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7章.Rex tremendae
泥に咲く花
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†††
ガブリエルは窓際のアームチェアに腰掛け、夜空を見上げる。
「チャイでございます」
優美な装飾が施された猫足の丸テーブルに、ティーセットが静かに置かれた。
「……ありがとう」
ガブリエルがこのように穏やかな時を過ごすことができるのは、教皇が早々とゆめの世界へ旅立ったからで、つまりはこの男、ハスディエルのお陰である。
ガブリエルはティーカップをそっと手に取り、芳しい香りに目許を緩めた。ハスディエルの入れるお茶は香り高く、とても美味しい。
「軍では、お茶の入れ方も習うのかい?」
「いえ、」
ハスディエルはかすかに目を丸くしたが、次には優しい顔つきになった。
「妹から教わったのです。妹は、母から教わったらしく。……私は出稼ぎに出ておりましたので、そのように母と過ごす時間がありませんでした」
ハスディエルの父は、ハスディエルが七つほどの頃、聖戦に参加し亡くなった。母が近所のパン屋で働いていたけれど、生活は苦しく、見ているだけではいられなくなったハスディエルも、働きに出ることにしたのだ。
「苦労が祟ったのか、母も早くに亡くなりまして。それからは、妹と二人…。妹は、元気が取り柄のような子で、いつも溌剌としてました。何度あの笑顔に救われたか知れません」
ハスディエルが妹のことを思うとき、一番に輝かしい笑顔が浮かぶ。それが今でも救いとなっていた。
ガブリエルは瞬く星々を目に映し、小さく口を開く。
「おまえのような兄がいて、きっとその子は幸せだったろうね」
「……はい」
ハスディエルはそっと目を閉じる。
『わたし、さびしくなんてないわ。お兄ちゃんがいるもの』
彼女は、ハスディエルの心を読んだかのように、たくさんの言葉をくれた。
行き倒れの異教徒をそれとは知らずに助け、魔女と罵られて火炙りの刑が言い渡されたときも、彼女は微笑んで言った。
『もし、あの人が異教徒だって知っていたとしても、わたしはきっと助けたわ』
「異教徒とは知らなかった」と言えば、極刑は免れたかもしれない。しかし、妹が教会の人間に弁解することはなかったのである。
『ごめんなさい』
ハスディエルを一人残して逝くこと。それだけが、彼女の気がかりらしかった。
『ごめんね、お兄ちゃん。大好き。わたし、幸せだった。お兄ちゃんの妹でよかった…!』
縄を掛けられ、牢から連れていかれる間際まで、彼女は煌めきを失わなかった。
「教会を恨まなかったのかい?」
振り返ったガブリエルが、器用に片方の眉を上げる。
「いえ、今の制度が変わってほしいとは思いますが、……」
首を振っておどおどと答えたハスディエルに陰りはなく、本当に憎しみなどを抱いていなのが伝わってくる。
――なんと純真な男だろう。
ガブリエルは、いっそ呆れた。
「そのような事があって、よくもまぁ平然と教会に尽くせる」
「……私にできることと言えば、看守にでもなって、良心からの行いであるにも関わらず刑に処される者の命を、少しでも救うことくらいだと思ったのです」
「……それで看守にね」
ハスディエルが看守を務めていたことは、ガブリエルも知っている。しかし、志願する者などそういないため、彼も指令を受けて仕方なく務めていたのだと思っていた。
「多くの悪人を見ただろう。おまえの思うような善良な者など、数えるほどもいなかったんじゃないのかい?」
「……いない方が良いのです。それが正しいのです」
悪人が捕まり、牢に入る。それがあるべき姿だ。
ハスディエルは数多の悪人を目にしたし、看守として鞭を打ったりもした。心が痛むことは沢山あったが、それでも、信念が揺らぐことはなかったのである。
ガブリエルはそっと息を吐く。
そのような体験をして、今なお人の善なる部分を信じ、曇りなき瞳に世界を映す彼の存在は、まさに奇跡のようだった。
「いまの任務は、たいそう不満だろうね」
ふっと笑ってティーカップを傾ける。
「いいえ。あなたに出会うことができました」
思ってもみなかった返答に、ガブリエルは顔を上げた。
薄暗い室内で、その瞳の輝きはいっそう目を引く。「今まさに、目の前に救うべき人がいる」と、その目は語っていた。
ガブリエルは一瞬、言葉をなくす。しかし、すぐにいつもの気怠げな雰囲気で口を開いた。
「私は、おまえの思うような人間じゃない」
「そうおっしゃるなら、このような目に遭われている理由をお聞かせください」
――ふむ。
「幾つかの街を焼き尽くした」
「それは、教皇より命を受け遂行されたことでしょう。それに、そのような命令も、あなたを苦しめるものなのではありませんか」
スルッと返ってきた言葉に、ガブリエルは目を丸くする。
「よく知ってるね」
「私はけっこう、物知りですよ」
意外だ。
「警戒心を抱かれないのが取り柄なのです」
ハスディエルは雰囲気からして人畜無害に思われているため、同僚たちは気にせず世間話や重要な話をしたりする。街へ出てもしかり。これで彼は、けっこう情報通なのである。
「ですが、あなたがこちらへ来られた理由だけは、まったく耳に聞こえません」
ゾフィエルからの頼まれ事で、いつか衛兵隊で起きた謀反についても神経を研ぎ澄ませているのだが、それについてもわからず終いとなっている。
「語られるまでもない事なのだろう」
素っ気ない返答に、ハスディエルは見るからに不満そうな顔をした。
ガブリエルは窓際のアームチェアに腰掛け、夜空を見上げる。
「チャイでございます」
優美な装飾が施された猫足の丸テーブルに、ティーセットが静かに置かれた。
「……ありがとう」
ガブリエルがこのように穏やかな時を過ごすことができるのは、教皇が早々とゆめの世界へ旅立ったからで、つまりはこの男、ハスディエルのお陰である。
ガブリエルはティーカップをそっと手に取り、芳しい香りに目許を緩めた。ハスディエルの入れるお茶は香り高く、とても美味しい。
「軍では、お茶の入れ方も習うのかい?」
「いえ、」
ハスディエルはかすかに目を丸くしたが、次には優しい顔つきになった。
「妹から教わったのです。妹は、母から教わったらしく。……私は出稼ぎに出ておりましたので、そのように母と過ごす時間がありませんでした」
ハスディエルの父は、ハスディエルが七つほどの頃、聖戦に参加し亡くなった。母が近所のパン屋で働いていたけれど、生活は苦しく、見ているだけではいられなくなったハスディエルも、働きに出ることにしたのだ。
「苦労が祟ったのか、母も早くに亡くなりまして。それからは、妹と二人…。妹は、元気が取り柄のような子で、いつも溌剌としてました。何度あの笑顔に救われたか知れません」
ハスディエルが妹のことを思うとき、一番に輝かしい笑顔が浮かぶ。それが今でも救いとなっていた。
ガブリエルは瞬く星々を目に映し、小さく口を開く。
「おまえのような兄がいて、きっとその子は幸せだったろうね」
「……はい」
ハスディエルはそっと目を閉じる。
『わたし、さびしくなんてないわ。お兄ちゃんがいるもの』
彼女は、ハスディエルの心を読んだかのように、たくさんの言葉をくれた。
行き倒れの異教徒をそれとは知らずに助け、魔女と罵られて火炙りの刑が言い渡されたときも、彼女は微笑んで言った。
『もし、あの人が異教徒だって知っていたとしても、わたしはきっと助けたわ』
「異教徒とは知らなかった」と言えば、極刑は免れたかもしれない。しかし、妹が教会の人間に弁解することはなかったのである。
『ごめんなさい』
ハスディエルを一人残して逝くこと。それだけが、彼女の気がかりらしかった。
『ごめんね、お兄ちゃん。大好き。わたし、幸せだった。お兄ちゃんの妹でよかった…!』
縄を掛けられ、牢から連れていかれる間際まで、彼女は煌めきを失わなかった。
「教会を恨まなかったのかい?」
振り返ったガブリエルが、器用に片方の眉を上げる。
「いえ、今の制度が変わってほしいとは思いますが、……」
首を振っておどおどと答えたハスディエルに陰りはなく、本当に憎しみなどを抱いていなのが伝わってくる。
――なんと純真な男だろう。
ガブリエルは、いっそ呆れた。
「そのような事があって、よくもまぁ平然と教会に尽くせる」
「……私にできることと言えば、看守にでもなって、良心からの行いであるにも関わらず刑に処される者の命を、少しでも救うことくらいだと思ったのです」
「……それで看守にね」
ハスディエルが看守を務めていたことは、ガブリエルも知っている。しかし、志願する者などそういないため、彼も指令を受けて仕方なく務めていたのだと思っていた。
「多くの悪人を見ただろう。おまえの思うような善良な者など、数えるほどもいなかったんじゃないのかい?」
「……いない方が良いのです。それが正しいのです」
悪人が捕まり、牢に入る。それがあるべき姿だ。
ハスディエルは数多の悪人を目にしたし、看守として鞭を打ったりもした。心が痛むことは沢山あったが、それでも、信念が揺らぐことはなかったのである。
ガブリエルはそっと息を吐く。
そのような体験をして、今なお人の善なる部分を信じ、曇りなき瞳に世界を映す彼の存在は、まさに奇跡のようだった。
「いまの任務は、たいそう不満だろうね」
ふっと笑ってティーカップを傾ける。
「いいえ。あなたに出会うことができました」
思ってもみなかった返答に、ガブリエルは顔を上げた。
薄暗い室内で、その瞳の輝きはいっそう目を引く。「今まさに、目の前に救うべき人がいる」と、その目は語っていた。
ガブリエルは一瞬、言葉をなくす。しかし、すぐにいつもの気怠げな雰囲気で口を開いた。
「私は、おまえの思うような人間じゃない」
「そうおっしゃるなら、このような目に遭われている理由をお聞かせください」
――ふむ。
「幾つかの街を焼き尽くした」
「それは、教皇より命を受け遂行されたことでしょう。それに、そのような命令も、あなたを苦しめるものなのではありませんか」
スルッと返ってきた言葉に、ガブリエルは目を丸くする。
「よく知ってるね」
「私はけっこう、物知りですよ」
意外だ。
「警戒心を抱かれないのが取り柄なのです」
ハスディエルは雰囲気からして人畜無害に思われているため、同僚たちは気にせず世間話や重要な話をしたりする。街へ出てもしかり。これで彼は、けっこう情報通なのである。
「ですが、あなたがこちらへ来られた理由だけは、まったく耳に聞こえません」
ゾフィエルからの頼まれ事で、いつか衛兵隊で起きた謀反についても神経を研ぎ澄ませているのだが、それについてもわからず終いとなっている。
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素っ気ない返答に、ハスディエルは見るからに不満そうな顔をした。
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