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2章.Kyrie

知る、知る、知る

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 もう夕食の時間だ。
 そのまま食堂に入ると、隣の席を確保していたサリエルが手を上げた。そちらへ向かうあいだ、いつも以上に視線を感じて首を傾げる。畏怖や羨望、嫉妬など、以前にも増して様々な感情を向けられている気がした。
 長椅子に座った途端、さっそくサリエルが声をひそめて話しかけてきた。

「訓練室の結界を破壊したこと、話題になってるよ」
「ああ…」
「ここって力を感じる機会はあまりないから、君がミカエルってわかっていても、どこかおとぎ話のようなんだ。それがあんな事になって。一気に実感が湧いた。本当に君はミカエルなんだ、って」

 いつにも増して居心地の悪さを感じつつ、食事を終えたミカエルは、日課の補講へ向かった。
 いつも通り部屋に入って差し出された手を取りキスをしたところで、ヘビのような眼差しが向けられた。

「貴様は体力があり余っているようだな。上着を脱いでここで四つん這いになれ」
「は? イ、センセー」

 訓練室の件だろうか。
 ミカエルは上着を脱ぐと、しぶしぶペネムエルのもとへ向かい、ソファの横で四つん這いになった。立ち上がったペネムエルがやって来て、ミカエルの背中に腰を下ろす。

「あ?」
「ここから読め。間違えたら尻を打つ」

 背中に乗られた状態で音読するのは地味に辛い。間違えないようにゆっくり読んでいたら、単語の途中で息継ぎしただけで鞭に打たれた。

「っ、」
「ハキハキ読みたまえ」

 ペネムエルはミカエルの背中で足を組み、紅茶を飲みながら生徒たちのレポートを採点している。それでもミカエルの声はきちんと耳に入っているらしく、言い間違いを耳聡く聞きつけ鞭を振るった。完治したお尻でなければ呻いていただろう。
 そのあと、忘れかけていた話題を振られる。

「今日はファロエルから何を教わったのかね」
「……言葉使いや態度について、鞭を打たれマシタ」
「そうか。それから?」
「荷物持ちしたり、お祈りのときは後ろに立って見てモライマシタ」
「ふむ。少しは身についてきたようだな」
「ハイ、センセー」

 話を聞いたペネムエルは「明日も励みたまえ」と言い、機嫌良く本日の補講を終わらせた。
 ずっと同じ体勢だったため、身体が固くなったようだ。腰や尻が痛い。手も膝もジンジンする。
 のらくら歩いて部屋に戻ると、本日のあれこれについて、サリエルが怒涛のごとく質問してきた。ゾフィエルという名に驚いたかと思えば、コカビエルと聞いて心配そうな顔をする。

「何もされなかった? あの人、すぐ生徒に手を出すんで有名なんだ。顔がいいから、自分から行く生徒もいるけど」
「されたけど、やっぱあいつが変なんだよな」
「何されたの!?」

 サリエルは顔を赤くしてミカエルの話を聞いていた。

「絶対わざとだ。ミカエル、狙われてるよ。僕も君のお尻を見てみたい」
「あ?」
「君、わかってる? 男同士でもさ、できるんだよ」
「何をだよ」
「だから、セックス」
「せっくす?」

 二人の間に微妙な沈黙が流れる。
 サリエルはわざとらしく咳をして、神妙な顔で口を開いた。

「あー、男女の営みって言ったらわかるかな。アレをアソコに突っ込んで、」
「ああ、そういうことか」

 ミカエルは納得したのだが、次には首を傾げる。

「ん? 男のアソコって?」
「アソコはア、ソ、コ! 人間誰しもあるだろ。ほら、お尻にちょうどいい穴が」
「それって出すトコのことか? 入れるところじゃねえぞ」
「そうなんだけど、それができるんだよ。驚いたことにね」

 ミカエルは腕を組んで考えた。
 確かに、出せるということは、入れられるという事かもしれない。しかし、入れてどうするのだ。
 そういえば、いつか家に来た人が、それを行うのは生殖のためだけではないと言っていた。その人は、「バラキエルはこういう事を教えるのは苦手だろうから」と言い、ミカエルに性の知識を授けてくれたのだ。
 彼の名前は知らない。
 尋ねたが、教えてもらえなかった。バラキエルを師匠と呼ぶミカエルに、「それなら私は "先生" で」と、彼は言ったのだ。

「なんのためにするんだ?」
「何のためって…、好きな人とは、そういう事がしたくなるだろ。気持ちイイからしたいって人もいるし、征服欲を満たしたい、暴力を振るうのと同じような感覚の人もいると思う」

 サリエルは答えながら困ったような顔になり、眉尻を下げた。

「目的があってするんじゃなくて、それをする事自体を楽しんだり、喜びを感じるんじゃないかな」
「そういうもんか」
「君だって、射精するとき気持ちいいだろ。僕が警戒してほしいのは、その延長って感じで、簡単に犯す人もいるから」
「……おまえ、俺がやられると思ってんのか?」

 ミカエルは眉を上げる。

「少なくとも、コカビエル先生にはその気があると思うよ。他にもそういう人がいてもおかしくない。自分より力が上の人間を組み敷くことに快感を覚える人だっているからね。君には圧倒的な力があるけど、今は使えないんだ。しかもカッコよくて綺麗で、外では絶対手に届かない存在だと思う。一部の人間にとって君は、格好の餌食えじきなんだよ」
「おぅ」
「わかってくれて何より!」

 怒涛のごとく話され、圧倒されたミカエルは気づけば頷いていた。

「……風呂行ってくるな」
「いってらっしゃいっ。気をつけて」

 今日も遅くなってしまった。
 ミカエルは早足で風呂場へ向かった。
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