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少しだけ憂鬱
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「はぁ……」
「ちょ、ちょ!サムーーー!戻ってきて!あ、兄さん捕まえて!」
「へ……うわっ」
夏樹の店で業務を終え、風呂場を洗う。こぼれるため息は無意識だった。心ここに在らずで手だけを動かしていたら、大きな影がこちらに突進してきた。夏樹のドライヤーから脱走したらしいボルゾイのサムだ。
馬が駆けるような華麗なステップでこちらに来ると、顔面を容赦なく舐められる。雪隆が風呂場のタイルに尻餅をついてしまうほど勢いよく飛びかからないところは、サムの聡明さゆえか。
ボルゾイというのは本来なら穏やかで独立心が高いことが多いが、サムは例外で人懐っこい。特に雪隆は初回に気分よく洗ってくれたこともあってかお気に入りの人物へと昇格していた。
「サムは兄さんがお気に入りだなぁ」
夏樹はサムの体をトリミングコームでひと撫ですると、わんこを部屋へと誘導する。そのスムーズな手腕はプロのトリマーらしい。雪隆のように大柄でない分、力ではなく技術でわんこ達を懐かせているのだろう。
「あいつもああやってわかりやすければいいのに……」
雪隆はぽつりと言葉をこぼした。ふと黒い毛玉のポメラニアンを思い出す。気に入らないことがあるとすぐに唸って、でも放っておくと不満げに構って欲しそうにする…… はじめは天邪鬼かと思ったが、その実あのポメラニアンは少しこだわりが強くて寂しがり屋なだけだった。
雪隆が厄介で対処しようがないと思わせるのは、人の姿をとっているときだ。社会人になればある程度の社交辞令だったり他人に良い顔をしようと見栄を張るものだが、佐々木にはそんなそぶりは見えない。
いきなり自宅に上がり込み休憩をしたり、しょっちゅう土産を持ってきては雪隆に絡んできたり訳がわからないし、生活を乱されるのが正直好ましくなかった。
けれど、時たましおらしくなったり、酔っ払った所を迎えに行った時には素直にお礼を言える。そんな所を知ってしまうと雪隆は弱い。彼との関係を断つことはできなかった。
雪隆は自身が元来持つお人好しの性格から佐々木との関わりを続けていると今まで思っていた。しかしどうやら違うらしい。なぜなら、ただの親切で知らない男と関係を持つ訳がないのだ。
性的嗜好については、学生時代から異性愛者だと自覚していた。付き合った人はいないが、好きだった子や自慰での想像はいつも女性だった。
だからこそ、佐々木に触れられた時に驚きはしたが、嫌悪感を感じなかったのは雪隆の心中の混乱のもとになった。それどころか、最後には射精まで至ってしまったのである。触れられて刺激から勃つことはあるだろうが、まさか同性の手によって達するとは人生で一度も想像できないことだ。
雪隆はその胸の中に微かに芽生えた好意を抑え込んだ。向こうは興味本位でこちらにちょっかいをかけているに違いないからだ。佐々木の性的嗜好はわからないが、彼は誰とでもそういうことをするのだと思わないとやっていけない。なぜなら雪隆と佐々木は、雪隆の家にやって来るだけで、告白の、ましてやデートの一つさえしたことがないからだ。気持ちがつながらず体の関係だけでは、まるでセックスフレンドである。
誠実に付き合いたいと、好いている相手ならこちらに言葉で、態度で表そうとするはずではないか。佐々木にはそれが感じられない。だから遊ばれているのだと雪隆は予防線を張っている。
その上、雪隆は佐々木のことをほとんど知らない。かろうじてわかるのは名前と電話番号。お肉が好きで、うちに来るたびどこかしら掃除をして帰っていく。
つんつんしていると思ったら、時に膝枕を要求して猫のようだと思う時もある。本人はポメラニアン化するのに。
そんな心配の種をうちに抱えたままでは仕事が捗るはずもなかった。データの入力はミスしてしまうし、いつもならば起きない顧客への無礼に上司には叱られた。挙句には副業をしているせいで注意力が散漫になってしまったのではと指摘される始末だ。弟の手伝いは関係ない。悪いのは自分だけ。プライベートでの悩み事が影響してる。そんな反論などできるはずもなく、頭を下げることしかできなかった。
同じオフィスの仲間達は皆帰っていった。雪隆は結局いつまで経っても細々とした仕事が終わらず、だらだらと残業をしてしまった。オフィスの壁にかかった丸時計を見上げると、十時過ぎ。いい加減帰らなければいけない。集中力を欠いたままではいつまで経っても終わらない。帰宅して一旦リセットした方が良い気がする。
休憩もなしにパソコンに向かっていたため目元がしょぼしょぼする。親指と人差し指で両目頭を揉み込んだ。ずっと同じ姿勢で腰も軽く痛みはじめている。
ため息をつきながらビジネスバッグに手帳を入れる。幸いこの土日に弟の手伝いを頼まれなかったので完全なフリーだ。気持ちの整理ができる時間がある。……佐々木が訪ねて来なければだが。今は気持ちの整理がしたい。
一人で過ごせることを願いながら、会社から駅に向かっての道を歩く。考え事をしながら歩いていると駅の近くの繁華街にすぐに到着した。
飲食店が立ち並ぶ街道は、昼間とは違う顔を見せる。この遅い時間では24時間営業しているチェーン店やキャバクラ等接待に使われる店を利用する客が多い。
雪隆も何か適当なものをテイクアウトしようかと店の明るい明かりを見渡す。疲れた体では、どうしてもお腹にピンとくるものが出てこない。
それでも何か腹に入れておきたい。途方に暮れていると、前方に黄色い声が耳に入る。彼女達はこんな深夜でも元気だ。客商売であるから猫を被った声ではあるのだろうけど。
ぼんやりと煌びやかな衣装を見にまとったキャバ嬢達を眺めていたら、その中に一人、見覚えのある姿に雪隆は目を見開く。
適度に鍛えられて真っ直ぐと伸びた体幹、後ろに流した真っ黒な髪。いつもの紺のスーツではなく柄物のシャツに腰のあたりがやけに細く絞ってあるデザインスーツを着ている。後ろ姿でもわかったのは、大事な所を触れ合った時に身近で聞いた耳心地の良い声が聞こえてきたからである。
隣には髪を巻いて化粧を一部の隙もなく施した可愛らしい女性がいる。照明の下で目立つようにラメやラインストーンが散りばめられた露出の激しいドレスを身につけている。他の女性と違ってやたらと距離が近い。
なぜ佐々木がこんなところにいるのか。
「佐藤サマ、次はいつ来てくれるんですか?」
はちみつをかけたような甘い女性の声。キャバ嬢は親しげに腕に絡みつき豊満な胸を佐々木の腕に押し付けているように見えた。女性に顔を向けている佐々木の横顔が覗く。親しげなその様子に、一日二日の関係ではないなと判断する。その瞳は優しげだ。
気になったのは、佐々木が違う名前で呼ばれたことだ。偽名でも使っているのだろうか。でも人違いではない。あんな背格好で印象的な淡褐色の瞳の持ち主が二人もいるなんて考えられない。
「んーそうだな……」
いつもは警戒しているような剣呑な声色も、女性相手だからか少し甘い。派手な外見同士の男女。手で口元を隠し、女性の耳元で囁く様子に、側から見たら恋人なのではないかと錯覚させる。
胸が騒ぐ。甘やかすようなその様子に、もやもやと嫌な気分になった。
なんだ、親しい相手がいるんじゃないか。唐突に膝枕をされ安らかな顔で眠っている佐々木と、彼の頭を撫でる目の前のキャバ嬢が思い浮かぶ。癒してくれる相手がいるのなら、自分なんていらないじゃないか。ずっと佐々木とのことについて悩んでいたのが馬鹿らしくなった。
二人の笑い声を尻目に、冷えた指先をぐっと握りしめる。心が急速に冷えていく理由を雪隆は自覚することができなかった。
土曜日。冬の薄ぼんやりとした空とスズメの軽やかな鳴き声が外から響く。その爽やかな様子とは裏腹に雪隆の心は暗く曇っていた。
雪隆は親しげな二人を見た後、急ぐように家に帰った。あれ以上佐々木の他人に向けられた優しい眼差しを眺めるのに耐えられなかった。シャワーを浴びて食事も満足にする前にベッドに倒れ込む。そうして一晩たって今朝に至った。
佐々木に関わるのはもうやめよう。一晩考えて得た答えはそれだった。このまま佐々木を家に上げても辛いだけだ。
あんな昨日のきらびやかな女性のように優しくされたことはない。いつも彼に振り回されてばかりで思い通りにならない。人に優しいと言われてはいるが、手に入らないものをずっと眺めていられるほど雪隆は我慢強くない。いつか破綻の言葉を相手に向けてしまうかもしれない。そうしたら佐々木にどう思われるか、それが怖い。
雪隆は、少しずつその気持ちが佐々木への恋愛的な行為によるものだと気がつき始めていた。
だから男を避けてしまうのは当然のことだったのかもしれない。佐々木がきたら居留守を決め込むか、たまに家には上げるけど、極力話しかけない。トリミングサロンの手伝いがある時はエントランスで出会わないように早めに向かって店で待機。弟には当然心配されたが、大丈夫と誤魔化した。
結局は雪隆の心の問題なのだ。佐々木に対してなんとも思わなければ解決していた話。距離を置いて佐々木への好意が落ち着いたら、全てうまくいく。その前に、彼が休憩場所である雪隆の家に寄り付かなくなる可能性も高い。
それを考えると胃がキュッと痛くなるが、積極的に佐々木に好意を伝える勇気は持ち合わせていなかった。体を鍛えたからと言って、心も順調に鍛えられるとは限らないのだ。
その思惑は、避けられていると察した佐々木によって問い詰められるわけで……
「斎藤雪隆。なんか隠し事してる?」
玄関前で二人は邂逅した。佐々木は通路の壁に寄りかかって腕組みをしている。待ち伏せされては避けようがない。雪隆だって仕事も生活もあるので家の中で引きこもっているわけにはいかないからだ。
仕方なく部屋に上げた。男二人がマンションの通路でごたごたと話しているのは変な目で見られそうだったからだ。
「雪隆?」
胡乱げに見つめた佐々木は、こちらに顔を近づけてきた。いつもの淡褐色の瞳が雪隆を責めるように見つめる。
はじめてシラフで名前を呼ばれた気がする。いつも「おい」とか名前を呼ばれず要件だけ言われることが多い。名前を呼ばれたのは酔って迎えを求められた時くらい。いまさら呼ぶのか。きっと以前なら嬉しいと思っただろう。今は、負担に感じる。
そんな思考逃避をしているが、佐々木の顔が離れることはなかった。
「ちょ……顔が近い」
遠目で見たら目の保養とは言っても、近くでじっくり見られたら落ち着かない。視線が雪隆の顔に突き刺さる。その上最近になって好意を持っているのではと思いはじめた相手にだ。
佐々木が同性愛者であったら万に一つの可能性はあるかもしれない。もちろん彼にも好みがあるだろうが。しかし、以前見た光景に雪隆は足をすくませる。
キャバ嬢達に囲まれ嬉しそうにしていた佐々木。視線は女性達の顔へ一心に向かっていた。それはそうだろう。可愛らしいし、華やかで太ももや胸元を開けた性的魅力の強いドレスを見に纏った彼女ら に夢中にならない異性愛者は多いだろう。きっと佐々木も同じようにキャバ嬢に夢中であるはず。
そんな女性が好きであろう佐々木に自身の好意が知られてしまったらどんな態度を取られるか。きっと嫌悪され拒否されるに決まっている。そうして心ない言葉を投げかけられるだろう。それが怖い。
だったら自分から避けた方がまだいい。嫌われるより、こちらが嫌っていると思われた方が全然いい。
「だんまりってさ……卑怯だと思うんだけど」
「…………」
「こういうのは、言わなきゃわかんないって……!」
玄関近くの壁を拳で殴り鈍く大きな音がした。雪隆はその行為に恐れよりも苛立ちが募る。どうして会いたくないと察してくれないのだろう。これ以上、佐々木に関わって心を乱されたくないのだ。
「なぁ!」
「……なんだよ今更ご機嫌取りとか」
両手で双方の肩を押さえつけられ、逃げられなくされるとさらに嫌な感情が湧いてくる。真っ直ぐにこちらを見つめる淡褐色の瞳が今は鬱陶しい。
いつもいつも好き勝手してきて、いまさら対話を求めるのは都合が良いの話だ。
傷の意味も彼がどんな仕事をしているのかもわからない。
「は?」
「そっちの都合ばかり優先して、俺のことなんてどうでもいいんだろう?……はっ、人型に戻して欲しい時には勝手にきて終わったら勝手に出て行く。そりゃあんたにとっては楽だよなあ!」
言葉は止まらない。まるで噴火したマグマのようにどろどろとした言葉が溢れ出る。佐々木の瞳が揺れた。
「……来んなよ」
自分のことなんか必要ないくせに、親しい女の人がいるくせに、自己中で最悪な奴。鏡を見たらきっと今の雪隆は顔が醜く歪んでいる。
何にも知らない奴に引っ掻きまわされたくない。自分のことなど何も教えてくれないくせに。いつも真っ直ぐに見つめられていたのを今度は雪隆が真っ直ぐに見つめ返す。変わらず強い瞳が帰ってくると思ったら、視線を迷わせてこちらを見ようともしない。それさえも雪隆を傷つけた。
「早く出てけ」
「……わかった」
あっさりと首肯された。佐々木は一瞬呼吸を詰まらせたかと思うと、大きくため息をつく。まるで困った人を相手にするかのような態度に罪悪感は湧かない。ただただ苛立ちが増すだけだった。
佐々木はそれ以上何も言わずに玄関前から去っていった。これは完全に呆れられたことだろう。
男を追っ払ったことの爽快感よりも、胸の中にモヤモヤが残る。ではどうすればよかったのだろう。今まで通り部屋に入れてあげればよかった?それでは雪隆の気持ちはおさまらない。やはりこの名前に表せない関係は続くはずがなかったのだ。
「ちょ、ちょ!サムーーー!戻ってきて!あ、兄さん捕まえて!」
「へ……うわっ」
夏樹の店で業務を終え、風呂場を洗う。こぼれるため息は無意識だった。心ここに在らずで手だけを動かしていたら、大きな影がこちらに突進してきた。夏樹のドライヤーから脱走したらしいボルゾイのサムだ。
馬が駆けるような華麗なステップでこちらに来ると、顔面を容赦なく舐められる。雪隆が風呂場のタイルに尻餅をついてしまうほど勢いよく飛びかからないところは、サムの聡明さゆえか。
ボルゾイというのは本来なら穏やかで独立心が高いことが多いが、サムは例外で人懐っこい。特に雪隆は初回に気分よく洗ってくれたこともあってかお気に入りの人物へと昇格していた。
「サムは兄さんがお気に入りだなぁ」
夏樹はサムの体をトリミングコームでひと撫ですると、わんこを部屋へと誘導する。そのスムーズな手腕はプロのトリマーらしい。雪隆のように大柄でない分、力ではなく技術でわんこ達を懐かせているのだろう。
「あいつもああやってわかりやすければいいのに……」
雪隆はぽつりと言葉をこぼした。ふと黒い毛玉のポメラニアンを思い出す。気に入らないことがあるとすぐに唸って、でも放っておくと不満げに構って欲しそうにする…… はじめは天邪鬼かと思ったが、その実あのポメラニアンは少しこだわりが強くて寂しがり屋なだけだった。
雪隆が厄介で対処しようがないと思わせるのは、人の姿をとっているときだ。社会人になればある程度の社交辞令だったり他人に良い顔をしようと見栄を張るものだが、佐々木にはそんなそぶりは見えない。
いきなり自宅に上がり込み休憩をしたり、しょっちゅう土産を持ってきては雪隆に絡んできたり訳がわからないし、生活を乱されるのが正直好ましくなかった。
けれど、時たましおらしくなったり、酔っ払った所を迎えに行った時には素直にお礼を言える。そんな所を知ってしまうと雪隆は弱い。彼との関係を断つことはできなかった。
雪隆は自身が元来持つお人好しの性格から佐々木との関わりを続けていると今まで思っていた。しかしどうやら違うらしい。なぜなら、ただの親切で知らない男と関係を持つ訳がないのだ。
性的嗜好については、学生時代から異性愛者だと自覚していた。付き合った人はいないが、好きだった子や自慰での想像はいつも女性だった。
だからこそ、佐々木に触れられた時に驚きはしたが、嫌悪感を感じなかったのは雪隆の心中の混乱のもとになった。それどころか、最後には射精まで至ってしまったのである。触れられて刺激から勃つことはあるだろうが、まさか同性の手によって達するとは人生で一度も想像できないことだ。
雪隆はその胸の中に微かに芽生えた好意を抑え込んだ。向こうは興味本位でこちらにちょっかいをかけているに違いないからだ。佐々木の性的嗜好はわからないが、彼は誰とでもそういうことをするのだと思わないとやっていけない。なぜなら雪隆と佐々木は、雪隆の家にやって来るだけで、告白の、ましてやデートの一つさえしたことがないからだ。気持ちがつながらず体の関係だけでは、まるでセックスフレンドである。
誠実に付き合いたいと、好いている相手ならこちらに言葉で、態度で表そうとするはずではないか。佐々木にはそれが感じられない。だから遊ばれているのだと雪隆は予防線を張っている。
その上、雪隆は佐々木のことをほとんど知らない。かろうじてわかるのは名前と電話番号。お肉が好きで、うちに来るたびどこかしら掃除をして帰っていく。
つんつんしていると思ったら、時に膝枕を要求して猫のようだと思う時もある。本人はポメラニアン化するのに。
そんな心配の種をうちに抱えたままでは仕事が捗るはずもなかった。データの入力はミスしてしまうし、いつもならば起きない顧客への無礼に上司には叱られた。挙句には副業をしているせいで注意力が散漫になってしまったのではと指摘される始末だ。弟の手伝いは関係ない。悪いのは自分だけ。プライベートでの悩み事が影響してる。そんな反論などできるはずもなく、頭を下げることしかできなかった。
同じオフィスの仲間達は皆帰っていった。雪隆は結局いつまで経っても細々とした仕事が終わらず、だらだらと残業をしてしまった。オフィスの壁にかかった丸時計を見上げると、十時過ぎ。いい加減帰らなければいけない。集中力を欠いたままではいつまで経っても終わらない。帰宅して一旦リセットした方が良い気がする。
休憩もなしにパソコンに向かっていたため目元がしょぼしょぼする。親指と人差し指で両目頭を揉み込んだ。ずっと同じ姿勢で腰も軽く痛みはじめている。
ため息をつきながらビジネスバッグに手帳を入れる。幸いこの土日に弟の手伝いを頼まれなかったので完全なフリーだ。気持ちの整理ができる時間がある。……佐々木が訪ねて来なければだが。今は気持ちの整理がしたい。
一人で過ごせることを願いながら、会社から駅に向かっての道を歩く。考え事をしながら歩いていると駅の近くの繁華街にすぐに到着した。
飲食店が立ち並ぶ街道は、昼間とは違う顔を見せる。この遅い時間では24時間営業しているチェーン店やキャバクラ等接待に使われる店を利用する客が多い。
雪隆も何か適当なものをテイクアウトしようかと店の明るい明かりを見渡す。疲れた体では、どうしてもお腹にピンとくるものが出てこない。
それでも何か腹に入れておきたい。途方に暮れていると、前方に黄色い声が耳に入る。彼女達はこんな深夜でも元気だ。客商売であるから猫を被った声ではあるのだろうけど。
ぼんやりと煌びやかな衣装を見にまとったキャバ嬢達を眺めていたら、その中に一人、見覚えのある姿に雪隆は目を見開く。
適度に鍛えられて真っ直ぐと伸びた体幹、後ろに流した真っ黒な髪。いつもの紺のスーツではなく柄物のシャツに腰のあたりがやけに細く絞ってあるデザインスーツを着ている。後ろ姿でもわかったのは、大事な所を触れ合った時に身近で聞いた耳心地の良い声が聞こえてきたからである。
隣には髪を巻いて化粧を一部の隙もなく施した可愛らしい女性がいる。照明の下で目立つようにラメやラインストーンが散りばめられた露出の激しいドレスを身につけている。他の女性と違ってやたらと距離が近い。
なぜ佐々木がこんなところにいるのか。
「佐藤サマ、次はいつ来てくれるんですか?」
はちみつをかけたような甘い女性の声。キャバ嬢は親しげに腕に絡みつき豊満な胸を佐々木の腕に押し付けているように見えた。女性に顔を向けている佐々木の横顔が覗く。親しげなその様子に、一日二日の関係ではないなと判断する。その瞳は優しげだ。
気になったのは、佐々木が違う名前で呼ばれたことだ。偽名でも使っているのだろうか。でも人違いではない。あんな背格好で印象的な淡褐色の瞳の持ち主が二人もいるなんて考えられない。
「んーそうだな……」
いつもは警戒しているような剣呑な声色も、女性相手だからか少し甘い。派手な外見同士の男女。手で口元を隠し、女性の耳元で囁く様子に、側から見たら恋人なのではないかと錯覚させる。
胸が騒ぐ。甘やかすようなその様子に、もやもやと嫌な気分になった。
なんだ、親しい相手がいるんじゃないか。唐突に膝枕をされ安らかな顔で眠っている佐々木と、彼の頭を撫でる目の前のキャバ嬢が思い浮かぶ。癒してくれる相手がいるのなら、自分なんていらないじゃないか。ずっと佐々木とのことについて悩んでいたのが馬鹿らしくなった。
二人の笑い声を尻目に、冷えた指先をぐっと握りしめる。心が急速に冷えていく理由を雪隆は自覚することができなかった。
土曜日。冬の薄ぼんやりとした空とスズメの軽やかな鳴き声が外から響く。その爽やかな様子とは裏腹に雪隆の心は暗く曇っていた。
雪隆は親しげな二人を見た後、急ぐように家に帰った。あれ以上佐々木の他人に向けられた優しい眼差しを眺めるのに耐えられなかった。シャワーを浴びて食事も満足にする前にベッドに倒れ込む。そうして一晩たって今朝に至った。
佐々木に関わるのはもうやめよう。一晩考えて得た答えはそれだった。このまま佐々木を家に上げても辛いだけだ。
あんな昨日のきらびやかな女性のように優しくされたことはない。いつも彼に振り回されてばかりで思い通りにならない。人に優しいと言われてはいるが、手に入らないものをずっと眺めていられるほど雪隆は我慢強くない。いつか破綻の言葉を相手に向けてしまうかもしれない。そうしたら佐々木にどう思われるか、それが怖い。
雪隆は、少しずつその気持ちが佐々木への恋愛的な行為によるものだと気がつき始めていた。
だから男を避けてしまうのは当然のことだったのかもしれない。佐々木がきたら居留守を決め込むか、たまに家には上げるけど、極力話しかけない。トリミングサロンの手伝いがある時はエントランスで出会わないように早めに向かって店で待機。弟には当然心配されたが、大丈夫と誤魔化した。
結局は雪隆の心の問題なのだ。佐々木に対してなんとも思わなければ解決していた話。距離を置いて佐々木への好意が落ち着いたら、全てうまくいく。その前に、彼が休憩場所である雪隆の家に寄り付かなくなる可能性も高い。
それを考えると胃がキュッと痛くなるが、積極的に佐々木に好意を伝える勇気は持ち合わせていなかった。体を鍛えたからと言って、心も順調に鍛えられるとは限らないのだ。
その思惑は、避けられていると察した佐々木によって問い詰められるわけで……
「斎藤雪隆。なんか隠し事してる?」
玄関前で二人は邂逅した。佐々木は通路の壁に寄りかかって腕組みをしている。待ち伏せされては避けようがない。雪隆だって仕事も生活もあるので家の中で引きこもっているわけにはいかないからだ。
仕方なく部屋に上げた。男二人がマンションの通路でごたごたと話しているのは変な目で見られそうだったからだ。
「雪隆?」
胡乱げに見つめた佐々木は、こちらに顔を近づけてきた。いつもの淡褐色の瞳が雪隆を責めるように見つめる。
はじめてシラフで名前を呼ばれた気がする。いつも「おい」とか名前を呼ばれず要件だけ言われることが多い。名前を呼ばれたのは酔って迎えを求められた時くらい。いまさら呼ぶのか。きっと以前なら嬉しいと思っただろう。今は、負担に感じる。
そんな思考逃避をしているが、佐々木の顔が離れることはなかった。
「ちょ……顔が近い」
遠目で見たら目の保養とは言っても、近くでじっくり見られたら落ち着かない。視線が雪隆の顔に突き刺さる。その上最近になって好意を持っているのではと思いはじめた相手にだ。
佐々木が同性愛者であったら万に一つの可能性はあるかもしれない。もちろん彼にも好みがあるだろうが。しかし、以前見た光景に雪隆は足をすくませる。
キャバ嬢達に囲まれ嬉しそうにしていた佐々木。視線は女性達の顔へ一心に向かっていた。それはそうだろう。可愛らしいし、華やかで太ももや胸元を開けた性的魅力の強いドレスを見に纏った彼女ら に夢中にならない異性愛者は多いだろう。きっと佐々木も同じようにキャバ嬢に夢中であるはず。
そんな女性が好きであろう佐々木に自身の好意が知られてしまったらどんな態度を取られるか。きっと嫌悪され拒否されるに決まっている。そうして心ない言葉を投げかけられるだろう。それが怖い。
だったら自分から避けた方がまだいい。嫌われるより、こちらが嫌っていると思われた方が全然いい。
「だんまりってさ……卑怯だと思うんだけど」
「…………」
「こういうのは、言わなきゃわかんないって……!」
玄関近くの壁を拳で殴り鈍く大きな音がした。雪隆はその行為に恐れよりも苛立ちが募る。どうして会いたくないと察してくれないのだろう。これ以上、佐々木に関わって心を乱されたくないのだ。
「なぁ!」
「……なんだよ今更ご機嫌取りとか」
両手で双方の肩を押さえつけられ、逃げられなくされるとさらに嫌な感情が湧いてくる。真っ直ぐにこちらを見つめる淡褐色の瞳が今は鬱陶しい。
いつもいつも好き勝手してきて、いまさら対話を求めるのは都合が良いの話だ。
傷の意味も彼がどんな仕事をしているのかもわからない。
「は?」
「そっちの都合ばかり優先して、俺のことなんてどうでもいいんだろう?……はっ、人型に戻して欲しい時には勝手にきて終わったら勝手に出て行く。そりゃあんたにとっては楽だよなあ!」
言葉は止まらない。まるで噴火したマグマのようにどろどろとした言葉が溢れ出る。佐々木の瞳が揺れた。
「……来んなよ」
自分のことなんか必要ないくせに、親しい女の人がいるくせに、自己中で最悪な奴。鏡を見たらきっと今の雪隆は顔が醜く歪んでいる。
何にも知らない奴に引っ掻きまわされたくない。自分のことなど何も教えてくれないくせに。いつも真っ直ぐに見つめられていたのを今度は雪隆が真っ直ぐに見つめ返す。変わらず強い瞳が帰ってくると思ったら、視線を迷わせてこちらを見ようともしない。それさえも雪隆を傷つけた。
「早く出てけ」
「……わかった」
あっさりと首肯された。佐々木は一瞬呼吸を詰まらせたかと思うと、大きくため息をつく。まるで困った人を相手にするかのような態度に罪悪感は湧かない。ただただ苛立ちが増すだけだった。
佐々木はそれ以上何も言わずに玄関前から去っていった。これは完全に呆れられたことだろう。
男を追っ払ったことの爽快感よりも、胸の中にモヤモヤが残る。ではどうすればよかったのだろう。今まで通り部屋に入れてあげればよかった?それでは雪隆の気持ちはおさまらない。やはりこの名前に表せない関係は続くはずがなかったのだ。
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