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第四章

【第八話】到着

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 ちゃぷんっ——と、大きな水滴が落ちる音で焔が目を覚ました。
 目隠しは水蒸気で湿っていて少し気持ち悪いが、外さないでくれていた事に安堵する。

「…… 風呂、か」

 ぽつりとこぼした一言が聞こえ、焔を背後から抱き締めた状態のまま湯船に浸かっていたリアンがそっと彼の頭を優しく撫でる。髪も体も既に洗った後で、後は主人の体を温めてからベッドまで運ぶつもりでいたが、その手間は省けそうだ。
「起きたのですね。体の加減は如何ですか?」
「名状し難い、が…… 」
「が?」
「あえて言うなら、怠い…… かな」
 背後を陣取るリアンの大きめな体に寄りかかり、焔がふぅと息を吐く。段々と、ちょっとナニか硬いモノがお尻の近くに当たり始めている気がするが、ソレは無視する事にした。

「無理をさせてしまいましたからね。その…… すみませんでした」
「本当にな」

 妖狐の姿のままのリアンと、しかも外で何度も何度も、とんでもない事をしてしまった。少し思い出しただけでもむず痒い気持ちになり、焔の顔が林檎の如く真っ赤に染まる。
「もう、夜か。…… あぁ、窓を風呂場に造ってくれたのだな」
 今までは壁だったはずの場所に大きな窓が新しく出来ていて、約束を守ってくれた事に焔が気が付いた。
「約束でしたからね」
「そうだな。…… そういえば、ソフィア達はもう着いたのか?」
「いいえ。値段の割にはかなりの健脚っぽい馬ではありましたが、流石に今日中の到着は無理だと思いますよ。此処までの過程に道らしい道も無いですし、障害物も多いですからね。常歩で進むのがやっとでしょうから、そうなると時速六キロ程度なので、休憩を挟む事を考えても半分程進むのが関の山でしょう」
「じゃあ、明日の夜くらいになりそうだな」
「そう、ですね。でもソフィアさんは無理をするタイプでは無いでしょうから、明後日の朝の可能性もあり得ますよ」

「…… ソフィアは、無事だろうか?」
「五朗とかいう者が一緒だから、ですか?」

 気持ち的に追い詰められていたとはいえ、初対面の者達に対し『自分は対物性愛者だ』と、高らかに宣言した彼の姿を思い出し、ソフィアの安否に心を砕く。
「あぁそうだ。…… それにしてもお前は、アイツだけは呼び捨てなんだな」と言って、焔がははっと短く笑った。
「まぁ、正直どうでもいいので」
 ハッキリそう言い切った様子を見て、焔が少しずつ申し訳ない気持ちになってくる。
「そうか。…… 仲間にすると勝手に決めて悪かったな。ソフィアの意見も訊かなかったし、あれは不味かったかもしれん」
 彼らが戻ったら改めて皆の真意を確かめよう、と焔は思った。
「正直、アレが対物性愛者でなければ反対していました。焔様を、山賊なんかと取り合いなんぞしたくはないですからね」
 焔が軽く後ろを振り返り、じっとリアンの顔を見上げる。

「…… そうなっていても、別にお前は負けないだろう?」

 さらりと嬉しい事を言われ、リアンが破顔しそうになるのを無理に堪えた。そのせいで口元が不自然に少し震えていたが、多分そんな事まで焔は気が付いていないだろう。
 焔は体勢を元に戻し、またリアンの胸にぽすんっと寄り掛かる。
「それ以前に、お前以外が俺に惚れるとかがまずあり得んだろう。お前と違って、見目麗しいワケでもないしな」

(…… つまり、俺の見た目は気に入ってくれている、と)

 思い返してみると、何度も焔が自分の容姿を褒めてくれていた事を思い出し、リアンの頬が緩んだ。

「そういえば、変装はやめたんだな」
「ええ。拠点では必要が無いので」
 今は妖狐の姿でもなければ狐の獣人の姿でもない。変装の必要が無い為、この世界での、普段通りの容姿になっていたのだが、焔は何だかちょっと残念そうだ。

「…… お狐様の方が、お好みでしたか?」

 そう訊くリアンの声は、ちょっとだけ不機嫌そうだ。あれも自分自身ではあるし妙にしっくりくるものの、好きな者にはやはり、ありのままを姿を見てもらいたい。
「別にそういう訳じゃ…… 」
 無いと続けたいのに、言葉が喉で詰まってしまった。まるで嘘を言おうとした時みたいに、少しの迷いが頭をよぎる。

「何か、思い出しそうになるんだ…… あの姿は。遠い遠い——消してしまった記憶に触れるみたいな、そんな…… 」

 沈んだ声色でそう呟き、少しの間の後、「湿っぽいな。この話はやめだ、やめ」と言いながら焔が湯船の中で立ち上がった。そしてさっさと一人で風呂からあがろうとする。血塗れの男の姿が目の前に浮かぶ事は無かったが、心は妙にざわついていた。
「先に出るぞ」
「私も一緒に——」
 そう言ってリアンも立ち上がったが、今さっきまで触れ合っていたせいで見事に勃ち上がったモノが少し邪魔で、軽く前のめりになってしまう。

「…… そんなんじゃぁ、服は着られないな」

 他人事の様に笑う焔の腕を掴み、彼を腕の中に引き寄せる。
「ほ、焔様のせいですよ?裸なのに甘えるみたいに寄り掛かってこられたら、こうなるのは必然です」
「朝も、昼間もあんなにシて…… それでもコレとは。意馬心猿とは、お前の為にある言葉なんじゃないのか?」
 水の滴り落ちるリアンの、熱い吐息が耳を掠めてゾクッと焔の体が震えたが、必死にそれを隠す。これでまた流されては、人の事を言えなくなってしまうからだ。
「それにしっかりと全て付き合ってくれている焔様だって同罪ですよ」
 リアンはムッとした顔をしているが、実際にはそんなに拗ねてはいなかった。
「なので、焔様——」
 わざと耳元に近づいて甘い声で囁きかける。

「またちょーっとだけ、私にお付き合いして下さいね?」

 両肩を後ろから掴まれ、焔は反射的に出そうになる『断る』の二文字を、「…… 仕方がないなぁ」という言葉に置き換えた。腹の奥で燻り始めた欲をどうにかしたい気持ちへ、『俺はコイツに望まれて仕方なく付き合ってやるんだ』という免罪符を貼り付ける。
「だが、せめて場所はベッドで頼む。体中がまだ怠いからな」
「了解しました」


 ソフィアと五朗が拠点まで辿り着くまでの間ずっと、寝食も忘れて貪り合い——とは意外にもならず、翌日二人は、お茶をしたり周囲を散歩したりといった具合に、のんびりと穏やかな時間を過ごした。当然、夜はいつも通りだったが、昼と夜とで態度を変える事により、『性欲満たしたさで傍に居たいわけではないのだな』と、これで思ってもらえただろうか?とリアンは疑問に感じたが、言葉にして直接訊くことは出来なかった。


       ◇


 カバール村の出口で三人と一冊が二手に別れてから、二日経過した夜遅く。
「おじゃましまぁーす」
『只今戻りました、主人』
 拠点の扉が開いたと同時に、疲労のせいで青白い顔をした五朗と、明るい声をしたソフィアが室内へ入って来た。黒毛の馬は外の木に繋いであって、もそもそと周囲に生えている草を食べている。
 焔はリアンと共にいつもの椅子に座り、お茶を飲んでくつろいでいる所だった。

「いやーマジつっかれたぁ!馬ってめっちゃ揺れるんっすんね。内腿は筋肉痛だし、床擦れみたいになってすんげぇ痛いし。あー…… 絶対に今風呂入ったら傷に染みそー。ってか、腹減ったし。ぐーぐーいってるし。何か食べる物ってないっすかね?あ、すげぇ!冷蔵庫っぽい物まであるし!」

 到着するなりもう五月蝿い。
 賑やかなのは嫌いではないが、喧しいのは好きではない焔の表情が、五朗が言葉を発するたびに段々険しいものへと変わっていっている。が、その事に全く気が付いていない彼は、室内を見渡して上がるテンションのまま好き放題に喋っている状態だ。

「しかも、システムキッチン!いやー久しぶりに見たっす。ってか、こっちでは初めてだ。あ、冷蔵庫開けていいっすか?いいっすよね?開けますよ!」

 三年ぶりに見る元の世界にありそうな品々を前にして、五朗の興奮が冷めない。
 誰からも返事が無いまま勝手に冷蔵庫を開けて、中を物色しだしたもんだから、見るに耐えなくなったソフィアが自分の角っこを五朗の後頭部にガスンッ!とぶち当て、無理矢理漁る手を止めさせた。

『騒がしいですよ!貴方は客人ではないのですから、もう少し空気を読んで黙っていて下さい!』

 小声で、でも語尾は強めに注意する。
 二日間否応無しに二人きりで過ごしてきたからか、ソフィアのツッコミには容赦が無かった。
「うぐあぁぁぁぁぁ!角っ!本の角は反則っすよぉぉ」
 開け放たれたままな冷蔵庫の前にしゃがみ、五朗が後頭部を押さえて小さく叫ぶ。
 注意したらその場ではきちんと聞けるが、緊張や焦りなどといった色々な感情を、喋って誤魔化そうとするのは彼の最大の欠点だなとソフィアは改めて思った。

『空腹なのは知っていますが、まずは落ち着いて。この二日間移動続きだったのですから、貴方の場合は風呂が先です。臭い人は台所へは来ないで下さい!生ゴミと一緒に山奥へ捨てて来ますよ』

 呆れ返りながらソフィアがそう言うと、「全くもってその通りだな」と椅子に座ってお茶を飲んでいた焔が同意した。そして、テーブルの上の皿に並べられている数種類の果物の中から林檎を一個手に取ると、それぽいっと五朗の方へと放った。
「わっ!お、っとぉ」と言い、慌てて五朗がその林檎を受け取る。

「洗ってはあるから、まずはそれでも摘んでさっさと風呂に入って来い。その間にソフィアは奴の飯を用意して、リアンは馬に水桶を。陽が出たら体を洗ってやってくれないか?」

「承知しました」と笑顔で答え、焔のすぐ隣で一緒にお茶を飲んでいたリアンが即座に動き出す。ソフィアの方もふわふわと色々な食材を保管庫の中から引っ張り出し、システムキッチンとは別の、古風な調理台の方へと移動を始めた。
「…… あれ?さっきの人って、リアンさんだったんっすか。『知らない人いるしー。他にもパーティーメンバー居たんだ』って思ってたんっすけど、違ったのか。見た目コロコロ変われるとか、いいなぁ。——ってか、こっちのキッチンで作るワケじゃないっすね」

『そちらはリアン様の物ですし、あくまでも手料理用ですからね。ワタクシも多少は色々作れますが——』

 お前に作るのはちょっと…… と言いたそうな空気を纏いつつ、ソフィアが黙った。
「…… 嫁が冷たい」
 床にちょこんと座り、林檎をモシュモシュと食べながら五朗が呟く。
『その件は同意していません。それに、ワタクシに貴方の世話は荷が重過ぎます』
 そう言いつつも、調理台へ食材を放り込み、操作画面を表示させて保有している材料で作れそうな料理をチョイスしていく。
「中途半端にゲームっぽい要素と、元の世界みたいな部分が同居している世界っすよねぇ、此処って」
 ソフィアのお断りをサラッと流し、彼の隣に五朗が立つ。
 林檎はもう食べ終わったみたいで、芯だけになった残骸を手に持っていた。
『そうですね。調理や木工、裁縫などが、材料さえあれば即座に完成してくれるのは本当に助かります』
「…… へぇ。クラフト作業って、こんな感じだったんすねぇ」
 居間っぽい空間に隣接する、色々な種類の作業台がずらりと並んだ部屋の中を見渡しながら五朗が物珍しそうな顔をする。
「自分、焚き火でちょっと肉を焼いたり、浄水したりとか。後はそっすねぇ、持ち運び用の錬金セットで回復薬を作ったりくらいしか今までしていなかったんで、こんなまともな作業台は初めて見たっすよ」
『よくそれで、三年間も自活してこられましたね。そこだけは心底感心してしまいますよ』

「そのへんはホント、運が良かったんだと思いますよ。山賊だったおかげか、魔物とかを倒した時にドロップするアイテムの中に“簡易テント”とか、“ジャーキー”や“ランタン”、“油”とかも結構あったんで何とか。自動発動する固有スキルで“盗賊の恵”ってのがあるんで、自活する為のアイテムに関してだけは、多分多少は優遇されているんじゃないかな」

 でも商店での買い物は倍額請求されるし、買取は半額になる“盗賊への不信感”まで同時発動しているので、生きていくのは本当に大変だった。それでも三年も自滅せすに生きてこられたのは、ただただファンタジーの世界観が好きという好意ゆえにだと思う。

「——風呂」

 ゴブリンとの戦闘やスライムを罠に嵌めての戦いを思い出していた五朗の耳に、焔の低い声が割って入った。漂う雰囲気は、なかなか風呂に入らない子供を叱る親のような感じだ。

「す、す、すんません!今入って来ますぅ」

『この部屋の反対側へ行けば、“ゆ”と書かれた和風の暖簾がありますから、その奥ですよ』
「はいはい!」と答え、部屋の入り口辺りに寄り掛かって立っている焔の横を五朗が通り抜けようする。
 二人がすれ違う一瞬の間に林檎の芯を五朗の手から抜き取り、「これは捨てておくから、お前はゆっくり入って来い」と、焔が声をかけた。

「あ、ありがとうございます。んじゃキッチリ洗って来るっすね!」

 ズレる眼鏡の位置を直しつつ、五朗が風呂場の方へ走って行く。
 そんな彼の姿を焔とソフィアは揃って見送ると、「この先は、此処もかなり五月蝿くなるな」とぼやいた。
『彼はですねぇ、五人兄弟の末っ子らしいですよ』
「それで五朗か。今時珍しくド直球な安直っぷりだな」
『一葉と双葉という双子の兄を筆頭に、三琴さんと武四さんという兄がいるそうです』
「アイツだけ捻りが弱い名前だな」

『山賊という職業柄、人との関わりが相当薄かったでしょうから、大家族出身だと、寂しくて色々堪えていたのでしょうねぇ』

 拠点へと戻る道中で五朗が勝手にペラペラと話していた事を色々と思い出し、ソフィアが少しだけ、本当に少しだけ彼の心境を察した。あまり同情すると彼はすぐにつけ上がる気がするので、微々たるものに留めておき、当然本人には伝える気も無い。

「…… その様子だと、奴とは上手くやっていけそうだな」

『えぇ、主人のご命令ならば』
 進んで望んだ事では無いが、自分が連れて来た存在だ。焔に言われなくとも、責任を持って別れの時までは面倒をみなければとも思う。惚れただなんだが無ければ、もっと上手くあしらえるのに……と、その点だけが気に掛かった。

「対物なんたらだとか、その辺は気にするな。どうせ…… 元の世界へ戻れば、我等には縁の無い存在なのだしな」
『…… それも、そうですね』と答えたソフィアの声は、珍しく感情の無い無機質な音だった。
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