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2章.Kyrie

痛みの体験

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 部屋に戻ったら、課題に古語の勉強。ミカエルは欠伸しながら羽ペンをインクに浸し、目を瞬いて取り組んだ。

「消灯だ。もう寝なきゃ」

 鐘の音が聞こえるころ、サリエルが言った。

「まだ終わんねえ」
「消灯を過ぎても明かりが灯っていると、教師がやって来る。あとは分かるだろ?」
「それで提出が遅れても怒るって? どうしようもねえな」

 ミカエルは仕方なく羽ペンを置き、伸びをした。

「んまぁ、布団の中で明かり灯してやる人とか、トイレで勉強する人もいるけどね」
「布団、燃えねぇか?」
「もちろん、燃やしてバレた人もいるよ」

 サリエルはニコリと笑って明かりを消して、ベッドに入った。
 今日はもう眠くて無理だが、最終手段はトイレだなとミカエルは思う。

「おやすみ」
「おー…」

 布団に入ったら、おやすみ三秒だった。


 ゆさゆさと揺さぶられる感覚がして目蓋を上げる。

「起きた?」
「……あ?」
「おはよう。朝だよ」

 ミカエルは起き上がって窓のほうを向く。光が眩しく、目を開けていられない。まだ身体が睡眠を求めている。

「あんまりのんびりしていたら、朝食食べる時間なくなるよ」
「……だりぃ」
「熱でもあるの?」
「ねーけど。寝足りねー」

 ミカエルはゆらりと立ち上がり、欠伸しながら着替え始める。決められた時間に合わせた生活は身体に酷だ。

「そのうち慣れるよ」

 サリエルは苦笑してミカエルを急かした。

 朝食を終えて学校へ向かうころ、ようやく少しは頭が回るようになった。ここの生徒は、こんな生活によく耐えられるものだ。

「逃げ出すやついねぇのか?」
「聞かないね」

 ミカエルは半目で欠伸する。
 前方から教師がやって来て、サリエルが挨拶した。ミカエルも同じように挨拶して通り過ぎようとしたところ、名前を呼ばれてしまう。その声に聞き覚えがあり、ミカエルは嫌々振り返った。
 出会ったときは全身真っ黒で、黒い印象が強かった。しかし今、その上に白い上着を羽織り、実に眩しい。草色の髪の彼、ラファエルは、ポケットに手を突っ込んでラフに佇んでいた。

「ずいぶん眠そうですね」
「課題とかやってて、寝るの遅かったからデス」
「消灯後も起きてやってたんですか?」
「そんとき寝たけど」

 ラファエルはいつもの微笑を浮かべたままミカエルにゆったり近づき、首を傾げる。

「教師に挨拶したあと、君には言わなければならない言葉があるのでは?」
「……心を、魂を、力を尽くし、我が神、主を愛しマス。隣人も自分のように愛しマス」

 数秒の後、思い出して声に出すも、時すでに遅く。ラファエルは自身の手を前に出し、「両手をここに」と言った。
 ミカエルは眉根を寄せて両手を差し出す。

「これを持っていてください」

 そう言って手の平に乗せられたのは長い鞭の先端だ。ミカエルが動かないでいると、ラファエルは肩をすくめて晒された両手首に素早く鞭を巻きつけた。

「あ?」
「教師が与える罰はありがたく受けること。お返事は?」
「……ハイ、センセー」
「よろしい」

 次の瞬間、ラファエルはどこからともなく教鞭を取り出し、ミカエルの両手目掛けて打ちつけた。
 ペネムエルとは比べものにならない速度だ。
 それでも避けようとした手は、巻きつけられている鞭を引っ張られることで阻害され、あえなく敏速の教鞭に打たれてしまった。

「っぅ」

 ミカエルは経験したことのない痛みに背中を丸める。打たれた手の平は、切れて血が滲んでいた。

「言葉に反して、手を引っ込めようとしましたね」
「……こんな、痛ェと思ったら、かってに身体動くだろっ」
「言い訳ですか? もう一度、同じ痛みを味わいたいようですね」
「ッ次は、動かないようにがんばる。マス」

 同じだなんてとんでもない。血の滲む手に同じことをされたら、より痛むはずである。
 ミカエルは慌てて言いながら顔を上げた。
 ラファエルの唇がかすかに開かれ、顔に手が伸ばされる。ミカエルは避けようとする身体をなんとか押さえつけていた。大きな手が頬を包んで、その親指が目許をなぞる。

「そんなに痛かったんですか?」
「ハイ、センセー」

 ミカエルは唇を尖らせた。こんなに痛い思いをしたのは初めてだ。それなのに治癒できないと思うと、絶望的な気分になった。
 手首を拘束していた鞭が外される。

「出血していては勉強に差し支えるでしょう。来なさい。止血してあげます」
「……ハイ、センセー」

 綺麗に治してくれないらしいのがなんとも言えない。

「僕、講堂行ってるね」

 サリエルは心配そうな顔をしていたが、それだけ言って去った。

「床が汚れないよう、これを持ってください」

 手の平から零れ落ちた血が地面を赤く染めている。ミカエルは渡された布切れを無言で受け取り、傷口に当ててラファエルの後に続いた。

「急がないと朝のお祈りが始まってしまいますね。遅刻したら君は罰を受けるでしょう」
「は、」
「私が事情を説明すれば免れるでしょうが。どうしましょうか」

 静まり返った石畳の廊下は、いつかと違って光に溢れている。ミカエルは痛みに意識を持っていかれたまま、眉根を寄せて楽しげな微笑を見上げた。

「オネガイシマス」
「まったく心がこもっていませんね。泣いてお願いされたら聞いてあげてもいいですよ」
「ああ?」
「この鞭で君が泣くお手伝いをしてあげましょうか」
「っ心から思ってマス、センセー!」

 ミカエルが精いっぱい純心に見えるようがんばっているうちに、医務室と書かれた木版が吊り下げられたドアに着いた。
 ラファエルはガチャリと開いてミカエルを室内へ誘う。棚に並んだたくさんの小瓶。独特の匂いがする部屋だ。

「すぐにでもショック療法を行うことになると思ったんですけどね。ペネムエル先生は、どうやら今の君が気に入ったらしく」
「は。イ?」
「君をみずからの手で更生させることに躍起になっていらっしゃる。よかったですね」

 ミカエルは顔をしかめて促された椅子に座った。ラファエルが棚から小瓶を一つ取り、こちらへやって来る。

「手を」

 赤く染まった布切れを持ったまま両手を差し出せば、濡れた布切れで手の平を拭われた。

「っ、」
「血を拭いているだけですよ」
「沁みるっ、マス」
「沁みるのはこれからです」

 ラファエルの言葉は正しかった。止血のための何かを傷口に塗られたとき、再びそこを切られたような痛みが走ったのだ。
 ミカエルは堪らず両手を引っ込めた。

「引っ込めていいとは言ってませんよ」

 ミカエルは涙目でラファエルを睨みつけ、ジクジク痛む両手を前に出す。早くも血の色が滲んでいた。

「言う通りにできるようになるまで、教鞭で躾けてあげましょうか?」
「いらないデス」
「ちゃんとできるんですか?」 
「できマス」

 すると突然、ラファエルは素早く動いてミカエルの手首を掴もうとした。ミカエルはやはり避けてしまう。危険を察知すると、身体が反射的に動くのだ。

「いまのは違くて、」

 ミカエルは指摘される前に挽回ばんかいしようと、かわしたラファエルの手に自身の手首を押しつけ、もう片方の手で握るように促す。

「続けてクダサイ」

 また血を拭くところからやられたら嫌だ。
 ミカエルが窺うようにラファエルの顔を見上げると、ラファエルは微笑を浮かべたままキョトンとして、くつくつ笑いだした。

「ショック療法を行ったら、私が君の敬愛する相手になってあげますよ」
「いらねえっデス」
「いまの君に首輪をつけて調教してもいいんですけどね。ここではペネムエル先生のほうが権限があるので、お任せしてるんです」

 ミカエルが歯を食いしばって痛みに堪えている間、ラファエルは適当なことを言っていた。ちなみに、血を拭うところからやり直された。
 最後に包帯が巻かれていく。

「お風呂で濡らさないように。治りが遅くなります」
「こんな手じゃ身体洗えねぇデス」
「三日間、良い子でいられたら治癒してあげますよ。その間身体を洗わなくても、死にはしません」

 ミカエルはちょっぴり瞳を輝かせる。

「治癒っ」
「私の一存で君の身体に傷跡を残すことはできませんから」
「あ?」
「目上の方にはどうするんでしたっけ?」

 貼りつけられた微笑を眺め、ミカエルはしばし考える。

「……けーいを抱く。デス」
「よく覚えてましたね。できてますか」
「できてマス」

 敬語を意識する前から知っている相手だからか、どうにも気が緩む。ミカエルはこれ以上面倒なことにならないように、口をつぐむことにした。

「利口な選択ですね」

 ラファエルは鼻で笑った。
 ミカエルは何も聞かなかったことにして、無言を貫いた。

「これで終わりです。行っていいですよ」

 ミカエルはさっさと立ち上がって踵を返したが、思い出して振り返った。

「アリガトウゴザイマシタ」
「どういたしまして」

 ラファエルは眉を上げ、意外そうな響きで返した。
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