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2章.Kyrie

上がる回転

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 図書館に入ると、ミカエルはさりげなく受付に近づいた。禁書の鍵がどこにあるのか、把握しておきたいと思ったのだ。
 司書が椅子に座って作業している。腰のベルトから、鍵が幾つか垂れ下がっていた。

「僕、参考文献探すから」
「うん。ミカエル、僕らは自習室だよね」
「おー」

 ファロエルのいない勉強は実にはかどる。
 ペネムエルからどこを問われるか、サリエルから助言をもらい、ミカエルは対策に勤しんだ。切りの良いところまで進むと、何気なく立ち上がる。

「ミカエル?」
「トイレ」

 ミカエルは一人で自習室を抜け出し、禁書のコーナーに向かった。
 辺りに人の気配がないのを確認し、出入り口の扉にある鍵穴を観察する。
 司書の腰から下がっていた鍵のなかに、手の込んだ装飾が施された物があった。たぶん、ここの鍵はあれだ。司書はときどき、返却された本を本棚に戻しにいく。そのときが狙い目かもしれない。
 いったん自習室に戻ろうと歩いていると、前からサリエルがやって来た。
 かすかに眉根を寄せている。

「君、まだ禁書に興味があるんだね」
「誰だって気になるだろ。生徒が読ませてもらえねぇ本なんてよ」

 サリエルは小さく息を吐き、真剣な顔をした。

「僕は君の味方だ。君に危ない橋を渡ってほしくないけれど、それが避けられないなら、せめて協力させてほしい。二人なら、なんとかなる事もあるかもしれないだろ?」

 最後はおどけて言ったサリエルだが、灰色の瞳が決意に煌めいている。それを見て、ミカエルも腹を決めた。

「俺の目的はおまえの思う通りだ。そのために知りてえ事がある」
「禁断の果実はあの鉄格子の中だね」
「ああ」
「わかった。僕が鍵をくすねて君に渡すから、君は急いでそれを見つけて」
「……あ?」

 サラッと提案してきたサリエルに片眉を上げる。するとサリエルは悪戯に笑った。

「路地裏で生活してたって、まえに話したろ?」
「っ頼もしいじゃねえか」

 どうやら、ルームメイトは思った以上にしたたかだったらしい。

「おしゃべりして気を引いてるうちにやれそうかい?」
「やるしかねえだろ」
「五分ももたないよ」
「がんばるからがんばってくれ」

 殊勝しゅしょうな態度でミカエルが言うと、サリエルは笑った。

「狙い目は放課後、閉館間近」
「今日、」
「君、古語の勉強が大詰めだろ。それが終わってからね」
「……おう」

 こうして、唐突に決行の時が決まった。

 力術円を描いて剣を複製できたとしても、力の発動を感知され、それを知られてしまったら終わりだ。
 明後日への期待が眠気を吹き飛ばしてくれた午後の講義中、窓の外からカッコウの鳴き声が聞こえ、ミカエルはふと閃いた。
 羽ペンを握る手に力が籠る。

「――どうしてあなたは天から落ちたのか。輝く者、明けの明星よ。諸々の国を倒した者、あなたは切られて地に倒れてしまった」

 長い黒髪と紅の瞳が脳裏に浮かんだ。
 ルシファー――それは古語で、光をもたらすものという意味なのだ。
 彼にはたくさん助けられている。しかしルシファーがミカエルに要求したことといえば、髪に触れたりすることだけだった。

『俺も君のような暮らしがしてみたい』

 あの冷めた眼差し。
 協力を求めたとき「いいよ」と言ってくれたルシファーは、どこか諦めたような顔だった。

「ミカエル、今日も讃美歌の練習あるんでしょ」
「……おう」

 気付けば講義が終わっていた。

 適当にコカビエルをかわして夕食後、本日も補講は正座で行われ、最後に「明日は約束の七日目だ。結果次第では、地下牢での再教育が必要となるかもしれん」と言われた。おかげで廊下に座って足の回復を待つ間も眠ることなく、聖典と睨めっこができた。

 脱衣所にて、ルシファーと遭遇する。彼はお決まりの椅子で寛いでいた。

「昨日はどうしたの」
「あ? ああ、廊下で寝てた」 

 サリエルに話したようなことをルシファーにも話し、浴室へ。
 湯から上がって脱衣所に戻ったミカエルは、タオルで身体を拭きながらルシファーのほうを向く。

「おまえ、ここよりいい所知らねえから、こっから出てえと思わねぇんだよな」
「まぁ、そうだな」
「ホントはよ、自由になりてえと思ってんだろ」
「……普通に暮らしたいと思ったことは、あるかもね」

 ルシファーは「普通がどういうのかわからないけど」と続け、眉を上げて肩をすくめた。
 七分丈のズボンのようなリネンの下着を穿いてシャツをかぶったミカエルは、まっすぐに紅の瞳を捉えてクッと口角を上げる。

「賭けをしようぜ。俺が勝ったら、おまえも一緒にここを出る。そんで、俺が知ってるいい所で暮らしてみろよ。それが合わなかったら、他に合う場所探しに行けばいいしよ」
「……ここを出て、君と暮らす?」
「俺と師匠な。師匠探しも手伝ってもらうぜ」
「ああ、そのための要員か」
「それだけじゃねえよ。おまえだって、ここよりいい所があるなら、そっちの方がいいだろ」
「まぁね」

 やはり、返事は素っ気ない。そんなルシファーに、ミカエルは眉を吊り上げる。

「どうせおまえは信じらんねえんだろ。だから俺が見せてやる。"できる" ってことをな」
「熱くなってるところ悪いけど、その賭けって何?」

 賭けの内容を語ると、ルシファーは目を丸くした。

「……本気?」
「俺はいつでも本気だ」

 揺るぎない新緑のような色の瞳を唖然と捉え、ルシファーは首を振る。

「正気じゃない。時間がかかっても、もっと堅実な方法を選ぶべきだ。脱出するのが一番の目的だろう。もし、」
「もし、はねえし、のんびりしてる暇もねえ。師匠がどうしてるかわかんねえんだ」

 深く息を吐き、ルシファーは仕方なく、といった様子で賭けに乗った。

「禁書の決行は明後日の放課後。コカビエルのほうも同じ日にできたらと思う」
「それで上手くいったら、複製した剣は俺が保管する、と」
「おう。頼むぜ」

 ルシファーは長い前髪を掻き上げる。

「それ、ルームメイトくんも知ってる?」
「いや。味方って言われたけど、話してねえ」
「信用できるなら、話したほうがいい」

 ミカエルは意外そうな顔でルシファーを見る。すると彼は大きなため息を吐いた。

「君は。自分がどれだけ危険な橋渡ろうとしてるか、わかってる? 協力者は多いほうがいい」
「そうだけどよ。あのラファエルに恩義のあるやつだぜ」
「それじゃ、話す予定はない?」
「今のところは」
「わかった。とりあえず、明日の補講の無事を祈ろう」
 
 忘れていたミカエルは嫌な顔をして、脱衣所をあとにした。


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