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2章.Kyrie

決行

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 短くなった黒髪を追って突き当たりのドアから外へ。
 螺旋階段を降りる。
 紅の瞳は、いつもミカエルに一線を引いていた。そのため、ミカエルも親しみを覚えたことはない。ルシファーはミカエルの知らない世界を知っていて、異なる世界を生きているようだった。
 正直に言えば、あの髪や目の色といい、あまりに整った美貌といい、人間ではないのではと時々思ってしまう。
 記憶を失う前のミカエルは、そんな彼やサリエルに心底慕われていたのだろう。
 十日にも満たない学生生活で、それを得たのだ。
 それ以上の時をここで過ごしたというのに、ミカエルにはそのような相手はいない。それを思うと、記憶を失う前の自分が、ミカエルは少し羨ましかった。

「なに?」
「……なんでもない」
「結界を壊したら感知されるだろう。気を緩めないでね」

 寮の裏手を進み、学校の敷地の周りにぐるりと巡らされた壁に辿り着く。
 ルシファーは左手に持った剣の柄から切っ先に向かって、撫で上げるように手を這わせた。
 その剣を、見えない結界目掛けて迷いなく振り上げる。柄に嵌まっている石が青く輝き、その力が伝わったかのように剣全体が青く光った。
 暗い空が光って揺らぎ、罅割れる。
 ガラスが割れたような凄まじい音が降り注ぎ、ミカエルはギョッとした。
 身体中に流れるエネルギァの感覚。
 壊れた結界の破片が小さな星のようにキラキラ煌めき消えていく。その向こうに、糸のように細い月が浮いていた。
 ルシファーの纏うエネルギァの重みにゾッとする。

「結界はもう一つある」
「、おう」

 付近に新たな気配が出没したのを感じ、ミカエルの動きが止まる。
 ルシファーの手が耳に伸びたと思ったらピアスを力づくで外され、「イテッ」と言う間に額に当てられた手から温かなエネルギァを感じた。
 これは治癒の波長だ。
 記憶の断片が次々に頭に浮かんで押し寄せる。――医務室の天井、身体中を襲った稲妻のような痛み、ゾッとするような機械と椅子しかない部屋の、身体を括りつけられた椅子、ジルコンの不思議な煌めき、脱衣所のドアを出て行くルシファーの顔、出現した青光りする黒い剣、輝く力術円、親指を噛んで滲んだ血、たくさんの痛みの体験、いつもルシファーが癒してくれた。癒しといえばモフモフのクリス。信じて送り出してくれたサリエル。ラファエルに捕まって聖学校に連れて来られた。デビルが現れて、それまでずっとあの森で師匠と暮していたのに――。
 最初は他人事のように感じていたイメージが、いつの間にか自分になって腑に落ちた。

「まさか、君が加担しているとは思いもしませんでした」
「どういたしまして?」
「その剣は…」

 馴染み深い声に顔を上げると、思った通り、ラファエルが行く手を阻むように立っていた。
 貼り付けられた微笑がこちらを向いて、残念そうに言う。

「どうやら、記憶を取り戻してしまったようですね」
「ずいぶん好き勝手してくれたな。思い出すとヘドが出るぜ」
「有言実行したまでですよ。素直な君は可愛かったですが、少々退屈でした」
「喜べ、それも今日までだ」

 ミカエルは嬉々として走り込み、怒りの拳を振るった。
 力を纏った拳は広範囲に威力を発揮する。空気を斬る熱い風。刃のような鋭さだ。
 ラファエルは大きく後ろに飛んで避け、ベルトに固定していた鞭を手に持つ。
 構わず突っ込むミカエル。
 彼目掛けて鞭が打たれる。
 ミカエルは斬れると踏んで一薙ぎしたが、手首に鞭を巻きつけられてしまった。炎で鞭を包み込む。しかし、鞭はビクともしない。

「、」

 ラファエルがミカエルごと鞭を引っ張った。ルシファーが闇を展開し、ラファエルを包みこむ。
 ラファエルが闇に呑まれたかに見えた一瞬後――。

「なるほど、君は本当にデビルのようですね」

 霧散した黒から、ラファエルは微笑を湛えたまま現れた。
 ミカエルを捕まえている鞭の他に、左手でもう一つ、鞭を持っている。

「この鞭に聖石が練りこまれていなければ、闇に侵食されていましたよ」

 闇に侵食されたら、放っておけば身体が真っ黒になり、死に至る。それも治癒できるラファエルではあるが、時間を要するため戦闘中に食らいたいものではなかった。
 ルシファーはラファエルの言葉などどこ吹く風で、再び闇を展開した。
 ラファエルはそれに捕まらないよう、あちらこちらへ動きながら鞭を振るう。ミカエルも、ルシファーの闇と追いかけっこをしているラファエル目掛けて炎を放った。
 その最中、ルシファーがラファエルのもとへ瞬間移動し、いきなり斬りつける。

「ッ、」

 予想外な攻撃に、ラファエルは肩口から斜めに斬られ、よろめいた。
 後ろに出現した闇。
 炎が追い打ちをかけるように迫りくる。
 ラファエルはミカエルを捕まえていた鞭を解き、二つの鞭で闇と炎をかわしに掛かった。なんとしても避けたい闇を一番に対処すると、隙間を縫って飛び込んでくる炎が間近に迫る。
 ルシファーの次なる攻撃まで手が回らない。
 その時、あらぬ方向から飛んできた弓矢。
 ルシファーはハッとして瞬間移動し、ラファエルと距離を取った。

「……いいタイミングですね」

 いつの間にか、周りを囲む多くの気配がする。ラファエルが応援を呼んだのか。

「さて。大人しく降参してはもらえませんか」

 ラファエルは無事なほうの腕で口から垂れた血を拭い、斬られた胴体を治癒しながら首を傾げた。
 片方の腕は防ぎきれなかった炎で火傷している。それなりの怪我を負っているはずだが、いつもの微笑は変わらない。

「無理な相談だな」

 ミカエルはサラリと答えた。
 たしかに敵は多く、強そうだ。しかしルシファーと二人なら、なんとかなるかもしれない。こうなれば、周りの木々や建造物のことまで、考えてなどいられない。

「そろそろ、本気でいかせてもらうぜ」

 全身に力を纏ったミカエルが薄闇に浮かび上がる。その輝きは、代々の王族が継承している光氣を纏っているかのようだ。
 ルシファーも闇を身に纏う。
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