愛夫弁当はサンドイッチ─甘党憲兵と変態紳士な文官さん─

蔵持ひろ

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 季節がいくつ巡ったのか、意識することもなく、誠司にとって、時間が何の意味もないかのように過ぎていった。列車の中で彼女を見ることがなくなってからというもの、誠司は自分の体が抜け殻のようになってしまったように感じた。残りの大学生活というものが、その一員になることに何の魅力も感じられない社会人という、鋳型に流し込まれる前の流動体のように思えた。
 ある日、いつものように列車に乗り込んだ時、誠司は今にでも心臓が止まるのではないかと思えるほどのときめきを感じた。彼が乗り込んだ列車の車両に、なんと彼女が乗っているではないか。彼の瞳は彼女の姿に釘付けになってしまった。彼は今列車の車両のどこにいるのか。彼女は列車の車両のどこにいるのか彼は全く記憶にはなかった。列車の車両の中の他の乗客も、ロングシートも、吊革も、網棚も、何も、彼の記憶にも意識にも残らなかった。ただ彼女しか目に入らなかったし、意識にも、記憶にも残らなかった。
 しかし、ある日から、いつもと違う異様な気配を感じ始めた。駅で彼女を待ち伏せし、一定の距離を維持して、改札口を彼女の後から通っていく、彼女が乗る列車と同じ列車に、彼女が乗る車両から数両離れたところの車両に乗り込む、列車が停まるたびに、彼女が乗っている車両に近い車両に移る。やがて彼女が、乗っているのと同じ車両に乗り込む。そして、車両の中である一定の距離を維持したところに乗り込んで、彼女をじっと見つめる。ここまではいつもと変わらなかった。だけどその日から、何か異様な気配を感じるようになった。誰かにじっと見られているような気配である。その日から彼女をじっと続けて見ていることができなくなった。その異様な気配が日増しに強烈になっていったからである。彼女を列車の中でじっと見続けていたいために、大学の講義がない日であっても、朝早くから駅で彼女が来るのを待ち伏せして、彼女が乗る列車に乗ることも多かった。そんな日は彼女を見ていることがあれほどにも、幸福感に満たされるような時であったのに、異様な気配の強烈な負の力に、その幸福感を全て吸い取られるような虚脱感を感じるのであった。
 誠司はその異様な気配の実態が何であるのか、分からなかった。時間の経過とともにその気配が強力になっていったので、無視することができなくなっていった。
 誰かと話に夢中になっている時に、何か気配を感じて振り向くと、自分に用があって、自分が話を終えるのを待っている人が後ろで立っている。ショッピングモールを歩いている時何か気配を感じて見上げると吹き抜けの2階から自分に気がついてじっと見ている友人がいる。歩道を歩いている時気配を感じて、車道の方を見ると、信号待ちで停車している自動車の運転席から自分をじっと見ている人がいる。 
 そのような時の気配に似たような気配である。誠司はロングシート席の前の吊革につかまって、彼の右側の乗降口間の通路を跨いでのロングシート席前の吊革を掴んで立っている女性を見ていた。左側から異様な気配が感じられた。彼の左側の乗降口間の通路を跨いだロングシート前の吊革を掴んでいる男性が鋭い視線を彼に向けていた。テレビドラマで刑事が被疑者に向けるような鋭い視線に見えた。誠司が何度確認しても、彼の視線は依然として彼の方に向けられている。いくら時間が経過しても彼の視線は誠司の方に向けられていた。誠司はその視線に耐えられなくなり、向きを変えて、背後のロングシート席前の吊革を掴んだ。右側から異様な気配を感じた。右側を見るとあの同じ男が、誠司に鋭い視線を向けていた。誠司は次に停車した駅のホームで走るようにして列車から降りた。誠司が降りる駅ではなかった。
 翌日、誠司が彼女を見ようと、彼女が乗っている車両に乗り込んだ時、誠司に鋭い視線を向ける男がいた。しかし、別の男であった。その男も刑事のような鋭い視線をずっと彼に向けていた。彼はその視線に耐えることができないで、自分が降りる駅のホームではないのに、次の駅のホームで降りた。
 その翌日も、誠司は彼女を見ようと、彼女が乗っている車両に乗り込んだ。その日もまた今までとは別の男が彼に刑事のような鋭い視線を向けていた。彼はその視線に耐えることができずにすぐに次の駅で降りた。
 翌日誠司は、彼女が乗っていない列車に乗り込んだ。彼に鋭い視線を向けていた男は乗っていなかった。
 彼女が乗っている車両には、必ず誠司をずっと見続けている男がいる。彼女が乗っていない車両には、誠司をずっと見続けている男は乗っていない。その関連性について、その絡繰について誠司は考えようとしなかったし、考える余裕もなかった。
 じっと見つめられている不快感を、その行為者に訴えようにも、あの刑事のような鋭い目に見つめられて、声を出すこともできない気がする。誰かに訴えようにも、彼がしていることはただ誠司を見つめているだけだ。軽犯罪にもならないはずである。
 彼女が乗っている車両に、誠司が乗り込むと必ず彼をずっと見続けている男がいる。いつも同じ男ではない。毎日別の男が入れ替わり立ち替わり、彼女が乗っている車両に乗っていることは確かである。少なくとも三人の男がいることが誠司には分かった。
 そんなことを考えている時、誠司は突然あることに気がついてハッとした。列車の中で誰かをずっと見続けている。これは自分が彼女にして来たことではないか。彼女もそのようなことをされて自分が感じたように感じたのではないか。
 列車の中でただ見つめられているだけであるが、誠司は精神的な苦痛を感じた。同じように誠司は彼女に精神的な苦痛を与えてきたのではないかと思った。
 誠司は彼女に好意を持つようになって、列車の中で彼女を見続けることにこの上ものない喜びを感じるようになった。大学の講義がなくても、彼女を見続けていたいがために、朝早くから駅で彼女を待ち伏せして、列車の同じ車両に乗り込んで彼女をずっと見続ける。誠司が彼女をずっと見続けていることに、彼女が途中から気がつき始めたのは、誠司にも分かった。彼女がいつも降りる駅ではないのに、その駅で列車が停車してドアが開いた瞬間突然逃げるように、乗降口を通って、人混みの中に溶け込んでいったときの映像が、彼の記憶の中に、克明に刻み込まれている。誠司が彼女に好意を持っていて、関心を持っていて、彼女を見ていたいという衝動からそうしていることに対して、抵抗がないのならば、決してそのような行動には出ないだろう。
 誠司は彼女と同じ行動をとったのである。列車の中で、見知らぬ男に刑事のような目つきでずっと見続けられた。とても耐えらない精神的苦痛を感じて、降りる駅ではないのに、次の駅のホームで逃げるようにして降りた。
 彼女は誠司と同じ精神的な苦痛を味わっていたのだ。彼女が誠司に好意を持つようになる可能性など1パーセントたりともありえない。彼の取るべき行動は、はっきりしている。彼女が乗っている車両に乗り込んで、彼女をずっと見続けることをやめることである。誠司は自分がしてきたことを彼女に謝りたいと思ったが、彼女は謝罪の言葉であっても彼に話しかけてもらいたくないだろう。彼の顔も見たくないだろう。誠司は彼女と同じ車両に乗ることもしないことに決めた。彼女を見続けることをしないと決めても、もし彼女と同じ車両に乗り込んだら、彼女を見ないでその車両の中にい続ける自信が全くないからである。
 しかし、誠司は彼女に心から感謝している。彼女のお陰で、異性を好きになることを覚えたのだから。
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