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2章.Kyrie
曖昧
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これで窮屈な制服ともおさらばだ。服を脱いで思い出す、根元の戒め。
ミカエルは舌打ちして手を伸ばす。
留め具を外せば簡単に外れる仕様になっており、拍子抜けした。記憶を失くした自分がなるべく触れないようにしていたことを思うと、眉根が寄る。
サッパリしてリビングに戻れば、ルシ何某がソファで寛いでいた。
「コップ、使わせてもらってる」
「おう」
「君は家でも髪をきちんと乾かさないんだね」
力で風を起こそうとしたら、「おいで」と言われた。思えば、バラキエルにもよく拭いてもらった気がする。
ルシ何某の隣に腰を下ろして背中を向けると、頭にタオルが被さった。
「今日までの脱出劇、どこまで予想していた?」
「どうにかなると思ってたけど、どうなるかなんて、わかるわけねえだろ」
「すべての記憶を失ってもどうにかなるなんて、俺なら到底思えない」
「……本当にそうなるなんて、思ってねかったんだ。ちょっとくらい記憶失くしても、俺は俺だと思ってたんだよ」
ミカエルはブスッと答え、目を瞑る。
「ホントは、自力でなんとかするのをおまえに見せたかったんだけどな」
「なんで?」
「そしたらおまえの考えが変わるかもしれねえだろ。おまえは、あんな所で大人しくしてる玉じゃねえと思ったんだ」
一瞬、タオル越しの指の圧迫が強まった。
「それなら、君の目論み通りになったわけだ」
「結果オーライだな。賭けに負けたらどうなるかなんて、俺は考えねえことにしてたから」
タオル越しに聞こえたため息。
「よく回る頭を持っているのに自分でネジを外してしまうのだから、周りは堪らない」
いつも以上に、タオルでもにょもにょされているように感じるのは気のせいだろうか。
「褒めてんのか? まぁよ、おまえらがいてくれてよかったぜ。何も覚えてねえ自分で別れちまって、サリエルには言いたい放題言われたままだ」
「俺も山ほど言いたいことがあったけど? 記憶がない君は、本当に腹立たしかったな」
「わるかったって。自分で思い出しても胸くそ悪ぃ。っつか、おまえもグサグサ俺に言っただろ。あの目。覚えてっぞ」
ミカエルはますます眉根を寄せる。返ってきた声の調子は実に軽かった。
「ああ、ついうっかり。ごめんね、傷ついた?」
「あのときはな」
「君を傷つけるつもりはなかったんだけど。どうにも同じ人とは思えなくてね」
「わかるけどよ。俺も変な感じだ。自分のなかに違ぇやつがいるみてえな…」
そういえば、ルシ何某もルシエルと呼ばれていた頃のことを思い出したと言っていた。
同じような感覚を抱いただろうか。
「おまえは、ルシエルって呼ばれてた頃はどんなだったんだ?」
タオル越しの手が止まる。
「……おそろしいほどピュアでね。大人や教会は正しいと思ってた。それでのこのこ着いて行ったら、このありさま」
「孤児院にいたんだよな」
「そう。教会が運営してるやつ」
「へぇ」
孤児院にも色々あるようだ。
「そこで聞いた話では、俺の親は戦火に巻き込まれたらしい。瓦礫のなかで赤子の泣き声がして、見つけられたのが俺」
ラファエルが設定したミカエルの過去も孤児院育ちだったから、それほど珍しい話ではないのかもしれない。
「どこまで覚えてるんだ?」
「施設の人に拾われた時からしていたらしいネックレス。鉱石の欠片みたいのがついていて、よく触ってた」
白色でツルッとしたそれは、中がくり抜かれた円の一カ所を千切り取ったかのような形状だった。
寒いときでもほのかに温かみを感じる、不思議な物だった。
「今はねえの?」
「教会の人間に捕らわれたとき奪われた」
「奪われた?」
「俺をこんなふうにした人の研究に、関係あるかもしれないとでも思ったんだろう」
「ああ…」
一見して何かわからない物なら、興味も湧くだろう。
「あとで聞いたら、紛失したと言われた」
「紛失って、」
「本当のところはわからない。関係ないとわかって、処分されたかも」
「ひでぇな」
その人の持っている物の価値は、その人にしかわからない。他人が勝手に判断できるものではないとミカエルは思う。
「他は? 住んでた所のこととかよ、」
「他には…、孤児院に併設されてた教会の、ステンドグラスが綺麗だった。よく一人で、それを見上げてた」
「それ、俺も見たときスゲーと思った」
「君の初めては学校?」
「おう」
タオルを拭く手が動きだす。
「引き取り手が見つかって、その人にもらわれて。研究室に連れていかれて、デビルを見てゾッとした。逃げる間もなく捕まえられて眠らされ、気付いたらこれだ」
ついさっき思い出したとはいえ、遠い過去の記憶だからか、落ち着いた声である。
「戻る方法はねえのか? 戻りてえなら、協力するぜ」
「……そうだな。戻れるのなら、戻りたいかな」
ため息のような声音にミカエルは振り返ろうとしたが、頭を包む手に阻止された。
「戻れるかも、なんて。思ったことすらなかった。君は本当におそろしい」
「なんでだよ」
「希望がなければ絶望もない。何もない世界を、俺は生きてきたんだよ」
それしかないと思っていた一本道に、不意に現れた上り坂。その先には光があるように感じるが、そこまで辿り着けるかわからない。それに、もしかしたら途中で突き落とされるかもしれない。
それは、記憶を失くしたミカエルが抱えていた気持ちだった。
ミカエルは舌打ちして手を伸ばす。
留め具を外せば簡単に外れる仕様になっており、拍子抜けした。記憶を失くした自分がなるべく触れないようにしていたことを思うと、眉根が寄る。
サッパリしてリビングに戻れば、ルシ何某がソファで寛いでいた。
「コップ、使わせてもらってる」
「おう」
「君は家でも髪をきちんと乾かさないんだね」
力で風を起こそうとしたら、「おいで」と言われた。思えば、バラキエルにもよく拭いてもらった気がする。
ルシ何某の隣に腰を下ろして背中を向けると、頭にタオルが被さった。
「今日までの脱出劇、どこまで予想していた?」
「どうにかなると思ってたけど、どうなるかなんて、わかるわけねえだろ」
「すべての記憶を失ってもどうにかなるなんて、俺なら到底思えない」
「……本当にそうなるなんて、思ってねかったんだ。ちょっとくらい記憶失くしても、俺は俺だと思ってたんだよ」
ミカエルはブスッと答え、目を瞑る。
「ホントは、自力でなんとかするのをおまえに見せたかったんだけどな」
「なんで?」
「そしたらおまえの考えが変わるかもしれねえだろ。おまえは、あんな所で大人しくしてる玉じゃねえと思ったんだ」
一瞬、タオル越しの指の圧迫が強まった。
「それなら、君の目論み通りになったわけだ」
「結果オーライだな。賭けに負けたらどうなるかなんて、俺は考えねえことにしてたから」
タオル越しに聞こえたため息。
「よく回る頭を持っているのに自分でネジを外してしまうのだから、周りは堪らない」
いつも以上に、タオルでもにょもにょされているように感じるのは気のせいだろうか。
「褒めてんのか? まぁよ、おまえらがいてくれてよかったぜ。何も覚えてねえ自分で別れちまって、サリエルには言いたい放題言われたままだ」
「俺も山ほど言いたいことがあったけど? 記憶がない君は、本当に腹立たしかったな」
「わるかったって。自分で思い出しても胸くそ悪ぃ。っつか、おまえもグサグサ俺に言っただろ。あの目。覚えてっぞ」
ミカエルはますます眉根を寄せる。返ってきた声の調子は実に軽かった。
「ああ、ついうっかり。ごめんね、傷ついた?」
「あのときはな」
「君を傷つけるつもりはなかったんだけど。どうにも同じ人とは思えなくてね」
「わかるけどよ。俺も変な感じだ。自分のなかに違ぇやつがいるみてえな…」
そういえば、ルシ何某もルシエルと呼ばれていた頃のことを思い出したと言っていた。
同じような感覚を抱いただろうか。
「おまえは、ルシエルって呼ばれてた頃はどんなだったんだ?」
タオル越しの手が止まる。
「……おそろしいほどピュアでね。大人や教会は正しいと思ってた。それでのこのこ着いて行ったら、このありさま」
「孤児院にいたんだよな」
「そう。教会が運営してるやつ」
「へぇ」
孤児院にも色々あるようだ。
「そこで聞いた話では、俺の親は戦火に巻き込まれたらしい。瓦礫のなかで赤子の泣き声がして、見つけられたのが俺」
ラファエルが設定したミカエルの過去も孤児院育ちだったから、それほど珍しい話ではないのかもしれない。
「どこまで覚えてるんだ?」
「施設の人に拾われた時からしていたらしいネックレス。鉱石の欠片みたいのがついていて、よく触ってた」
白色でツルッとしたそれは、中がくり抜かれた円の一カ所を千切り取ったかのような形状だった。
寒いときでもほのかに温かみを感じる、不思議な物だった。
「今はねえの?」
「教会の人間に捕らわれたとき奪われた」
「奪われた?」
「俺をこんなふうにした人の研究に、関係あるかもしれないとでも思ったんだろう」
「ああ…」
一見して何かわからない物なら、興味も湧くだろう。
「あとで聞いたら、紛失したと言われた」
「紛失って、」
「本当のところはわからない。関係ないとわかって、処分されたかも」
「ひでぇな」
その人の持っている物の価値は、その人にしかわからない。他人が勝手に判断できるものではないとミカエルは思う。
「他は? 住んでた所のこととかよ、」
「他には…、孤児院に併設されてた教会の、ステンドグラスが綺麗だった。よく一人で、それを見上げてた」
「それ、俺も見たときスゲーと思った」
「君の初めては学校?」
「おう」
タオルを拭く手が動きだす。
「引き取り手が見つかって、その人にもらわれて。研究室に連れていかれて、デビルを見てゾッとした。逃げる間もなく捕まえられて眠らされ、気付いたらこれだ」
ついさっき思い出したとはいえ、遠い過去の記憶だからか、落ち着いた声である。
「戻る方法はねえのか? 戻りてえなら、協力するぜ」
「……そうだな。戻れるのなら、戻りたいかな」
ため息のような声音にミカエルは振り返ろうとしたが、頭を包む手に阻止された。
「戻れるかも、なんて。思ったことすらなかった。君は本当におそろしい」
「なんでだよ」
「希望がなければ絶望もない。何もない世界を、俺は生きてきたんだよ」
それしかないと思っていた一本道に、不意に現れた上り坂。その先には光があるように感じるが、そこまで辿り着けるかわからない。それに、もしかしたら途中で突き落とされるかもしれない。
それは、記憶を失くしたミカエルが抱えていた気持ちだった。
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