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2章.Kyrie

さながら箱庭

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 ゆっくりと目蓋を上げる。
 見覚えのない天井に違和感を覚え、ミカエルは身体を起こした。ぼんやりと辺りを眺め、聖学校に連れてこられたことを思い出す。

「あの野郎、」

 ラファエルに対して思うことは、とてつもない程いっぱいあったが、それ以上にバラキエルのことが気になった。どこへ連れて行かれて、どうなったのか。今はどうしているのか。ミカエルには何もわからない。
 狭い通路を挟んだ向こう側のベッドはこんもり丸く、サリエルはまだゆめの中である。
 ミカエルはベッドから抜け出して、狭い通路の突き当りにある上げ下げ窓を押し上げた。鉄格子の向こう、眼下に森が広がっている。連れてこられた時に、ここが壁に囲まれているのを見た。木々の合間に境界があるのだろう。ここから出るのは不可能だとラファエルは言ったが、本当だろうか。
 ミカエルは左手を持ち上げ、意識を集中させて炎を出そうとしたが、何も起こらなかった。

「力が使えねえのは本当か」

 あの部屋限定の話なら良かったのに。
 かすかに空気の揺れを感じて目をやると、サリエルが顔を上げてこちらを向いた。

「はやいね、もうおきたんだ…」
「時間じゃねえなら寝てろよ。夜、遅かっただろ」
「んー…、もう起きる時間だ」

 空を見上げたミカエルは、寝るのが遅かったわりに普段通りに起きれたなと一人ごちる。ここで暮らしている人々は、睡眠時間が少なそうだ。

「君も着替えて支度して。顔洗って、朝食に行こう」

 ミカエルは「おう」と答えてサリエルに続いた。

 廊下は生徒でごった返している。こんなにたくさんの人間がいたのかと、ミカエルは驚いた。誰もが同じ服を着ているのが妙だ。それに、四方から視線を感じる。
 眉根を寄せたミカエルを見上げて、サリエルは苦笑する。

「君、やっぱり目立つね。そもそも途中から来る人はあまりいないし、見目がいいから」
「落ち着かねえ」
「すぐに慣れるよ」

 食堂に着く頃には、彼らの視線がミカエルだけでなく、サリエルにも注がれていることに気がついた。
 ミカエルに向けられる視線は好奇心や好意的なものが多い。一方、サリエルに対するものは、全く異なる印象を受けた。

「場所、空けてくれてよかった。君のおかげだ」
「なんもしてねぇ」
「訂正するよ。君の顔面力または眼力のおかげ」

 朝はバイキング形式で、列になって料理の前を通過し、食べたいものをお皿に盛っていく。ミカエルは初めて見る料理に首を傾げつつ、野菜ばかり盛っていた。
 長椅子の空いた場所に座ったサリエルは、ミカエルの皿に目をやり眉を上げる。

「ヘルシー思考?」
「あ?」
「あー、遠くから来たのかな。食べてみる? これも美味しいよ。あ、食べる前と食べ終わったらお祈りね」

 ミカエルはサリエルを真似て手を組むと、目を閉じた彼を見習い片目を閉じて、薄目でサリエルを観察しながら呪文のような言葉を復唱した。

「何言ってたんだ?」
「え、ああ、古い言葉。君もこれから覚えさせられるよ」
「は?」
「聖典はこの言葉で書かれてるんだ。現代語にしたのもあるけど、まぁ、教養ってやつさ」
「いや、現代語でいいだろ」
「やっぱり源流が一番なんだよ。高学歴の証としても優秀だしね」

 ミカエルは納得がいかなかったが、「あと、食事中に話すのはダメだから」と言われて会話は打ち切られた。妙な決まりだ。そういえば、人が多いわりに話し声はあまり聞こえない。
 お祈りは面倒だが、サリエルがくれた見知らぬ料理は甘くて美味しかった。
 食堂を出ると、不意にサリエルがくつくつ笑う。

「ンだよ」
「いや、君さ、食べ方は上品なんだね」
「フツーだろ」
「そうかな、ちゃんとしてる感じがする。別人みたいだった」

 ニコニコ笑うサリエルは楽しそうだ。
 笑顔ってのはこういうもんだよな、と。思って、某教師を思い出し、イヤな気分になった。

「それにしても、昨日は驚いたよ。あの捕獲された感。何があったんだい?」
「寝てたら捕まって連れてこられた」
「あー、森で? 信じがたいけど、君はミカエルだもんね。逆に、なんでこれまで学校にいなかったのか不思議だ」
「俺としちゃあ、この名を恨むぜ」

 サリエルは優等生らしいので、彼を模範に振る舞えば間違いないだろう。
 道すがら、遭遇した教師には挨拶を。ヘビのような黄色い目にジロジロ見られたが、おかしな点はないはずだ。

「さっきの、ペネムエル先生。規律に厳しくて、すぐに鞭打ちするんだ」
「教師は鞭が好きだな」
「声抑えてっ。たしかに、罰といえば鞭だね。あの先生の前では、特に振る舞いに気をつけてね」

 ここでは、講堂から一日が始まるという。
 ミカエルは高い天井を見上げ、窓枠にはめられた絵をぼぅっと眺めた。色とりどりの光がキラキラしている。あれが何なのか知りたいと思ったが、ここでもおしゃべりは禁止だ。
 というか、基本的に無言なのがいいらしく、話すときは小声が普通なのだとか。寮ではそこまで注意されないが、学校ではアウトらしい。
 鐘が鳴って講堂に生徒が集まると、理解不能な言葉による儀式が始まった。何も分からないミカエルは黙って空気に徹する。欠伸を堪え、常に真顔でいるよう心がけた。ここには男しかいないらしいが、歌声に高めの声が紛れており、声変わり前の少年の存在を思わせた。ミカエルも、声変わりしたのは昨年あたりだ。

 儀式を終え、教室へ移動する生徒は皆、せわしない。

「歩くの速ぇな」
「急がないと、場所によっては間に合わないから」
「走れば?」
「それはダメ。注意される」

 ミカエルは思わずサリエルの顔を見た。
 しゃべるな走るなと、いちいち煩い所だ。しかも、遅刻したら罰を与えられるという。

「俺はここに来るまで時計なんて見たことなかったぜ」
「君、本当にどんな生活してたの?」

 講義中はサリエルにならい黒板に書かれたことをノートに書いて、写本の時間はそれに打ちこむ。初めての体験ばかりで新鮮だったが、だいたいが退屈で、昼までの時間がやたらと長く感じたし、放課後までもそうだった。
 寮への帰り道、ミカエルはうんざり顔で言う。

「身体を動かす講義はねえのかよ」
「そんなにないよ。身体を動かして働く人たちを、口先で動かす仕事に就きたい人が多いんだ」

 そちらを向くと、サリエルは悪戯に笑った。

不遜ふそんなことを言っても、君は教師に言い付けたりしないだろ」
「俺が何か言っても、おまえは言い付けねえか?」
「積極的に言いやしないけど、聞かれたらわかんない」

 実に素直な回答である。

「そういや、おまえの名前も何かあんのか?」
「僕?」
「おまえもよく見られてるだろ」

 するとサリエルは瞬きして苦笑する。

「僕の場合は名前じゃなくて、この目。邪眼って言われてるんだ」
「じゃがん?」
「うん。悪意をもって睨むと、相手の具合を悪くしたりできる。ここでは力が使えないけど、それでも僕と目が合わないようにしている人は多いよ」
「だからソレつけてんのか」
「眼鏡ね。直接見られるより、少しはマシかと思って」

 灰色の目を隠すように睫毛を下げて前を向いたサリエルは、どこか遠くを見ている。

「ここに来たあと、ラファエルさんにおねだりして買ってもらったんだ。ここではフードを被って隠すこともできないし」
「目が合っただけで石になるとか、そういうんじゃねえんだろ。そもそも、ここじゃ力が使えねぇんだ。そんなに気になるか?」

 かすかに目を見開いて振り返ったサリエルは、何か言いたそうな顔だ。それが突然、噴き出すように笑って「そうだよね」と言った。
 ミカエルは片眉を上げる。
 辺りに広がる森を眺めて口を開いた。

「ここってよ、力が使えねえだけじゃなくて、出らんねえって本当か」
「本当だよ。僕も来るとき言われて、敷地内に入ったとき、試しに戻ろうとしてみたんだ。ムリだった」

 橙色に染まった大地に目を落とす。

「君は試さない方がいいよ。要注意人物に思われてるんだろ?」
「おう」
「変なことして、見つかったら大変だ」

 その通りなのだが、何もしなかったら、卒業までここを出られない。
 ふと顔を上げて寮の屋根に目をやると、長い髪を靡かせた人影が見えた気がした。
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