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名無し、または夏期講習初日の朝を迎えた女王にまつわる物語
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人生が二度あればと井上陽水は歌う。その歌詞に異議は無い。けれど自論は有る。同じ人生を繰り返して面白いのか? と感じない日は無い。同じ人生が二度あれば嬉しい! なんて奴には異世界に転生する資格が無い、と私は確信している。その幸せな思い出を胸に、あの世で永遠に寝ていろよ、と思うのだ。同時に、同じ味を二度も噛みしめるのは反芻動物に任せておけ、とも言いたくなる。確かに、ループものには抗しがたい魅力がある、それは分かる。だが、新しい人生に一からチャレンジする、それもまた堪えきれない魅力がある。今までとは違う人生を、転生した異世界で過ごすこと。これが再チャレンジの本当の理念であり、そのためのあらゆる支援を惜しまない。それが本講習会を開催する理由の一つである……といった趣旨の発言をした私に向かって、おずおずと挙手した者がいる。風采の上がらぬ中年男だった。
自信なさげな様子だったので、安心感を与えようと、私は笑顔で大きく頷いた。中年男は立ち上がり話し始めたが、声量が足りない。司会が小走りに駆け寄ってマイクを手渡す。中年男はマイクを握る手の小指をピンと立てて話を再開した。鈍臭くて使えない職場の役立たずっぽい風貌なので嫌な予感がしたら案の定マイクがハウリングを起こす。それが全く気にならないのか、なおも話を続けようとするので、司会が男をスピーカーから遠ざけさせた。
能無しが自分の名前を名乗る。何の興味も無いけれど回答時に必要なので手元の紙にメモしておく。その後、男は何事かに気付いたらしく、慌てた様子で言った。
「すみません、今の名前は間違っていました。私は自分の戸籍を売ってしまいましたので、今はもう、名無しです」
戸籍を売買したからといって名前まで失うわけではないだろうが、社会的にはそうなったも同然だ。私は男の名に斜線を引きながら問うた。
「それでは何とお呼びしたらよろしいでしょうか?」
男は、しばし考えた。
「名無し、名無しでお願いします」
戸籍売買は、この世界では犯罪に該当する。ここに司法当局の関係者がいたら、ここにおわす名無しはお縄になるのだ。それを知ってか知らずか、講習会の会場に漂う雰囲気は変わらない。この珍妙な問答に無言で耳を傾けている聴衆の胸中は如何に? と考え私は心中で答えを導き出した。この者たちもまた、名無しと似たような境遇にあるのだろう。だからこそ、自分が異世界から転生した者であるという思いに囚われて、そこから離れられずにいるのだ。
「質問と申しますのは、異世界への転生者は、元の世界に再転生することはあるのですか、という質問なのですが」
頭と尻の両方で質問という言葉を使っているせいか回文みたいになっているが回文でも何でもない。あえていうなら怪文か。
「異世界への転生者が元の世界へ再び転生することがあるのか、というご質問ですね」
私の質問に中年男は頷き、アイドル歌手か選挙の立候補者か何かのようにマイクを両手で握った。
「私は金欠で苦しみ、自殺を考えています。ですが、死んだ後に自分がどうなるか不安なのです。もし以前の世界に転生するのなら……あの世界に生まれ変わってしまうのなら、死ぬよりも恐ろしいことが私を待っている予感がするのです。そう考えると怖くて、死ぬに死ねないのです」
名無しは前世で王族の一員だったという。物心が付いて最初の思い出は王位をめぐる争いに敗れた一派の処刑シーンなのだそうだ。柵に囲まれた刑場に手足を縄で縛られた罪人が放り込まれ、続いて猛獣が放たれる。獅子や狼の群れであったり飛べない巨大な怪鳥や二足歩行の爬虫類であったり、時と場合によって死刑執行役は変わる。そのときはゾンビの大群だった。初めて目にした処刑の思い出は、自分を可愛がってくれた親戚のお兄さんやお姉さん、それに遊び相手だった友達全員がゾンビに食い殺されるもので、何分幼児なので何が何だか事情は分からないが阿鼻叫喚の惨劇を目の当たりにして普通ではいられない。引き付けを起こし倒れてしまう。それを見て新王となった父親が怒り出し「失神するとは我が子ながら情けない奴だ、父の敵が皆殺しになるところを近くで眺めよ!」と叫んで意識の無い娘を柵の近くへ抱いて運び、特等席で捕食の光景を見させようとしたら動きの素早いゾンビが新王の腕を肩から引き千切ってしまった。それが致命傷となり即位して一週間も経たず崩御して、王位在位日数の最短記録を更新したのだが、父の後を継いで王に即位した長男が何者かに一服盛られて死亡し、これが新記録となったのも束の間のこと。我こそは王にふさわしいと好き勝手に即位する輩が王族のみならず卑賎な生まれだが実力のある者まで次から次へと年寄りの顔のシミの如く湧いて出ては消え、どれが正式な在位最短記録になるのかも分からなくなってしまった。そんな中でも猛獣による人食いショーは絶えることなく続けられ、これだけ殺していたらいつか人がいなくなってしまうのではあるまいか、と危惧する者まで現れた。それが誰あろう、引き付けを起こして父の死因を作った幼児、すなわち現世の中年男の前世の姿である。その頃には十代手前の少女となっていたが、成長を喜ぶ者もいれば、父王の血を引く王位継承者である彼女をライバル視する敵もいて、その宮廷生活は危険がいっぱい、猛獣のいる柵の中で毎日を過ごすのと大差なかった。
そんなとき、新たなる大事件が勃発する。仲間割れしているので攻めやすいと判断したのだろうか、隣国が攻めてきたのである。宮廷は大混乱だった。そのときの王は少女の異母兄で、この人物は異母妹に対し病的な敵意を抱いていなかったのは彼女にとって幸運だったといえよう。都へ外国軍が迫るという非常事態にあって、異母兄の王は異母妹を田舎に疎開させようとした。彼女の母は早くに亡くなっていたが、その実家は地方に領地を持っていたので、ここに異母妹を預ければ、まずは安心との考えである。
安心できないのは異母妹つまり中年男の前世である少女だ。宮廷を追い出された者が最終的にどうなってしまうのか、彼女は悲惨な例を数多く知っていた。異母兄の方も、異母妹の安全を第一に考えて疎開させたわけではありまい。近くに置いておくと、いつ寝首を掻かれるか分からない。まだほんの小娘なので、そんな陰謀を企むとは思えないが、何が起こるか分からないのが政治の世界。先に布石を打っておくのが長生きの秘訣――と、兄妹の双方が思った。
兄は妹を厄介払いし、攻め込んできた外国軍との戦争に精力を傾けた。妹の方は、兄と外国軍の両方を殲滅する方法の研究に着手した。簡単にできることではない。常軌を逸した奇策を用いねば勝てないだろう。だが、様々な本を読んでも、これといった良策が書かれていない!
そんな中、解決のヒントとなる一冊が見つかった。天下三分の計が書かれた『三国志演義』である。彼女は諸葛孔明を召喚し、自軍の軍師に招こうとしたが、彼女の黒魔術では孔明を長い時間この世界に留めておくことが不可能だった。せいぜい一夏が限度だろう……ならば、その間に孔明をこき使って、兄と外国軍の両方を滅ぼすのだっ!
そんな虫の良い話が上手くいくはずがなく、召喚した孔明は三顧の礼で迎えなかった無礼者の彼女に仕えることを拒否した。ただし、戦略戦術の講義はして差し上げようと言ったので、彼女はそれで手を打った。かくして女王を目指す少女の夏季集中講義が始まる、その日の朝。彼女は目を覚まさなかった。何者かが先手を打ち、毒殺を試みたのだ。孔明の治療が功を奏し死を免れたとはいえ、意識を取り戻すまでには至らない。死んではいないが意識の無い彼女の魂が、何処にあるかというと、異世界の冴えない中年男の体内である。
その中年男が言った。
「ある日、私は気が付いたのです。自分は異世界の女王となるべき少女の生まれ変わりであると。そしていつかきっと元の世界へ戻り、自分を取り戻すだろうと」
それからマイクを持つ両手で顔を覆った。
「しかし、私が行く世界は修羅の世界です。血を分けた肉親が憎み殺しあうのが常態化している獣の道です。そんな恐ろしいところへ、私は行きたくありません。優しくて温かみのある人間らしい幸せな世界へ転生したいのです」
最良のアドバイスとは言えないが――と前置きしてから私は言った。
「悪役令嬢が弱肉強食の修羅の国でスローライフを目指す、というのはありだと私は考える。難しいと思うが」
中年男の頬に一筋の涙が流れた。
「私にできるでしょうか? この世界では落ちこぼれでした。それに私はロスト・ジェネレーション世代の典型と言われています。社会的には落第だと、上の世代からも下の世代からも笑われて……」
中年男の泣き言にうんざりした私は、きつめのセリフをかました。
「元の世界の君が目覚めないのは、君自身がそれを望んでいるからなのかもしれない。目覚めることのない異世界の娘さんには気の毒だが、それが君の望みならしょうがないね。困難の待つ運命に立ち向かうのは、負け犬の君には荷が重すぎるよ」
自殺を考えている人間に言うのはどうかと自分でも思ったが、自殺した後に別の異世界へ転生するとして、そこが眠る少女の中だとしたら、目覚めるや否や嫌でも運命を戦わねばならなくなる。そこから逃避すべく自殺を試みることは、まずあるまい。そうとも、悪役令嬢は自殺しないだろ(多分)。
中年男はさめざめと泣きながら礼を述べ、司会にマイクを返してから席に座った。
私は聴衆を見渡した。そして彼らに伝える。
「講習の途中でも、質問があれば受け付ける。どんどん手を上げてくれ」
自信なさげな様子だったので、安心感を与えようと、私は笑顔で大きく頷いた。中年男は立ち上がり話し始めたが、声量が足りない。司会が小走りに駆け寄ってマイクを手渡す。中年男はマイクを握る手の小指をピンと立てて話を再開した。鈍臭くて使えない職場の役立たずっぽい風貌なので嫌な予感がしたら案の定マイクがハウリングを起こす。それが全く気にならないのか、なおも話を続けようとするので、司会が男をスピーカーから遠ざけさせた。
能無しが自分の名前を名乗る。何の興味も無いけれど回答時に必要なので手元の紙にメモしておく。その後、男は何事かに気付いたらしく、慌てた様子で言った。
「すみません、今の名前は間違っていました。私は自分の戸籍を売ってしまいましたので、今はもう、名無しです」
戸籍を売買したからといって名前まで失うわけではないだろうが、社会的にはそうなったも同然だ。私は男の名に斜線を引きながら問うた。
「それでは何とお呼びしたらよろしいでしょうか?」
男は、しばし考えた。
「名無し、名無しでお願いします」
戸籍売買は、この世界では犯罪に該当する。ここに司法当局の関係者がいたら、ここにおわす名無しはお縄になるのだ。それを知ってか知らずか、講習会の会場に漂う雰囲気は変わらない。この珍妙な問答に無言で耳を傾けている聴衆の胸中は如何に? と考え私は心中で答えを導き出した。この者たちもまた、名無しと似たような境遇にあるのだろう。だからこそ、自分が異世界から転生した者であるという思いに囚われて、そこから離れられずにいるのだ。
「質問と申しますのは、異世界への転生者は、元の世界に再転生することはあるのですか、という質問なのですが」
頭と尻の両方で質問という言葉を使っているせいか回文みたいになっているが回文でも何でもない。あえていうなら怪文か。
「異世界への転生者が元の世界へ再び転生することがあるのか、というご質問ですね」
私の質問に中年男は頷き、アイドル歌手か選挙の立候補者か何かのようにマイクを両手で握った。
「私は金欠で苦しみ、自殺を考えています。ですが、死んだ後に自分がどうなるか不安なのです。もし以前の世界に転生するのなら……あの世界に生まれ変わってしまうのなら、死ぬよりも恐ろしいことが私を待っている予感がするのです。そう考えると怖くて、死ぬに死ねないのです」
名無しは前世で王族の一員だったという。物心が付いて最初の思い出は王位をめぐる争いに敗れた一派の処刑シーンなのだそうだ。柵に囲まれた刑場に手足を縄で縛られた罪人が放り込まれ、続いて猛獣が放たれる。獅子や狼の群れであったり飛べない巨大な怪鳥や二足歩行の爬虫類であったり、時と場合によって死刑執行役は変わる。そのときはゾンビの大群だった。初めて目にした処刑の思い出は、自分を可愛がってくれた親戚のお兄さんやお姉さん、それに遊び相手だった友達全員がゾンビに食い殺されるもので、何分幼児なので何が何だか事情は分からないが阿鼻叫喚の惨劇を目の当たりにして普通ではいられない。引き付けを起こし倒れてしまう。それを見て新王となった父親が怒り出し「失神するとは我が子ながら情けない奴だ、父の敵が皆殺しになるところを近くで眺めよ!」と叫んで意識の無い娘を柵の近くへ抱いて運び、特等席で捕食の光景を見させようとしたら動きの素早いゾンビが新王の腕を肩から引き千切ってしまった。それが致命傷となり即位して一週間も経たず崩御して、王位在位日数の最短記録を更新したのだが、父の後を継いで王に即位した長男が何者かに一服盛られて死亡し、これが新記録となったのも束の間のこと。我こそは王にふさわしいと好き勝手に即位する輩が王族のみならず卑賎な生まれだが実力のある者まで次から次へと年寄りの顔のシミの如く湧いて出ては消え、どれが正式な在位最短記録になるのかも分からなくなってしまった。そんな中でも猛獣による人食いショーは絶えることなく続けられ、これだけ殺していたらいつか人がいなくなってしまうのではあるまいか、と危惧する者まで現れた。それが誰あろう、引き付けを起こして父の死因を作った幼児、すなわち現世の中年男の前世の姿である。その頃には十代手前の少女となっていたが、成長を喜ぶ者もいれば、父王の血を引く王位継承者である彼女をライバル視する敵もいて、その宮廷生活は危険がいっぱい、猛獣のいる柵の中で毎日を過ごすのと大差なかった。
そんなとき、新たなる大事件が勃発する。仲間割れしているので攻めやすいと判断したのだろうか、隣国が攻めてきたのである。宮廷は大混乱だった。そのときの王は少女の異母兄で、この人物は異母妹に対し病的な敵意を抱いていなかったのは彼女にとって幸運だったといえよう。都へ外国軍が迫るという非常事態にあって、異母兄の王は異母妹を田舎に疎開させようとした。彼女の母は早くに亡くなっていたが、その実家は地方に領地を持っていたので、ここに異母妹を預ければ、まずは安心との考えである。
安心できないのは異母妹つまり中年男の前世である少女だ。宮廷を追い出された者が最終的にどうなってしまうのか、彼女は悲惨な例を数多く知っていた。異母兄の方も、異母妹の安全を第一に考えて疎開させたわけではありまい。近くに置いておくと、いつ寝首を掻かれるか分からない。まだほんの小娘なので、そんな陰謀を企むとは思えないが、何が起こるか分からないのが政治の世界。先に布石を打っておくのが長生きの秘訣――と、兄妹の双方が思った。
兄は妹を厄介払いし、攻め込んできた外国軍との戦争に精力を傾けた。妹の方は、兄と外国軍の両方を殲滅する方法の研究に着手した。簡単にできることではない。常軌を逸した奇策を用いねば勝てないだろう。だが、様々な本を読んでも、これといった良策が書かれていない!
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そんな虫の良い話が上手くいくはずがなく、召喚した孔明は三顧の礼で迎えなかった無礼者の彼女に仕えることを拒否した。ただし、戦略戦術の講義はして差し上げようと言ったので、彼女はそれで手を打った。かくして女王を目指す少女の夏季集中講義が始まる、その日の朝。彼女は目を覚まさなかった。何者かが先手を打ち、毒殺を試みたのだ。孔明の治療が功を奏し死を免れたとはいえ、意識を取り戻すまでには至らない。死んではいないが意識の無い彼女の魂が、何処にあるかというと、異世界の冴えない中年男の体内である。
その中年男が言った。
「ある日、私は気が付いたのです。自分は異世界の女王となるべき少女の生まれ変わりであると。そしていつかきっと元の世界へ戻り、自分を取り戻すだろうと」
それからマイクを持つ両手で顔を覆った。
「しかし、私が行く世界は修羅の世界です。血を分けた肉親が憎み殺しあうのが常態化している獣の道です。そんな恐ろしいところへ、私は行きたくありません。優しくて温かみのある人間らしい幸せな世界へ転生したいのです」
最良のアドバイスとは言えないが――と前置きしてから私は言った。
「悪役令嬢が弱肉強食の修羅の国でスローライフを目指す、というのはありだと私は考える。難しいと思うが」
中年男の頬に一筋の涙が流れた。
「私にできるでしょうか? この世界では落ちこぼれでした。それに私はロスト・ジェネレーション世代の典型と言われています。社会的には落第だと、上の世代からも下の世代からも笑われて……」
中年男の泣き言にうんざりした私は、きつめのセリフをかました。
「元の世界の君が目覚めないのは、君自身がそれを望んでいるからなのかもしれない。目覚めることのない異世界の娘さんには気の毒だが、それが君の望みならしょうがないね。困難の待つ運命に立ち向かうのは、負け犬の君には荷が重すぎるよ」
自殺を考えている人間に言うのはどうかと自分でも思ったが、自殺した後に別の異世界へ転生するとして、そこが眠る少女の中だとしたら、目覚めるや否や嫌でも運命を戦わねばならなくなる。そこから逃避すべく自殺を試みることは、まずあるまい。そうとも、悪役令嬢は自殺しないだろ(多分)。
中年男はさめざめと泣きながら礼を述べ、司会にマイクを返してから席に座った。
私は聴衆を見渡した。そして彼らに伝える。
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