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1章.Introitus
森の春
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星明りの下、ミカエルは鞭でぐるぐる巻きになったまま、聖学校の敷地内を引きずられていた。ズルズルと木々の合間を進んで建物に近づいていく。
「はーなーせーっ」
「ここがどういう所か、君は知る必要がありますね」
入口まで来ると、今度は肩に担がれた。なんとも間抜けなことになっている。
「暴れないでください。落ちて痛い目見るのは君ですよ」
「うっせェ。どこ向かってんだよ」
「ひとまず応接室に。そこで聖学校について話します」
どうしてこんな事になったのか。晩飯までは、なんの変哲もない今日だったのに――。
◇◆◇
青空が太陽の色に染まる頃、摘んだ野草をバスケットに入れたミカエルは、獣道を歩いていた。季節ごとに取れる野草のありか、虫たちの営み、ここを縄張りにしている動物のこと。この辺りのことは、なんだって知っている。
冷たい小川の水で喉を潤し一息つくと、水面の向こうに広がる青花の絨毯に目を奪われた。その色は、何度見ても見飽きることがない。微睡みのような春の匂いに意識が漂う。
美しい鳥の声が響いて消えた。
涼やかな風に頬を撫でられ、ミカエルは歩みを再開させた。そのうち、木々の合間に小さな木造家屋が見えてくる。草に覆われた屋根が、見事に森に馴染んでいた。
軒先で薪を抱えたバラキエルの姿を見つけると、ミカエルは「師匠」と声を弾ませ、そちらへ向かった。
ほんの少し眼光の和らいだ鳶色の瞳。厳つい顔がこちらを向く。
「ネトルあった」
「春だな。トゲ、触んねかったか」
「そんなヘマしねえ。スープでいいだろ」
「ああ」
大きな手が金色頭をわしゃわしゃする。
ミカエルはくすぐったそうに笑った。
「先に風呂入れ」
「おう」
足を止めずに答え、台所へ。
まだミカエルがバラキエルの腰ほどの背丈だった頃、バラキエルが野菜を切るのを爪先立ちで見ていた。野菜の上で丸められた無骨な手。大きな手には不似合いな小型ナイフが、不規則にリズムを刻む。
窮屈そうな姿が面白い。
最初のうちはそう思って見ていたが、次第に、自分にもできるのではないかと思うようになった。バラキエルは、ミカエルが望むことは大抵やらせてくれる。気付けば、ミカエルのほうが料理上手になっていた。
収穫した野草にしかるべき処理を施し、風呂へ行く。熱い湯にゆったり浸かるバラキエルと異なり、ミカエルは烏の行水だ。
「夜はまだ冷える。ちゃんと温まれ」
浸かって早々、窓の外から聞こえた声にミカエルは半目になった。
「熱ぃ、のぼせる」
「こんなすぐにのぼせられるか。タコも茹で上がらねえよ」
「俺、たこ知らねーもん」
言葉にした後、気まずさにムッと膨れ面をした。沈黙に耐えられず、ミカエルはザバンと立ち上がる。
「師匠ー、もう限界。出る」
「ったく、ちゃんと拭け」
「おー」
バラキエルはたまに町へ下り、必要な物を手に入れてくる。「一人で行く」と頑なな目が言うので、ミカエルは同行を願い出たことがない。ここでの生活は気に入っていたから、それでよかった。
ダイニングに戻ると、外から戻ったバラキエルが暖炉に火を起こしていた。後ろに撫でつけられた焦げ茶色の髪を眺め、ミカエルは口を開く。
「なぁ、俺べつに、知りたいわけじゃねえからな。たこ」
「……そうか」
「次に町行ったら、靴も頼むぜ。前のもうキツい」
バラキエルは立ち上がって振り返り、真っ直ぐにミカエルを捉えて顔を歪ませるように笑った。
「すぐに履けねくなっちまうな」
「成長期なんだよ。師匠よりデカくなるんだから当然だろ」
「そいつは楽しみだ」
大きな手が、ミカエルの頭に乗っていたタオルを掴んで、優しく髪を拭う。
「ついこの間まで、踏み台がねえとまな板に手も届かなかったのにな」
「いつの話だよ。俺の身長、もう師匠の目の高さ超えてっぞ」
「寝癖までカウントするな猫っ毛が。今なら俺の目のほうが高い」
「俺の身長は朝決まるんだよ。今じゃねえ」
睨み上げると、バラキエルは鼻で笑って風呂に向かった。
その間にミカエルは料理をこしらえ、揃って晩飯をいただく。赤々と燃える暖炉の火を見ながら晩飯を食べるのも、あと数日のことだろう。
「飲むか?」
差し出されたのは、透き通った黄金色の液体だ。バラキエルはこれがないと生きていけないと言うが、ミカエルにはちっとも理解できない。
「いらね。うまくねえ」
「やっぱまだ子どもだな」
アルコールが入るとバラキエルはよく笑う。
「野草の苦味の良さがわかるようになったら大人だろ」
「ンなこと言ったか?」
「言った。師匠が料理してたころ」
バラキエルは片眉を上げ、杯を呷った。
そのとき、不意に外で感じた異様な気配。
こちらへどんどん近付いてくる。
バラキエルが壁に立て掛けていた大きな剣をむんずと掴み、近くの窓から外へ飛び出した。
「っ師匠!」
ミカエルも、剣を手に持ち後を追う。
「なんなんだよ、この気配」
おぞましい。
動物でも人間でもない。
バラキエルが暗闇をひたと捉え、剣を構える。
「っ、」
現れた姿にミカエルは息を呑んだ。
――黒い。
空間に穴が空いたようだ。纏うオーラのなんと禍々しいことか。
朧なそれは背が高く、背中にコウモリのような翼を持っている。唖然と立ち尽くしていたミカエル目掛け、滑るようにやって来た。
流れをぶった切るように煌めく一閃。
それは耳障りな咆哮を響かせ、斬られたところから光の粒子となり、消えた。
バラキエルが構えていた剣を静かに下ろす。小さく息を吐き、振り返った。ミカエルはハッと我に返って口を開いたが、その口が音を紡ぐことはなかった。
「戻るぞ。飯の途中だ」
バラキエルはすれ違いざまにミカエルの頭を一撫でし、暖かな明かりの灯った家へ向け、ゆったりと足を進ませた。
大きな背中をしばし眺めて、ミカエルも後に続いた。
「はーなーせーっ」
「ここがどういう所か、君は知る必要がありますね」
入口まで来ると、今度は肩に担がれた。なんとも間抜けなことになっている。
「暴れないでください。落ちて痛い目見るのは君ですよ」
「うっせェ。どこ向かってんだよ」
「ひとまず応接室に。そこで聖学校について話します」
どうしてこんな事になったのか。晩飯までは、なんの変哲もない今日だったのに――。
◇◆◇
青空が太陽の色に染まる頃、摘んだ野草をバスケットに入れたミカエルは、獣道を歩いていた。季節ごとに取れる野草のありか、虫たちの営み、ここを縄張りにしている動物のこと。この辺りのことは、なんだって知っている。
冷たい小川の水で喉を潤し一息つくと、水面の向こうに広がる青花の絨毯に目を奪われた。その色は、何度見ても見飽きることがない。微睡みのような春の匂いに意識が漂う。
美しい鳥の声が響いて消えた。
涼やかな風に頬を撫でられ、ミカエルは歩みを再開させた。そのうち、木々の合間に小さな木造家屋が見えてくる。草に覆われた屋根が、見事に森に馴染んでいた。
軒先で薪を抱えたバラキエルの姿を見つけると、ミカエルは「師匠」と声を弾ませ、そちらへ向かった。
ほんの少し眼光の和らいだ鳶色の瞳。厳つい顔がこちらを向く。
「ネトルあった」
「春だな。トゲ、触んねかったか」
「そんなヘマしねえ。スープでいいだろ」
「ああ」
大きな手が金色頭をわしゃわしゃする。
ミカエルはくすぐったそうに笑った。
「先に風呂入れ」
「おう」
足を止めずに答え、台所へ。
まだミカエルがバラキエルの腰ほどの背丈だった頃、バラキエルが野菜を切るのを爪先立ちで見ていた。野菜の上で丸められた無骨な手。大きな手には不似合いな小型ナイフが、不規則にリズムを刻む。
窮屈そうな姿が面白い。
最初のうちはそう思って見ていたが、次第に、自分にもできるのではないかと思うようになった。バラキエルは、ミカエルが望むことは大抵やらせてくれる。気付けば、ミカエルのほうが料理上手になっていた。
収穫した野草にしかるべき処理を施し、風呂へ行く。熱い湯にゆったり浸かるバラキエルと異なり、ミカエルは烏の行水だ。
「夜はまだ冷える。ちゃんと温まれ」
浸かって早々、窓の外から聞こえた声にミカエルは半目になった。
「熱ぃ、のぼせる」
「こんなすぐにのぼせられるか。タコも茹で上がらねえよ」
「俺、たこ知らねーもん」
言葉にした後、気まずさにムッと膨れ面をした。沈黙に耐えられず、ミカエルはザバンと立ち上がる。
「師匠ー、もう限界。出る」
「ったく、ちゃんと拭け」
「おー」
バラキエルはたまに町へ下り、必要な物を手に入れてくる。「一人で行く」と頑なな目が言うので、ミカエルは同行を願い出たことがない。ここでの生活は気に入っていたから、それでよかった。
ダイニングに戻ると、外から戻ったバラキエルが暖炉に火を起こしていた。後ろに撫でつけられた焦げ茶色の髪を眺め、ミカエルは口を開く。
「なぁ、俺べつに、知りたいわけじゃねえからな。たこ」
「……そうか」
「次に町行ったら、靴も頼むぜ。前のもうキツい」
バラキエルは立ち上がって振り返り、真っ直ぐにミカエルを捉えて顔を歪ませるように笑った。
「すぐに履けねくなっちまうな」
「成長期なんだよ。師匠よりデカくなるんだから当然だろ」
「そいつは楽しみだ」
大きな手が、ミカエルの頭に乗っていたタオルを掴んで、優しく髪を拭う。
「ついこの間まで、踏み台がねえとまな板に手も届かなかったのにな」
「いつの話だよ。俺の身長、もう師匠の目の高さ超えてっぞ」
「寝癖までカウントするな猫っ毛が。今なら俺の目のほうが高い」
「俺の身長は朝決まるんだよ。今じゃねえ」
睨み上げると、バラキエルは鼻で笑って風呂に向かった。
その間にミカエルは料理をこしらえ、揃って晩飯をいただく。赤々と燃える暖炉の火を見ながら晩飯を食べるのも、あと数日のことだろう。
「飲むか?」
差し出されたのは、透き通った黄金色の液体だ。バラキエルはこれがないと生きていけないと言うが、ミカエルにはちっとも理解できない。
「いらね。うまくねえ」
「やっぱまだ子どもだな」
アルコールが入るとバラキエルはよく笑う。
「野草の苦味の良さがわかるようになったら大人だろ」
「ンなこと言ったか?」
「言った。師匠が料理してたころ」
バラキエルは片眉を上げ、杯を呷った。
そのとき、不意に外で感じた異様な気配。
こちらへどんどん近付いてくる。
バラキエルが壁に立て掛けていた大きな剣をむんずと掴み、近くの窓から外へ飛び出した。
「っ師匠!」
ミカエルも、剣を手に持ち後を追う。
「なんなんだよ、この気配」
おぞましい。
動物でも人間でもない。
バラキエルが暗闇をひたと捉え、剣を構える。
「っ、」
現れた姿にミカエルは息を呑んだ。
――黒い。
空間に穴が空いたようだ。纏うオーラのなんと禍々しいことか。
朧なそれは背が高く、背中にコウモリのような翼を持っている。唖然と立ち尽くしていたミカエル目掛け、滑るようにやって来た。
流れをぶった切るように煌めく一閃。
それは耳障りな咆哮を響かせ、斬られたところから光の粒子となり、消えた。
バラキエルが構えていた剣を静かに下ろす。小さく息を吐き、振り返った。ミカエルはハッと我に返って口を開いたが、その口が音を紡ぐことはなかった。
「戻るぞ。飯の途中だ」
バラキエルはすれ違いざまにミカエルの頭を一撫でし、暖かな明かりの灯った家へ向け、ゆったりと足を進ませた。
大きな背中をしばし眺めて、ミカエルも後に続いた。
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