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2章.Kyrie
七日目の夜
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夕食後、ミカエルは決戦に挑むような心地でペネムエルの部屋に向かった。
いつも通りに挨拶を済ませ、絨毯の上に正座して聖典を朗読し、教えを説かれる。ファロエルに関する報告まで終えたとき、ようやくペネムエルが切り出した。
「今日は約束の七日目だ。本をこちらへ」
この七日、常に共にあった本を差し出す。
くたびれた様子のそれを見て、ペネムエルは目を細めた。それから、おもむろに本を開いて指で示す。
「ここから朗読し、翻訳せよ」
サリエルが予想した一つだ。
ミカエルは落ち着いた心地でゆっくり朗読する。讃美歌の練習でやった発音が、役立っているように感じた。
「――わたしは自分の咎を知ってマス。わたしの罪はいつもわたしの前にありマス。あなたに向かい罪を犯し、悪い行いをシマシタ。それゆえ、あなたが宣告をオ与えになるときは正しく、あなたが人を裁かれるときは誤りがアリマセン――」
最後まで聞き終えると、ペネムエルは小さく息を吐き、口を開いた。
「神が受け入れられる生贄とは何か」
「砕けた魂デス」
「どういう意味だね」
「それは…、その状態になると、素直に神を求めることができるから」
「君は地下牢でそれを体験し、よく知っていることだろう」
「……ハイ、センセー。感謝シマス」
ヘビのような目が見下ろしてくるので、ミカエルは背筋を伸ばして殊勝に言った。
「少しは改心したか」
「センセーのおかげデス」
「フンッ。まぁいい。補講は今日までとする。今後は他の生徒と同様に、講義で指名されることもあるだろう」
「ファロエルから学ぶのも、」
「終了だ」
ミカエルはガッツポーズしたいのを必死に堪えた。
「地下牢での指導を再び受けたくないのなら、その名に恥じない言動を取るように」
「ハイ、センセー」
「よろしい。行きなさい」
ミカエルはよろりと立ち上がり、「アリガトウゴザイマシタ」と言って、痺れる足を引きずるように動かし部屋を出た。
「よしっ」
廊下で今度こそガッツポーズする。
ようやく補講からもファロエルからも解放された。じつに清々しい。
これで集中して脱出に向け考えられる。
部屋に戻るころには、足の痺れも収まっていた。サリエルのソワソワした顔を見て、ミカエルはニッと笑む。
「終わったぜ」
「、クリアしたんだね。君、スゴいよっ。あれを七日でマスターしてしまうなんて!」
「おまえのまとめ集のおかげだ。予想も当たってたしな」
ミカエルがお世話になった巻物を渡すと、サリエルはふわりと笑む。そういえば、眼鏡をしていない。
「力になれてよかった。でもやっぱり、君がスゴいんだ。見ただけで覚えられるんだろ?」
「ものによっちゃあ、すぐ忘れるけどな」
「ペネムエル先生も、君の能力には舌を巻いただろうね。七日でこれを頭に入れるなんて無理に決まってる。できっこないと思って、言ったんだろうから」
朗読して翻訳を終えたとき、ペネムエルから諦めが感じられた。
ミカエルは鼻で笑って椅子に腰かける。サリエルのほうを向き、その顔をじっと見た。
「本当に、知っちまっていいんだな」
「うん。協力するって決めたから」
力強い眼差しに迷いはない。
ミカエルは小さく頷き、脱出プランを語った。真顔だったサリエルの表情は、聞き終わるころには心配に染まっていた。
「イカレてる。だって君、もしかしたら」
「もう決めた」
「……それに、剣の保管はどうするのさ。この部屋に置いて、もし探されたら」
「協力者がいるんだよ」
「この作戦を知ってる人が他にいるの? ツァドキエル先生?」
ミカエルは眉根を寄せて言い淀む。
「言いたくないならいいけどさ。何かあったとき連携取れるかもだし、知っといた方がいいと思うけど」
「なんかあったら、向こうから接触するかもしれねえ。そんときは頼む」
「その人、秘密主義なの? それとも、オレの信用がないのかな」
「どっちでもねえよ」
これはミカエルの判断だ。
「……わかった。天使が来ても驚かないよ」
眉を上げたサリエルに、ミカエルは無言で頷いた。
決行は明日。そう思うと、通い慣れた脱衣所のドアにも少しは愛着を感じる。
いつものように椅子で寛いでいたルシファーに目をやると、紅の瞳が向けられた。
「補講、終わった?」
「おう」
「おめでとう」
ミカエルは息を溢すように微笑し、浴室へ。
こんなに穏やかな心地でいられるのはいつぶりだろう。
バラキエルと過ごしていた日々が遠く感じる。それを取り戻すために、必ず脱出を成功させねばならない。
烏の行水で脱衣所へ戻り、タオルに顔を埋める。
「明日だね」
振り返ると、美しい紅の瞳と目が合った。
「本当にやるの」
「おう」
「こわくない?」
「平気だ」
身体を拭いて服を着て、タオルを持ってルシファーのもとへ行く。
「サリエルに話した。おまえのことは言ってねえ」
「……優しいね?」
「あいつは聖職者になるんだと。だから、言わねえほうがいいと思った」
ミカエルはルシファーの足許に座りこみ、タオルを渡してその腿に頭を預けた。昨日あまり寝ていないこともあり、眠気が強い。
タオルで頭をふんわり覆われ、目を閉じる。
「あいつは気にしねえかもしんねぇけどな」
「最後まで関わらないことを願おう」
ムズムズするのは変わりないが、手の温もりが心地良い。
促され、反対側の腿に頭を凭れる。
「おまえといるときって、ここのルールから外れられたみてぇでよ。実際助けてもらったけど、こういう時間も、たぶんありがたかったんだ」
「……まるで、もうすぐお別れするみたいだね」
タオルが頭からスルリと取られ、目蓋を上げる。
ルシファーが、苦しそうに眉根を寄せていた。ミカエルは目を丸くする。
それは一瞬のことで、すぐにハグされ表情がわからなくなった。腕を伸ばして、彼の背中に手を添える。
サラリと流れた艶やかな黒い髪。
「必ずうまくいく」
ミカエルを抱きしめる腕の力が強まる。
「俺は何もなくさねえ」
「よく言う。たった七日で、君はどれだけのものを失ったのか」
「なんもねえよ。俺は俺だ」
抱擁を解いたルシファーは、深々と息を吐きだした。
「自己の意思を戒め、拷問まがいの事をされて服従を誓い、挙げ句、処女を奪われたのは誰だろう」
「目的のためにちょっと外面良くしただけで、何も変わってねえだろ。服従だって無視すりゃいい。しょじょってなんだ」
「言いたくない」
「っなら言うなよ」
ミカエルはムッとして押し黙る。しかし、ルシファーが何も言わないので、やはり口を開いた。
「俺、なんも奪われてねえし」
「そう思えるなら、それでいい」
「ぜんぜんいいって顔じゃねーぞ」
「この話はここまでにしよう。これ以上続けたら八つ当たりしそうだ」
不満はあるが、ミカエルは頷いて立ち上がる。
ルシファーは、ゆっくりと顔を上げた。
「君は何者にも屈服しなかった。君の心は。執念深い彼の教師も、君を支配することはできないと悟ったことだろう。ミカエル、たしかに君は、なにも手放していない」
静かな瞳の引力に囚われたかのように、ミカエルはその色をじっと見詰めてしまった。
「……明日、頼むぜ」
「幸運を」
ルシファーが教えてくれなかった事を、あとでサリエルに聞いてみようと思っていたのだが。
部屋に戻ったミカエルは、眠気に耐えられずそのままベッドに潜りこみ、「おやすみ」を言う間もなく眠ってしまった。
いつも通りに挨拶を済ませ、絨毯の上に正座して聖典を朗読し、教えを説かれる。ファロエルに関する報告まで終えたとき、ようやくペネムエルが切り出した。
「今日は約束の七日目だ。本をこちらへ」
この七日、常に共にあった本を差し出す。
くたびれた様子のそれを見て、ペネムエルは目を細めた。それから、おもむろに本を開いて指で示す。
「ここから朗読し、翻訳せよ」
サリエルが予想した一つだ。
ミカエルは落ち着いた心地でゆっくり朗読する。讃美歌の練習でやった発音が、役立っているように感じた。
「――わたしは自分の咎を知ってマス。わたしの罪はいつもわたしの前にありマス。あなたに向かい罪を犯し、悪い行いをシマシタ。それゆえ、あなたが宣告をオ与えになるときは正しく、あなたが人を裁かれるときは誤りがアリマセン――」
最後まで聞き終えると、ペネムエルは小さく息を吐き、口を開いた。
「神が受け入れられる生贄とは何か」
「砕けた魂デス」
「どういう意味だね」
「それは…、その状態になると、素直に神を求めることができるから」
「君は地下牢でそれを体験し、よく知っていることだろう」
「……ハイ、センセー。感謝シマス」
ヘビのような目が見下ろしてくるので、ミカエルは背筋を伸ばして殊勝に言った。
「少しは改心したか」
「センセーのおかげデス」
「フンッ。まぁいい。補講は今日までとする。今後は他の生徒と同様に、講義で指名されることもあるだろう」
「ファロエルから学ぶのも、」
「終了だ」
ミカエルはガッツポーズしたいのを必死に堪えた。
「地下牢での指導を再び受けたくないのなら、その名に恥じない言動を取るように」
「ハイ、センセー」
「よろしい。行きなさい」
ミカエルはよろりと立ち上がり、「アリガトウゴザイマシタ」と言って、痺れる足を引きずるように動かし部屋を出た。
「よしっ」
廊下で今度こそガッツポーズする。
ようやく補講からもファロエルからも解放された。じつに清々しい。
これで集中して脱出に向け考えられる。
部屋に戻るころには、足の痺れも収まっていた。サリエルのソワソワした顔を見て、ミカエルはニッと笑む。
「終わったぜ」
「、クリアしたんだね。君、スゴいよっ。あれを七日でマスターしてしまうなんて!」
「おまえのまとめ集のおかげだ。予想も当たってたしな」
ミカエルがお世話になった巻物を渡すと、サリエルはふわりと笑む。そういえば、眼鏡をしていない。
「力になれてよかった。でもやっぱり、君がスゴいんだ。見ただけで覚えられるんだろ?」
「ものによっちゃあ、すぐ忘れるけどな」
「ペネムエル先生も、君の能力には舌を巻いただろうね。七日でこれを頭に入れるなんて無理に決まってる。できっこないと思って、言ったんだろうから」
朗読して翻訳を終えたとき、ペネムエルから諦めが感じられた。
ミカエルは鼻で笑って椅子に腰かける。サリエルのほうを向き、その顔をじっと見た。
「本当に、知っちまっていいんだな」
「うん。協力するって決めたから」
力強い眼差しに迷いはない。
ミカエルは小さく頷き、脱出プランを語った。真顔だったサリエルの表情は、聞き終わるころには心配に染まっていた。
「イカレてる。だって君、もしかしたら」
「もう決めた」
「……それに、剣の保管はどうするのさ。この部屋に置いて、もし探されたら」
「協力者がいるんだよ」
「この作戦を知ってる人が他にいるの? ツァドキエル先生?」
ミカエルは眉根を寄せて言い淀む。
「言いたくないならいいけどさ。何かあったとき連携取れるかもだし、知っといた方がいいと思うけど」
「なんかあったら、向こうから接触するかもしれねえ。そんときは頼む」
「その人、秘密主義なの? それとも、オレの信用がないのかな」
「どっちでもねえよ」
これはミカエルの判断だ。
「……わかった。天使が来ても驚かないよ」
眉を上げたサリエルに、ミカエルは無言で頷いた。
決行は明日。そう思うと、通い慣れた脱衣所のドアにも少しは愛着を感じる。
いつものように椅子で寛いでいたルシファーに目をやると、紅の瞳が向けられた。
「補講、終わった?」
「おう」
「おめでとう」
ミカエルは息を溢すように微笑し、浴室へ。
こんなに穏やかな心地でいられるのはいつぶりだろう。
バラキエルと過ごしていた日々が遠く感じる。それを取り戻すために、必ず脱出を成功させねばならない。
烏の行水で脱衣所へ戻り、タオルに顔を埋める。
「明日だね」
振り返ると、美しい紅の瞳と目が合った。
「本当にやるの」
「おう」
「こわくない?」
「平気だ」
身体を拭いて服を着て、タオルを持ってルシファーのもとへ行く。
「サリエルに話した。おまえのことは言ってねえ」
「……優しいね?」
「あいつは聖職者になるんだと。だから、言わねえほうがいいと思った」
ミカエルはルシファーの足許に座りこみ、タオルを渡してその腿に頭を預けた。昨日あまり寝ていないこともあり、眠気が強い。
タオルで頭をふんわり覆われ、目を閉じる。
「あいつは気にしねえかもしんねぇけどな」
「最後まで関わらないことを願おう」
ムズムズするのは変わりないが、手の温もりが心地良い。
促され、反対側の腿に頭を凭れる。
「おまえといるときって、ここのルールから外れられたみてぇでよ。実際助けてもらったけど、こういう時間も、たぶんありがたかったんだ」
「……まるで、もうすぐお別れするみたいだね」
タオルが頭からスルリと取られ、目蓋を上げる。
ルシファーが、苦しそうに眉根を寄せていた。ミカエルは目を丸くする。
それは一瞬のことで、すぐにハグされ表情がわからなくなった。腕を伸ばして、彼の背中に手を添える。
サラリと流れた艶やかな黒い髪。
「必ずうまくいく」
ミカエルを抱きしめる腕の力が強まる。
「俺は何もなくさねえ」
「よく言う。たった七日で、君はどれだけのものを失ったのか」
「なんもねえよ。俺は俺だ」
抱擁を解いたルシファーは、深々と息を吐きだした。
「自己の意思を戒め、拷問まがいの事をされて服従を誓い、挙げ句、処女を奪われたのは誰だろう」
「目的のためにちょっと外面良くしただけで、何も変わってねえだろ。服従だって無視すりゃいい。しょじょってなんだ」
「言いたくない」
「っなら言うなよ」
ミカエルはムッとして押し黙る。しかし、ルシファーが何も言わないので、やはり口を開いた。
「俺、なんも奪われてねえし」
「そう思えるなら、それでいい」
「ぜんぜんいいって顔じゃねーぞ」
「この話はここまでにしよう。これ以上続けたら八つ当たりしそうだ」
不満はあるが、ミカエルは頷いて立ち上がる。
ルシファーは、ゆっくりと顔を上げた。
「君は何者にも屈服しなかった。君の心は。執念深い彼の教師も、君を支配することはできないと悟ったことだろう。ミカエル、たしかに君は、なにも手放していない」
静かな瞳の引力に囚われたかのように、ミカエルはその色をじっと見詰めてしまった。
「……明日、頼むぜ」
「幸運を」
ルシファーが教えてくれなかった事を、あとでサリエルに聞いてみようと思っていたのだが。
部屋に戻ったミカエルは、眠気に耐えられずそのままベッドに潜りこみ、「おやすみ」を言う間もなく眠ってしまった。
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