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2章.Kyrie

真っ白いカンバス

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 ゆっくりと目蓋を上げる。
 小鳥の囀りがして、目をやると窓が開いていた。
 身体を起こし、辺りを見渡す。
 不思議な匂いは、棚にみっちり詰まった小瓶が醸し出しているのだろうか。
 ガチャリと音がしてドアが開き、微笑を湛えた男が入って来た。

「目が覚めたんですね。気分はどうですか?」
「ここはどこだ? おまえは、」
「あなた、ですよ。目上の人には敬語を使うこと。忘れてしまいましたか?」

 口を開こうとして固まる。

「ミカエル?」
「みかえる?」
「君の名前です。私はラファエル。孤児院で君と出会いました。君は私を先生と呼んで慕ってくれた。私も弟子ができたようで嬉しかったです」

 話を聞いてもまったくイメージが湧かない。それどころか、自分の過去に関するイメージが何もなかった。

「ここは聖学校の医務室です。君は階段から落ちて頭を打ったのでしょう。意識不明の重体でした。君が生きているのは、神の奇跡です」

 ラファエルの話す言葉が半分も理解できない。

「ああ、ミカエル…。恐れていたことが現実になってしまったようですね。打ちどころが悪かったのでしょう。君は、記憶を失くしてしまった」
「そんな、」
「大丈夫、私がついています。例え記憶が取り戻せなかったとしても、また積み上げていけばいいのです」
「なんとかならないのか? 俺、自分のことすら、何も…」
 
 あまりの事に身体が震える。
 見覚えのない部屋で、見覚えのない相手の何を信じろというのか。目に映る世界にも、自分の中にも、確かなものが何もない。恐ろしいほど空っぽだ。
 ミカエルは頭を抱える。

「大丈夫です。ここからまた始めればいいのです。ミカエル、私が傍にいますよ」

 ベッドの傍らに座ったラファエルに包み込むように抱きしめられて背中を擦られる。
 何も覚えていないのに、どうして涙が出るのだろう。

「少しずつ取り戻していきましょう。ミカエル、何から聞きたいですか?」
「俺は、階段から落ちた?」
「そのようです」
「なんで、」
「その瞬間を見た者がいないので、なんとも言えませんが…。倒れている君の周りには、本が散らばっていました。勉強熱心な君のことです。たくさんの本を抱え、足許が見えなかったのかもしれません」

 ぜんぜんピンと来ない。

「アナタは俺と親しかった…?」
「ええ」
「それなのに、俺が全部忘れても動揺しねえんだな」
「治癒師ですからね。多少の知識はあるんです。だから、覚悟はできていた。不安で堪らないであろう君に安心してもらうためにも、私が動揺するわけにはいきません」

 ミカエルはゆっくりと顔を上げ、ラファエルの顔をじっと見る。
 胡散臭い微笑みだ。そう思っていたら、上がっていた口角が静かに下がり、若葉色の瞳が現れた。

「私が信用できませんか」
「何も覚えてねえのに、何が信用できる?」
「何かを信じなければ、何も始まりません」

 ラファエルは立ち上がって簡易キッチンへ向かい、マグカップを持ってケトルからお湯をそそいだ。

「ハーブティです」

 柔らかな香りが安心感を誘う。この香りは知っている気がした。
 カップを手渡され、香りに癒される。

「君が大切にしていた聖正教の教えについて、話しましょう」

 聖正教がなんなのかも分からないミカエルに、ラファエルは一から話して聞かせる。神のこと、教会のこと、聖学校のこと。ミカエルという名を持つ者の重要性。

「何も信じられないのなら、神を信じるところから始めてみたらどうです?」
「俺が記憶失くしたのも神のせい?」
「君が特別に神を愛していたからこそ、神はこのような試練をお与えになったのでしょう。神は乗り越えられる試練しか与えません。この試練が神の愛であったことを、君はいつか理解するに違いありません」
「……わかんねえよ」

 ミカエルは眉根を寄せてハーブティをコクリと飲んだ。

「記憶を失くそうが、君は君ですね」
「どういうところが?」
「意志が強いといいますか」
「俺、前からこんなふうだった?」
「ええ、そうです。孤児院ではヤンチャでした。神の教えに出会い、君は変わった。言葉使いも変わりましたね」

 ミカエルはそのころのことを想像しようと頑張り、真っ白な脳内に諦めを抱いた。

「俺はなんでそんなに神の教えを大事にしてたんだ?」

 手にしたマグカップに目を落とす。

「ミカエルという名に責任を感じたのかもしれません。君には、多くの人を救える可能性がある。贖いの供えものになる可能性があるのです。ミカエルという名を持つ者は、常にそのことを考えます」
「あがないのそなえもの?」
「ミカエル、神のごとき者。君という生贄が成立すれば、すべての信徒が抱く罪に対する神の怒りを鎮めることができる。君の血によって、神との和解が果たされる。そのような考えがありましてね」

 顔を上げたミカエルは、半目になって口を開く。

「たくさんの人のために死ねって?」
「人は誰しも、いずれ死にます。君がそれに相応しい存在であったかどうかは、君の死後判明するでしょう」
「ああ…、それでどう生きるかって話になるんだな」
「そういうことです。君は熱心に聖典を読み、祈りを捧げ、神に忠実であろうとしました」

 ミカエルは渡された聖典をパラパラ捲り、みっちり書かれた見知らぬ文字に片眉を上げる。

「神に忠実に…?」
「それが君の生きる意味だったのです」
「他には何もなかったのか?」
「君は聡明でしたからね、孤児院でたくさん考えたことでしょう。親に捨てられ、孤児院に拾われた、命の意味を」

 ラファエルの言葉を他人事のように聞きながら、馴染みない本の表紙を撫でた。
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