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4章.Tractus
闇の王
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「い、いつの間に…」
誰かの溢した声に、絶対零度の美声が答える。
「この場は俺が制した。おまえの国で彼に手を出したのは、これで全員?」
「……兵士はそうだ」
皇帝の身の危険を感じたのだろう。隊長が強張った声で言った。
「他には?」
「商人どもがいる」
次に答えたのは皇帝だった。
「全員連れてこい」
皇帝の視線を受け、隊長が消えた。
「薄汚い手で彼に触れるな」
ミカエルを押さえつけていた男たちがビクリと震え、離れて行った。
感情の読めない紅の瞳がミカエルを捉える。
「君の身体は健やかな状態に戻った。服も着ている。立ってごらん」
「あ…?」
瞬きをして床に手をつき、身体を起こす。どこも痛くない。それにああ、服を着ている。
ミカエルはゆらりと立ち上がり、ルシエルのもとへ歩み寄った。
――長い黒髪が懐かしい。
誰もが畏怖を抱いてルシエルを見ていた。
たしかに、黒い服に身を包んだ彼は異質な色味や美貌も相まって、同じ人間には思えない。その上、この場にいる誰より強いのだ。さぞや脅威を感じることだろう。
けれどミカエルは、こんな所まで彼が来てくれたことに温かな思いが湧き上がり、気を抜くと涙が零れそうだった。
「彼らの記憶を失くすことができるとして、君は望む?」
おもむろに問われ、ミカエルは目を瞬いた。
それはつまり、現実には無かったことにできる、ということだろうか。
「……おう」
「わかった」
体験はなくならない。それでも、無かったことにできるなら、その方がいい。――あの日々のミカエルを、誰も知らないことにできるなら。
「おい、連れてきたぞ」
どれほど経ったか、隊長がいつぞやの金持ち貴族らと共に現れた。彼らは寝ている所を叩き起こされ、そのまま連れて来られたのだろう。皆、寝間着で恐れ戦いている。
「これで全部か」
「あの、眼帯の…、あの商人はすでに国外で、すぐには捕まらないかと…」
貴族の一人が震えながら答えると、ルシエルはかすかに首を傾げる。
「ヤグニエはどれだ」
「……今からお連れする」
少しして、隊長がヤグニエと現れた。
ヤグニエは混乱しているような顔でミカエルを捉え、次いで皇帝の姿を捉えると、ヒクリと頬を動かした。
「……そうか、あの香に、」
「おまえがヤグニエか」
「……ああ」
紅の瞳がその場にいる男たちを凍てつく眼差しで見渡す。
「ヒッ」
「貴様らに命じる。彼に関わる記憶を抹消しろ。そうして二度と近づくな。近づけば命はない。……去れ」
「まっ、陛下ッ、陛下はッ」
隊長の困惑した声を残して、皇帝とヤグニエ以外全ての人間がこの場から姿を消した。
ルシエルは何事もなかったかのようにヤグニエの方を向く。
「彼に入れた種のような物とは?」
ヤグニエは息を吐き、口を開いた。
「妙薬だ。互いに意思をもってまぐわれば、七日のうちに男であろうと子を宿せる」
「七日…」
ヤグニエとルシエルで合わせて七日。ミカエルはそのような意思を持って行為を行なった。
「無効にする方法は?」
「途中で手を加えることは勧めない。すっかり無かったことにできた例は伝わっていないんだ。……七日間まぐわらなかったらどうなるかすら、わからない」
ミカエルはぼんやり佇む。どうやらこれは、防ぎようがないらしい。
「余をどうするつもりだ」
唐突に、首根っこを捕まれたままの皇帝が。
この状況で堂々としていられるのは、さすが皇帝といったところか。
誰かの溢した声に、絶対零度の美声が答える。
「この場は俺が制した。おまえの国で彼に手を出したのは、これで全員?」
「……兵士はそうだ」
皇帝の身の危険を感じたのだろう。隊長が強張った声で言った。
「他には?」
「商人どもがいる」
次に答えたのは皇帝だった。
「全員連れてこい」
皇帝の視線を受け、隊長が消えた。
「薄汚い手で彼に触れるな」
ミカエルを押さえつけていた男たちがビクリと震え、離れて行った。
感情の読めない紅の瞳がミカエルを捉える。
「君の身体は健やかな状態に戻った。服も着ている。立ってごらん」
「あ…?」
瞬きをして床に手をつき、身体を起こす。どこも痛くない。それにああ、服を着ている。
ミカエルはゆらりと立ち上がり、ルシエルのもとへ歩み寄った。
――長い黒髪が懐かしい。
誰もが畏怖を抱いてルシエルを見ていた。
たしかに、黒い服に身を包んだ彼は異質な色味や美貌も相まって、同じ人間には思えない。その上、この場にいる誰より強いのだ。さぞや脅威を感じることだろう。
けれどミカエルは、こんな所まで彼が来てくれたことに温かな思いが湧き上がり、気を抜くと涙が零れそうだった。
「彼らの記憶を失くすことができるとして、君は望む?」
おもむろに問われ、ミカエルは目を瞬いた。
それはつまり、現実には無かったことにできる、ということだろうか。
「……おう」
「わかった」
体験はなくならない。それでも、無かったことにできるなら、その方がいい。――あの日々のミカエルを、誰も知らないことにできるなら。
「おい、連れてきたぞ」
どれほど経ったか、隊長がいつぞやの金持ち貴族らと共に現れた。彼らは寝ている所を叩き起こされ、そのまま連れて来られたのだろう。皆、寝間着で恐れ戦いている。
「これで全部か」
「あの、眼帯の…、あの商人はすでに国外で、すぐには捕まらないかと…」
貴族の一人が震えながら答えると、ルシエルはかすかに首を傾げる。
「ヤグニエはどれだ」
「……今からお連れする」
少しして、隊長がヤグニエと現れた。
ヤグニエは混乱しているような顔でミカエルを捉え、次いで皇帝の姿を捉えると、ヒクリと頬を動かした。
「……そうか、あの香に、」
「おまえがヤグニエか」
「……ああ」
紅の瞳がその場にいる男たちを凍てつく眼差しで見渡す。
「ヒッ」
「貴様らに命じる。彼に関わる記憶を抹消しろ。そうして二度と近づくな。近づけば命はない。……去れ」
「まっ、陛下ッ、陛下はッ」
隊長の困惑した声を残して、皇帝とヤグニエ以外全ての人間がこの場から姿を消した。
ルシエルは何事もなかったかのようにヤグニエの方を向く。
「彼に入れた種のような物とは?」
ヤグニエは息を吐き、口を開いた。
「妙薬だ。互いに意思をもってまぐわれば、七日のうちに男であろうと子を宿せる」
「七日…」
ヤグニエとルシエルで合わせて七日。ミカエルはそのような意思を持って行為を行なった。
「無効にする方法は?」
「途中で手を加えることは勧めない。すっかり無かったことにできた例は伝わっていないんだ。……七日間まぐわらなかったらどうなるかすら、わからない」
ミカエルはぼんやり佇む。どうやらこれは、防ぎようがないらしい。
「余をどうするつもりだ」
唐突に、首根っこを捕まれたままの皇帝が。
この状況で堂々としていられるのは、さすが皇帝といったところか。
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