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7章.Rex tremendae
彼の在り方
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足を踏み入れた先は廊下だった。
教皇宮殿に比べれば、天井も金キラではないし、ずいぶん慎ましやかだ。白い柱を除く壁全体に緑溢れる真昼の絵が描かれており、それほど広い空間ではないにも関わらず、閉塞感がない。
扉の前にいた衛兵が敬礼する。
ウリエルが頷くと、扉を開いてくれた。
そこは書斎のようで、教皇ボニファティエルは奥の机におり、傍らに立つ腰の引けた枢機卿に怒涛の勢いで何かを話しているところだった。枢機卿は額の汗を拭い、手元の羊皮紙に何やら書き留めている。
扉近くにいたシャムシェルがそっと寄ってきて、ウリエルに耳打ちした。
「教皇勅令を出すらしいです。教皇の権威は地上のあらゆる権威を越えている、教皇に服従しない者は救われない、と」
ウリエルはさして反応を見せなかったが、聞こえてしまったミカエルは眉を上げた。
そこでようやくミカエルらの存在に気付いたボニファティエルが声をかける。
「おお、ミカエル。やっと来たか。ここで余を守れ」
「聖下、ここは安全です」
「うっ、うるさいっ! 余は教皇であるぞッ。それなのに、あのような…!」
ボニファティエルは怒りに震えていた。傍らの枢機卿になだめられ、少しは落ち着きを取り戻す。
血走った目がルシエルを捉えると、その顔に不気味な笑みが浮かんだ。
「ミカエルは余のもとに置く。デビル退治はその者に任せれば良い。ミカエルと決闘したのだろう? その件は不問にしてやる。精々余のために働くがいい」
ミカエルが口を開きかけたとき、ルシエルが一歩前へ出た。その横顔に、ミカエルは息を呑む。
リニューアルしたルシエルの真顔を見たのは初めてかもしれない。
ボニファティエルをただ見下ろしているだけなのに、威圧的にすら感じる存在感に圧倒された。
「俺はミカエルと共に在ります。邪魔する者は、何人たりとも容赦しません」
ルシエルは、聖正教圏で誰より強い力を持っているのだ。見た目がすっかり天使のようになり、態度も柔らかになったとはいえ、充分脅威になりうる。
視界の端で、シャムシェルが身体を強張らせている。ウリエルも氣を研ぎ澄ませるのを感じた。
「信仰に救われる者もいるだろうけど、俺が思うに、教会というシステムは必ずしも必要じゃない」
教会なんてなくてもいいんじゃない?
そんな雰囲気の、軽い口調だった。その、教会を潰すことをなんとも思っていないような口ぶりが、かえってボニファティエルに恐怖を与えたようだ。
ボニファティエルはゴクリと唾を飲み、震える唇をなんとか開く。
「……そなたらは、引き続きデビル退治を」
先ほどと打って変わって早くどこかに行ってほしいと感じる声音に、ミカエルは狐につままれたような顔をした。
「了解です」
ルシエルがにこりと笑う。
場の緊張が解けても、シャムシェルは窺うようにルシエルを見ていた。
そのときノックがして、紺藍色の髪の衛兵が入室した。髪を後ろで束ねており、雰囲気からして貴族らしい。すっとした空気感の、二十歳前後の青年だ。
「捕縛した下手人により、首謀者はコロロン家の当主であることが判明しました」
「っあやつめ、まだ根に持っておったか」
「現在捜索中ですが、ブランリス王国に逃亡した可能性が高いかと」
「うぬぅ…」
ボニファティエルは苦々しい顔をする。
「引き続き、捜索を」
「はっ」
ウリエルの言葉を受け、彼は身を翻して部屋を出て行った。ミカエルとルシエルも共に退室する。
廊下に出ると、先に出ていた衛兵が部屋の外で警備にあたっている衛兵に挨拶を交わしたところだった。
「そういや、どこから帰れるか聞いてねえな」
呟いたミカエルに、彼が振り返る。
「俺も帰るところだから、一緒に行こう。こっちだ」
どうやら、瞬間移動ができる部屋があるらしい。
彼はミカエルの少し前を行きながら、ちらりと目を向ける。真ん中分けの髪がさらりと揺れた。
「君はミカエルだね。俺はラスイェル。会えて光栄だ。そちらは?」
「相棒のルシエル」
「……へぇ」
まじまじとルシエルを眺める彼は、以前の姿を知っているようである。
「前に会ったことがあるのか?」
「話に聞いたことがあったんだ。ずいぶん異なるから驚いた。噂は当てにならないな」
「その噂は、間違ってないと思いますけどね」
ルシエルが肩をすくめた。
「と言うと?」
「こうして本来の自分に戻れたのは最近です」
「とんでもない事だが、デビルと融合されたとか。君は、当時のことを覚えているのか」
紫水色の瞳が意外そうに瞬く。
「実験されたときのことですか」
「十年ちょっと前、貴族の子が誘拐される事件が相次いだんだ。君が受けたものと、何か関わりがあるのかと思ってね」
ミカエルは思わず足を止めていた。頭を過るのはベリアルという存在。
ラスイェルはじっとルシエルを捉えている。
そこから感情は読み取れなかった。
「……俺以外にも、やられた人はいるようです。詳細は知りませんが」
「実験される前に会ったりは?」
「してません」
ラスイェルは「そうか」と言って、歩みを再開させる。
後に続いたルシエルが口を開いた。
「実験を受けた者に、一人だけ会ったことがあります。名をベリアル。ミカエルより少し背が低く、意外と柔和な顔付きの少年です。名前や髪や目の色…、それに性格も、変わっている可能性が高いので、参考にはならないでしょう」
「……そうだな。話してくれてありがとう」
「どういたしまして」
辿り着いた部屋で瞬間移動するとき、ラスイェルは最後にルシエルを捉え、祈るように目を閉じ、消えた。
ミカエルは気を取り直してルシエルの方を向く。
「特にやることもねえし。教皇領でも散歩するか」
「そうしよう」
そうして教皇領の門前に瞬間移動した二人だった。
教皇宮殿に比べれば、天井も金キラではないし、ずいぶん慎ましやかだ。白い柱を除く壁全体に緑溢れる真昼の絵が描かれており、それほど広い空間ではないにも関わらず、閉塞感がない。
扉の前にいた衛兵が敬礼する。
ウリエルが頷くと、扉を開いてくれた。
そこは書斎のようで、教皇ボニファティエルは奥の机におり、傍らに立つ腰の引けた枢機卿に怒涛の勢いで何かを話しているところだった。枢機卿は額の汗を拭い、手元の羊皮紙に何やら書き留めている。
扉近くにいたシャムシェルがそっと寄ってきて、ウリエルに耳打ちした。
「教皇勅令を出すらしいです。教皇の権威は地上のあらゆる権威を越えている、教皇に服従しない者は救われない、と」
ウリエルはさして反応を見せなかったが、聞こえてしまったミカエルは眉を上げた。
そこでようやくミカエルらの存在に気付いたボニファティエルが声をかける。
「おお、ミカエル。やっと来たか。ここで余を守れ」
「聖下、ここは安全です」
「うっ、うるさいっ! 余は教皇であるぞッ。それなのに、あのような…!」
ボニファティエルは怒りに震えていた。傍らの枢機卿になだめられ、少しは落ち着きを取り戻す。
血走った目がルシエルを捉えると、その顔に不気味な笑みが浮かんだ。
「ミカエルは余のもとに置く。デビル退治はその者に任せれば良い。ミカエルと決闘したのだろう? その件は不問にしてやる。精々余のために働くがいい」
ミカエルが口を開きかけたとき、ルシエルが一歩前へ出た。その横顔に、ミカエルは息を呑む。
リニューアルしたルシエルの真顔を見たのは初めてかもしれない。
ボニファティエルをただ見下ろしているだけなのに、威圧的にすら感じる存在感に圧倒された。
「俺はミカエルと共に在ります。邪魔する者は、何人たりとも容赦しません」
ルシエルは、聖正教圏で誰より強い力を持っているのだ。見た目がすっかり天使のようになり、態度も柔らかになったとはいえ、充分脅威になりうる。
視界の端で、シャムシェルが身体を強張らせている。ウリエルも氣を研ぎ澄ませるのを感じた。
「信仰に救われる者もいるだろうけど、俺が思うに、教会というシステムは必ずしも必要じゃない」
教会なんてなくてもいいんじゃない?
そんな雰囲気の、軽い口調だった。その、教会を潰すことをなんとも思っていないような口ぶりが、かえってボニファティエルに恐怖を与えたようだ。
ボニファティエルはゴクリと唾を飲み、震える唇をなんとか開く。
「……そなたらは、引き続きデビル退治を」
先ほどと打って変わって早くどこかに行ってほしいと感じる声音に、ミカエルは狐につままれたような顔をした。
「了解です」
ルシエルがにこりと笑う。
場の緊張が解けても、シャムシェルは窺うようにルシエルを見ていた。
そのときノックがして、紺藍色の髪の衛兵が入室した。髪を後ろで束ねており、雰囲気からして貴族らしい。すっとした空気感の、二十歳前後の青年だ。
「捕縛した下手人により、首謀者はコロロン家の当主であることが判明しました」
「っあやつめ、まだ根に持っておったか」
「現在捜索中ですが、ブランリス王国に逃亡した可能性が高いかと」
「うぬぅ…」
ボニファティエルは苦々しい顔をする。
「引き続き、捜索を」
「はっ」
ウリエルの言葉を受け、彼は身を翻して部屋を出て行った。ミカエルとルシエルも共に退室する。
廊下に出ると、先に出ていた衛兵が部屋の外で警備にあたっている衛兵に挨拶を交わしたところだった。
「そういや、どこから帰れるか聞いてねえな」
呟いたミカエルに、彼が振り返る。
「俺も帰るところだから、一緒に行こう。こっちだ」
どうやら、瞬間移動ができる部屋があるらしい。
彼はミカエルの少し前を行きながら、ちらりと目を向ける。真ん中分けの髪がさらりと揺れた。
「君はミカエルだね。俺はラスイェル。会えて光栄だ。そちらは?」
「相棒のルシエル」
「……へぇ」
まじまじとルシエルを眺める彼は、以前の姿を知っているようである。
「前に会ったことがあるのか?」
「話に聞いたことがあったんだ。ずいぶん異なるから驚いた。噂は当てにならないな」
「その噂は、間違ってないと思いますけどね」
ルシエルが肩をすくめた。
「と言うと?」
「こうして本来の自分に戻れたのは最近です」
「とんでもない事だが、デビルと融合されたとか。君は、当時のことを覚えているのか」
紫水色の瞳が意外そうに瞬く。
「実験されたときのことですか」
「十年ちょっと前、貴族の子が誘拐される事件が相次いだんだ。君が受けたものと、何か関わりがあるのかと思ってね」
ミカエルは思わず足を止めていた。頭を過るのはベリアルという存在。
ラスイェルはじっとルシエルを捉えている。
そこから感情は読み取れなかった。
「……俺以外にも、やられた人はいるようです。詳細は知りませんが」
「実験される前に会ったりは?」
「してません」
ラスイェルは「そうか」と言って、歩みを再開させる。
後に続いたルシエルが口を開いた。
「実験を受けた者に、一人だけ会ったことがあります。名をベリアル。ミカエルより少し背が低く、意外と柔和な顔付きの少年です。名前や髪や目の色…、それに性格も、変わっている可能性が高いので、参考にはならないでしょう」
「……そうだな。話してくれてありがとう」
「どういたしまして」
辿り着いた部屋で瞬間移動するとき、ラスイェルは最後にルシエルを捉え、祈るように目を閉じ、消えた。
ミカエルは気を取り直してルシエルの方を向く。
「特にやることもねえし。教皇領でも散歩するか」
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