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1章.Introitus

ミカエルという名前

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 玄関に鍵がかかっていたため、あえなく窓から室内に戻ることになった二人。暖炉の前に置かれた揺り椅子にドカリと座ったバラキエルは、憂いに満ちた表情で酒を注ぎ足し、一気にあおる。
 それを横目で眺め、隣の椅子に座ったミカエルは口を開いた。

「師匠、さっきのは、」
「人間が造り出したデビルという名の化け物だ」
「人間がつくった…?」

 バラキエルは渋い顔で口をつぐむ。しかし、じっと向けられる好奇心溢れた眼差しに負け、諦めたように言葉を続けた。

「ヤツは聖石しょうせき の波長に弱い。俺の剣にはそれが混じってる。で、滅することができたっつうわけだ」
「あ?」
「お前のつけてるそれも、聖石でできてるんだぜ」

 バラキエルは、ミカエルの首から下がる十字架を顎で示した。

「それがありゃ、いざという時、少しの時間稼ぎになる」
「お守りって、そういう意味だったのか」

 眉を上げたミカエルに、バラキエルは怪訝そうな顔をした。

「ああ?」
「師匠が言ったんだぜ。だからずっとつけてんだろ」
「……ホンットお前は。物覚えのいい頭だな」

 嫌そうな顔で逞しい首に手をやっている。それからバラキエルは揺らめく炎に目を落とし、息を吐き出した。

「お前にはまず、宗教について話さねェとな。聖正教っつう一神教の宗教が、ここらで広く信仰されているんだが、」
「意味わかんねえぞ。しゅーきょーってなんだ。親交? デビルの話に繋がんのか」

 しかめ面のバラキエルが言葉を発する前に、ミカエルは続けた。

「今更そんなこと、知る必要あるのかよ」

 バチッと薪がぜる。
 揺らめく炎に照らされた横顔は、どこか遠くを見ているようだ。言い知れない不安が湧き上がる。

「空いた皿持って来い」
 
 バラキエルは空になった食器を手におもむろに立ち上がり、台所へ向かった。食後に皿を洗う姿は見慣れたものだ。ミカエルも食器を持って続いた。

「お前はもう十七だ。デビルも来ちまったことだし、そろそろ、世の常識というのを知るべきだ」
「ここでの生活には必要ねえ。だから師匠は、そんな話しなかったんだろ」

 蛇口から流れ落ちる水の音。食器を洗う背中はどこか頑なだ。

「いいから聞け。信仰ってのは、尊く神聖なものを信じることだ。世界を創った神というスゲェ存在がいるって、世の中では信じられてんだよ」

 ミカエルにはどうでもいい話だが、バラキエルがわざわざ話して聞かせるのだから、何か意味があるのだろう。

「その神を軸に、生き方や人間のあるべき姿を説いているのが宗教だ。地域によって、信じる神のイメージは違ったりするからな。色んな宗教がある」
「師匠の宗教は?」
「……捨てちまったよ」

 流れ落ちる水音に紛れてしまいそうな声だった。
 ミカエルは居た堪れない気持ちになって、バラキエルに背を向け、カウンターに肘をつく。

「この世界がどうやってできたかなんて、考えたこともねえ。……全部カミが創ったんだとしたらスゲェな」

  途方もない話だ。

「会ったことあるやつ、いるのか?」
「神の御使いに会った話なら、聞いたことがある。光を見ただ、ゆめで会っただ…」
「実体はわからねえってことか」

 たしかに、神が人々の前に姿を現すなら誰もが知っているはずで、様々な宗教など生まれないだろう。分からないからこそ、様々な考えが生まれる余地がある。つまり、本当のところは何も分からないというわけだ。

「どう生きるかなんて、自分で決めるもんだろ」

 ミカエルは振り返ってバラキエルを捉え、静かに言った。

「俺、師匠と暮らすの楽しいから、他のところに行きたいなんて思ったことねえよ」
「おまえは他を知らねえからな」
「ちげえ! 知りたいとも思わねえくらい、今で満足してるんだ」

 タオルで手を拭っていたバラキエルの動きが一瞬止まる。

 ドンドンドンっ

 玄関扉を叩く音に二人はハッとした。
 人里離れた森の一軒家に、こんな時間に来訪者が来るなんて。訝しみながらも玄関へ向かおうとしたミカエルの肩を、大きな手が掴む。振り返れば、バラキエルは何事もなかったかのように話し始めた。

「この国に住んでる人間は、誰もが聖正教の教えに従って生きてる信徒だ。異教徒や洗礼を受けてない者は、人でなし認定をされる」
「なんだそれ。俺も人でなしってか?」

 ミカエルは鼻で笑った。バラキエルは、深く息を吐く。

「残念なことにな、――ミカエル。この名が与えられた時から、お前は、教会と縁が結ばれちまってるんだよ」
「は?」
「お前は赤ん坊のときに、教会で洗礼を受けた。教会ってのは、聖正教の儀式を行うための建物だ。そのほうが生きやすいと思って、俺が連れてった」

 ミカエル。
 それは紛れもなく、教会で洗礼を受け、授かった名だった。

「……ンだよ。勝手にひとを信徒にしやがって」

 ミカエルは物凄く嫌そうな顔をする。何かに縛られるのが大嫌いなのだ。それでも、ちょっぴり嬉しい気持ちもある。それはバラキエルが、ミカエルのためを思ってしてくれた事だから。
 そんな内心をすっかりお見通しなバラキエルは、金髪の猫っ毛をポフポフ撫でた。

「あの時は、それがベストだと思ったんだよ。まさかミカエルなんて大層な名前、もらっちまうとは思わねえから」
「どういう意味だよ?」

 パチリと瞬く緑の目。

の大天使の名前をつけたくなるくらい、お前の秘めた力が大きかったんだろうさ」

 ドンドンドンドンドンっ

 再びの玄関扉を叩く音。ミカエルが舌打ちして今度こそ玄関に向かおうとしたところ、今度は腕を掴まれ、引き止められた。

「お前、親のこと知りてェと思うか」

 ミカエルは眉根を寄せて振り返る。

「なんで今だよ」

 扉を叩く騒々しい音に追い立てられて、焦燥感が湧き上がる。
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