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2章.Kyrie
クリス
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ミカエルは誰もいない回廊をのそのそ歩く。
両手が痛い。すぐに血は止まったが、痛みはなくならなかった。
あの部屋には、患部をすっかり綺麗に治せるものがありそうだ。それを使ってくれないのは、これが罰だからだろう。
「ちきしょー」
この痛みはいつまで続くのだろうか。治せるのに治さないなんて、おかしな話だ。
「イテェよ」
早くもめげそうになっていたとき、金茶のモフモフが視界に入った。大きな犬だ。いま、猛烈に癒しを求めている。
ミカエルは犬を追って小走りで中庭に出た。
「クリス」
木の向こうから聞こえた声に反応し、その犬は嬉しそうに尻尾を振って駆けた。
ミカエルはかすかに目を丸くする。
クリスという名を聞いたとき、頭に浮かんだ白い大型犬。赤い煉瓦屋根が彩る町の風景、バラキエルの肩車。ミカエルが幼いころ、二人は町で暮らしていたのだ。
クリスという名の大きな白い犬は、当時、ミカエルの一番の友だちだった。ミカエルはクリスといっぱい遊んだが、クリスがどこで飼われていたかは知らない。
「おまえ…」
思い出に浸りながら金茶のクリスのもとへ向かうと、木陰で彼を撫でていたのは、昨夜脱衣所で会った黒髪の生徒だった。
紅の瞳がすっと向けられる。
「君、こんな所にいていいの」
「おまえもな」
クリスは人懐こい性格らしく、尻尾を振ってミカエルのもとへやって来て、おもむろに飛びついた。
「ぅおっ。ははっ」
首を伸ばしてくるので抱きしめるように腕を巻きつける。顔をベロベロ舐められた。
包帯の手は使い物にならない。柔らかそうな毛並を堪能すべく、金茶に顔を埋める。
「おまえ、いい匂いだな」
顔を突っ込んでくるミカエルが遊びを誘っているとでも思ったか、クリスはミカエルから離れると、右へ左へジャンプして、もっと遊ぼうと誘う。
「こんな手じゃ、なんもできねぇからな。追いかけっこでもするか?」
ミカエルが走り込むと、クリスは尻尾を振って駆けた。
「待てやオラァっ」
一人と一匹は中庭を縦横無尽に駆け回って木陰に戻り、木と黒髪の生徒を挟んで対峙する。
「降参。俺の負けだ」
ミカエルはそう言って芝生に倒れこんだ。
クリスがやって来て、労うように顔を舐め回す。
「ぅぶふっさんきゅ」
ミカエルは指先で金茶に触れ、優しい瞳を見上げる。クリスは傍らに寝転んで、ミカエルに抱き着かれたままじっとしていた。
「そろそろ生徒が戻ってくる」
木陰でミカエルたちを眺めていた黒髪の生徒が立ち上がる。
クリスも身を起こした。
ミカエルも立ち上がり、両手の痛みに顔をしかめる。
「頭に芝生つけてたら、何か言われる」
ミカエルは頭を振って芝生を落とし、手の甲で背中なども払った。黒髪の生徒は「まだついてる」と言い、ミカエルに歩み寄って髪についていた草を取ってくれた。
「さんきゅ」
間近に立たれると、背が高いと感じる。ミカエルは眉根を寄せて、紅の瞳を見上げた。
「そういや、名前。なんだ?」
黒い睫毛がパチリと動く。
「ルシファーだよ、ミカエル」
「は?」
ミカエルは目を丸くした。
「洗礼受けてその名前?」
「破門されたあと、俺をこうした人が付けてくれたのがこの名前」
「おまえ、それでいいのか」
するとルシファーは眉を上げる。
「君と話していると新鮮な気分になるな。良いとか悪いとか、考えたことなかった」
「そんなふうにしたやつに、かってに付けられた名前なんだろ」
「そうだけど。前の名前は覚えてないし、ずっとそう呼ばれてたから」
ミカエルが口を開きかけたとき、かすかなざわめきが近づき、お祈りを終えた生徒たちがこちらへ来るのを感じた。
ルシファーはさっと身を翻して行ってしまう。
ミカエルは何気なく生徒に紛れて教室に向かった。ミカエルを見つけたサリエルが隣に並ぶ。
「……痛そうだね」
「くっそ痛かったし今も痛ェ」
「ラファエル先生が鞭打つの、初めて見たよ。あんなに唸る鞭も。見ているだけで痛かった」
思い出したらしいサリエルは、震える身体を抱くような仕草をした。
「俺、いつもより見られてね?」
「そりゃ、あんなインパクトあるのを見せられたらね。話を聞いた人も気になっちゃうよ。君の意外な一面も見られたし」
「ああ?」
「そういう普段の君とのギャップがさ。涙ぐんだ姿を見たら、僕もちょっとキュンとした」
照れたように "心臓鷲掴み" のジェスチャーをするサリエルから、ミカエルはなんとなく距離を取る。
「ちょ、待って。気をつけた方がいいよ。君はカッコイイ系だけど綺麗めだし、イケる人も多いと思うんだ」
「褒めてんのか? 何に気をつけんだよ」
「なるべく一人にならないようにするとか、建物の裏手に呼ばれても行かないとか」
「やたらに問題起こす気ねぇからな」
もどかしそうな顔をするサリエルに、ミカエルは片眉を上げた。
両手が痛い。すぐに血は止まったが、痛みはなくならなかった。
あの部屋には、患部をすっかり綺麗に治せるものがありそうだ。それを使ってくれないのは、これが罰だからだろう。
「ちきしょー」
この痛みはいつまで続くのだろうか。治せるのに治さないなんて、おかしな話だ。
「イテェよ」
早くもめげそうになっていたとき、金茶のモフモフが視界に入った。大きな犬だ。いま、猛烈に癒しを求めている。
ミカエルは犬を追って小走りで中庭に出た。
「クリス」
木の向こうから聞こえた声に反応し、その犬は嬉しそうに尻尾を振って駆けた。
ミカエルはかすかに目を丸くする。
クリスという名を聞いたとき、頭に浮かんだ白い大型犬。赤い煉瓦屋根が彩る町の風景、バラキエルの肩車。ミカエルが幼いころ、二人は町で暮らしていたのだ。
クリスという名の大きな白い犬は、当時、ミカエルの一番の友だちだった。ミカエルはクリスといっぱい遊んだが、クリスがどこで飼われていたかは知らない。
「おまえ…」
思い出に浸りながら金茶のクリスのもとへ向かうと、木陰で彼を撫でていたのは、昨夜脱衣所で会った黒髪の生徒だった。
紅の瞳がすっと向けられる。
「君、こんな所にいていいの」
「おまえもな」
クリスは人懐こい性格らしく、尻尾を振ってミカエルのもとへやって来て、おもむろに飛びついた。
「ぅおっ。ははっ」
首を伸ばしてくるので抱きしめるように腕を巻きつける。顔をベロベロ舐められた。
包帯の手は使い物にならない。柔らかそうな毛並を堪能すべく、金茶に顔を埋める。
「おまえ、いい匂いだな」
顔を突っ込んでくるミカエルが遊びを誘っているとでも思ったか、クリスはミカエルから離れると、右へ左へジャンプして、もっと遊ぼうと誘う。
「こんな手じゃ、なんもできねぇからな。追いかけっこでもするか?」
ミカエルが走り込むと、クリスは尻尾を振って駆けた。
「待てやオラァっ」
一人と一匹は中庭を縦横無尽に駆け回って木陰に戻り、木と黒髪の生徒を挟んで対峙する。
「降参。俺の負けだ」
ミカエルはそう言って芝生に倒れこんだ。
クリスがやって来て、労うように顔を舐め回す。
「ぅぶふっさんきゅ」
ミカエルは指先で金茶に触れ、優しい瞳を見上げる。クリスは傍らに寝転んで、ミカエルに抱き着かれたままじっとしていた。
「そろそろ生徒が戻ってくる」
木陰でミカエルたちを眺めていた黒髪の生徒が立ち上がる。
クリスも身を起こした。
ミカエルも立ち上がり、両手の痛みに顔をしかめる。
「頭に芝生つけてたら、何か言われる」
ミカエルは頭を振って芝生を落とし、手の甲で背中なども払った。黒髪の生徒は「まだついてる」と言い、ミカエルに歩み寄って髪についていた草を取ってくれた。
「さんきゅ」
間近に立たれると、背が高いと感じる。ミカエルは眉根を寄せて、紅の瞳を見上げた。
「そういや、名前。なんだ?」
黒い睫毛がパチリと動く。
「ルシファーだよ、ミカエル」
「は?」
ミカエルは目を丸くした。
「洗礼受けてその名前?」
「破門されたあと、俺をこうした人が付けてくれたのがこの名前」
「おまえ、それでいいのか」
するとルシファーは眉を上げる。
「君と話していると新鮮な気分になるな。良いとか悪いとか、考えたことなかった」
「そんなふうにしたやつに、かってに付けられた名前なんだろ」
「そうだけど。前の名前は覚えてないし、ずっとそう呼ばれてたから」
ミカエルが口を開きかけたとき、かすかなざわめきが近づき、お祈りを終えた生徒たちがこちらへ来るのを感じた。
ルシファーはさっと身を翻して行ってしまう。
ミカエルは何気なく生徒に紛れて教室に向かった。ミカエルを見つけたサリエルが隣に並ぶ。
「……痛そうだね」
「くっそ痛かったし今も痛ェ」
「ラファエル先生が鞭打つの、初めて見たよ。あんなに唸る鞭も。見ているだけで痛かった」
思い出したらしいサリエルは、震える身体を抱くような仕草をした。
「俺、いつもより見られてね?」
「そりゃ、あんなインパクトあるのを見せられたらね。話を聞いた人も気になっちゃうよ。君の意外な一面も見られたし」
「ああ?」
「そういう普段の君とのギャップがさ。涙ぐんだ姿を見たら、僕もちょっとキュンとした」
照れたように "心臓鷲掴み" のジェスチャーをするサリエルから、ミカエルはなんとなく距離を取る。
「ちょ、待って。気をつけた方がいいよ。君はカッコイイ系だけど綺麗めだし、イケる人も多いと思うんだ」
「褒めてんのか? 何に気をつけんだよ」
「なるべく一人にならないようにするとか、建物の裏手に呼ばれても行かないとか」
「やたらに問題起こす気ねぇからな」
もどかしそうな顔をするサリエルに、ミカエルは片眉を上げた。
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