36 / 174
3章.Graduale
そこに坐する者
しおりを挟む
†††
高い塔の最上階。空に一番近い場所。
セラフィエルが木製の扉に手を翳すと、閂が両側に退き、ロックが解除された。
重い扉を引いて、中へと足を踏み入れる。
部屋の真ん中、円形に煌く陣の上。柔らかなクッションが敷かれたマホガニーの椅子に彼はいた。
椅子が随分大きく見える。そこへ鎮座する彼の見た目は、七つほどの子どもだ。彼の大きな瞳は海のように深い青で、スッキリと整えられた傷み知らずの菜の花色の髪には、天使の輪っかが浮かんでいるようだった。
「ヨエル様。バラキエル殿は今、どちらに?」
問えば、彼の目の前で開かれた大きな緑色の本がパラパラと勝手に捲られ、とあるページで動きを止める。
「ブランリス王国、シュティーレ」
高い声が淡々と紡いだ。しかし、そこに意思は感じられない。
代々、書記官を務める者はこうらしい。
あの緑の本には信徒の名前が全て記録されているという。書記官はそこに書かれた名前から、容姿や居所まで分かる。――まるでその本の言葉を代弁するためだけにいるような存在だ。
セラフィエルが一礼して顔を上げた時、かち合った青い瞳と、確かに視線が交わったと感じた。けれども彼は何も言葉を発しない。まるで人形であるかのように、これまで通りを装う。
セラフィエルは何も気づかない振りをして、部屋から退室した。
「ブランリスのシュティーレだ」
「はっ」
扉の外で待っていた衛兵に伝える。彼が去ると、セラフィエルは閉ざされた木製の扉をゆっくりと振り返った。
ヨエルに意識があると感じることが度々ある。それは由々しき事態で、本来であれば、教皇へ報告しなくてはならないことだった。
けれどセラフィエルは黙したままでいる。
かつてその任を与えられていたのは、ミカエルだった。
ミカエルは命令に忠実で、そのような異変に気付いたときは、すぐさま報告したという。なんのために報告させるのか。何故、彼が意識を保っていてはいけないのか。彼は知っていただろうか。知ろうとしたことは、考えたことはあっただろうか。
セラフィエルはため息を吐き、身を翻す。
『彼をどうか独りにしないでくれ』
同じ思いを抱いていたのに、セラフィエルはクーデターに参加しなかった。生きていなければならない理由があったし、友がそう言ってくれたからだ。
――いや違う。
セラフィエルが少しも曇りない心でそれに命を捧げることは出来ないと、彼の友人は知っていたから。だからそんな言葉を掛けてくれたのだ。
友よ…――。
気付けば、紫の間の近くまで来ていた。教皇は先ほど謁見の間へ向かった。今、ガブリエルはそこに一人でいるだろう。
「変わりないか」
「はっ。異常ありません」
新しい教皇になり、警護を任される者も替わった。
彼の名はたしか、ハスディエル。新しく教皇の側近に加わった者の一人で、ここで見るには珍しい、誠実そうな眼差しをしている。
その目が、何か言いたそうだったので。
「なんだ」
問えば、僅かにたじろぐ。しかし、意を決したように口を開いた。
「猊下は度々こちらにおいでになりますが、ガブリエル様の事をよく存じていらっしゃるのでしょうか」
「彼に興味があるか」
ここを任されているくらいだ。きっと彼のあられもない姿を目撃した事くらい、あるだろう。
冷ややかに彼を見下ろすセラフィエル。それがハスディエルときたら、その眼差しの意味すら理解していないような真摯な面持ちで続ける。
「ご無礼をお許しください。私はあの方がお辛い目に遭われるのを、ただ見ているばかりではいられないのです」
理由があるなら教えてほしい。それで納得できたなら、これ以上深く彼に関わろうとはしないから。そう訴える目だった。
セラフィエルはちょっとだけ己を恥じた。まさかこのように清廉な者がこの場にいようとは思うまい。
「それを失わずに、よくここまで来られたものだ」
思わず呟けば、彼は不思議そうに目を瞬いた。
「ハスディエルといったか」
「はい」
在りし日の、友の姿を思い出す。
「世の中には、知らない方がいい事もあるのだよ」
「ですが、」
「どうしても知りたいのなら、本人から聞き出すがいい」
真っ直ぐにハスディエルを捉える。
「……はい」
ハスディエルは、少し笑ったようだった。――その瞳に強い決意を灯して。
きっと、知ってしまったら動かずにはいられないだろう。しかし、彼に何ができる。仮に現教皇を手に掛けたところで意味がない。
そもそも、そのように大それたことが彼にできるだろうか。ここに巣食う闇を知り、その鎖を断ち切る覚悟は。
誰もいない廊下を行きながら、セラフィエルは一人、自嘲の笑みを浮かべた。
高い塔の最上階。空に一番近い場所。
セラフィエルが木製の扉に手を翳すと、閂が両側に退き、ロックが解除された。
重い扉を引いて、中へと足を踏み入れる。
部屋の真ん中、円形に煌く陣の上。柔らかなクッションが敷かれたマホガニーの椅子に彼はいた。
椅子が随分大きく見える。そこへ鎮座する彼の見た目は、七つほどの子どもだ。彼の大きな瞳は海のように深い青で、スッキリと整えられた傷み知らずの菜の花色の髪には、天使の輪っかが浮かんでいるようだった。
「ヨエル様。バラキエル殿は今、どちらに?」
問えば、彼の目の前で開かれた大きな緑色の本がパラパラと勝手に捲られ、とあるページで動きを止める。
「ブランリス王国、シュティーレ」
高い声が淡々と紡いだ。しかし、そこに意思は感じられない。
代々、書記官を務める者はこうらしい。
あの緑の本には信徒の名前が全て記録されているという。書記官はそこに書かれた名前から、容姿や居所まで分かる。――まるでその本の言葉を代弁するためだけにいるような存在だ。
セラフィエルが一礼して顔を上げた時、かち合った青い瞳と、確かに視線が交わったと感じた。けれども彼は何も言葉を発しない。まるで人形であるかのように、これまで通りを装う。
セラフィエルは何も気づかない振りをして、部屋から退室した。
「ブランリスのシュティーレだ」
「はっ」
扉の外で待っていた衛兵に伝える。彼が去ると、セラフィエルは閉ざされた木製の扉をゆっくりと振り返った。
ヨエルに意識があると感じることが度々ある。それは由々しき事態で、本来であれば、教皇へ報告しなくてはならないことだった。
けれどセラフィエルは黙したままでいる。
かつてその任を与えられていたのは、ミカエルだった。
ミカエルは命令に忠実で、そのような異変に気付いたときは、すぐさま報告したという。なんのために報告させるのか。何故、彼が意識を保っていてはいけないのか。彼は知っていただろうか。知ろうとしたことは、考えたことはあっただろうか。
セラフィエルはため息を吐き、身を翻す。
『彼をどうか独りにしないでくれ』
同じ思いを抱いていたのに、セラフィエルはクーデターに参加しなかった。生きていなければならない理由があったし、友がそう言ってくれたからだ。
――いや違う。
セラフィエルが少しも曇りない心でそれに命を捧げることは出来ないと、彼の友人は知っていたから。だからそんな言葉を掛けてくれたのだ。
友よ…――。
気付けば、紫の間の近くまで来ていた。教皇は先ほど謁見の間へ向かった。今、ガブリエルはそこに一人でいるだろう。
「変わりないか」
「はっ。異常ありません」
新しい教皇になり、警護を任される者も替わった。
彼の名はたしか、ハスディエル。新しく教皇の側近に加わった者の一人で、ここで見るには珍しい、誠実そうな眼差しをしている。
その目が、何か言いたそうだったので。
「なんだ」
問えば、僅かにたじろぐ。しかし、意を決したように口を開いた。
「猊下は度々こちらにおいでになりますが、ガブリエル様の事をよく存じていらっしゃるのでしょうか」
「彼に興味があるか」
ここを任されているくらいだ。きっと彼のあられもない姿を目撃した事くらい、あるだろう。
冷ややかに彼を見下ろすセラフィエル。それがハスディエルときたら、その眼差しの意味すら理解していないような真摯な面持ちで続ける。
「ご無礼をお許しください。私はあの方がお辛い目に遭われるのを、ただ見ているばかりではいられないのです」
理由があるなら教えてほしい。それで納得できたなら、これ以上深く彼に関わろうとはしないから。そう訴える目だった。
セラフィエルはちょっとだけ己を恥じた。まさかこのように清廉な者がこの場にいようとは思うまい。
「それを失わずに、よくここまで来られたものだ」
思わず呟けば、彼は不思議そうに目を瞬いた。
「ハスディエルといったか」
「はい」
在りし日の、友の姿を思い出す。
「世の中には、知らない方がいい事もあるのだよ」
「ですが、」
「どうしても知りたいのなら、本人から聞き出すがいい」
真っ直ぐにハスディエルを捉える。
「……はい」
ハスディエルは、少し笑ったようだった。――その瞳に強い決意を灯して。
きっと、知ってしまったら動かずにはいられないだろう。しかし、彼に何ができる。仮に現教皇を手に掛けたところで意味がない。
そもそも、そのように大それたことが彼にできるだろうか。ここに巣食う闇を知り、その鎖を断ち切る覚悟は。
誰もいない廊下を行きながら、セラフィエルは一人、自嘲の笑みを浮かべた。
0
お気に入りに追加
18
あなたにおすすめの小説
大嫌いだったアイツの子なんか絶対に身籠りません!
みづき
BL
国王の妾の子として、宮廷の片隅で母親とひっそりと暮らしていたユズハ。宮廷ではオメガの子だからと『下層の子』と蔑まれ、次期国王の子であるアサギからはしょっちゅういたずらをされていて、ユズハは大嫌いだった。
そんなある日、国王交代のタイミングで宮廷を追い出されたユズハ。娼館のスタッフとして働いていたが、十八歳になり、男娼となる。
初めての夜、客として現れたのは、幼い頃大嫌いだったアサギ、しかも「俺の子を孕め」なんて言ってきて――絶対に嫌! と思うユズハだが……
架空の近未来世界を舞台にした、再会から始まるオメガバースです。
悪役令息の七日間
リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。
気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】
転生先のぽっちゃり王子はただいま謹慎中につき各位ご配慮ねがいます!
梅村香子
BL
バカ王子の名をほしいままにしていたロベルティア王国のぽっちゃり王子テオドール。
あまりのわがままぶりに父王にとうとう激怒され、城の裏手にある館で謹慎していたある日。
突然、全く違う世界の日本人の記憶が自身の中に現れてしまった。
何が何だか分からないけど、どうやらそれは前世の自分の記憶のようで……?
人格も二人分が混ざり合い、不思議な現象に戸惑うも、一つだけ確かなことがある。
僕って最低最悪な王子じゃん!?
このままだと、破滅的未来しか残ってないし!
心を入れ替えてダイエットに勉強にと忙しい王子に、何やらきな臭い陰謀の影が見えはじめ――!?
これはもう、謹慎前にののしりまくって拒絶した専属護衛騎士に守ってもらうしかないじゃない!?
前世の記憶がよみがえった横暴王子の危機一髪な人生やりなおしストーリー!
騎士×王子の王道カップリングでお送りします。
第9回BL小説大賞の奨励賞をいただきました。
本当にありがとうございます!!
※本作に20歳未満の飲酒シーンが含まれます。作中の世界では飲酒可能年齢であるという設定で描写しております。実際の20歳未満による飲酒を推奨・容認する意図は全くありません。
幽閉王子は最強皇子に包まれる
皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。
表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。

もう人気者とは付き合っていられません
花果唯
BL
僕の恋人は頭も良くて、顔も良くておまけに優しい。
モテるのは当然だ。でも――。
『たまには二人だけで過ごしたい』
そう願うのは、贅沢なのだろうか。
いや、そんな人を好きになった僕の方が間違っていたのだ。
「好きなのは君だ」なんて言葉に縋って耐えてきたけど、それが間違いだったってことに、ようやく気がついた。さようなら。
ちょうど生徒会の補佐をしないかと誘われたし、そっちの方に専念します。
生徒会長が格好いいから見ていて癒やされるし、一石二鳥です。
※ライトBL学園モノ ※2024再公開・改稿中

モブらしいので目立たないよう逃げ続けます
餅粉
BL
ある日目覚めると見慣れた天井に違和感を覚えた。そしてどうやら僕ばモブという存存在らしい。多分僕には前世の記憶らしきものがあると思う。
まぁ、モブはモブらしく目立たないようにしよう。
モブというものはあまりわからないがでも目立っていい存在ではないということだけはわかる。そう、目立たぬよう……目立たぬよう………。
「アルウィン、君が好きだ」
「え、お断りします」
「……王子命令だ、私と付き合えアルウィン」
目立たぬように過ごすつもりが何故か第二王子に執着されています。
ざまぁ要素あるかも………しれませんね

新しい道を歩み始めた貴方へ
mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。
そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。
その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。
あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。
あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?
※沢山のお気に入り登録ありがとうございます。深く感謝申し上げます。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる