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3章.Graduale
そこに坐する者
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†††
高い塔の最上階。空に一番近い場所。
セラフィエルが木製の扉に手を翳すと、閂が両側に退き、ロックが解除された。
重い扉を引いて、中へと足を踏み入れる。
部屋の真ん中、円形に煌く陣の上。柔らかなクッションが敷かれたマホガニーの椅子に彼はいた。
椅子が随分大きく見える。そこへ鎮座する彼の見た目は、七つほどの子どもだ。彼の大きな瞳は海のように深い青で、スッキリと整えられた傷み知らずの菜の花色の髪には、天使の輪っかが浮かんでいるようだった。
「ヨエル様。バラキエル殿は今、どちらに?」
問えば、彼の目の前で開かれた大きな緑色の本がパラパラと勝手に捲られ、とあるページで動きを止める。
「ブランリス王国、シュティーレ」
高い声が淡々と紡いだ。しかし、そこに意思は感じられない。
代々、書記官を務める者はこうらしい。
あの緑の本には信徒の名前が全て記録されているという。書記官はそこに書かれた名前から、容姿や居所まで分かる。――まるでその本の言葉を代弁するためだけにいるような存在だ。
セラフィエルが一礼して顔を上げた時、かち合った青い瞳と、確かに視線が交わったと感じた。けれども彼は何も言葉を発しない。まるで人形であるかのように、これまで通りを装う。
セラフィエルは何も気づかない振りをして、部屋から退室した。
「ブランリスのシュティーレだ」
「はっ」
扉の外で待っていた衛兵に伝える。彼が去ると、セラフィエルは閉ざされた木製の扉をゆっくりと振り返った。
ヨエルに意識があると感じることが度々ある。それは由々しき事態で、本来であれば、教皇へ報告しなくてはならないことだった。
けれどセラフィエルは黙したままでいる。
かつてその任を与えられていたのは、ミカエルだった。
ミカエルは命令に忠実で、そのような異変に気付いたときは、すぐさま報告したという。なんのために報告させるのか。何故、彼が意識を保っていてはいけないのか。彼は知っていただろうか。知ろうとしたことは、考えたことはあっただろうか。
セラフィエルはため息を吐き、身を翻す。
『彼をどうか独りにしないでくれ』
同じ思いを抱いていたのに、セラフィエルはクーデターに参加しなかった。生きていなければならない理由があったし、友がそう言ってくれたからだ。
――いや違う。
セラフィエルが少しも曇りない心でそれに命を捧げることは出来ないと、彼の友人は知っていたから。だからそんな言葉を掛けてくれたのだ。
友よ…――。
気付けば、紫の間の近くまで来ていた。教皇は先ほど謁見の間へ向かった。今、ガブリエルはそこに一人でいるだろう。
「変わりないか」
「はっ。異常ありません」
新しい教皇になり、警護を任される者も替わった。
彼の名はたしか、ハスディエル。新しく教皇の側近に加わった者の一人で、ここで見るには珍しい、誠実そうな眼差しをしている。
その目が、何か言いたそうだったので。
「なんだ」
問えば、僅かにたじろぐ。しかし、意を決したように口を開いた。
「猊下は度々こちらにおいでになりますが、ガブリエル様の事をよく存じていらっしゃるのでしょうか」
「彼に興味があるか」
ここを任されているくらいだ。きっと彼のあられもない姿を目撃した事くらい、あるだろう。
冷ややかに彼を見下ろすセラフィエル。それがハスディエルときたら、その眼差しの意味すら理解していないような真摯な面持ちで続ける。
「ご無礼をお許しください。私はあの方がお辛い目に遭われるのを、ただ見ているばかりではいられないのです」
理由があるなら教えてほしい。それで納得できたなら、これ以上深く彼に関わろうとはしないから。そう訴える目だった。
セラフィエルはちょっとだけ己を恥じた。まさかこのように清廉な者がこの場にいようとは思うまい。
「それを失わずに、よくここまで来られたものだ」
思わず呟けば、彼は不思議そうに目を瞬いた。
「ハスディエルといったか」
「はい」
在りし日の、友の姿を思い出す。
「世の中には、知らない方がいい事もあるのだよ」
「ですが、」
「どうしても知りたいのなら、本人から聞き出すがいい」
真っ直ぐにハスディエルを捉える。
「……はい」
ハスディエルは、少し笑ったようだった。――その瞳に強い決意を灯して。
きっと、知ってしまったら動かずにはいられないだろう。しかし、彼に何ができる。仮に現教皇を手に掛けたところで意味がない。
そもそも、そのように大それたことが彼にできるだろうか。ここに巣食う闇を知り、その鎖を断ち切る覚悟は。
誰もいない廊下を行きながら、セラフィエルは一人、自嘲の笑みを浮かべた。
高い塔の最上階。空に一番近い場所。
セラフィエルが木製の扉に手を翳すと、閂が両側に退き、ロックが解除された。
重い扉を引いて、中へと足を踏み入れる。
部屋の真ん中、円形に煌く陣の上。柔らかなクッションが敷かれたマホガニーの椅子に彼はいた。
椅子が随分大きく見える。そこへ鎮座する彼の見た目は、七つほどの子どもだ。彼の大きな瞳は海のように深い青で、スッキリと整えられた傷み知らずの菜の花色の髪には、天使の輪っかが浮かんでいるようだった。
「ヨエル様。バラキエル殿は今、どちらに?」
問えば、彼の目の前で開かれた大きな緑色の本がパラパラと勝手に捲られ、とあるページで動きを止める。
「ブランリス王国、シュティーレ」
高い声が淡々と紡いだ。しかし、そこに意思は感じられない。
代々、書記官を務める者はこうらしい。
あの緑の本には信徒の名前が全て記録されているという。書記官はそこに書かれた名前から、容姿や居所まで分かる。――まるでその本の言葉を代弁するためだけにいるような存在だ。
セラフィエルが一礼して顔を上げた時、かち合った青い瞳と、確かに視線が交わったと感じた。けれども彼は何も言葉を発しない。まるで人形であるかのように、これまで通りを装う。
セラフィエルは何も気づかない振りをして、部屋から退室した。
「ブランリスのシュティーレだ」
「はっ」
扉の外で待っていた衛兵に伝える。彼が去ると、セラフィエルは閉ざされた木製の扉をゆっくりと振り返った。
ヨエルに意識があると感じることが度々ある。それは由々しき事態で、本来であれば、教皇へ報告しなくてはならないことだった。
けれどセラフィエルは黙したままでいる。
かつてその任を与えられていたのは、ミカエルだった。
ミカエルは命令に忠実で、そのような異変に気付いたときは、すぐさま報告したという。なんのために報告させるのか。何故、彼が意識を保っていてはいけないのか。彼は知っていただろうか。知ろうとしたことは、考えたことはあっただろうか。
セラフィエルはため息を吐き、身を翻す。
『彼をどうか独りにしないでくれ』
同じ思いを抱いていたのに、セラフィエルはクーデターに参加しなかった。生きていなければならない理由があったし、友がそう言ってくれたからだ。
――いや違う。
セラフィエルが少しも曇りない心でそれに命を捧げることは出来ないと、彼の友人は知っていたから。だからそんな言葉を掛けてくれたのだ。
友よ…――。
気付けば、紫の間の近くまで来ていた。教皇は先ほど謁見の間へ向かった。今、ガブリエルはそこに一人でいるだろう。
「変わりないか」
「はっ。異常ありません」
新しい教皇になり、警護を任される者も替わった。
彼の名はたしか、ハスディエル。新しく教皇の側近に加わった者の一人で、ここで見るには珍しい、誠実そうな眼差しをしている。
その目が、何か言いたそうだったので。
「なんだ」
問えば、僅かにたじろぐ。しかし、意を決したように口を開いた。
「猊下は度々こちらにおいでになりますが、ガブリエル様の事をよく存じていらっしゃるのでしょうか」
「彼に興味があるか」
ここを任されているくらいだ。きっと彼のあられもない姿を目撃した事くらい、あるだろう。
冷ややかに彼を見下ろすセラフィエル。それがハスディエルときたら、その眼差しの意味すら理解していないような真摯な面持ちで続ける。
「ご無礼をお許しください。私はあの方がお辛い目に遭われるのを、ただ見ているばかりではいられないのです」
理由があるなら教えてほしい。それで納得できたなら、これ以上深く彼に関わろうとはしないから。そう訴える目だった。
セラフィエルはちょっとだけ己を恥じた。まさかこのように清廉な者がこの場にいようとは思うまい。
「それを失わずに、よくここまで来られたものだ」
思わず呟けば、彼は不思議そうに目を瞬いた。
「ハスディエルといったか」
「はい」
在りし日の、友の姿を思い出す。
「世の中には、知らない方がいい事もあるのだよ」
「ですが、」
「どうしても知りたいのなら、本人から聞き出すがいい」
真っ直ぐにハスディエルを捉える。
「……はい」
ハスディエルは、少し笑ったようだった。――その瞳に強い決意を灯して。
きっと、知ってしまったら動かずにはいられないだろう。しかし、彼に何ができる。仮に現教皇を手に掛けたところで意味がない。
そもそも、そのように大それたことが彼にできるだろうか。ここに巣食う闇を知り、その鎖を断ち切る覚悟は。
誰もいない廊下を行きながら、セラフィエルは一人、自嘲の笑みを浮かべた。
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