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第一章 出会い

3 アルファの威嚇

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「ごめん、志乃。何でも好きなものおごるからさ、機嫌直して」

 ……聞き分けのない相手を宥めるような言い方はやめてほしい。

 悪いのはそっちなのに、とつい恨みがましい目で見てしまう。
 何度も謝る姿に周りから視線が集まっている。もう許してあげなよ的な雰囲気が、こちらまで漂ってくる。これは絶対、伊織の持つ王子様な雰囲気のせいだ。目の前の美形が少し眉を下げてじっと見つめてくるので、仕方なくため息をついた。

「じゃあ、『大門』のクリームあんみつ」
「了解!」

 学校から近い商店街の甘味屋を答えると、とびきり嬉しそうな笑顔が返って来た。善は急げだと伊織が言うので、早速、放課後に行くことになった。話を聞きつけた大輝が自分も行くと叫ぶのを、伊織がお前は部活あるだろとかわす。

「伊織こそ、今日は生徒会の仕事ないの?」
「ああ、平気。一年生はまだそんなにやることないから」

 僕たちは二人とも部活に入っていなかった。伊織は生徒会に入っているからで、僕は少しでも勉強するためだ。僕程度の学力では、クラスの授業に簡単についていけなくなる。二人で廊下を歩いていると、あちこちから視線を感じた。隣に立つ彼は、この学園では有名人なのだ。彼と親しくなりたい人は山ほどいて、しょっちゅう声をかけられている。

 昇降口で靴を履き替えた時、ぱたぱたと足音がした。

「あの、少しだけいいでしょうか」

 伊織に向かって話しかける小柄な男子はオメガだ。彼のことは見たことがあった。僕たちのクラスに何度も来ている。美しく整った顔に華奢な体つきと、中性的なオメガの特徴を全て備えていた。

「悪いけど、用があるんだ」
「あの、本当に少しでいいんです。話したいことがあって」
「……伊織、先に行ってるね」

 小声で言って歩きだすと、伊織が慌てて叫んだ。

「待って! 志乃。俺も行く」
「久世さん!」
「君に割く時間は一分もない。邪魔するな」

 ぞっとするほど冷たい声に思わず振り向くと、真っ青な顔が目に入る。オメガの彼の顔が歪んで、僕を正面から睨みつけた。

「いくら氷室一族だからって、オメガでもないのに! それに、アルファとしては少しも……」

 ──少しも価値がないくせに。

 彼の透けて見える心は、確実に僕の心を抉った。伊織は、誰もが望むようなアルファで、僕は……そうじゃない。

 ぐらりと世界が揺れた気がする。必死に立っていると、足元から冷気が伝わってきた。胃を押しつぶすような強い力を感じて体がすくんだ。
 伊織の体から怒りのフェロモンが放たれていた。溢れるほどの怒気が、真っ直ぐに目の前のオメガに向かっていく。

「うわあああ!」

 オメガが、その場にしゃがみこむ。ガタガタと震え、恐怖で逃げることもできずにいる。アルファの逆鱗げきりんは、その場にいた者たちの動きまでも止め、周囲を震え上がらせた。

「……勝手なことを」
「ひっ!」

 伊織の体からは、さらに強い怒りが湧き上がる。このままでは相手を殺してしまいそうだ。

「い、……ぃおりッ」

 何とか声を出した僕に気がついて、伊織が振り向いた。ふっとその場の空気が緩み、全く動けなかった体が自由になる。
 怒りを浴びたオメガに、彼の友人らしい生徒たちが慌てて駆け寄っていく。ほっと息をついた僕がよろけると、伊織が僕に手を伸ばした。その瞬間、僕は思わず後ずさった。

「志乃?」

 それは、本能的な恐れだった。
 自分よりも、圧倒的な上位に立つアルファ。その存在が、怖い。
 伊織が放った怒りは僕に向けられたものじゃない。それでも僕は、オメガと同様に恐怖が先に立った。下位の力無きアルファは、上位のアルファに逆らえない。

 ──怖い、怖い怖い。ここから逃げ出したい。

 体を翻して走り出す。すぐに伊織が追いついて、僕の手を取った。体中の毛が逆立ち、肌が粟立つ。
 でも、伊織が離してくれなかったら逃げ出すことも出来ない。恐怖ばかりが広がっていき、耳には伊織の言葉すら届かない。僕は軽くパニックになっていたのだと思う。

「……いやだ。……怖い!」

 伊織が息を呑み、目を見開く。僕の腕を握ったまま、どこかに電話をかけている。

「志乃、落ち着いて。すぐに迎えが来る」

 どこに行くのかもわからず、伊織に抱えられるようにして校門に向かった。すっと止まった黒塗りの車の後部座席に乗せられ、隣に座った伊織が強く僕の手を握る。一回り大きな手は温かい。それでも、体の震えが止まらなかった。どうやっても伊織が離してくれないので、ぐったりしたまま後部座席にもたれかかっていた。

 車は滑るように走って、通りから建物の地下に入っていく。そこがマンションの駐車場だとわかったのは車が止まってからだ。ドアが開けられた先に、待ち構えている人がいた。

「はじめまして。久世家に仕える比企ひきと申します。御体を支えてもよろしいでしょうか?」
「……いえ、自分で」
「失礼ですが、その状態では無理でしょう。伊織様、まずは手をお離しください」

 その瞬間、ぞっとするほどの冷気に体が包まれた。僕の体はぐらりと揺れた。

「伊織様!」

 もう限界だ、と思った瞬間。ふっと意識が途切れた。
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