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3章.Graduale
飲んだくれ
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ミカエルは踏みしめられた土の道を黙々とゆく。遠くに街を囲む壁が見えていた。バラキエルが今どこにいるかなどわからない。しかし、じっとしていられる気分ではなかった。
街に着いたのは黄昏時だった。
行き交う人々の顔は曖昧だ。ミカエルはハッと振り返る。そこにルシエルがいて、ホッとした。
「わりぃ。ちょっと休むか。……もう晩飯か」
「浮いてきたから平気だ。あの酒場に入ろう」
「浮いて、」
「風で」
まったく気づかなかったミカエルである。
ルシエルが示した酒屋は立ち飲み式で、賑わっている。奥に空いている丸テーブルを見つけた二人は人を掻き分けて進んだ。
「これを一つ」
「俺も」
ミカエルは酒を頼んだルシエルに続けて言う。ルシエルが片眉を上げたときには、ウエイターは去っていた。
「君、飲めないんだろう」
「すぐ酔うけど、飲めねえわけじゃねえ」
「へえ」
「……いいだろ。飲みてえ気分なんだよ」
注文した酒はすぐにやってきた。グラスに注がれている液体の色は鮮やかな赤だ。酒の匂いに、爽やかな果実の香りが混じっている。
ルシエルが悪戯にグラスを持った。
「それじゃ、乾杯」
「乾杯」
こんなふうに二人で酒を飲むのは初めてだ。しかしミカエルは感慨に浸る間もなく、赤い液体をぐいと煽った。そう、いまは飲みたい気分なのである。
グラスをテーブルに叩きつけるように置くと、顔も一緒に下を向く。グラスの中身は三分の一ほど減っていた。
視界が滲んで、テーブルにポタリと水滴が落ちる。
「……ミカ?」
顔を上げると、ルシエルが目を丸くした。ミカエルは溢れる思いのままに口を開く。
「おっ、俺はっ、まえみてぇにっ暮らしたいのに…っ」
「……君、酔ってる…?」
「なんでダメなんだよ…!」
かなしくてくるしくて涙がでる。
気づいたら、呆れたような顔のルシエルが隣にいて、頭を撫でられた。彼の肩に額を押しつける。
「ぅっ、ししょっ、どこにいる…だよっ」
「それはわからないけれど、君を思っているはずだ」
「ならっ、きてっくれてもっいいだろっ」
「そうだね」
「ししょーはっ、俺に会いたくねえんだ…っ。おれっ、俺はっずっと会いたくてっ」
こんなに会いたいと思うのに、師匠からもらった言葉は拒絶するようなものだった。
「おれのっじんせっ、ししょぉもいたららめかよっ」
身体中が熱くて喉が渇く。持ったままのグラスの中身をもっと飲もうとしたのに、手ごと抑えられて無理だった。うまく力が入らず、グラスを持つ手を押し上げようとしても上がらない。
ミカエルはルシエルの肩口に額をぐりぐり押しつけた。
「のーむー」
「馬鹿、いいかげんにしろ。お前、笑い上戸じゃねかったのかよ」
「こんなきぶんでっ、わらえるわけねー、だ ろ…」
――あれ? この声は――。
ミカエルは顔を上げ、ゆるりと振り返る。
「ガキみてえにダダ捏ねんじゃねえよ。お前はもう十七だろ」
そこにいたのは、ゆめにまで見た師匠の姿。厳つい顔が眉根を寄せて、さらに凶暴になっている。それでも鳶色の瞳は温かにミカエルを映すのだ。
「っししょお!」
ミカエルの顔がパッと輝く。
「ったく、しょうがねえ奴だな」
よろりと倒れながら抱き着いたミカエルを危なげなく受け止めるガッシリした身体。馴染み深いエネルギァ、温かな、大きな手。
「ししょっ、ししょおっ」
「三歳児にしっちゃあデカすぎだな」
バラキエルは引っつき虫の金髪頭をわしゃわしゃ撫でてルシエルに目をやった。
「迷惑かけたな。ルシ…なんて呼べばいいんだ? ルシエルでいいのか」
「……お好きに」
「ならルシエル、場所を移す。追って来てくれ」
テーブルにお代を置いて、バラキエルはミカエルと消えた。すかさずウエイターが回収していく。ルシエルは肩をすくめてミカエルの波長を追った。
そうして出没した場所は、宿の一室のようだった。
窓際に見知った顔――ラムエルとジケルがいる。ここは二人が泊まっている部屋なのだろう。ミカエルはバラキエルの上着を掴んだまま、ベッドに寝かされていた。
すやすやと健やかに眠っている。その頬に涙の跡があり、バラキエルが無骨な手で拭った。
ラムエルが美少年の眠り顔を覗きこむ。
「別人のようですね」
「さっきは起きてたが、それでも別人みてえだったぜ」
「この年齢でヤケ酒なんて可哀想に」
視線を受けたバラキエルは太い首に手をやり、微妙な顔をした。
彼らを観察していたルシエルが口を開く。
「前に会った村のような場所に目を光らせているのは、王の命令?」
「……ああ」
ラムエルは目を瞬いて答えた。ルシエルは睫毛を伏せる。
人心の乱れがデビルを生みだす――人々がそう思っているのなら、王が行う戦にも批判的になるかもしれない。いまはミカエルを購いの供えものにすることに目が向いているが、王の行いに目を向けられたら厄介だ。そういう意味でも、ミカエルは生贄なのかもしれなかった。
街に着いたのは黄昏時だった。
行き交う人々の顔は曖昧だ。ミカエルはハッと振り返る。そこにルシエルがいて、ホッとした。
「わりぃ。ちょっと休むか。……もう晩飯か」
「浮いてきたから平気だ。あの酒場に入ろう」
「浮いて、」
「風で」
まったく気づかなかったミカエルである。
ルシエルが示した酒屋は立ち飲み式で、賑わっている。奥に空いている丸テーブルを見つけた二人は人を掻き分けて進んだ。
「これを一つ」
「俺も」
ミカエルは酒を頼んだルシエルに続けて言う。ルシエルが片眉を上げたときには、ウエイターは去っていた。
「君、飲めないんだろう」
「すぐ酔うけど、飲めねえわけじゃねえ」
「へえ」
「……いいだろ。飲みてえ気分なんだよ」
注文した酒はすぐにやってきた。グラスに注がれている液体の色は鮮やかな赤だ。酒の匂いに、爽やかな果実の香りが混じっている。
ルシエルが悪戯にグラスを持った。
「それじゃ、乾杯」
「乾杯」
こんなふうに二人で酒を飲むのは初めてだ。しかしミカエルは感慨に浸る間もなく、赤い液体をぐいと煽った。そう、いまは飲みたい気分なのである。
グラスをテーブルに叩きつけるように置くと、顔も一緒に下を向く。グラスの中身は三分の一ほど減っていた。
視界が滲んで、テーブルにポタリと水滴が落ちる。
「……ミカ?」
顔を上げると、ルシエルが目を丸くした。ミカエルは溢れる思いのままに口を開く。
「おっ、俺はっ、まえみてぇにっ暮らしたいのに…っ」
「……君、酔ってる…?」
「なんでダメなんだよ…!」
かなしくてくるしくて涙がでる。
気づいたら、呆れたような顔のルシエルが隣にいて、頭を撫でられた。彼の肩に額を押しつける。
「ぅっ、ししょっ、どこにいる…だよっ」
「それはわからないけれど、君を思っているはずだ」
「ならっ、きてっくれてもっいいだろっ」
「そうだね」
「ししょーはっ、俺に会いたくねえんだ…っ。おれっ、俺はっずっと会いたくてっ」
こんなに会いたいと思うのに、師匠からもらった言葉は拒絶するようなものだった。
「おれのっじんせっ、ししょぉもいたららめかよっ」
身体中が熱くて喉が渇く。持ったままのグラスの中身をもっと飲もうとしたのに、手ごと抑えられて無理だった。うまく力が入らず、グラスを持つ手を押し上げようとしても上がらない。
ミカエルはルシエルの肩口に額をぐりぐり押しつけた。
「のーむー」
「馬鹿、いいかげんにしろ。お前、笑い上戸じゃねかったのかよ」
「こんなきぶんでっ、わらえるわけねー、だ ろ…」
――あれ? この声は――。
ミカエルは顔を上げ、ゆるりと振り返る。
「ガキみてえにダダ捏ねんじゃねえよ。お前はもう十七だろ」
そこにいたのは、ゆめにまで見た師匠の姿。厳つい顔が眉根を寄せて、さらに凶暴になっている。それでも鳶色の瞳は温かにミカエルを映すのだ。
「っししょお!」
ミカエルの顔がパッと輝く。
「ったく、しょうがねえ奴だな」
よろりと倒れながら抱き着いたミカエルを危なげなく受け止めるガッシリした身体。馴染み深いエネルギァ、温かな、大きな手。
「ししょっ、ししょおっ」
「三歳児にしっちゃあデカすぎだな」
バラキエルは引っつき虫の金髪頭をわしゃわしゃ撫でてルシエルに目をやった。
「迷惑かけたな。ルシ…なんて呼べばいいんだ? ルシエルでいいのか」
「……お好きに」
「ならルシエル、場所を移す。追って来てくれ」
テーブルにお代を置いて、バラキエルはミカエルと消えた。すかさずウエイターが回収していく。ルシエルは肩をすくめてミカエルの波長を追った。
そうして出没した場所は、宿の一室のようだった。
窓際に見知った顔――ラムエルとジケルがいる。ここは二人が泊まっている部屋なのだろう。ミカエルはバラキエルの上着を掴んだまま、ベッドに寝かされていた。
すやすやと健やかに眠っている。その頬に涙の跡があり、バラキエルが無骨な手で拭った。
ラムエルが美少年の眠り顔を覗きこむ。
「別人のようですね」
「さっきは起きてたが、それでも別人みてえだったぜ」
「この年齢でヤケ酒なんて可哀想に」
視線を受けたバラキエルは太い首に手をやり、微妙な顔をした。
彼らを観察していたルシエルが口を開く。
「前に会った村のような場所に目を光らせているのは、王の命令?」
「……ああ」
ラムエルは目を瞬いて答えた。ルシエルは睫毛を伏せる。
人心の乱れがデビルを生みだす――人々がそう思っているのなら、王が行う戦にも批判的になるかもしれない。いまはミカエルを購いの供えものにすることに目が向いているが、王の行いに目を向けられたら厄介だ。そういう意味でも、ミカエルは生贄なのかもしれなかった。
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