋯大人気ですね」
「もう十分ですよ」

 近くには誰もいなくなった。口許から手を離され、二人でため息をつく。王子が縮こまっていた手足を大きく伸ばす。少女たちの目を避けて、ずっと隠れていたのかと思えば、おかしさが込み上げて笑ってしまった。

「ひどいですね、こちらは大変な思いをしているのに」
 肩を竦める姿さえも美しい。
 女神に愛された人間、というのは王子のような者を言うはずだ。
 どこにいても人を引き付けるのは、この美貌のせいだけではないのだろう。

「美貌を鼻にかけて、とっかえひっかえ食い散らかしていると評判の王子」
「⋯⋯何ですか、いきなり。ひどい言いざまですね」
「最初に聞いた、貴方の噂です。スターディアに行った時は、とんでもない人だと思いました」
「⋯⋯そんな人間と婚約してくださった殿下は、まことに心が広くていらっしゃる。貴方に逃げられて、私は、はるばるフィスタまで来てしまった」

 ぼくとシェンバー王子は、並んで湖を見ながら話し続けた。
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