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第二章 悲壮の探索(アルヴァside)
ファーシルの訃報
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ネネッタの処刑は滞りなく進められた。
聖女を毒殺しようとしていたとはいえ未遂に終わったことから、極刑は重すぎるのではという声も上がっていたが、ファーシルが止めていなければ、いまごろ聖女は亡骸となり、皇国が滅びる一因となっていたことだろう。それは皇族に対する謀反でもあるとして、皇帝が処罰を決めた。
結果として聖女が無事だったという事実と、もしも聖女の毒殺が成功していたら起こりえる最悪の可能性。これらを天秤にかけたとき、皇帝の中で大きく傾いたのは後者だったのだ。
なんでも皇帝の思うがままの独裁政治。これが今のディアロス皇国の実態なのだ。
「アルヴァさま!」
刑が執行された広場を後にしようとしていたところを、後ろから引き止められた。
アルヴァを馴れ馴れしく呼び止める人物は、一人しかいない。
振り返ると、やはりアレンツァ公爵を引き連れたマリッサがいた。
「聖女殿、来ていたのかい」
「はい。ネネッタお母さまの一人娘として、ちゃんと見届けるべきだと思ったので」
アルヴァを見つけてにこにこと笑う少女が薄気味悪い。自分の母親が無残に命を散らした直後だというのに、どうして溢れんばかりの笑顔を浮かべられるのだろう。
「そうか。とはいえ、気分のいいものではないだろう。早く帰って休むといい」
では、と立ち去ろうとして、またしてもマリッサに待ったをかけられる。
「あの、わたし、アルヴァさまのご機嫌を損ねるようなことしましたか。お手紙の返事が、すごく冷たく感じて……」
冷たくあしらわれていることに気づいているのなら、猛烈な手紙攻撃をやめてくれ。そう一蹴したところで、マリッサはよけい食い下がってくるのだろう。
一歩離れたところにいるデュバルが、そんなアルヴァの気持ちを察したのが、微かに苦笑したのが見て取れた。
アルヴァは仕方ないとばかりに、しおらしい演技をしてみせる。
「君に勉強を教える件だったかな。すまないね。ファーシル殿と婚約を破棄したばかりだし、彼がいる家門で預かっているお嬢さんと懇意にするのはどうかと思ってね」
嘘ではない。ファーシルはマリッサに引け目を感じているようだったし、そんな彼の気持ちを差し置いてマリッサと親睦を深める気はない。うまく言葉にはできないが、ファーシルが悲しむであろうことは、極力したくないのだ。
アルヴァの言い分に、マリッサはきょとんと小首を傾げた。
「ファーシルさまに気を遣う必要はありませんよ。もうお屋敷にいませんから」
「……は?」
屋敷にいないとはどういうことだ。
その疑問に答えたのは、アレンツァ公爵だった。
「あの悪魔の子は我が領地のミュラに送ったんですよ。マリッサの近くに置いておくのは危ないと思いましてね」
ミュラ。その領地の名に、アルヴァの眉根が寄る。
「今、ミュラの辺りは魔物の出没情報が上がっていて危険だ。それを分かっているのか?」
「殿下が心配なさることではありませんよ。あいつだって魔物みたいなものじゃないですか」
アレンツァ公爵の口角が歪に上がった。そのあくどい笑みは、厄介者を追い出した悦びを暗に語っている。
魔物は荒れている場所に寄ってくる生きものだ。つまり、ミュラに魔物の目撃情報が出たということは、それほどミュラの管理が行き届いていない印でもある。近年ではミュラから出る領民が多く、税による懐を心配したアレンツァ公爵がミュラの税金を引き上げたという報告も上がっている。そんなところへファーシルを送り出すとは。ファーシルの家庭内での扱いがよくないことは知っていたが、アルヴァの見通しが甘かった。
「ファーシル・アレンツァは悪魔の子ではなく、人の子だ。しかも、まだ六つだろう。そんな彼がミュラで安全に暮らせるわけがない。引き戻したほうがいい」
「あいつが何者であろうと、ミュラでの生活を気にかける必要はありません」
「何?」
「そのための用意は整っているということですよ」
アレンツァ公爵が嫌な笑みを深めた。胸騒ぎがする。
ミュラでの生活を気にかける必要はありません。その言い方はまるで、ミュラに辿り着くことはないと言っているようで、アルヴァの胸の底に焦燥が盛り上がる。しかし、それを表に出すことはしない。腹の探り合いばかりしている貴族社会において、いついかなるときも、感情を悟られてはならないのだ。
「アルヴァさま、公爵さまもこう仰っていますし、勉強を教えてくださるでしょう?」
マリッサが上目遣いにアルヴァの顔色をうかがってくる。
自分は愛されて当然で、自分からの誘いを断られるわけがない。そう確信をしている顔だ。
「……申し訳ないが、多忙でね。日程については、改めて便りを出すよ」
いつもどおり笑顔の仮面を被って答えると、マリッサの丸い頬がぽっと赤く色づいた。
そういえば、ファーシルはアルヴァのこの笑顔を見ると、「また胡散くさい笑顔してる」と言いたげな表情をしていたな、と思い出す。
なんだか最近、ファーシルのことばかり考えている気がする。
ざわざわ。ざわざわ。胸に砂嵐が吹き荒んでいるような違和感がある。記憶の中のファーシルが、どんどん遠くに行ってしまうような感覚に、何故だか胸の中の焦燥が大きくなる。
アルヴァは人知れず、奥歯を擦り合わせた。
胸騒ぎの正体が明らかになったのは、ネネッタの刑執行から数日後のことだ。
皇室騎士団の訓練を視察した後、執務室に戻ってきて間もないアルヴァの耳に届いた報告は、耳を疑うほどだった。
「ファーシル・アレンツァ殿と思しき遺体の一部が発見されたとのことです」
補佐官のエイドリアンから聞かされた訃報に、アルヴァの頭の中が真っ白になった。
「遺体……? 彼が亡くなったなんて報告は上がっていないはずだが」
「今朝方、ファーシル殿をミュラへと送り出した御者が戻ったそうでして。野営の準備をしている最中にファーシル殿が逃げ出してしまい、探していると子供の右腕が転がっているのを発見したという証言です」
「その腕がどうして彼のだと?」
「近くにファーシル殿が履いていた靴が落ちていたそうです。深い森の中だったそうで、獣に襲われたのではないかと」
一連の報告に、アルヴァは頭を抱えた。
ファーシルの性格上、逃げ出すなんて考えられなかった。
行先がミュラとあれば、逃げ出したくなる気持ちは分かる。賢いファーシルのことだ。ミュラの治安がよくないことは分かっているだろう。しかし、ファーシルはどんな理不尽に遭遇しても、否定するでなく、粛々と受け入れてきた子だ。そして、自分を取り巻く劣悪な環境の中でも、何とか咲こうと努力を重ねてきた姿勢を知っている。
だからこそ、ファーシルが逃げ出すなんて考えられない。しかも、危険に溢れた深い森の中でなんて。
ファーシルがどんな子か分かっていれば、その違和感に気づくはずなのに。誰もファーシルのことを分かっていない。家族さえも、その義務を放置してきた。
アルヴァはぐっと固く拳を握った。
「回収物はどこに?」
「首都の傭兵団で保管しているようです」
「分かった。すぐに行く」
数日前、アレンツァ公爵と対面したときの胸騒ぎを思い出す。
根拠はない。しかし確信がある。今回の件は、必ずアレンツァ公爵が一枚噛んでいる。
まるで全身が心臓になったようだ。大きく鼓動して、呼吸さえもままならない。もしも、回収されてきた腕がファーシルのものだとしたら。もしもファーシルでなかったとしても、ファーシルが無事だとは限らない。いくらファーシルが賢いとはいえ、まだ六つだ。そんな子供が、このディアロス皇国で生きていけるはずがない。
いろんな不安が渦巻いて、頭に酸素が行き渡らない。今にも倒れてしまいそうだ。
ファーシルがいなくなったらと考えるだけで、どうにかなってしまいそうだった。
傭兵団を訪ねると、すぐに回収物のところへ案内された。
「普通なら遺族に引き渡して燃やすなり埋めるなりするもんなんですけど、御者が受け取り拒否されたようでね。悪魔の子と呼ばれる子供の体だから、下手に扱って呪われたら怖いーとか言って、駆け込んできたんですよ」
案内途中、傭兵に誰が回収してきたのか問うと、そんなことが返ってきた。
遺物の靴と、獣に噛みちぎられたような子供の腕を見て、アルヴァはすぐに気づいた。
これはファーシルの腕ではない。
一方で、片側に置かれた靴はファーシルのものだろう。ヒールの底が欠けて、タンがへろへろに歪んでいる、黒い革靴。ファーシルが履いているのを何度か見たことがある。しかし、深い森の中を逃げたにしては、状態がきれいすぎる。乾いた土の跡や付着物が一切ないのは不自然だ。
そのことに後ろのデュバルも気づいたのか、ふむ、と思案する気配があった。
「この靴は届けられてきたときの状態のままか?」
「はい。わざわざ洗ったり拭いたりなんてしませんよ」
傭兵からの返答で、アルヴァの中で一つの仮説ができあがる。それは最早、確証に近い。
「知りたいことは知れた。我々はこれで失礼する」
アルヴァが踵を返すと、傭兵に「あ、殿下」と待ったをかけられる。
「これ、処分していいんですか? 誰の検閲があるか分からないので、一週間くらいは残しておくつもりですけど」
「ああ、それでいい。……いや、靴だけ持っていってもいいだろうか」
「靴? べつにいいですけど」
こんなボロボロの靴を何に使うんだ、という疑問が傭兵の顔からありありと伝わってくる。しかしそれに答えるつもりはない。自分でも、何故そんなことを聞いたのか分からなかった。
その場を後にすると、デュバルがこっそりアルヴァに耳打ちした。
「あの靴、本当にファーシル殿のなんですかね? あんなおしゃれ靴で森の中を歩いてたら、もっと汚れるはずですけど」
騎士は森の中で訓練したり、視察に出かけたり、時には抜刀する。森の中がどれだけ汚れやすいかは、アルヴァよりデュバルのほうがよく心得ている。
「彼の靴であることには間違いないが、彼が履いて出かけた靴ではないだろうね」
「え、どういうことですか?」
「回収してきたという腕をファーシルのものだと見せかけるためのフェイクだよ。あの腕はファーシルのものではない」
つまり、アレンツァ公爵家の者が仕組んだ、ファーシルの偽造の死である。
アレンツァ公爵は、ファーシルのミュラでの生活を気にかける必要はないと言っていた。そのための用意は整っている、とも。言い換えると、ファーシルがミュラに到着することはない、ということなのではないか。
移動中にファーシルを襲う手筈が、何らかのトラブルによりファーシルを逃がしてしまったのだろう。しかし、なんとしてでもファーシルを死んだことにしたいアレンツァ公爵は、ファーシルの死をでっち上げることにした。ファーシルを殺し損ねたところで、たった六つの子供が深い森の中を生き抜けるはずがないと踏んだのだろう。そして、用意した『回収物』を御者に託し、傭兵団に差し出すことで、ファーシルの死の証人を得ようとした。
この仮説が事実だとすれば、ファーシルは例え無事だったとしても、アレンツァ公爵家に戻ってくることはないはずだ。自分が生きていると知られれば、また命を狙われるだろうから。
どうしたものか、と思案していると、デュバルがアルヴァの真剣な顔を覗き込んできた。
「なんだ?」
「どうして、あの腕がファーシル殿のものではないと分かったんですか?」
「ああ、そんなことか」
そんな簡単なことも分からないのか、とアルヴァは溜息まじりに説明する。
「彼の肌はもっと白いだろう。それに、回収物のものは肘が過剰に伸展していたし、柔らかさだって足りない。あと彼の爪は縦長だ、あんな丸い形はしていない。それから指の長さも違っただろう。彼は人差し指と薬指が同じくらいの長さのはずだが、薬指のほうが長かったじゃないか」
淡々と解説するアルヴァに、デュバルは頬を引き攣らせた。何が「そんなこと」なのか、ちっとも理解できなかったのだ。
「……殿下って、ファーシル殿のことちゃんと見てるんですね」
「? 婚約者だったんだ。当たり前だろう」
当たり前かなあ、と小首を傾げるデュバルをよそに、アルヴァは再び思案に耽る。
ファーシルは無事なのか、どこにいるのか。秘密裏に動かなければいけなさそうだ。
聖女を毒殺しようとしていたとはいえ未遂に終わったことから、極刑は重すぎるのではという声も上がっていたが、ファーシルが止めていなければ、いまごろ聖女は亡骸となり、皇国が滅びる一因となっていたことだろう。それは皇族に対する謀反でもあるとして、皇帝が処罰を決めた。
結果として聖女が無事だったという事実と、もしも聖女の毒殺が成功していたら起こりえる最悪の可能性。これらを天秤にかけたとき、皇帝の中で大きく傾いたのは後者だったのだ。
なんでも皇帝の思うがままの独裁政治。これが今のディアロス皇国の実態なのだ。
「アルヴァさま!」
刑が執行された広場を後にしようとしていたところを、後ろから引き止められた。
アルヴァを馴れ馴れしく呼び止める人物は、一人しかいない。
振り返ると、やはりアレンツァ公爵を引き連れたマリッサがいた。
「聖女殿、来ていたのかい」
「はい。ネネッタお母さまの一人娘として、ちゃんと見届けるべきだと思ったので」
アルヴァを見つけてにこにこと笑う少女が薄気味悪い。自分の母親が無残に命を散らした直後だというのに、どうして溢れんばかりの笑顔を浮かべられるのだろう。
「そうか。とはいえ、気分のいいものではないだろう。早く帰って休むといい」
では、と立ち去ろうとして、またしてもマリッサに待ったをかけられる。
「あの、わたし、アルヴァさまのご機嫌を損ねるようなことしましたか。お手紙の返事が、すごく冷たく感じて……」
冷たくあしらわれていることに気づいているのなら、猛烈な手紙攻撃をやめてくれ。そう一蹴したところで、マリッサはよけい食い下がってくるのだろう。
一歩離れたところにいるデュバルが、そんなアルヴァの気持ちを察したのが、微かに苦笑したのが見て取れた。
アルヴァは仕方ないとばかりに、しおらしい演技をしてみせる。
「君に勉強を教える件だったかな。すまないね。ファーシル殿と婚約を破棄したばかりだし、彼がいる家門で預かっているお嬢さんと懇意にするのはどうかと思ってね」
嘘ではない。ファーシルはマリッサに引け目を感じているようだったし、そんな彼の気持ちを差し置いてマリッサと親睦を深める気はない。うまく言葉にはできないが、ファーシルが悲しむであろうことは、極力したくないのだ。
アルヴァの言い分に、マリッサはきょとんと小首を傾げた。
「ファーシルさまに気を遣う必要はありませんよ。もうお屋敷にいませんから」
「……は?」
屋敷にいないとはどういうことだ。
その疑問に答えたのは、アレンツァ公爵だった。
「あの悪魔の子は我が領地のミュラに送ったんですよ。マリッサの近くに置いておくのは危ないと思いましてね」
ミュラ。その領地の名に、アルヴァの眉根が寄る。
「今、ミュラの辺りは魔物の出没情報が上がっていて危険だ。それを分かっているのか?」
「殿下が心配なさることではありませんよ。あいつだって魔物みたいなものじゃないですか」
アレンツァ公爵の口角が歪に上がった。そのあくどい笑みは、厄介者を追い出した悦びを暗に語っている。
魔物は荒れている場所に寄ってくる生きものだ。つまり、ミュラに魔物の目撃情報が出たということは、それほどミュラの管理が行き届いていない印でもある。近年ではミュラから出る領民が多く、税による懐を心配したアレンツァ公爵がミュラの税金を引き上げたという報告も上がっている。そんなところへファーシルを送り出すとは。ファーシルの家庭内での扱いがよくないことは知っていたが、アルヴァの見通しが甘かった。
「ファーシル・アレンツァは悪魔の子ではなく、人の子だ。しかも、まだ六つだろう。そんな彼がミュラで安全に暮らせるわけがない。引き戻したほうがいい」
「あいつが何者であろうと、ミュラでの生活を気にかける必要はありません」
「何?」
「そのための用意は整っているということですよ」
アレンツァ公爵が嫌な笑みを深めた。胸騒ぎがする。
ミュラでの生活を気にかける必要はありません。その言い方はまるで、ミュラに辿り着くことはないと言っているようで、アルヴァの胸の底に焦燥が盛り上がる。しかし、それを表に出すことはしない。腹の探り合いばかりしている貴族社会において、いついかなるときも、感情を悟られてはならないのだ。
「アルヴァさま、公爵さまもこう仰っていますし、勉強を教えてくださるでしょう?」
マリッサが上目遣いにアルヴァの顔色をうかがってくる。
自分は愛されて当然で、自分からの誘いを断られるわけがない。そう確信をしている顔だ。
「……申し訳ないが、多忙でね。日程については、改めて便りを出すよ」
いつもどおり笑顔の仮面を被って答えると、マリッサの丸い頬がぽっと赤く色づいた。
そういえば、ファーシルはアルヴァのこの笑顔を見ると、「また胡散くさい笑顔してる」と言いたげな表情をしていたな、と思い出す。
なんだか最近、ファーシルのことばかり考えている気がする。
ざわざわ。ざわざわ。胸に砂嵐が吹き荒んでいるような違和感がある。記憶の中のファーシルが、どんどん遠くに行ってしまうような感覚に、何故だか胸の中の焦燥が大きくなる。
アルヴァは人知れず、奥歯を擦り合わせた。
胸騒ぎの正体が明らかになったのは、ネネッタの刑執行から数日後のことだ。
皇室騎士団の訓練を視察した後、執務室に戻ってきて間もないアルヴァの耳に届いた報告は、耳を疑うほどだった。
「ファーシル・アレンツァ殿と思しき遺体の一部が発見されたとのことです」
補佐官のエイドリアンから聞かされた訃報に、アルヴァの頭の中が真っ白になった。
「遺体……? 彼が亡くなったなんて報告は上がっていないはずだが」
「今朝方、ファーシル殿をミュラへと送り出した御者が戻ったそうでして。野営の準備をしている最中にファーシル殿が逃げ出してしまい、探していると子供の右腕が転がっているのを発見したという証言です」
「その腕がどうして彼のだと?」
「近くにファーシル殿が履いていた靴が落ちていたそうです。深い森の中だったそうで、獣に襲われたのではないかと」
一連の報告に、アルヴァは頭を抱えた。
ファーシルの性格上、逃げ出すなんて考えられなかった。
行先がミュラとあれば、逃げ出したくなる気持ちは分かる。賢いファーシルのことだ。ミュラの治安がよくないことは分かっているだろう。しかし、ファーシルはどんな理不尽に遭遇しても、否定するでなく、粛々と受け入れてきた子だ。そして、自分を取り巻く劣悪な環境の中でも、何とか咲こうと努力を重ねてきた姿勢を知っている。
だからこそ、ファーシルが逃げ出すなんて考えられない。しかも、危険に溢れた深い森の中でなんて。
ファーシルがどんな子か分かっていれば、その違和感に気づくはずなのに。誰もファーシルのことを分かっていない。家族さえも、その義務を放置してきた。
アルヴァはぐっと固く拳を握った。
「回収物はどこに?」
「首都の傭兵団で保管しているようです」
「分かった。すぐに行く」
数日前、アレンツァ公爵と対面したときの胸騒ぎを思い出す。
根拠はない。しかし確信がある。今回の件は、必ずアレンツァ公爵が一枚噛んでいる。
まるで全身が心臓になったようだ。大きく鼓動して、呼吸さえもままならない。もしも、回収されてきた腕がファーシルのものだとしたら。もしもファーシルでなかったとしても、ファーシルが無事だとは限らない。いくらファーシルが賢いとはいえ、まだ六つだ。そんな子供が、このディアロス皇国で生きていけるはずがない。
いろんな不安が渦巻いて、頭に酸素が行き渡らない。今にも倒れてしまいそうだ。
ファーシルがいなくなったらと考えるだけで、どうにかなってしまいそうだった。
傭兵団を訪ねると、すぐに回収物のところへ案内された。
「普通なら遺族に引き渡して燃やすなり埋めるなりするもんなんですけど、御者が受け取り拒否されたようでね。悪魔の子と呼ばれる子供の体だから、下手に扱って呪われたら怖いーとか言って、駆け込んできたんですよ」
案内途中、傭兵に誰が回収してきたのか問うと、そんなことが返ってきた。
遺物の靴と、獣に噛みちぎられたような子供の腕を見て、アルヴァはすぐに気づいた。
これはファーシルの腕ではない。
一方で、片側に置かれた靴はファーシルのものだろう。ヒールの底が欠けて、タンがへろへろに歪んでいる、黒い革靴。ファーシルが履いているのを何度か見たことがある。しかし、深い森の中を逃げたにしては、状態がきれいすぎる。乾いた土の跡や付着物が一切ないのは不自然だ。
そのことに後ろのデュバルも気づいたのか、ふむ、と思案する気配があった。
「この靴は届けられてきたときの状態のままか?」
「はい。わざわざ洗ったり拭いたりなんてしませんよ」
傭兵からの返答で、アルヴァの中で一つの仮説ができあがる。それは最早、確証に近い。
「知りたいことは知れた。我々はこれで失礼する」
アルヴァが踵を返すと、傭兵に「あ、殿下」と待ったをかけられる。
「これ、処分していいんですか? 誰の検閲があるか分からないので、一週間くらいは残しておくつもりですけど」
「ああ、それでいい。……いや、靴だけ持っていってもいいだろうか」
「靴? べつにいいですけど」
こんなボロボロの靴を何に使うんだ、という疑問が傭兵の顔からありありと伝わってくる。しかしそれに答えるつもりはない。自分でも、何故そんなことを聞いたのか分からなかった。
その場を後にすると、デュバルがこっそりアルヴァに耳打ちした。
「あの靴、本当にファーシル殿のなんですかね? あんなおしゃれ靴で森の中を歩いてたら、もっと汚れるはずですけど」
騎士は森の中で訓練したり、視察に出かけたり、時には抜刀する。森の中がどれだけ汚れやすいかは、アルヴァよりデュバルのほうがよく心得ている。
「彼の靴であることには間違いないが、彼が履いて出かけた靴ではないだろうね」
「え、どういうことですか?」
「回収してきたという腕をファーシルのものだと見せかけるためのフェイクだよ。あの腕はファーシルのものではない」
つまり、アレンツァ公爵家の者が仕組んだ、ファーシルの偽造の死である。
アレンツァ公爵は、ファーシルのミュラでの生活を気にかける必要はないと言っていた。そのための用意は整っている、とも。言い換えると、ファーシルがミュラに到着することはない、ということなのではないか。
移動中にファーシルを襲う手筈が、何らかのトラブルによりファーシルを逃がしてしまったのだろう。しかし、なんとしてでもファーシルを死んだことにしたいアレンツァ公爵は、ファーシルの死をでっち上げることにした。ファーシルを殺し損ねたところで、たった六つの子供が深い森の中を生き抜けるはずがないと踏んだのだろう。そして、用意した『回収物』を御者に託し、傭兵団に差し出すことで、ファーシルの死の証人を得ようとした。
この仮説が事実だとすれば、ファーシルは例え無事だったとしても、アレンツァ公爵家に戻ってくることはないはずだ。自分が生きていると知られれば、また命を狙われるだろうから。
どうしたものか、と思案していると、デュバルがアルヴァの真剣な顔を覗き込んできた。
「なんだ?」
「どうして、あの腕がファーシル殿のものではないと分かったんですか?」
「ああ、そんなことか」
そんな簡単なことも分からないのか、とアルヴァは溜息まじりに説明する。
「彼の肌はもっと白いだろう。それに、回収物のものは肘が過剰に伸展していたし、柔らかさだって足りない。あと彼の爪は縦長だ、あんな丸い形はしていない。それから指の長さも違っただろう。彼は人差し指と薬指が同じくらいの長さのはずだが、薬指のほうが長かったじゃないか」
淡々と解説するアルヴァに、デュバルは頬を引き攣らせた。何が「そんなこと」なのか、ちっとも理解できなかったのだ。
「……殿下って、ファーシル殿のことちゃんと見てるんですね」
「? 婚約者だったんだ。当たり前だろう」
当たり前かなあ、と小首を傾げるデュバルをよそに、アルヴァは再び思案に耽る。
ファーシルは無事なのか、どこにいるのか。秘密裏に動かなければいけなさそうだ。
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