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本編

【第十話】胃袋を掴みたい

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 次の日、レイナードは体を鈍らせない為にと、朝早くから庭を借りて体力錬成をしていた。そんな彼の様子に興味を持って、夫婦揃って外へ出て来たカイルと共に剣技の模擬戦をしたり、イレイラに用意してもらった多種多様なダンベルを使っての筋肉トレーニングもした。周辺の森を徘徊する魔物を消し去りながら数十キロ走ったりもして、健康的な汗を流す。運動が好きな彼にとって、この時間はたいへん有意義なものとなった。

 浴室で体を綺麗にし、アルと雑談を交わしながら昼食を取る。
 その時に『今日はお茶の時間に勝負をしよう』という伝達を聞かされ、彼の上がっていた気分が少し下がった。避ける事が出来ないのはわかっていたので、渋々ではあったものの了承の意を伝えるように伝達者へと頼む。
 レイナードは茶会までの隙間時間を使い、カイルの執務室に行くことにした。一昨日決めた事を相談する為だ。


「あぁ、レイナード。アルもよく来たね」
 執務室にレイナード達が入るなり、アルがカイルの方へと飛んで行く。すかさず彼の肩にとまると、嬉しそうにカイルの顔へ頬ずりをした。
 レイナードに頼まれた為、カイルはアルに対し冷たい態度を一切取らないので、アルは好かれていない事を全く気が付いていない。魔物の食べ過ぎで腐敗した体を捨て、新しい体に生まれ変わったので、カイルの方も好かれる事に抵抗が無いみたいだ。フワフワの毛はないが、カイルにとって小さい存在は基本なんでも可愛いからだろう。
 カイルに口元を指で掻いてもらい、アルがウットリと瞼を閉じる。
「さっき言い損ねたんだけど、昨日はお疲れ様。今日も……これからまだあるよね。面倒な事をさせてしまって、本当に申し訳なく思うよ」
「ははは……。まぁ、まさかスタイル勝負から入るとは思いませんでしたよ。『惚れさせる』の意味がよくわからなかったのですが、ああいうものなんですか?」
 乾いた笑いがレイナードから出た。
 お見合いの経験すら無い彼には、興味を引く為にする行為がどんなものなのかイマイチわからない。
「いやー……全然違うと思うよ?僕もビックリしてるもん。ロシェルだけだったらもっと違う事になったろうに、変なのが一緒だからなぁ」
 カイルが苦笑し、彼の肩に居るままのアルも口を挟んだ。
『サキュロスは厄介な奴じゃからのう。でもまぁ飽きっぽいところもあるし、そのうち馬に蹴られて退散するじゃろ』
 どう見ても両片思いの二人の間に入ろうとしても、恋路の邪魔でしかないと思っての発言だ。
「ところで、レイナードはそんな話をしにここへ来たの?まぁ、雑談だけしに来てくれても、全然構わないんだけどね。君の事は好きだし」
 扉の前で立ったままだったレイナードを応接セットのソファーに座るよう促し、カイルが言った。
 言葉に応じ、レイナードが座る。
 早速本題に入ろうと、彼は口を開いた。
「ロシェルの事を少し」
「何?結婚の申し込みかい?」
 茶化す様な口調でカイルが言うと、「違います!」と顔を赤くしてレイナードが叫んだ。
「しご、仕事が、欲しいのです。身を固める為に。それで、使い魔でもある為、ロシェルの関わる何か、仕事が……無いかと思いまして」
 動揺し、少しどもりながらレイナードが言った。
「……あれ?同じ意味じゃない、それって」
 身を固める=家庭を持ちたいという意味だった筈なのにと、カイルが首を傾げた。
「……カイル、今からする話は他言無用に願えますか?」
「妻にも話しちゃダメな事だね。わかった、いいよ」
 ニッと笑い、カイルがレイナードの対面へと座る。それを見てレイナードは「ありがとうございます」と言ってから、ポツポツと彼はカルサールでの生い立ちをカイル達へと話し始めた。


「——なるほどね、レイナードはお嫁さんが欲しいと」
 改めて言われ、レイナードが大きなガタイを恥ずかしさから小さくし、視線を逸らした。
 『なら、ロシェルを貰ってやってよ』と言いたい気持ちをグッと堪えるカイル。
 アルもパクパクと口を動かしたが、『ロシェルとしたらいい』と言うのをやめた。きっと主人には言っても無駄だと、もう悟っている。
「んで、騎士団長という最高職を提げて婚活が出来なくなった為、新しく仕事が欲しいと」
「そう言われると恥ずかしいのですが、まぁ……そうですね」
 レイナードが頷き、膝の上で手を揉む。居たたまれない気持ちを必死に誤魔化そうとしている。誠実に全て話したが、全てを言う必要は無かったのでは?と今更気が付いた。
「でも、君はもう仕事してるよね?これ以上何か追加で必要だった?」
「使い魔という立ち位置は、仕事としてカウントしていいのですか?」
「もちろんだよ!ロシェルの側使は充分仕事でしょう?それに今の君は黒竜との契約者だ。森の魔物管理も……あれ、もしかしてアルから聞いてないの?」
 ハッとした顔をし、カイルがアルの顔を見た。視線を感じ、アルが『ん?』と首を傾げる。
『定期的に魔物を喰いに戻らんと、空腹でキツイとは話したぞ?』
「その言い方じゃ、義務や仕事だとは受け止めないよね」
 カイルの言葉に、レイナードが頷く。
「まぁ、つまり君は、現時点で神殿にて定職のある立派な成人男性って事だ。そうなると、今回の件は渡りに船って感じなんじゃないかい?」
 今回の事とは、もちろんくだらない勝負の事を指している。
「まぁ……」と言い、レイナードが言葉を濁した。
 カイルはサキュロスとの事を言っているのだろうと、彼は思った。会うなり求婚してきたのはサキュロスで、ロシェルじゃない。彼女は巻き込まれただけで、追い返す口実を作る為に参加したのだとレイナードは受け止めているので、彼がそう考えても無理は無かった。
「強制はしないけど、いい機会だと受け止めるといいよ。異性に慣れるには丁度いいかもね」
 サキュロスを異性だとそもそも認識していないので乗り気にはなれず、レイナードが曖昧に頷く。彼とどうこうなろうとなど、微塵も考えられない。だがロシェルなら……と一瞬考えたが、直ぐに頭を振った。

(主人に対し何を馬鹿な事を)

 その様子をジッと見守る、カイルとアル。年の功からか、彼等には心の流れが全てお見通しだった。
「まぁ……君の望みが、ここでも叶える事が出来るもので安心したよレイナード。話してくれてありがとう」
 本心だった。カイルはレイナードの本当の望みを聞けて、心底ホッとしていた。自分のミスの連続で異世界へ帰す事が出来なくなった事を、まだ割り切れていない。でもこれで少しは気持ちを整理できそうだ。
「今回の件がいい結果に繋がるといいね」
『そうじゃな』
 カイルとアルが仲良く内緒話をして頷きあい、それ以降は敢えて無駄話に話を咲かせて、二人はレイナードのストレス発散に付き合ったのだった。


       ◇


 お茶会の席で勝負を始めるからテラスに集合して欲しいと連絡を受け、レイナードはアルと魔力の回復したシュウを連れて早めにやって来た。さっさと終わらせてしまいたい。そんな気持ちの表れだ。
「ありがとう、レイナード。今日もよろしくね」
 先に来ていたイレイラが、すまさそうに言った。
「今日は何をする気で?」
 テラスにあるソファーに座りながら、レイナードが彼女に訊く。
 彼の肩からアルとシュウが降り、二匹もお行儀良くソファーへと落ち着く。『邪魔はすまい、そうしたならば早く終わり、遊んでもらえるかも!』と期待に満ちた目を彼へ向けている。二匹の気持ちを察し、イレイラとレイナードが彼等の頭を撫でてやる。ウットリと目を細める姿に二人が癒されていると、テラスのガラス扉が開き、ロシェル達が姿を現した。
「お待たせしました」
 照れた様な笑みを浮かべるロシェル。
 今日は黒髪をポニーテールにし、ワインレッドの半袖ワンピースの上に白いエプロンといった、酒場の店員風の服を着ている。仲間と酒場に行く機会の多かったレイナードには、とても馴染み深い格好だった。

「……よく似合ってるな、ロシェル」
「ありがとう、レイナード」

 微笑みあう二人に向かい、少し不貞腐れた顔でサキュロスが声をかける。
「おーい、お二人さん。私もいるんですけどー」
 その声を聞き、二人がやっとサキュロスの方に顔を向けた。
 今回の彼は、黒と白を基調としたメイド服を着ていた。膝上までの白い靴下を履き、スカートがとても短くてカモシカの様な長い脚には完成された絶対領域がある。首に白い丸襟だけがチョーカーの様にあり、鎖骨から胸元までが開いていて、谷間を思いっきり作っている。露出が過ぎていた。だが、昨日よりはかなりマシなので、レイナードは遠い目をするだけで済んだ。
「ねぇねぇ、似合うかい?」
 自信満々にサキュロスがスカートの裾を持ち、その場で回ってみせる。
「まぁ、多分」
 レイナードは素っ気なく頷いただけだったが、それでもサキュロスは嬉しそうに神経質な顔を赤らめた。本気で嬉しいのだろう。
「これで終了ですか?」
 期待を込めた問いをレイナードにされて、イレイラらが「あー……ごめんなさい。これからが本題なの」と言った事で、ソワソワしていた二匹が項垂れた。
「ほら、好きな人を射留めるのなら胃袋からって言うじゃない?なので、二人に料理を用意してみたら?と課題をだしてみたの」
「それはいいですね」
 自分はお色気勝負がとことん苦手だという事を昨日思い知ったレイナードが、安堵した表情をした。
「お茶はエレーナが用意してくれたものよ。リラックス効果のあるハーブティーらしいわ」
 イレイラはそう言いながら、ティーポットからカップへとお茶を淹れた。香草の柔らかな香りが鼻孔をくすぐり、彼等がホッと息を吐く。
「んー相変わらずいい香りね。これがエレーナの手作りだなんて、本当に凄いと思うわ」
「手作りですか、いいですね」
 イレイラの言葉に、興味津々といった顔をしたレイナード。その様子を見て、イレイラらが嬉しそうに微笑んだ。
「今回は負担にならなくて済みそうね」
 そっとレイナードの耳元でイレイラらがそう言うと、彼は苦笑した。

「今から持って来ますね」
 ロシェル達はそう言い残し、テラスから一旦出る。そしてすぐにワゴンを押して戻って来た。
 車輪の付いた銀色のワゴンの上にはケーキやチョコチップクッキーなど、色々なお菓子がのった大皿が並んでいる。ハーブティーの香りとよく合う甘い匂いに、皆少し小腹が空いてきた。
「美味しそうですね」
「そうね、見た目もいいわ」
 レイナードとイレイラらの褒め言葉に、ロシェルが照れ臭そうにモジモジする。
「ねぇ早く食べよ!」
 サキュロスは、もう食べたい気持ちでいっぱいだった。彼は神子なので食べる必要は無いが、甘いものは大好きだ。
「はいはい、そうしましょうか」
 唯一の子持ちであるイレイラが少しオカンっぽい雰囲気を漂わせながら、ケーキを切り分ける。取り皿へそれらを移して配っている間に、ロシェル達もソファーへと座った。
「さぁ、いただきましょうか」
 イレイラの一言から、四人がお菓子を食べる。レイナードがアルとシュウにもクッキーを渡すと、嬉しそうに両手で掴み、彼等はカシュカシュと小さな音をたてて美味しそうに食べ始めた。
「味はどうかしら?」
 一人クッキーの方を口に運んでいたレイナードへ、ロシェルが訊いた。
「家庭的な味で美味しいな。チョコチップが入っているのに、甘過ぎないのがいい」
「甘いものは苦手なの?」
「バタークリームが少し。甘さは控えめな方が好みだな、量を食べたい」
「シドらしいわね」
 クスクスと笑うロシェル。
 クッキーをもう一つ摘み、レイナードがそれを食べる。「ピャッ」っと声をあげながらシュウがレイナードの白いシャツを引っ張り、ボクにももっと寄越せと催促した。
『儂もおかわりが欲しいぞ』
「どれにする?」
『ケーキを頂こうか』
「魔物じゃなくても食べられるんだな」
『空腹は満たされぬがな。味を楽しむ事は出来る』
 レイナードはフォークでケーキを切り分けると「んっ」と言いながらアルへそれを差し出す。キョトンとした顔をしたアルだったが、意味がわかって瞳がパァァと明るく輝いた。
『あーん!』
 口を開けて、早く早くと言いたげにアルの体が揺れている。
「うわぁ、ズルッ!」
 ケーキをフォークで突ついていたサキュロスが文句を言う。ロシェルもちょっと羨ましいなと思ったが、声には出さなかった。
 そんな二人を気にする事無く、レイナードがアルにケーキを食べさせる。アルが咀嚼しながら幸せそうに『もっと食べてやろう』と言い、またあーんと口を開けた。
「気に入ったのか?」
『好みはクッキーじゃな。だがケーキもいい』
「クッキーは私が作りました」
 ロシェルがはにかみながらそう言うと、シュウがまたクッキーを催促したので、今度は彼女が彼にそれを差し出した。
「ケーキは私が用意したよ」
 得意げに言うサキュロス。
「すごいな、プロ並みだ」
 苺ののったショートケーキは生クリームで可愛らしくデコレーションされ、平面部分の塗り方もとても滑らかだ。もう切り分けてしまっていたが、パティシエ並みの仕上がりのケーキだった。これをサキュロスが作るとは意外だなとレイナードは感心した。
 残念ながら、今回の勝敗は彼の勝ちかもしれない。……いつ何時でも主人を選ぶべきだろうが、こうも一目瞭然だと、ここでロシェルを選んでしまう事は残念ながらあからさま過ぎて出来ないと、レイナードは思った。
「そりゃぁ、プロが作ったんだもん当然でしょー」
 問題発言をしながら、パクッとサキュロスがケーキを食べる。彼に向かい、参加者全員が一斉に訝しげな顔を向けた。
 そんな中、イレイラが恐る恐る質問した。
「プロが、作ったのですか?サキュロス様、いつの間にパティシエの勉強を?」
 精一杯いい方に解釈しながら質問した。長生きの神子ならば、全く無い話では無い。
「この神殿の、デザート係が作ったって言ったの。私じゃない」
 サラッと言った一言に、イレイラらが頭を抱えた。意図が伝わっていなかったのか、!と、叫びたい気持ちに。
「手作りお菓子で胃袋を掴むって趣旨なのに、プロに作らせてしまうのは駄目じゃないかしら」
 相手がお偉い神子様だろうが御構い無しに、後頭部を叩いてしまいたいイレイラ。発した声は、少し震えている。
「たかだた千年、二千年程度しか生きてない私に、何を期待したの?君は」
「ロシェルは十八年しか生きていませんが、料理は一通り出来ます。なのでその言い訳は通じません!」
 イレイラらが困った顔をサキュロスへと向ける。
「……嫌な予感するのは私だけ?」
 そうこぼしたサキュロスに向けてイレイラらが改まった顔をし、こう告げた。
「残念ながら、サキュロス様の不戦敗ですわ。他者に作らせるなど、言語道断です。私達は退散致しましょう。アル、シュウ。貴方達はロシェル達に呼ばれるまでの間、庭で遊んでいてくれるかしら」
「ピャァ」
『わかった、従おう』
 シュウとアルはイレイラらに向かい頷くと、仲良くそそくさと庭へ移動して行った。
「美味しければ何でもいいじゃん!どうせ普段だって使用人が作るんだよ?作れなくても関係無いじゃないか」
 言い分はわかるんだが、それは許しては勝負にならない。
「美味しいものを食べさせる勝負なら、問題無かったでしょうね。でも今回は手作りお菓子で胃袋を掴む勝負だと言ったはずですわ」
「それだって手で作ったものじゃん、私の手じゃ無いけど」
「ご自分で作っていないので駄目です!どこをどう気に入れと言う気なのですか!」
 イレイラに威圧的に言われ、サキュロスが喉を詰まらせる。
「わかったよ……」
 肩を落として、彼が負けを認めた。
「敗者は退散しまーす」
 両手を軽く挙げて、降参ポーズをしながらソファーから立ち上がる。テーブルに片手をついて谷間を見せ付けるようにしながら、サキュロスがレイナードの頰に触れた。
「また負けちゃったなぁ、残念」
 甘ったるい声を出しながら、そっと彼の頰を撫でる。
 レイナードは顔を青くしながらスッと後ろへ体を引いた。
「……じゃあ、またねー」
 そう言いながら、サキュロスがテラスから退散していく。イレイラらもそれに続き、広いテラスでロシェルとレイナードは二人きりになった。


 テーブルを挟んで座っている彼に向かい、ロシェルが「そちらへ行ってもいいかしら?」と問いかけた。
「あぁ、もちろん」
 短い答えだったが、『もちろん』という付け足しの言葉にロシェルはとても嬉しくなった。
 そそくさとレイナードの方へロシェルが移動し、拳一つ分程度の隙間を開けて隣へと腰掛ける。不戦勝ではあったが、ご褒美に何かお願いできないかしら?と考えるロシェル。
 チラッとレイナードの顔色を伺うと「どうかしたのか?」と優しい笑顔で問われ、ロシェルの心臓が壊れそうな程激しく高鳴った。普段の厳つい顔を見慣れているせいで、無防備な笑みが破壊力を増している。しかも、恋愛的好意を持って向けてくれている笑顔なのだとロシェルは受け止めているので、神具並みの攻撃力を有していた。
 頰を赤らめ、プルプル震えているロシェルを不思議に思いながらレイナードが首を傾げる。そんな仕草にまで、ロシェルが滅多打ちにされた。
「ごめんなさい、シドが可愛過ぎて……」
 肩を震わせ、緩む口元を手で隠しながらロシェルがそう言うと、レイナードが眉間のシワを深くし、顔を真っ赤にして固まった。
 そんな彼にすら、ロシェルは愛らしさを感じてしまう。
 口元を隠していた手をソッと離し、ロシェルがレイナードの頰に触れる。先程サキュロスが触れていた左の頬。殺菌だとまでは言わないが、正直自分の感触で上書きしてしまいたいと考えての行為だった。
 彼女が触れてくる事に対し、旅の途中で良くも悪くも随分慣れてしまったレイナードは、サキュロスの時とは違って、逃げたりはせずにそのまま受け入れた。騒ぐ心音はどうにも出来なかったが、触れられて心地いいなと考えてしまうくらいの余裕がある。
 スッと彼が目を細めると、それを見たロシェルが微笑んだ。
「シュウやアルみたいね、シド」
「俺はロシェルから見るとクマなんだろう?似ていても不思議じゃ無い」
 第一声で『クマだわ!』と言われた事を思い出し、レイナードがからかうように言った。
「あ、あれは……こんなに大きな人に会ったのは久しぶりだったし。ウィルがライオンなら、シドはクマねくらいな気持ちで……」
「ウィルとは?」
 どう聞いても男性名だ。しかも知らない名前だったので、レイナードが顔をしかめた。嫉妬からきた表情なのだが、当人達は気が付いていない。
「神子の一人よ。父さん達と仲がいいの。シドみたいに体がとっても大きくって、ライオンのたてがみの様な髪をしていてね、強そうな方よ。あとね、とっても子沢山なの」
「……既婚者なのか」
 レイナードは最後の一言にホッとし、キツくなっていた表情を無意識に緩めた。不倫という概念が彼には存在しないので、既婚者=安全といった流れだ。
「きっと近いうちに逢えるわ。素敵な方よ。子供の頃、何度肩車を頼もうかと悩んだことか」
「俺がするから、もう頼まなくてもいいな」
 どう受け止められるかなど、レイナードは全く考えずに言った。
「そんな……は、恥ずかしいわ」
 初めて逢ったあの時とは訳が違う。そんな恥ずかしい事などもう頼めないわとロシェルが考えていると、唐突に話が変わった。
「……そういえば、ロシェルは料理上手なんだな。神殿住まいであれだけのお菓子が作れるとは、正直思っていなかった」
 率直な感想だった。神子の娘ならば、自ら料理をせねばならない事など無いだろうと思っていた。
「母さんがね、どんな相手に嫁ぐ事になるかわからないから花嫁修行はしっかりやりなさいと色々教えてくれたの。掃除洗濯、家事は一通り出来るわ。だから安心してね、シド。何でも私に任せて!」
「しっかりした考えを持っているんだな、イレイラ様は」
「異世界出身だからかしらね?他の貴族の知り合いは、私の話しを聞いてとっても驚いていたから。皆さん花嫁修行といえば、マナー教育やダンスのレッスンをしていたもの」
「そうだな、俺の聞いた事があるのも後者だった。自分で掃除洗濯までは、貴族の者達はマスターしたりはしていなかったな」
「そうよね、普通は。でも後悔はしていないわ、とっても楽しかったもの!」
「楽しんでできるのはいい事だな」
「ええ、本当ね」と言ったロシェルの一言の後、会話が途切れた。
 気不味い雰囲気では無かったので、シドが無言のままクッキーに手を伸ばし、また食べる。ロシェルが作ったと知って、より美味しく感じ、止まらなくなっていた。
 皿に残っているクッキーの全てがレイナードの口内へ消えていきそうになっている中、ロシェルは『お願いするなら今じゃないかしら?』と考えていた。
「あのね、シド……」
 手を膝の上でモジモジとさせながら、レイナードへと話しかける。
 無心でクッキーを貪っていた彼が「ん?」と返事をし、ロシェルの方へ顔を向けた。
「私も、アル達みたいに……シドからお菓子をね、食べさせてもらいたいのだけど……嫌かしら?」
 やっと頼めたわ!とロシェルが照れて、真っ赤な頰を両手で覆う。
 そんな彼女に向かい、レイナードは顔色一つ変える事無く、サラッと同意した。
「あぁ、いいですよご主人様」
 アルやシドへ先程食べさせてやった時と同じだろうと、軽い気持ちでレイナードがロシェルのケーキがのる皿を手に取る。フォークで一口分切り分けると、彼女の方へ体を向けて、口元へと近づけた。
「さぁ、どうぞ」
 レイナードの言葉を合図に、ロシェルも彼へと体を向けて口を開ける。体格差のせいでどうしても上向きになってしまい、彼女は自然と目を閉じてしまった。
 そんな彼女の顔を見て、ケーキを差し出すレイナードの動きが止まる。ロシェルの濡れる紅い舌に目が釘付けになってしまったのだ。唇もプルプルと瑞々しく、艶やかに光って見える。どんなお菓子よりも美味しそうで、レイナードは口元をへの字に食いしばりながら、ゴクッと喉を鳴らした。
 いつまでもケーキが口に入ってこない。
 その事を不思議に思い、ロシェルがそっと瞼を開けると、レイナードの苦悶する表情が目に入り行動に困った。口を閉じるべきか、このままでいるべきか……。
 後者を選んだロシェルが、催促するように「あーん」と小声で言うと、やっと口の中へケーキが入ってきた。
 いつも通りの甘くて美味しいケーキが、更に甘みを増す気がする。好意の篭るケーキのなんと美味なことかと、ロシェルはウットリとした表情になった。
「う、美味いか?」
「えぇ、とっても!普段よりも美味しく感じるわ。絶対にシドのおかげね」
 嬉しさを隠さぬままロシェルが微笑むと、レイナードがその笑顔の破壊力に打ちのめされて顔を逸らし、片手で顔を覆った。
「どうしたの?シド」
 キョトンとし、レイナードの顔をロシェルが覗き込む。
「……何でもない」
 首を緩く横に振り、そう言った。
 素直なロシェルは、彼がそう言うのならそうなのかと納得し、再度頼み込んだ。
「ねぇ、もっとケーキをもらってもいいかしら?シド」
 ピクッと体が震え、レイナードは少し躊躇した。

(あ、あんな……雛鳥の様に愛らしい口の中へ、またケーキを運ぶのか⁈アルやシュウの時は何とも思わなかったのに、何でロシェルが口を開けてこちらに顔を向けただけで、こんな……こんな緊張するんだ!)

「ねぇ……ダメ?」
 切なそうな顔で首を傾げられ、指の隙間からロシェルの顔を伺っていたシドは、つい反射でいつものセリフを言ってしまった。
「あぁ、喜んで!」
 プルプルと震えながら、ロシェルの口へケーキを運ぶ。そのたびに嬉しそうに微笑まれ、耐性が出来ていたはずのレイナードですら、一々彼女の笑顔にノックアウトされてしまった。
 主人に対し何と不謹慎な……と落ち込みつつも、役得だ!とも思ってしまう自分の気持ちが許せない。益々苦悶し眉間の皺を深くしてしまうと、ロシェルが今度は「次は私の番ね」と言った。
 何がだ?と思いながらレイナードが彼女の方に顔を向けると、ロシェルが皿のケーキを切り分けている。フォークに一口分を刺すと「はい、シドもあーん」と言いながらレイナードへ向かいケーキを差し出してきた。
「お、俺もなのか⁈」
 反射で少し体が後ろに下がり、ソファーの背もたれにぶつかった。
「ええ。私だけだなんて申し訳ないもの」
「いや、俺は別に」
 恥ずかしくて堪らず、レイナードは断ろうとした。
 だが、『自分がされて嬉しかったから、シドにもしてあげたい!』と善意のみで頭が一杯になっている彼女は引こうとしない。こうなっては断っても無駄だと察したレイナードは、渋々口を開いた。
 ニコッと嬉しそうに微笑み、ロシェルはレイナードが小さく開けたの口の中へケーキを押し込む。そのせいで唇に生クリームがついてしまった。
「ごめんなさい!ちょっと早過ぎたわ」
 ロシェルが慌ててレイナードの唇についたクリームを指で拭う。
 汚れた指を拭くために彼がテーブルの上に用意されているおしぼりに手を伸ばしたが、ロシェルはそれを受け取る前に、ペロッと指を舐めてしまった。
「んな⁈」
 指を舐める舌の動きに動揺が隠せず、レイナードが声をあげた。
「はや、早く拭いた方がいい!」
 ロシェルの手を取り、レイナードがおしぼりで指先のベタつきを拭き取る。
「ありがとう、シド」
「こちらこそすまない、不快な思いをさせたよな」
 醜男の唇など触りたくもなかろう。しかもクリームまで取らせてしまうなど……と思い、レイナードが謝ったが、ロシェルには全く理解出来なかった。
「不快?何がかしら」
 パッと手を離し、レイナードが俯く。
 ロシェルは彼の口元がどうしても気になり、手に持つおしぼりをそっとレイナードの唇へと当てた。
「クリームがまだ少し唇に残っているわ。ホント、シドってたまに子供っぽくて可愛いわね。あ、クリームをつけてしまったのは私だったわ……ごめんなさい。それが不快だったのね?」
 的外れな事を言われたが、レイナードは訂正する余裕も無い。下から顔を覗き込まれ、至近距離でおしぼり越しとはいえ唇に触れられている。しかも可愛いとの褒め言葉付きで。男性に言う様な形容詞では無いが、それでも何故かその一言がとても嬉しかった。
 吐息を感じる事まで出来そうな至近距離で、微笑む少女が目の前に居る。その相手は自分の主人だと頭ではわかっているのに、レイナードは我を失いかけた。
 先程見た雛鳥の様に愛らしい、濡れた舌がや美味しそうな唇が脳裏をよぎる。
「……シド?」
 固まったままでいたレイナードを不思議に思い、ロシェルが声をかけた。その声に彼はハッと我にかえり、ロシェルの両肩を掴むと、自分から少し距離をおいた。
「すまない!俺は今何もしなかったよな⁈」
 不自然な程大きな声で問いかけてしまい、ロシェルは驚き、目を見開いた。
「え?……えぇ何も。ずっと固まっていたから、どうしたのかしらとは思ったけれど」
 ロシェルの言葉を聞き、レイナードがホッとし息を吐いた。主人に不義を行わずに済んだ事に心底安堵する。
 だが、そんな時間も束の間。
 おしぼりをテーブルに戻し、再びケーキをレイナードの方へ差し出してきたロシェルの「あーん」攻撃から彼は逃げる事が出来なかった。


 そんな二人のやりとりを、サキュロスが神殿の屋上に腰掛け、不満を露わにした表情で見詰めていた。
「ホント、仲がよろしいことで」
 白いニーソに覆われた脚をブラブラとさせながら「まぁ、いいけどねぇ。今のうちに精々初心な関係を楽しむがいいさ。どうせ最後は私が神殿へお持ち帰りするんだしな」と不敵に笑った。
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