泣かないで、悪魔の子

はなげ

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第一章 愛は食べられない

奴隷となる捨て子

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 頭の中でアルヴァの言葉を何度も反芻し、身を奮い立たせる。
 震える膝に力を込めて、逃げるべく地面を踏みしめた。しかし、ファーシルの足が一歩を踏み出すよりも早く、魔物がゴミを払うようにファーシルを前足で払いのける。
 ファーシルの小さな体はまるで剛速球のように吹っ飛び、真後ろの立木に背中を強打した。
 痛い。どこかの骨が折れた音がする。内臓を傷つけたのか、ごほっと咳込むと血液が溢れた。
 ぼんやりと霞んだ視界で、魔物の尻尾が空を切った。刃物のような空気の振動はファーシルの頬を掠め、左横の立木を真っ二つにする。
 盛大に倒れた樹木を見やり、ファーシルは目の当たりにした死の予兆に、あーあ、と思った。
 どうしてアルヴァを見送るとき逃げ出してしまったのだろう。
 死ぬ気で涙を堰き止めて、思いきり笑えばよかった。
 アルヴァのファーシルを最後に見た記憶が情けない泣き顔なんて恰好つかないだろう。
 それに、この死地の恐怖を知ってしまったら、もう心から笑うことはできそうにないから。
 ファーシルは鈍痛が纏わりつく体に鞭を打ち、首を狩られた山賊のコピシュを拾い上げた。重たいものを持つと、体中の痛みを増した。歯を食いしばって痛みに耐える。
 逃げても、逃げなくても、どうせただではすまないのだ。それなら、醜く抵抗してみよう。諦める必要なんてないって、アルヴァが言ってくれたのだから。
 魔物を見上げると、大きな前足が動くのが見えた。
 瞬間、鮮やかな血飛沫が舞った。


「はっ、はあっ、は」

 いつの間にか土砂降りの雨が森林に降り注いでいた。
 ただでさえ夜の森は寒いのに、冷たいそれはどんどんファーシルの体温を奪っていく。
 息切れが激しく、白い吐息が煙のように切れ目なくこぼれ落ちる。
 一刻も早く雨を凌ぐべきだ、と頭の冷静な部分が警告音を鳴らすが、ファーシルは雨と血で滑るコピシュを持つ手に渾身の力を入れて、自分の下に倒れている魔物の首に刃を突き立てた。
 狂ったように、何度も、何度も、刃を出し入れする。

「はあっ、はっ、はあ」

 魔物はとっくに息を引き取っていた。それでも、魔物に対する恐怖は消えず、亡骸を傷つけ続ける。生き返らないように心臓を抜き取らなければ。辺りを見回せないように頭を狩らなければ。動き出せないように四本足をもぎ取らなければ。こちらを認識できないように眼球をくりぬかなければ。
 大雨の中、血みどろになって、自分より遥かに大きな魔物の亡骸を攻撃する子供の姿は、さぞかしい異様だろう。
 自分は本当に「人の子」なのだろうか。
 払拭したはずの疑問が、また頭の中に蘇る。
 勝ち目のない戦であることは百も承知で、がむしゃらにコピシュを振り翳した。その結果が、ファーシルの下に倒れる魔物の死体だ。
 たくさん攻撃されたし、たくさん反撃した。シャワーのような雨粒がファーシルを汚す赤い液体を洗い流してくれるが、鼻孔に残った血生臭さまでは払拭できない。

「はっ、はあ、は、はあっ」

 魔物の死体に刃を入れ続けて、どれくらいの時間が経っただろう。もう指先には力が入らず、魔物の硬い皮を刃先で引っ掻いているだけになっていた。
 気がつくとすでに雨は上がっおり、東の空から昇る朝日が森の闇を裂いている。
 ほとんど影の濃淡でしか判別がつかなかった魔物を明るい空の下で見やり、やっと魔物はもう死んでおり反撃してこないと確信できた。
 ファーシルはコピシュから手を離すと、エネルギー切れのように魔物の上に倒れ込んだ。
 死地を乗り越えたことを実感し、麻痺していた感覚が戻ってくる。全身が痛い。体が冷えて寒い。もう一歩も動けない。
 襲ってきた魔物を殺したところで、今日をどうやって生き抜けばいいのか分からなかった。
 必死に暗い森の奥深くへ逃げ込んでしまったから、馬車のところまで戻る道を覚えていない。水や食糧を探しにいく体力も残っていないし、仮に体力があり余っていたとしても、ファーシルの居場所なんてどこにもないのだ。
 ファーシルはこの森で山賊に襲われて死ぬ想定なのだから、アレンツァ公爵家に戻れたとしても、ミュラに到着することができたとしても、公爵家の刺客がファーシルを狙いにくるだろう。ファーシルが生きていると知られてはならない。
 どうしよう、と考えていると「うわっ」と野太い声がした。山賊が戻ってきたのかと思ったが、声の方向に視線を動かすと、そこには見覚えのない図体の大きな中年男がいた。

「なんだってこんなところに大物がいんだ?」

 男は恐る恐る魔物の死体に近づくと、値踏みするように状態の確認を始めた。吟味するような視線が魔物の背中に流れると、魔物を寝床にしたように倒れるファーシルと目が合った。
 ファーシルを見つめる眸が大きく見開かれる。

「おい、小僧。この魔物を狩ったのはどいつだ。どこにいる」
「俺だけど」

 やはり体を起こすことができず、口先だけで答える。

「なんだと。その上質な召し物からして、小僧、貴族だろう。護衛がいるんじゃないのか」
「護衛ならいたかもね。でも、もういない。俺を捨てていなくなった」

 淡々と答えるファーシルを、男は訝しげに見つめてくる。

「小僧、神聖力の持ち主か」
「そんなわけない」

 悪魔と瓜二つの自分が神聖力を扱えるわけがないじゃないか。
 無神経な人だな、とファーシルは失笑した。

「じゃあ、小僧みたいなひょろいガキがどうやって魔物を殺したんだよ」
「大したことしてない。いっぱい動いて、いっぱい刃を突き立てただけ」

 ファーシルの下敷きとなっている魔物は、攻撃の威力は尋常でなかったが、視力が悪く、人の気配に鈍感のようだった。
 ファーシルは痛みに喘ぎながら、がむしゃらに魔物からの攻撃に抗っている最中、そのことに気づいた。
 静止すれば気配を探られるが、休みなく動き回っていれば、魔物はファーシルの気配を追えなくなる。あとは岩石を削るように、何度も何度も刃を突き立てた。
 非力な子供の浅い攻撃でも、何百回、何千回、何万回と繰り返せば、大きな傷となる。
 ファーシルの説明を黙って聞いていた男は、ふむと何かを思案するように目を伏せた後、にやりと口角を上げた。

「小僧、捨てられたんだったな。行き先はあるのか」
「ないけど……」
「なら俺が拾ってやるよ」

 男は悪巧みを隠そうともしない陰険な笑みを浮かべ、豆だらけの手を差し出した。
 正直、男の提案に頷きたくなかった。しかし、今日の食い扶持にも困る状態のファーシルに選択権はない。森の出口も分からないし、運よく森を脱することができたとしても、誰かに助けを求めたところで、悪魔の子と呼ばれる自分は爪弾きに合って終わりだろう。
 それなら、この男の手を取ったほうがいい。例え差し出された手が汚いものだったとしても、ファーシルが生きるためには必要なものだ。
 ファーシルは依然として力の入らない手を、男のそれに重ねた。

「俺はアルパズール帝国辺境伯の兄、ヤニスだ」
「……俺はファーシル」

 アルパズール帝国とは、魔の森を挟み、ディアロス皇国の隣に位置する国だ。
 ヤニスは昨夜の山賊と同じような恰好をしており、ファーシルの中にある貴族像とは到底結びつかなかった。
 わざわざ辺境伯の兄であることを主張するということは、ヤニス自身には爵位がないのだろう。ディアロス皇国では爵位を継ぐのは長男だと決まっているが、アルパズール帝国では違うのかもしれない。
 ヤニスはこの森を偵察しに訪れたらしく、ファーシルの体力が回復するまで、目的を遂行していた。しばらくしてヤニスが戻ってくると、上体が起こせるまで回復していたファーシルは、疑問を投げかけた。

「どうしてこの森を見回ってるの」
「この辺りが瘴気を発しているって情報があったんだよ」

 瘴気とは魔物にとっての酸素のようなもので、魔の森に霧のように漂っているのだと歴史書で読んだことがある。
 その瘴気が何故、魔の森ではない森林から発せられているのだろう。霧のように濃い空気は見当たらないが、ファーシルの下で伸びている魔物の存在が、ヤニスの情報に信憑性を持たせている。

「でも、どうしてアルパズールの人がディアロスの森を偵察するの」
「魔物の動きを把握しておかなきゃなんねえんだよ。――つーか」

 ヤニスは言葉を切ると、勢いよくファーシルの胸倉を掴んだ。

「貴族の家族から見捨てられたお前は、今じゃただの平民だろ。たかが平民が主人の俺にタメ口使ってんじゃねえぞ」

 貴族が横柄なのはどこの国でも同じなのだろうか。まるで奴隷のような扱いだな、とファーシルが冷めた目を向けると、ヤニスの肩がびくりと跳ねる。

「……申し訳ありません、ご主人様」
「ふ、ふん。分かればいいんだよ」

 ヤニスはすぐにファーシルの胸倉を放すと、再び偵察に出かけた。
 昼すぎになると、本調子ではないものの、ようやく歩けるようになった。
 ヤニスが偵察から戻ってきたタイミングで出発し、森を抜けるころにはすでに夕暮れ時になっていた。
 ファーシルは通行人に髪と眸を見られないように、外套のフードを深く被った。
 馬繋場に置いてきた荷馬車に乗り、野宿で夜を明かしながら移動する。食事は決まって、かぴかぴに乾燥して固いパン一つだった。ヤニスを一瞥すると、彼の大きな口は山兎を吸い込んでいた。
 ろくに湯浴みもできず、匂いが気になる。ヤニスはといえば、よく荷馬車にファーシルを留守番させて、一人で風呂屋に行っていた。清潔になって戻ってきたヤニスが「臭い」と鼻を摘まむたびに、ファーシルは密かに手綱を強く握りしめた。
 この移動中、ヤニスにとってファーシルは奴隷なのだと、まざまざと感じた。
 魔の森の迂回路を通っているため、通常よりも移動距離は長く、アルパズール帝国に入国してからも移動が続いた。
 目的地に着いたのはヤニスの奴隷と化してから約三週間後だった。
 連れてこられたのは貧民街で、砂埃が舞う中、老朽化した建物の隅では、衣服の形をしたぼろぼろの布を纏った兄弟が身を寄せ合っていた。
 ヤニスに続いて古びた外装の小屋に入ると、数々の視線が一斉にファーシルに突き刺さった。
 所狭しと詰められた子供たちは、ざっと十五人ほどだろうか。
 ふと、まったく肉のない顔面から眼球の凹凸だけがはっきりしている男児と視線がかち合い、ファーシルの肩がびくりと跳ねた。思わず目を逸らした先に座っていた男児はほどよく肉がついている。
 その健康状態の差に違和感を覚えて、ファーシルは小屋の中の子供たちを見回した。
 明らかに食事を摂っていないであろう、骨に直接皮膚が貼りついているように手足が細い子供が半分。彼らは外で身を寄せ合っていた兄弟のようにぼろぼろ布の衣服を身にしている。
 一方で、細身ではあるが筋肉がついている者が半分。彼らはチュニックにボトムスと、一般的な平民と同じ服装だ。平民の子供と違う点といえば、ベルトに剣を装備していることだろう。
 何をする集団なのか警戒しているファーシルに何の説明もなく、ヤニスは子供たちに向かって面倒臭そうに口を開いた。

「予定通り出発は明日だ。俺は遠征で疲れたから寝る。そのうち生き残った人数を確認しに来てやるよ」

 ヤニスは馬鹿にしたように笑うと、その場を後にした。どうやら新しい奴隷のファーシルを収容するためだけに、この小屋に寄ったらしい。
 出発は明日だ、とは何のことだろう。説明くらいすればいいのに。そう心の中でぼやいていると、「なあ」と健康的な部類のほうの子供に話しかけられた。小麦色の肌のあちこちに、傷跡が散りばめられていて、痛々しい。

「お前、名前ある? 俺はニコっていうんだけど」
「ある。ファーシル」
「めずらしい名前だな。てか、その服って貴族が着るやつじゃね?」

 ニコと名乗った男児はぐいぐい距離を詰めてくる。
 アレンツァ公爵家から破門にされたも同然なので、もう貴族とはいえない。そんな事情を出会い頭に打ち明けるのは気が引けて、どう答えようか迷っていると、ファーシルが口を開く前にニコが「わかった!」と声を上げた。

「お前、ご主人の服を盗んだんだろ。それがバレて奴隷にされちまったんだ」
「え?」
「破門されたとはいえ元々は貴族だし、出ていくときに子供服も持っていってたんだな。あんな横暴なご主人も子供だったのか。想像できねえ」

 ニコはファーシルの衣服をじろじろと睨め回し、子供のころのヤニスを想像したのか、身震いした。
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