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2章.Kyrie
終わりゆく日々は幻?
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放課後、確かな手応えを感じながら講堂へ向かう。
コカビエルは少し驚いたような顔をした。いつものようにミカエルを誘ったが、気安く触れることはない。
「ミカエル、俺を覚えているか?」
「はい、先生」
「別人みたいで、てっきりまた、記憶を失くしたのかと思ったぞ」
「失くしてないと思います」
「あー、そうか。じゃあ、発声からな」
コカビエルは半信半疑といったふう。観察するようにミカエルを眺め、これまでのような勝手な指導はしなかった。
そして夜。風呂場でルシファーと落ち合う。
態度を改め、早数日。ミカエルを見る周りの目はずいぶん変わった。ミカエルの周りに結界でも張られているかのように、生徒たちは遠巻きだ。
そんな変化を、ルシファーが鼻で笑う。
「君はすっかり一目置かれる存在になった」
「これでおかしな事にはならないだろう」
「どうやら教師たちは、君に前のミカエルを重ねているようだ」
「……こんな感じだったんだな」
「噂によれば、情のカケラも感じられない教会の忠実な僕」
ミカエルは眉根を寄せて息を吐く。
「そんなふうに生きざるを得なかったのかもしれない」
「どうだろう。君のように、異なる選択をすることは可能だ」
「それは、……俺が言うのもアレだけど、こんな事、実行に移すなんて普通じゃない」
「じゃあやめる?」
「ここまできて、やめるわけないだろ」
そうして今日もミカエルは、ルシファーの部屋に向かうのだった。
通い慣れたその部屋で、今日も剣に血を注ぐ。
肌を伝って肘から滴る血を、ミカエルはぼんやり見ていた。
「これくらいで充分だろう」
「……ああ」
「嬉しくないんだ?」
「結界を破れたとしても、すんなり出られるとは限らない」
「まぁね。ラファエルが飛んでくるかも」
ミカエルは重たい息を吐く。
「もし来たら、闘うことになるんだろうな」
「本気でここから出たいなら」
「これで失敗したら、どうなるかわからない。やるなら絶対、成功させないと…」
たくさんの傷痕が浮かぶルシファーの腕に目がいって、ミカエルは睫毛を伏せた。
「協力した俺やルームメイトのためにも、いまさら止めるわけにはいかないね?」
「……容赦ないな。そんなにこの俺がイヤかよ」
「俺の知ってるミカエルが死んで君になったというのなら、関わりを断つだろう。あるいは鬱陶しくて、殺意が湧くかもしれない」
冷めた紅の瞳に捉えられ、身体が強張る。
「でも君は、一時の幻のようなものだ。君がやる気でよかった。でなければ、俺が無理やり連れ出したかも」
肩をすくめて雰囲気を和らげたルシファーに小さく息を吐き、ミカエルは硬い表情のまま口を開いた。
「きみだって、そんなに乗り気じゃなかったんじゃないのか」
「最初はね。ミカエルはどこまで考えていただろう。こうなって、最悪、俺が君を外へ連れ出すことも計画の内だった?」
「俺、そんなことまでわかるのか?」
「君は突飛な発想をしていたから、どうにも疑ってしまう」
それから二人は脱出経路の確認をして、明日の夜を待つこととなった。
寮部屋に戻ったミカエルは、さっそくサリエルに話す。
「計画なんて呼べるようなものじゃない。結界壊して外に出る。決まってるのはそのくらいで、あとは出たとこ勝負だ」
「まぁ、仕方ないよ。やってみないとわからないから」
「そういえば、俺は一度、壊したことがあるんだったな」
「うん。一人であの結界を壊しちゃうんだからスゴい。君は本当に強いんだ」
たぶん、ラファエルよりも。しかし、実際に対峙したら闘えるだろうか。
「僕は一緒に行けないけど。君は一人じゃないし、大丈夫だよね」
ミカエルは頷くことしかできなかった。
夜はまだ、人肌恋しい八十八夜。
明日は日常、最後の日。再会を願う人たちと、別れを告げる自分。
布団に入ったミカエルは、背中を丸めて自分を抱きしめるように腕を抱き、小さくなって目を閉じた。
◇◆◇
八十八夜の別れ霜。そんな言葉を思い出す、静かで穏やかな夜だった。
「ガブリエル様、まだ起きておいでだったのですか」
ガブリエルは背に掛かった声に振り返る。
「なにか、温かいお飲み物をお持ちしましょう」
真ん中分けの前髪は眉に届くくらいで、誠実そうな眼差しをしている。柔らかな葉のような髪色だが、髪質はそこまで柔らかくはなさそうだ。
彼、ハスディエルは、新たな教皇が聖座に就いてから見掛けるようになった衛兵の一人である。教皇との淫行を見られて以来、ガブリエルの近辺警護までするようになった。
あの時の、殺意めいた激情を宿した瞳が忘れられない。
コカビエルは少し驚いたような顔をした。いつものようにミカエルを誘ったが、気安く触れることはない。
「ミカエル、俺を覚えているか?」
「はい、先生」
「別人みたいで、てっきりまた、記憶を失くしたのかと思ったぞ」
「失くしてないと思います」
「あー、そうか。じゃあ、発声からな」
コカビエルは半信半疑といったふう。観察するようにミカエルを眺め、これまでのような勝手な指導はしなかった。
そして夜。風呂場でルシファーと落ち合う。
態度を改め、早数日。ミカエルを見る周りの目はずいぶん変わった。ミカエルの周りに結界でも張られているかのように、生徒たちは遠巻きだ。
そんな変化を、ルシファーが鼻で笑う。
「君はすっかり一目置かれる存在になった」
「これでおかしな事にはならないだろう」
「どうやら教師たちは、君に前のミカエルを重ねているようだ」
「……こんな感じだったんだな」
「噂によれば、情のカケラも感じられない教会の忠実な僕」
ミカエルは眉根を寄せて息を吐く。
「そんなふうに生きざるを得なかったのかもしれない」
「どうだろう。君のように、異なる選択をすることは可能だ」
「それは、……俺が言うのもアレだけど、こんな事、実行に移すなんて普通じゃない」
「じゃあやめる?」
「ここまできて、やめるわけないだろ」
そうして今日もミカエルは、ルシファーの部屋に向かうのだった。
通い慣れたその部屋で、今日も剣に血を注ぐ。
肌を伝って肘から滴る血を、ミカエルはぼんやり見ていた。
「これくらいで充分だろう」
「……ああ」
「嬉しくないんだ?」
「結界を破れたとしても、すんなり出られるとは限らない」
「まぁね。ラファエルが飛んでくるかも」
ミカエルは重たい息を吐く。
「もし来たら、闘うことになるんだろうな」
「本気でここから出たいなら」
「これで失敗したら、どうなるかわからない。やるなら絶対、成功させないと…」
たくさんの傷痕が浮かぶルシファーの腕に目がいって、ミカエルは睫毛を伏せた。
「協力した俺やルームメイトのためにも、いまさら止めるわけにはいかないね?」
「……容赦ないな。そんなにこの俺がイヤかよ」
「俺の知ってるミカエルが死んで君になったというのなら、関わりを断つだろう。あるいは鬱陶しくて、殺意が湧くかもしれない」
冷めた紅の瞳に捉えられ、身体が強張る。
「でも君は、一時の幻のようなものだ。君がやる気でよかった。でなければ、俺が無理やり連れ出したかも」
肩をすくめて雰囲気を和らげたルシファーに小さく息を吐き、ミカエルは硬い表情のまま口を開いた。
「きみだって、そんなに乗り気じゃなかったんじゃないのか」
「最初はね。ミカエルはどこまで考えていただろう。こうなって、最悪、俺が君を外へ連れ出すことも計画の内だった?」
「俺、そんなことまでわかるのか?」
「君は突飛な発想をしていたから、どうにも疑ってしまう」
それから二人は脱出経路の確認をして、明日の夜を待つこととなった。
寮部屋に戻ったミカエルは、さっそくサリエルに話す。
「計画なんて呼べるようなものじゃない。結界壊して外に出る。決まってるのはそのくらいで、あとは出たとこ勝負だ」
「まぁ、仕方ないよ。やってみないとわからないから」
「そういえば、俺は一度、壊したことがあるんだったな」
「うん。一人であの結界を壊しちゃうんだからスゴい。君は本当に強いんだ」
たぶん、ラファエルよりも。しかし、実際に対峙したら闘えるだろうか。
「僕は一緒に行けないけど。君は一人じゃないし、大丈夫だよね」
ミカエルは頷くことしかできなかった。
夜はまだ、人肌恋しい八十八夜。
明日は日常、最後の日。再会を願う人たちと、別れを告げる自分。
布団に入ったミカエルは、背中を丸めて自分を抱きしめるように腕を抱き、小さくなって目を閉じた。
◇◆◇
八十八夜の別れ霜。そんな言葉を思い出す、静かで穏やかな夜だった。
「ガブリエル様、まだ起きておいでだったのですか」
ガブリエルは背に掛かった声に振り返る。
「なにか、温かいお飲み物をお持ちしましょう」
真ん中分けの前髪は眉に届くくらいで、誠実そうな眼差しをしている。柔らかな葉のような髪色だが、髪質はそこまで柔らかくはなさそうだ。
彼、ハスディエルは、新たな教皇が聖座に就いてから見掛けるようになった衛兵の一人である。教皇との淫行を見られて以来、ガブリエルの近辺警護までするようになった。
あの時の、殺意めいた激情を宿した瞳が忘れられない。
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