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1章
はじまり
しおりを挟むレフダン皇国には、社交界で必ず話題に上がる人物が三人いる。
一人――ラガンダ・アーノルド・レフダン。
誇り高きレフダン皇国の皇太子だ。花の甘い蜜のように人々を惹きつけるルックスを持ち、ほんの少し微笑むだけで、老若男女問わず骨抜きにしてしまう。物腰が柔らかく、一見、懐柔できそうな隙があるが、その懐に入り込もうとしたが最後、却って彼の毒に囚われてしまう。
まるで美しい見た目でありながら猛毒を持つトリカブトのようだ。
ラガンダは今年で十八歳。そろそろ彼の婚約者、ひいては次期皇后を決めるころだろうと、年頃の令嬢は決まって、肉食獣のようなギラギラした目でラガンダを狙っている。
一人――シオン・ルアー・ヴィスコンティ。
皇帝と侍従の間に生まれた庶子であり、ラガンダの腹違いの兄だ。
光が透けると銀色に見える白髪と、まるで生き血のように紅い眸。誰も見たことのない色合いで生まれたシオンは、その出生とあいまって、不吉だと皇室から追い出された。そうして臣下にくだったシオンは皇宮の騎士団に入団し、大陸一と噂されるほどの圧倒的な手腕と、目的を完璧に遂行する姿勢を評価され、現在は若くして騎士団長を務めている。
しかし、いくら命令とはいえ容赦のない残虐性と、その珍しい容姿から「戦場の狂血鬼」と呼ばれ、社交界では恐れられている。
一人――カノア・ヴィ・フィオレンツァ。
フィオレンツァ侯爵家の次男であり、とんでもない浪費家で、手癖の悪い色好だ。
自分に婚約者がいようが、相手に婚約者がいようが、お構いなしに喜々として蜘蛛の糸のように好みの男を捕まえる、悪しき男。
その節操のなさにより、婚約破棄となった相手は数知れず。
艶やかな紫色の髪が揺れると催淫の匂いを醸し出し、黄金の眸で見つめた者を籠絡する、と噂されている。どれだけの悪評が染みついていても彼の愚行が止まらないのは、それほどまでに彼は美しく、蠱惑的だからだ。
普段はあまり社交界に参加しないカノアだが、彼を見たことのある男貴族は「あの見た目なら、わざと騙されてやるのも悪くない」と口を揃えるほどだ。
男の理性を奪い、快楽を迫るカノアは「希代の悪食」だと、社交界では持ち切りだった。
その「希代の悪食」は、今、陶器のような肌を真っ赤にして、ぷるぷると震えている。
「な、な、なにしてるんだっ。そんなはしたない恰好でっ!」
カノアが指さす先では、自分と似た容姿の妹が広いベッドの上で、裸の男と抱き合っているではないか。
男は突然部屋に乗り込んできたカノアを見るなり、さあっと青ざめていく。それもそのはず、その男の名はバロッド・ガーナス・アルマン。何を隠そう、カノアの婚約者なのだ。
妹のベリーツィア・ヴァン・フィオレンツァがこうしてカノアの婚約者をベッドに連れ込むのは初めてではない。
ベリーツィアはキャミソールの肩ひもをはらりと落とし、うりゅ、と大きな眸にいっぱいの涙を溜めて、かわいそうな自分を作り出す。「あざとさ」はベリーツィアの特技だ。もしも「あざとさ選手権」なるものがあれば、我が妹がぶっちぎりで優勝していたに違いない。
「だ、だってえ、最近お兄さまが構ってくれないから、寂しくてえ。お兄さまの婚約者であるバロッドさまがいらしたら、お兄さまの気をひけると思ってえ」
はらはらと涙を流すベリーツィアの器用さに、いっそのこと感嘆する。ベリーツィアの演技にすっかり騙されたバロッドは、よしよしとか弱い少女の背中をさすり始めた。しかし、慰めるふりして、彼の視線はベリーツィアのふくよかな胸元に注がれている。ベリーツィアとの不貞がバレているとはいえ、よくもまあ婚約者の前で。
「だからって婚約者でない、ましてや好きでもない男に肌を見せるものじゃない」
度重なる婚約者の略奪に、怒るよりも呆れながら、カノアが羽織っていたフロックコートをベリーツィアの剝き出しの肩にかけてやった。
ベリーツィアに話を合わせながらも、彼女の言い訳が嘘であることは分かっている。カノアが奪われたのは婚約者だけではない。宝石、成果、権利、従者、たくさんのものがベリーツィアに横取りされてきた。カノアに嫌がらせをすることは、ベリーツィアの趣味なのだ。
「最初はベルもここまでするつもりはなかったんですよ。でもお、バロッドさまがとても素敵なお方だからあ、大好きなお兄さまの婚約者のこと、ベルも知りたくなってえ」
カノアは大きく溜息を吐いた。
「アルマン卿は、どういうおつもりで妹と?」
バロッドに話を振ると、とたんにおどおどと視線を彷徨わせた。
「ぼ、ぼくはただ、君の妹さんだから、ほっとけないし……そのー」
「ほっとけないし、なんですか?」
「やっぱり兄妹で似てるし……あの……」
「似てるし?」
「う……、うるさい! 君のせいだろ!」
突然、開き直って吠えられた。
「君が何度も僕の手ほどきを断るから! アルマン領に誘っても断られるし、僕がプレゼントを贈っても送り返されるし、触れようとしたら手を払われるし! どういうつもりで僕が君の妹と寝たのか、自分の行動を顧みればすぐに分かるだろう! 君に僕を責める権利なんてないんだ!」
声を荒げたことでリミッターが外れたのか、堰を切ったように捲し立てる。
バロッドが並び立てたカノアの不満は全て事実だが、その原因が自分だとは考えもしないらしい。或いは知っている上で自分を棚に上げているのか。
カノアは氷よりも冷たい表情で反論する。
「妹のベリーツィアやアルマン卿のように婚前交渉をする方もいらっしゃいますが、それはお互いが望んでいる場合の話です。初めてアルマン領にご一緒したとき、共寝をご希望されましたよね。僕はちゃんと断りましたが、寝ている最中に布団に潜ってきて猥褻なことをなさったでしょう。あなたからのプレゼント? 媚薬でしたり滑り油でしたり、女性もののきわどい下着でしたり、あなたの下心だらけの欲求をぶつけてきているだけの品々がプレゼント? 手を触れればベッドに連れていかれそうになり、腰を抱かれてはその流れで臀部を触られ、それら全てを断ったらベリーツィアと浮気。しかも僕にあなたを責める権利がない、ですって?」
きわめて冷静に、バロッドの理不尽な激情を冷やすように、淡々と弁明する。と、
「だいたい、希代の悪食のくせに、断るんじゃねえよ!」
逆上したバロッドはベッドから飛び出して、カノアを無理やりベッドに突き飛ばした。
ベリーツィアが「きゃ」と可愛らしい悲鳴を小さく漏らしてベッドから脱出したが、バロッドはそんな少女の姿は眼中にないらしい。
血眼になってカノアを見下ろすバロッドの眸は普通ではない。
自分が優位に立たなければ気がすまないプライドの高さと、自分の非を認められずに我を押し通す傲慢さ。バロッドのそんなところが、カノアは苦手だった。
バロッドは、カノアにとって八人目の婚約者だった。
今度こそ、好きになれると期待した。好きになれなくても、安心した交際ができるのではないかと。しかし、蓋を開けてみれば、今までの繰り返しだ。
カノアを噂どおりの「稀代の悪食」だと信じて手籠めにしようと画策し、それが叶わないと、カノアと似た容姿を持つベリーツィアの甘い毒牙に引っかかるのだ。
もう疲れたな。
ぽつんと、そんな諦念がカノアの胸に落ちた。
「……噂を鵜呑みにして、目の前の僕を見てくれなかったのはあなたでしょう」
殺気立った猛獣を宥めるように、静かに言葉をかける。
カノアを見つめるバロッドの眸が揺らいだのを見逃さなかった。
「あなたの前にいた僕は、希代の悪食でしたか」
バロッドの記憶に問うと、ふと、カノアの手首をベッドに縫いつけていた力が緩まった。
「……ちょっと、考えさせてくれ」
そう言い残すと、バロッドは床に落ちていた自分の衣服を拾い上げて、のろのろとその場を後にした。
しかし、これでおしまいではない。
ベッドの脇に腰かけてカノアを見下ろすベリーツィアを、じろりと睨んだ。
「あら、そんな怖い顔をなさらないで。経験のないお兄さまには刺激が強かったかしら」
いつも抜け目なくあざとさを振り撒いているベリーツィアだが、どういうわけかカノアにだけは横柄な本性を晒す。
カノアに「希代の悪食」などと不名誉きわまりない二つ名が横行しているのは、この妹のせいだ。
とんでもない浪費家で、手癖の悪い色好なのも、自分に婚約者がいようが、相手に婚約者がいようが、お構いなしに喜々として蜘蛛の糸のように好みの男を捕まえるのも、全てベリーツィアの所業である。それを、あまりカノアが社交界に参加しないのをいいことに、ベリーツィアはカノアの悪行として社交界に吹聴しているのだ。
歴代のカノアの婚約者はその実態を把握しているはずだが、それを告発するには「自分はカノアという婚約者がありながら、こともあろうに婚約者の妹であるベリーツィアと浮気をした」と自白する必要があるので、貴族としてのブランドを保ちたい彼らは口を噤んでいる。
「茶化すな。ベリーツィアにはカリスト卿という婚約者がいるだろ」
「政略的な婚約なのに、どうして愛のない相手に操を立てなくちゃいけないのかしら。私が他の殿方を愛したところで、カリスト卿にはそのことに傷つく心なんてなくってよ」
「でも、アルマン卿にだって愛はなかっただろ」
「それがなによ」
とたん、ベリーツィアの端正な顔から笑顔が消えた。
「自分のことを大切にしろってこと」
「……はあ?」
「ベリーツィアがいたしたことを僕のせいにできてるうちに、ちゃんとカリスト卿と向き合いなさい。もしも君の嘘が知られたら、君の居場所がなくなるぞ」
「……私がそんなヘマをするわけがないでしょう」
ベリーツィアは嘆息すると、脱ぎ捨てたドレスを簡易的に着直して、くるりとカノアを振り向いた。その眸に、ほんの一瞬だけ寂しさが揺蕩っていたように見えたが、気のせいだろうか。
「お兄さまって、絵に描いたような善人よね」
くい、とベリーツィアがベッドに座ったままでいるカノアの顎をなぞるように持ち上げた。
「シオン・ルアー・ヴィスコンティ公爵。彼を籠絡したら、その皮を剥がせるのかしら」
シオン。ベリーツィアの美しく歪んだくちびるが彼の名前を彩った瞬間、カノアは彼女の手を振り払った。
「シオンさまに何かしたら許さないから」
ベリーツィアが大陸一の騎士と呼ばれるシオンに何かしようとしたところで不発に終わることは目に見えているが、彼にほんの小さな危険も与えたくない。
視線の応酬を続けていると、やがてベリーツィアがやれやれといったふうに折れた。
「もうすぐヴィスコンティ公爵が凱旋されるそうよ。くれぐれも、そのみすぼらしい初恋がバレることのないように気をつけなさい」
「……わかってる」
「わかったなら、さっさと出ていってちょうだい」
カノアが小さく頷くと、ベリーツィアは小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、しっしっと手ぶりでカノアを部屋から追い出した。
ぱたん、とベリーツィアの部屋のドアをしめると、やっと生きた心地がした。
幼いころは、たった一人の妹とよく遊んでいた。
父のライモンド・エヴァ・フィオレンツァ侯爵は兄のカイラスばかりに目を向けていたし、母のアマンダはベリーツィアを産んですぐに亡くなった。
すると、父は拍車をかけてカノアとベリーツィアを放任するようになった。
だからカノアは、ベリーツィアの兄であり、母であり、父であろうとした。
ベリーツィアがカノアの初恋を知っているのも、幼いころに打ち明けたからだ。
ベリーツィアは知っている。カノアが倒れていたシオンを修道院に連れていったこと。そこで出会った女の子――リゼルに、シオンが心奪われたこと。迎えにいくと、約束していたこと。
失恋したあの日を、夢であってほしいと何度も願った。しかし、カノアの失恋を知っているベリーツィアの存在が、いつだって「あの日」は幻ではないと訴えてくる。
シオンが大陸一の騎士となって帰ってくる。
なんてタイミングだろう、と思う。
つい先月、教団が成人したリゼルを聖女として公表した。
聖女とは、神の光を司る「神の使者」のことだ。どんな傷や病気をも治癒する奇跡の光。レフダン皇国で聖女が誕生したのは、およそ百年ぶりらしい。
シオンとリゼルの約束を果たすための唯一の懸念点は身分の差だった。リゼルが聖女の称号を得たということは、二人の間には何一つしがらみがないということだ。
本当に、なんてタイミングなんだろう。
まるで、神さまに祝福されているかのようだ。
シオンが首都に帰ってきたら、リゼルに告白をするだろう。
二人の結婚がレフダン皇国を賑わせるまで、指折り数えるしかないのだ。
――そう思っていた矢先、皇帝陛下が崩御した。
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