騎士団長は恋と忠義が区別できない

月咲やまな

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 空は一面暁月夜あかつきづくよとなり、中途半端に開いたままになっていたカーテンの隙間からは有明の月が見える。雲はなく、外の空気は張り詰め少し肌寒い。早起きの野鳥が少しづつ美しい鳴声で囀りだし、レイナードの耳に届いた。
 彼は寝返りをうつ為に体を動かそうとしたが、柔らかなモノにぶつかり、阻まれた。
「……ん?」
 アルは今夜居ない筈だし、彼の体は鱗でちょっと硬いので、こんな感触では無い。布団にしては温かいし……と、まだ上手く働かない頭で考えたが、考えるだけでは答えに辿り着かなかった。
 眠い瞼を無理矢理開けて、正体を確認しようとレイナードは考えた。
 真っ先に目に入ったのは、綺麗な黒髪だ。その先には、夜着すら纏わぬ白い曲線美が見える。
「…………?」
 相変わらず頭が動かず、見えた情報の処理が出来ない。何か素晴らしいものを目撃した気がするな程度には認識出来たが、夢の続きだろうかくらいにしか受け止められない。今までなら絶対にあり得ない光景だったので無理も無く、レイナードはボーッとする頭のまま一度瞼を閉じた。

(綺麗な肌だったなぁ……ん?……肌?……誰のだ?)

 睡眠時間の足りていない頭が少しづつ働き始めた。恐る恐る瞼を開けて、レイナードがジッと目の前のモノへと顔を向けた。……向けて、認識し、まず最初に思った事は『うん、死のう』だった。

 そっとベッドで起き上がり、枕の下にレイナードが手を忍ばせた。そこには普段から護身用というか、習慣で置いてある短剣がある。就寝中に襲われる心配などない世界だとは知ってはいるが、いつでも応戦出来ると思うだけで安眠に繋がるからと、お守り代わりに置いてあった品だ。

 まさかコレがこの世界で役に立つ日が来るとは……と、レイナードは複雑な気分になった。

 寝息をたてるロシェルの隣で正座のようにして座り、短剣の握りを右手に持つ。剣身の切っ先を自らの胸に当て、ふぅと息を吐き出した。
 武器を持つと頭が瞬間で鮮明になり、レイナードは昨夜の行為の記憶を全て思い出した。そのせいで、より『死んで詫びねば』という気持ちが強くなる。右手に左手も添え、グッと手に力を入れて胸元に短剣を突き刺そうとした時——眠っていたロシェルが目を覚まし、彼女は無言のまま青ざめた顔で短剣を魔法で弾いた。
 魔法が当たったことでレイナードの握っていた短剣は手から弾け飛び、寝室の床に突き刺さる。何が起きたのかわからないといった表情をレイナードがロシェルへ向けた。
 彼女は乱れた髪を構う事なく綺麗な裸体に散らし、片手で体を支えながら上半身を起こした状態でベッドに座り、肩で息をしていた。顔色が悪く、少し体が震えている。
 互いの視線が合うと、ロシェルは不安と怒りが混じった目で、レイナードを睨み付けた。

「何をしているんですか‼︎」

 怒号に近い声でロシェルが叫んだせいで、レイナードの耳奥でキーンと音が鳴り、彼は体を少し後ろへ引いた。

「責任を、取ろうかと……」
「責任?何のですか?」

 ロシェルがレイナードの腕にしがみ付き、問いただす。双方が全裸のまま彼女に触れられ、レイナードはロシェルの方を向く事が出来ない。刺激が強過ぎて、このままではどうにかなってしまいそうだったので、こらえる為に彼は歯を食いしばった。

「守ると決めていた主人の、ロシェルの純潔を俺が奪った、傷付けた……嫁入り前なのに……」
 顔を強張らせ、レイナードが呟いた。

「それで死のうと?……ではレイナード、私こそを殺しなさい」

 ロシェルは高らかにそう宣言すると、姿勢を正して敷布の上に座り、自らの胸に手を当てた。
「私は私の意思で純潔を捧げたのです。貴方の承諾も無く、押し付けたの。ならば罪があるのは私の方だわ」
「ロシェルに罪などあるわけ無いだろ!」
 レイナードが声を荒げて否定した。
「……純潔を受け取ったのが罪だというのなら、別の責任の取り方があるでしょう?死んで詫びるなんて無責任だわ」
「別の手段?」
 サッパリわからないといった顔でレイナードは一瞬だけロシェルの方へ顔を向けたが、即座に逸らした。
「惚れて欲しい……相手なら、あるでしょう?」
 頰を染めて、ロシェルも視線を逸らした。自分からハッキリ言うよりも、レイナードの言葉が欲しい。そんな女心からだった。
「ほ、惚れて欲しいって、そんなおこがましい事、貴女に対し望んでいない」
「……え?」
 ロシェルはレイナードの言葉の意味が理解出来ず、彼の顔を見上げながらキョトンとした。レイナードは自分を好きなのだと思っていたので、彼の言いたい事が即座にわからなくても仕方がなかった。
「忠義を尽くすべき主人に対しそんな事を望む配下など、いる訳がないだろう?」
 全くいないはずなどないのだが、少なくともレイナードにとってはあり得ない事だった。
「でもシド、私がサキュロス様と勝負をすると言ったら嬉しいと話していたわ。私に惚れて欲しいから、好きだからそう言ってくれたのではないないの?」
 ロシェルはレイナードの方へ身を乗り出し、彼の顔を下から覗き込んだ。
「あれは、断りやすい流れを作る為に敢えて参加してくれたものだと——」
 そう言いながらレイナードは片手で顔を隠し、ロシェルから顔を背けたが……指の隙間から一瞬見えた見事な両胸の残像に、下っ腹の奥が疼いた。
「私はただ、サキュロス様には渡したく無いというか、他の神殿へ行かせてなるものかとか、シドと離れたく……ないなと思って」
「俺が貴女から離れるはずがないだろう?」
「でも、シドがサキュロス様のお嫁さんになったら、離れ離れになったのよ?嫁の主人だからと、受け入れてくれる方では無いし、私だって人のモノになったシドの側になんかいたくないもの……」
「嫁は欲しいが、嫁になどなりたくない!」
 サキュロスの隣に並ぶ自分の姿を想像し、それを打ち消す勢いでレイナードは声をあげた。

「……お嫁さんが欲しいの?」

「あ……」
 『しまった』とレイナードは思った。世話になっているカイル以外の誰かに言う気など微塵も無かった事だからだ。
 不相応な高望みをし、ひっそり嫁探しをしようと考えていたなんて、恥ずかし過ぎて周囲に言える訳がない。
 一度も誰にも言われた事など無いというのに、レイナードは『醜男のくせに』と罵られるのではと、顔が強張った。カルサールの夜会での経験が、今でも彼の心に突き刺さっている。
「その相手は、私ではダメなの?」
 彼にとっては予想外の返しに、驚きに目を見開きながらロシェルの顔を凝視した。

「あり得ない!ロシェル程の女性を娶るなど、俺では相応しくない」

 首を横に振り、レイナードが否定する。
「……でも私、誰かと一緒になる貴方など見たくないわ。相手の方も嫌ではないかしら。シドと関係を持った私が、たとえ主人としてだとしても、貴方の側に居るだなんて」
 もっともな言い分に、レイナードは返事に困った。確かにその通りだ。
 ならば一生独身でも——と彼は言おうかと思ったが、言葉にするのを躊躇した。嫁が、家族が欲しいという気持ちが根底にずっとあり続けている為、それを否定するなど出来なかった。
「シド、根本的な事を訊くけど、貴方は私を好きではないの?」
 ロシェルの問いに対し、一度開いた口をレイナードは即座に閉じた。
 幼なさと大人の美しさが同居しているにも関わらず、シンプルな顔立ちは愛らしさがあり、低い身長なのにスタイルは抜群に良い。性格も明るく、家事全般もこなし、話していて楽しい。
 娶りたい理想が服を着て歩いている様な女性に『好きか』と問われれば、『好きだ』と答えるのが自然だろう。
 だが彼女は自分の主人であり、守るべき、忠義を貫かねばならぬ相手だという気持ちが強過ぎて、レイナードは即答出来なかった。
 確かに、ロシェルの事は好意的に思っている。側に居たい、何があろうが自分が守り通したい。ただ、そう思う感情が忠義心からくるものなのか、それとももっと別の感情なのか……恋を知らぬままこの年まで色々と拗らせてしまったレイナードでは、残念ながらわからなかった。
「……」
 返事をしないレイナードに対し、ロシェルは困惑した。
 昨夜の事は全て彼女も覚えている。色欲だけで抱かれたとは考えたくないし、内容が内容だっただけにそうは思えない。名前を何度も呼ばれ、痴態を褒められ、丁寧に、でも乱暴に——本能のまま互いを求めたあの行為に、愛情が皆無だったとはどうしても思えなかった。
 真面目な彼が、そんな馬鹿な事をするはずが無いとも。
「自害しようとしたのは、『私なんかと寝てしまって気持ち悪い』とかでは無いのよね?」
「当然だ!むしろこんな醜男の俺が、だ……だい、抱いてしまった後悔から死のうと……」
 ロシェルは『なるほど』と心中で頷いた。彼は恋愛ごとになると自己評価が異常に低いのか、とも。

「では、私の事は嫌いではないのね?」
「それは無い。絶対に、断じて!」

 即答だった。嫌いでは無いというだけで、ロシェルは少し救われた気分だった。
「わかりました、レイナード」
 コクッと頷き、ロシェルはレイナードの正面に這って移動すると、正座をして背筋を伸ばした。
 偶然長い黒髪が胸先を隠してくれたおかげでレイナードは顔を背けずに済んだが、心中は穏やかでは無かった。腰のくびれや愛らしいヘソ、白く長い太腿——味を知ってしまった分、真面目な話をしていても無意識に生唾を飲み込んでしまう。

「私と正式に契約を交わしましょう、シド」

「契約?」
「愛して欲しいとはこの際言わないわ。婚姻契約という形で私を一生守り、側に居て、シド」
「それは……えっと……」
「忠義を尽くすため、互いだけの側に居るためにはそれしか無いのよ?」
 忠義を求められれば、誓うと言い切れる。むしろもう既に『常に忠誠を』とロシェルに対して思っている為、言いくるめられそうになっていると、なんとなく気が付きながらも強く出られない。
「忠義ならいくらでも誓おう。だが……」

「誓ってくれるのね?嬉しいわ、シド!」

 ロシェルは嬉しさを隠さずにそう言うと、正面に座るレイナードの逞しい首に飛びつき、ギューッと抱きしめた。柔らかな胸が彼の素晴らしい胸筋で潰れ、レイナードの思考を鈍らせる。
「ありがとうシド、一生共にすごしましょうね」
 ロシェルが体を離し、レイナードへと微笑む。

「ま、待ってくれロシェル、俺は——」

 結婚を了承したつもりでは無かったレイナードだったのだが、彼の言葉はロシェルに口づけをされた事で続きを言えなかった。
 開いていた口に舌を入れられ、歯茎を舐められる。元々器用なロシェルは昨夜の行為ですっかり玄人はだしとなっていた為、レイナードが細やかな抵抗をする隙すら与えなかった。
 キスをしつつ、彼の肌をそっと撫でる。耳をなぞりながら、口内では舌を絡ませ合う。レイナードの膝へロシェルは座ると、対面座位に近い状態になった。

「好きよ、シド。貴方の全てが好きなの。顔の傷も、困るとすぐに険しい表情になっちゃうのも、全部好きなの」

 レイナードの顔を撫で、彼を見上げながらロシェルが優しく囁く。
 体格差がかなりあるので、ロシェルが彼の膝に座っても、胸辺りまでしか頭が届いていない。それでも必死に彼女は、彼の体を小さな手で愛撫した。

「シドは私の使い魔のままでもいいの。でも私は、貴方のお嫁さんを名乗るのを許してね?」
 愛らしく微笑み、ロシェルは首を傾げた。

「そんな事、許される訳が——うあっ!」

 カプッとロシェルは目の前で熟れているレイナードの胸の尖りを口に含み、言葉の続きをわざと遮った。彼の方へと体をより近づけ、自らの下腹部に当たった彼の怒張をロシェルが刺激する。
 何をどう考えても、彼は私の事が好きわだ!——と、これまでのやり取りで確信を持ったロシェルはもう、レイナードを体から説得しようと決めた。
 カルサールで何があったのか見当も付かないが、恋愛感情に対し頑なな彼には口でどうこう言っても心は溶かせないだろう。
 カイルが先にその事に気が付き、『帰してあげるけど、ソレはソレ、』以前には神官であるセナをけしかけたりした事があった。親子で同じ結論に至り、もうこれしか無い!という考えに、ロシェルは追い込まれていた。
 サキュロスがやろうとしていた事と大差無いとロシェルは気が付いてはいたが、もう自分で自分を止められない。どんな事をしてでも、自分と距離を取ろうとするレイナードを、自分の元へと引き止めておきたかった。
「どこにも行かないで、シド」
 必死に訴え、ロシェルがレイナードへ劣情をぶつける。
 覚えたばかりの快楽に二人は容易く流され、そのままシーツの海へと沈んでいった。


       ◇


 丸一日何も食べていなかった私は、空腹に目が覚めた。恥ずかしさに顔を伏せたくなるほどお腹が鳴り、そんな事をしても止まる訳など無いのに、咄嗟に両手でお腹を押さえた。
 体の大きなレイナードは、私よりも飢えているはず。そう思った私は、隣で眠っているはずの彼の方へと体を向けた。
「……シド?」

 視界の先には、誰も居なかった。
 ただ、ガランと——白いシーツが目の前に広がる。

 上半身を起こし、どこにいるの?と周囲を見回す。寝ていたはずの場所に手を置いてみたが、そこは冷たくて、今さっき抜け出たといった感じでは無かった。
 体に薄手の布をざっくりと巻き、ベッドから出る。早足に浴室へと向かい中を覗いたが、そこにもレイナードは居ない。客室内を全て確認し、顔をしかめた。

「……嫌われたのかしら。あんな事してしまったし」

 シーツが落ちぬようにと胸元に当てた手に力が入る。思い当たる事が多過ぎて、私は泣きそうになってきた。
「どこに行ったのかしら……シドに謝らないと……」
 寝室へと戻り、ベッドに腰掛けて息を吐く。その時、窓の近くにあるソファーの上に置かれた女性物の衣類に気が付き、私は驚いた。

(誰が用意したのかしら)

 そういえば、あれだけ散々淫猥な時をすごした割には体もスッキリしている。まるで誰かが拭いてくれたみたいだ。シドであればいいなと、私は思った。シド以外になど、恥ずかし過ぎて死んでしまう。
 体の不快感は無くても、髪は別だ。このままではここからは出られない。急いで他も探したいが、まずはシャワーを浴びよう。そう決めた私は誰かが用意して置いてくれた着替えを腕に抱え、浴室へと戻って行った。


       ◇


 ロシェルが起きる三時間ほど前、俺は空腹で目が覚めた。丸一日近く何も食べず、痴態に耽る日が来るなど今まで一度も想像した事が無かった。
 体を起こし、そっと隣を見る。
 今度は朝と違い、慌てたりなどしなかった。きちんと目覚めたその瞬間から、ロシェルが隣にいるのだと自覚していた。
 魔法の拘束を解く為だったとはいえ、なし崩し的に不適切な行為を行ってしまった。ロシェルの与えてくれる快楽に溺れ、浸り、貪り尽くした。
 この先、どうしていいのかわからない……。だだっ広い雪原にいきなり放り出されて、自力で帰れと言われたような気分だった。右も左も真っ白で、行くべき先が全く見つからない。
「……」
 そっと眠るロシェルの美しい頰を撫でてみる。ただそれだけで心がざわめき、ギュッと心が掴まれた感じがした。

(これはいったい何という感情なんだ?)

 羽根でそっと撫でる様に触れながら必死に答えを探すが、辿り着けない。この幻想の雪原には、見えない大きな壁があるみたいだ。
 音を立てぬように気を付け、ベットから出ると、脱いだ服で散らかし放題になっている部屋を整えた。浴室からお湯で濡らしたタオルを持ってきて、ロシェルが起きるのを覚悟で体を拭いたが、彼女は目覚めない。無理もない、食事をする事なくあれだけの行為に没頭したのだから。

 綺麗になったロシェルの裸体に布団を掛けて、優しく頭を撫でる。浴室でシャワーを浴びた後、ロシェルの着替えを一式、呼鈴で来てもらったエレーナに用意してもらった。全てを察したような笑顔をする彼女からそれを受け取り、気不味い気持ちのまま寝室のソファーへと置く。もう一度ロシェルの方を見たが、起きる気配が全く無かったので、俺は一人で客室を出て行った。


       ◇


「——で、僕の所へ来たと」

 早朝、カイルの執務室。
 部屋の主であるカイルとレイナードが向かい合ってソファーに座っている。膝に肘を置き、レイナードが組んだ手を口元に当てて俯いている。まともにカイルの顔を見る勇気など、流石に無かった。
「すみません、アルを探したのですがどこにもいなかったので……つい」
 客間を出たレイナードは、アルに現状を相談したいと思い、真っ先に神殿内を探した。だが、彼はどこにもおらず、仕方なく二番目に話しやすいカイルの元へと、つい来てしまった。煮詰まったままの頭では、これが常識的に考えうる限り最も最悪な部類の悪手だと気が付く事など出来なかったのだ。
「アルには数日前から仕事を頼んでいてね。今は神殿には居ないんだ。君に相談してからにしたかったんだけど、あの子が乗り気でね。そんな間も惜しいと、直ぐに旅立って行ったよ」
 サキュロスが客間へと押し掛けてきた晩、『カイルに呼ばれた』と言い、アルはいそいそ出かけて行った。あの日にきっと、カイルに頼み事をされた嬉しさで、何も考えぬまま即引き受けたのだろう。その姿が安易に想像でき、レイナードは少し笑みをこぼした。

「……しかし、驚いたな。ロシェルの父である僕に事の次第を話すなんて。何というか……勇者だね、レイナードは。僕がイレイラに対してみたくロシェルにまで執愛する親だったら、今頃君は死んでるよ?」

 何とも言い難い微妙な表情で、カイルは話を聞くためにと正していた姿勢を崩し、ソファーの背もたれに寄り掛かった。
 かなり大雑把なものではあったが、色々推測が可能なレイナードの話を聞き、カイルは何とも言えぬ気持ちになった。『娘に手を出したのか!』といったものではなく、彼に対し『意外に難儀な子だな』といった類の思いだった。
 『なぜ彼はここまで寛容なのか!』とカイルが感じる程に、色々な件に対して達観し、レイナードは即受け入れてくれた。それがなぜ、恋愛ごとになった途端驚く程頭が硬く柔軟性が皆無で目の前の答えに気が付けないのかと、不思議でならない。
「すみません。死んで詫びようと思ったのですが、『無責任だ』とロシェルに責められまして、断念しました」
「まぁ当然だよね。僕もそう思うよ。嫁に貰ってくれるのが、一番だと思うけど」
 カイルまでそれを言うのか?とレイナードは思い、眉間のシワが深くなった。険しい表情が、より険しくなったが、カイルは言葉を続けた。
「僕の頼みを聞き、ロシェルの使い魔で在ろうとしてくれるレイナードの気持ちには深く感謝している。でもね、言葉に囚われては欲しくないかな」
「囚われてなどはいません。ただ、主人に対し忠義を尽くしたいだけです」
「ロシェルは誰よりも守りたい対象?」
「もちろんです」
「彼女が他の誰かと結婚したらどうする?それでも一番側で、あの子を守れると誓えるのかい?」
 カイルの言葉に、レイナードが声を詰まらせた。ロシェルが誰かに嫁ぐ……前にも聞いていた事だが、あの時のように『こんな幼子ですら婚姻の話があるのか』と、第三者的視点ではもうその事柄を考えられない。心臓にナイフを突き刺され、グチャグチャにえぐられるような感覚を感じ、レイナードは顔をしかめた。
「……け、結婚後は……その家の者が守るべきかと」

「君の忠義はその程度なんだ」

「いいえ!決してそんな訳では——」
「じゃあ」と、カイルはレイナードの言葉を遮った。
「何故婚姻先にまではついて行きたくないんだい?他者の横であの子が微笑み、ソイツに抱かれ、子を設ける姿を見たくないんじゃないの?違う?」
 想像するだけでゾッとする具体的な話に、レイナードは顔を覆った。

 そんなもの見たくない、気持ち悪い、いっそ相手をコロシタクナル——……と、忠義の範疇を明らかに超えた感情が、腹の底でグツグツと煮立つ感じがする。

「家族が、嫁が欲しいんだろう?ならロシェルでは何故ダメなんだい?」
「俺は女性に好かれない、あんな素晴らしい女性が俺となど……」
「それを言い始めたら、誰に対しても『俺では不釣り合いだ』になるね。むしろ、誰かを選ぶ事は失礼じゃない?選ばれた相手は『お前などたいした女じゃない』って言われたようなもんだ」
 自己矛盾を指摘され、レイナードが顔を覆っていた手を下げて、目を丸く開きながらカイルを見た。
 言われるまで気が付かなかった事に対し恥ずかしくなる。まったくもってその通りだ。

(嫁が欲しいという欲求と、自分は醜男だという考えは同居出来ない。どちらかの考えを捨てねば先へなど進めないのか…… )

「ロシェルの事は、どう思って見ているんだい?」
「守りたい人です。誰よりも、一番に」
「他には?」
「他……ですか?」
 ロシェルの父であるカイルに問われ、言い辛さにレイナードは躊躇している。
 カイルはそんな彼に対し、『逃げるな答えろ』と言いたげな目で、ジッとレイナードを見詰めた。
「……可愛い人です。素直で、心根が真っ直ぐで、側にいると、とても温かい気持ちになります」
 娘を絶賛され、カイルは誇らしげに微笑んだ。
 こんな風に娘を想ってくれる彼になら、ロシェルを託してもいい。むしろ、彼以外は考えられないとさえ思える。
「好きなんだね!」
「何というか、素晴らしい方だと思います」
「……」

(明らかに好きなのに、結局はそこに戻るのか!ここまできて⁈)

 ヤキモキした気分になり、カイルが黒く美しい前髪をグシャッとかきあげた。『好きだ』という気持ちに、『忠義』という言葉のパズルがスッポリとはまり込み、糊付けまでされているみたいに外せない。

(無理だ……コレ)

 カイルは無力感を感じ、うな垂れた。
「……じゃあ、ロシェルとは結婚はしてくれないの?ここで君を逃したら、あの子この先絶対に嫁になどいかないよ。レイナードが他の誰の事も選べないように邪魔するくらい、心を病んでしまう可能性だってあるね」
「まさか!……まさ、か……そんな……」
 言った側から自信が無くなる。先程までの、ロシェルが愛しい人にしか見せないであろう姿を思い出し、そう言い切る事に対して失礼な気がしてきたのだ。
 真っ直ぐに感情をぶつけながら『どこにも行かないで』と懇願してきたロシェルの顔が思い浮かび、心にのしかかった。
「本人が望み、その両親も歓迎している。それなのに、『嫁になどいらない』って頑なに拒否されるのは、正直気分が悪いな」

「いらないのではないです!俺が相応しくないだけで」

「終戦の英雄である君が?黒竜の契約者でもある君が、ロシェルに相応しくないだって?過小評価も行き過ぎると、嫌味だよ」
 カイルはそう言うと、眉間にしわを寄せ嫌悪感を示した。
「君程ロシェルに相応しい者はいないよ。勇敢で寛容で、真っ直ぐで。何よりも娘を大事に想っている。夫として忠義を示す道を歩いて貰えると、僕は嬉しいな」

「……夫としての、忠義ですか?」

 レイナードはカイルの言葉で、やっと頑なな考えにヒビが入るのを感じた。
「抱き合える時点で、ロシェルは君を醜いだなんて微塵も思っていない。というか、この世界の誰も君をそういうふうには見ていないよ。むしろめちゃくちゃ羨ましい!」
「……うらやま……しい?」

「当然だろう?その筋肉、漢らしい顔立ち、その身長と体力。君がカルサールでどういった扱いをされてきたのかは知らないけど、レイナード程のレベルで醜男扱いって、国民皆彫刻級の美男美女の世界なのか⁈って思うよ」

 イレイラのようなテンションで語られ、レイナードは驚いた。夫婦は似るというが、本当にその通りだ。
「君はカッコイイよ。イレイラが居なかったら、僕だってサキュロスの事を馬鹿にできなかったかもね。『是非嫁に』って追い回していたかもよ?」
 カイルにニッと子供っぽく笑われ、レイナードは微笑んだ。嘘や気を使って言われた感じのない言葉が、スッと心に沁みる。初めてテラスに呼ばれた茶会でイレイラ達に言われた言葉すら、今なら正面から受け止められそうな気もした。

「……カイル。これから少し、街まで出掛けて来てもいいですか?」
「……心が決まったのかい?」

 スッとカイルが目を細める。だが、口元は笑っていて、なんだか嬉しそうだ。
「そんなところです」
「いいよ、好きにするといい。レイナード、君は自由だ。自分が一番後悔しないと思う道を進むといい。友人として、それを望むよ」


       ◇


 ロシェルは一人、魔法の練習の為にと神殿内に用意されている部屋に居る。シュウは森まで散歩に出ており一緒ではない。
 魔法の練習部屋であるこの部屋は、カイルとイレイラにとって特別な場所の一つだ。なので、許可無くここへ入るとカイルに叱られるのだが、今日はそんな事を気にしている気分ではなかった。
 先程まで彼女は神殿内をレイナードを探してウロウロしていた。無駄に広いせいもあってかいくら探しても彼は見つからず、気分は落ち込む一方だ。カイルに訊けば居る場所がわかるのかもしれないが、やらかしてしまった内容が内容なだけに、親に合わす顔が無い。
 カツン……カツンと靴音を広い室内に響かせながら、ロシェルが部屋の中心へと進んでいく。
 ここへ来たのは、初めてレイナードとシュウに逢った時以来だ。
 部屋の中心に立ち、両手の掌を上に向け、ロシェルは天井を仰ぎ見た。瞼を閉じ、頭の中で暗闇を想像する。掌に魔力が集まり大きな塊になると、その塊はふわりと弾け、部屋中が暗幕に覆われた様に暗闇が包んだ。
 目を開けても周囲には何も見えない。上も下もわからないくらいの暗闇を室内に創り出すと、次は頭の中で星空をイメージし、光る球体を出現させた。ゆっくりとその球体は宙に舞い、ロシェルの目線程度の高さで止まる。球体からは光が溢れて、真っ暗になった室内はそれにより、星を散らしたみたいになった。簡素だった室内は、一気にプラネタリウムのようになった。
「……綺麗」
 部屋中に星が溢れ、星空の中へと放り込まれたみたいな錯覚をロシェルは感じた。これは子供の頃にイレイラに教えてもらった魔法で、ロシェルの一番のお気に入りだ。イレイラが元居た世界にあったホームプラネタリウムという物を元にし考えたものだと、ロシェルは母から聞いている。
 はしたないと思いながらも、ロシェルは床にゴロンと転がり、上を見た。無心になりながら、ぼんやりと定まらぬ視線のまま星々に目をやる。時間も忘れ、動くことのない星空を、ただただ見つめていた。

 いつかレイナードやシュウにも見せてあげたいと思っていた魔法を一人で眺めていると、彼女はちょっと泣きそうになってきた。

「……シド、どこにいるの?」

 ボソッと呟くロシェルの声は暗闇に吸い込まれそうだったが、「——ここだ」という返事があった事で彼女の心は深層へと消えずに済んだ。

「……シド?」

 寝転んだまま声のする方にロシェルが顔を向けると、そこには灰色のスーツを着崩したレイナードが立っていた。白いシャツの上はボタンが外れ、胸筋が肌蹴て見える。鎧以外の堅苦しい格好は苦手なのか、適切なサイズの服なのに、少し窮屈そうにしている。
「すごいな、これはロシェルが?」
 ロシェルの側まで来ると、レイナードは彼女の横に脚を崩して座り、周囲を見渡しながら訊いた。
「えぇ。昔、母さんが発案した魔法よ。攻撃魔法はサッパリだけど、物創りに関してはこの世界で一番なの」
「魔法を発案って……そんな事まで?」
「異世界から来たからかしら?元の世界にあった物を、魔法で再現するのが楽しいみたいなの」
「それは見せてもらう側も楽しそうだな」
「……えぇ。見せてもらえると、いつだって楽しいわ」
「そうか」
「…………」
 二人は黙り、共に室内を満たす満点の星空に想いを馳せた。星の配置は適当で、ロシェルではイレイラ程精密には創れていない。それでも、目を楽しませるには十分の代物だ。

「月は作れるか?」
「えぇ、出来るわ」

 レイナードのリクエストに、ロシェルが即答する。瞼を閉じて、星空に月が浮かぶ様子をイメージした。満月か、三日月か。ロシェルが迷ったせいで、歪な月が消えたり浮かんだりし、レイナードが声を出して笑った。
「満月にしようか」
「わかったわ」
 レイナードが笑ってくれた事に嬉しさを感じながら、ロシェルは昔見た美しい月夜の空を思い浮かべた。記憶の中でかなり美化されていたせいであり得ないサイズと光加減になっていたが、彼女は満足気に微笑む。レイナードも文句無しの綺麗な月夜を見上げ、頷いた。

「綺麗な夜空だ、ありがとう」

 大きな満月と星が暗闇に浮かび、二人を月明かりが照らす。
 だが、ロシェルはもう星空など見てはいない。レイナードの顔ばかりを見上げていた。いつもならばうっとりとした気分で漢らしい彼の横顔に見惚れるところなのだが、今は違う。どうやって昨夜の件を謝ろうかとばかり考えていた。
 やってしまった事は後悔していない。素晴らしい経験だったし、もう会いたく無いと拒否されても、あの思い出があれば生きていける気さえする。
 だが、想いを押し付けた事だけはどうして謝りたかった。『心に響かぬなら、体からわからせれば』など、どうかしていた。暴走し、煮詰まった頭では最善だと思っていた事でも、色々満たされた後だと失策だったとしか思えない。
 もっと時間をかけて、ゆっくり心を溶かしていくべきだった。彼のペースに合わせて。なのに……熟れた果実のように美味しそうなレイナードを前にしてその事に気が付けず、サキュロスがやろうとしていた方法で落とそうとするなど、彼女らしくなかった。
「……ねぇ、シド」
「……ん?」
「ごめん……なさい」
「何故謝る?」
「あんな……事をしたんだもの、嫌われても仕方ないと思って」
「謝らないでくれ、後悔されているみたいだ」
「シドとの事を後悔してはいないわ、でも……性急過ぎたなと」
 レイナードはロシェルの言葉を聞き、否定は出来なかった。婚姻もしていない、ましてや、交際関係でもない。金銭で繋がった刹那的な間柄ですらもない二人が、していいおこないではなかったのは確かだ。
「そうだな。確かに性急だった。でも、謝っては欲しくない。あの時は俺達にかかっていた魔法を解かざるおえなかったんだ、どちらがどうという話ではないだろう?」
「……そうかしら」
「あぁ」
 レイナードは短く返事をすると、隣に横たわるロシェルの体を難なく持ち上げて、自分の膝へと彼女を座らせた。一瞬の事で、ロシェルは悲鳴をあげる暇もなかった。
「シ、シド⁈」
 ロシェルはレイナードの服にしがみ付くと、驚きを隠す事なく振り返り、彼の顔を見上げた。
「すまない、一言言うべきだったな」
 レイナードは微笑み、ロシェルの頭に額をくっつける。
 微かに香る彼女の香りを吸い込むと、ほっと安堵した。また彼女の側に戻ってきたのだと、短時間しか離れていなかったのに、そんな事を彼は思った。
「えぇ、そうね」
 軽く頷き、恐る恐るレイナードの胸元にロシェルが寄り掛かかる。逃げられるのではと少し怖かったが、レイナードはロシェルの腰に腕を回すと、優しく彼女を胸へと引き寄せてくれた。
 彼女の耳に、レイナードの心音が大きく響く。どくん、どくん……と、高鳴る音は少し早い。
「ロシェルに渡したい物があるんだ」
「……何かしら?」
 キョトンとした顔で彼を見上げると、レイナードは胸の内ポケットに手をやり、そこから小さな箱を取り出した。
「綺麗な箱ね」
 ロシェルがレイナードの胸元から離れ、彼の脚の上で対面になるよう座り直す。
 月は彼の背後にあり、ロシェルの顔が照らされ、はっきり見える。愛らしい彼女にジッと見詰められ、レイナードは少し照れくさい気持ちになった。
 箱を開け、レイナードが中身をロシェルに見せる。中には布の貼られたクッションが詰まっており、その上に小さな赤っぽい石が四つ、綺麗に並んでいた。
「……何かしら?ルビーのイヤリング?」
「いや、これはアレキサンドライトという宝石で作ったピアスだ」
「アレキサンドライト?初めて聞くわ」
「昼間は緑色に、夜は赤色へと変わる宝石なんだ。ロシェルに……似てるなと思って、つい」
 レイナードは言った側から顔を赤くし、視線を逸らした。
「……似てる?」
 どこがかしら?と思いロシェルは首を傾げたが、レイナードの微妙に気まず気な表情と赤い頰で、夜の積極的な痴態を指されていると気が付き、ボンッと一気に顔を赤くした。
「危険を察知して、守ってくれる石でもあるんだ!だから、丁度いいだろう?」
「え、えぇ。そうね、ありがとうレイナード」
 互いの声が、照れ隠しで無駄に大きくなる。
「でも、私ピアスホールが無いからつけられないわ」
「その事なんだが……ロシェル」
 レイナードは一旦小箱を床に置き、ロシェルの頰に手を添え、改まった態度で名前を呼んだ。真剣な雰囲気に呑まれ、彼女もそれに倣う。
「どうしたの?シド」
「今朝言っていた事は、まだ有効か?」
「今朝……?」

「婚姻契約をして欲しいというやつだ」

 ロシェルは耳を疑った。彼から聞けるはずのない単語が出てきた事を処理出来ず、聞き間違いかしら?とさえ考えてしまっている。
「まだ有効なら、受けようかと思う」
「……本当に?」
「嘘ならピアスは用意しない」
「どうして受ける気になってくれたの?」
 あの時はいっぱいいっぱいで、受けてくれた!と押し通してしまったが、冷静に言われた言葉を思い返すと、レイナードは断ろうとしていたとわかる。なので、一転した態度がロシェルには不思議でならなかった。

「……あれから色々考えて、夫として忠義を果たすのもありかなと思えたんだ。正直、ロシェルを好きかどうかと問われると……よくわからない。経験が無いんだ、誰かに恋愛感情を持った事など……一度も」

 ロシェルはその言葉を聞き、ショックは受けなかった。むしろ、わからないものをわからないと、素直に教えてくれた事が嬉しい。
「だが、誰よりも側に居たいし、他の誰にも渡したく無いとは思う。その為には、結婚するしか道はないんだろう?」
 困ったように眉を下げ、レイナードがロシェルの瞳を見詰めた。
「嫁が欲しいくせに、嫁になりたいと迫ってくれる人を蔑ろにするのも……な」
「私に迫られて仕方なくもらってくれるのですか?……それでも、こちらは構いませんけど」
「違う、それは違う。ロシェルの事は可愛いと思っているし、触れていると安心する。……緊張もするが、嫌な感じじゃ無い」
 それはもう好き以外の何ものでも無いのでは?とロシェルは思ったのだが、本人がそうだと気が付かないと意味がないと考え、そっと微笑むに留めた。
 自分よりもずっと年上なのに、目の前にある答えが見付けられずにいるレイナードに対し、ヤキモキするどころか可愛く感じる。自分のツボをどこまでついてくる気なんだこの人は!と叫びたいくらいの心境だ。
「嬉しいわ、シド。そこまで思ってくれるのなら、何も不安など無いもの」
 ただ気が付けていないだけだと分かれば、たとえ『好きだ』の一言が無くても怖くない。
 ロシェルは頰を包んでくれているレイナードの手に自身の手を重ねると、ゆっくり瞼を閉じ、上を向いた。
 キスをして欲しいと、ロシェルが無言で訴える。慣れないのと、照れもあり、少し眉間にシワがよってしまっている。だがそれが、初々しくてちょっと可愛かった。
 鈍感過ぎる訳ではないレイナードは催促されていると気が付きはしたが、照れが先に立ってしまい応じられない。小動物みたいに震えていて可愛いなと、頰を緩ませてしまってもいた。
「……シド?」
 不安げに名前を呼ばれた事に背中を押され、レイナードが恐る恐るロシェルに顔を近づける。近寄るだけで過剰に緊張度が高まっていき、彼は触れる直前で止まってしまった。
 吐息は感じるのに、唇が触れない。その事を不思議に思ったロシェルはこっそり目を開けて、即座に現状を理解し、数ミリの距離を自分から迫り、やっと口付けにこぎつけた。
 その事にびっくりしたレイナードはクワッと目を開け、唇を離そうとしてしまった。だが、頰に触れる手には手を重ねられているし、ロシェルは彼の脚に座っている状態なので、レイナードは逃げることが出来なかった。
 遠慮がちに触れる唇を、ロシェルが軽く吸い付き、そっと舐める。あまり深追いすると止まらなくなるなと思い、舌を絡ませる事なくゆっくり唇を離した。
 クスッと、どちらからともなく笑い声がこぼれる。互いの額をくっつけ、微笑みあった。
「ところで、ピアスなんだが……受け取ってはくれるのか?」
「受け取るのは構わないけど、なぜピアスなの?」
「……そうか、こちらには無い習慣なのか」
 ロシェルの反応を見て、レイナードが一人で納得する。
「あぁ、すまない。あまりに似た世界だからピアスで問題ないのだと勝手に思い込んでいた」
 何と思い違いしているのかわからず、ロシェルは首を傾げた。

「カルサールでは、結婚する相手にピアスを贈る風習があるんだ。互いが互いの耳に、注射針の様な道具で穴を開け、ピアスを着ける。『アナタに対し、想いを貫く』という意味があると言われていたな」

「……物理的に貫くのですか」
「まぁ、そうなるな」
 装具としてピアスの存在は知っていたが、周囲でそれを身に付けている者がいない為、馴染みがない。体に穴を開けるなんて痛そうだなという気持ちが先立ち、ロシェルは怖じけずいた。
「こちらでは、結婚の約束をする時にはどうするんだ?」
「指輪を贈り合うのが一般的ね」
「では、指輪にしようか」
「いえ!こうしてわざわざ用意してくれたんだもの、シドのピアスをもらいたいわ」
「じゃあ、指輪も用意するとか。こちらの習慣にだけ合わせてもらうのもな」
「その時は一緒に選びたいわ」
「そうだな、そうしよう」
 レイナードは頷くと、ロシェルの頭を撫でた。心ゆくまで頭を撫でると、その手をずらし、彼女の耳たぶに触れる。もにゅもにゅと揉まれ、ロシェルの体が少し震えた。
「綺麗な肌に穴を開けるってのは……ちょっと緊張するな。魔法で開けようかと思うんだが、お勧めはあるか?」
「氷の魔法で開ければ、多少は痛くないんじゃないかしら?」
「そうだな、そうしよう」
 コクッと頷き合い、レイナードが「ロシェルからでいいか?」と訊く。
「はい。一気にやっちゃって下さい!」
 怖い気持ちを誤魔化し、少し大きめの声でロシェルが答えた。レイナードはロシェルの両耳をそれぞれ指で掴み、少し強く挟んだ。耳たぶに小さな穴を開ける事をイメージし、それに氷の魔法をのせる。
 レイナードの指先から冷気が溢れ出し、バチンッと音を立ててロシェルの耳たぶを氷の針が貫く。それと同時に、気をそらす為にと、レイナードはロシェルの唇に一瞬だけキスをした。
 彼からのキスに驚き、耳に走った鈍い痛みを感じる余裕などなく、ロシェルは目を見開いた。
「……シド」
 即座に離れた彼の温もりに名残惜しさを感じながら、ロシェルは自らの唇に触れた。冷静な時の彼からのキスなど初めての事だ。ジワジワと喜びが体の奥から溢れ出し、涙となって零れ出た。
「い、痛かったのか?」
 レイナードが慌ててポケットから白いハンカチを出し、ロシェルの耳を押さえる。冷やしたおかげか、まだ血は出ていない。
「いいえ、大丈夫。ただ、ちょっと嬉しくって」
 その言葉に安堵するレイナード。箱から消毒済みのピアスを取り出すと、それをロシェルの耳につけた。
 彼に続き、ロシェルも同じ様にレイナードの耳に穴を開けてピアスを着ける。同じサイズのピアスだが、彼に着けると石がとてもとても小さく見えてしまい存在感が無くなった。その様子に、ロシェルは少し笑ってしまった。
「シドにはもっと大きなデザインの物がいいかもしれませんね」
「同じのでないと意味がないからこれでいい」
 レイナードはそう言うと、自分の耳にあるピアスにそっと触れた。
「……いいな、ロシェルとお揃いの物を身につけるというのは」
 彼からのキスだけでも嬉しかったのに、レイナードの一言で更にロシェルの心には喜びが溢れ、彼の首に勢いよく抱きついた。
「ありがとう、シド!」
 首を絞めてしまいそうなくらい強く抱きつき、顔をレイナードに擦り付ける。
「喜んでもらえてよかったよ」
 頭をぽんぽんと撫でる様に叩き、レイナードはロシェルの体を抱き締め、立ち上がった。
 突然持ち上げられ、驚いたロシェルが「きゃっ」と声をあげる。床にロシェルをそっと降ろし、立たせる。レイナードはロシェルの前に跪くと、彼女の手を取り顔を見上げた。

「嫁に来てくれるか?ロシェル」

 レイナードからの言葉に、ロシェルの瞼からボロボロと止まる事なく涙が零れおち、彼の手の甲へと落ちていく。
 肩を震わせ、顔は泣き過ぎてくしゃくしゃになっている。そんな顔ですらも可愛く感じ、レイナードは笑みをこぼした。

「もちろん!大好きよ、シド」

 ロシェルがレイナードの胸へと飛び込み、彼がそれを受け止める。
「これでずっと一緒ね」
「あぁ、一生側に居ると誓うよ」
 レイナードはそう言うと、そっとロシェルから離れた。そして、彼女へと向かい右手を差し出すと、ダンスに誘う様な仕草をしながら腰を折った。
 柔らかに微笑むと、ロシェルがそれに応じ、レイナードの手を取る。ワルツの足運びをゆっくりと始め、二人は満天の星空の下で踊り始めた。靴と床がぶつかるたびに星屑みたいな光が生まれ、空間に舞う。ロシェルが使った魔法の効果だ。くるんっと二人が回り、スカートの裾が花の様に広がると、雪の結晶のような形をした光も空間に舞い、星や月の光を受けてキラキラと輝いた。こちらはレイナードの魔法だった為、ロシェルは驚き「綺麗ね!素晴らしいわ!」と、子供みたいにはしゃいだ。
 月明かりに照らされた、踊るロシェルの嬉しそうな笑顔を見て、レイナードがとても満たされた気持ちになった。切実に、ずっと欲しいと思っていたモノがやっと手に入った事が実感出来る。一緒にいられて嬉しい、可愛い、触れていたい、独占したい。

(あぁ、これが好きって事なのか——)

 レイナードはやっと目の前の答えに気が付き、ロシェルに深い口付けを贈ったのだった。


【終わり】
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