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本編
【第八話】旅の結末
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カイルが住まう神殿に、今日は久しぶりに来客者が訪れていた。
新緑色の瞳を持ち、長髪の髪を後ろに束ねている彼の頭には、親神から受け継いだヤギの角が生えている。高身長の体は線が細く、顔はとても神経質そうな印象だ。つり目がちな目元は意地が悪く見え、口を開けば罵詈雑言しか言いそうに無い。無いのだが……
「ねぇー頼むよセナァ、カイルに会わせてくれよ」
蒼白で、今にも頭痛薬をガブ飲みしそうな顔で可愛く言った。
「無理です、カイル様は今大変お忙しいのでお会いできません。先にご連絡を頂かないと、予定を開ける事はそもそも無理です」
神殿へ帰宅したばかりの、着替えはかろうじて済ませただけのセナが困り顔で告げる。
「まーた奥さんとよろしくヤってるだけだろう?どうせ。よし、一時間待つから、スッキリしてから私に会ってよ!」
いい事思いついた!と言いたげにパンっと手を合わせたが、似合っていない。言葉の内容も内容なので、セナは額を押さえて息を吐いた。
「サキュロス様、今カイル様は別件で本当にお忙しいのです」
「マジか!まさか仕事?何か行事とかあったっけ?この時期」
口元に指を当て、少し目線を上にやる。幼子がやると可愛い仕草なのだが、サキュロスがやるとサッパリだ。何故お前がそれをやる⁈とつっこみたくなるレベルで。
「……仕事とはまた違うのですが、とにかくお忙しいのです。私もまだ報告したい事が残っていますので下がらせて貰います」
「えぇぇ、セナも忙しいの?」
「はい、かなり。とっても」
「んー……じゃあ泊まる!暇になるまで泊まる!それならいいだろう?カイルが会えるまでいくらでも待っちゃうよ、時間は無限だからね」
サキュロスがパチっとウィンクしてみせた。だが——以下略。
彼の提案を受けて、セナが少し困った顔になった。独断で決めてもよいのか、と。だが、神子達は揃いも揃って自己中心的で我儘だ。セナの主人であるカイルは比較的温厚で話が他よりは通じるタイプなのだが、サキュロスは違う。典型的な自己中我儘神子様だ。帰れと追い返しても、庭に野営してでも自分の望みを突き通すタイプなのだ。
「わかりました、では少々こちらでお待ちいただけますか?すぐにエレーナを呼び、部屋の用意をさせましょう。ですが、いいですかサキュロス様。カイル様に会うのは、カイル様のご都合に合わせて下さい。約束出来ないのなら、貴方様が神子だろうがなんだろうが強制送還します」
キッと睨みつけるセナ。記憶を持ったまま転生を繰り返す者ならではの貫禄を見せ付ける、素晴らしい眼差しだ。
気合い負けしたサキュロスが、気圧されながら必死に頷く。
「うん!約束するよ、セナ。あーでも逢いたい人がいるんだ。その人にさえ逢えれば、ぶっちゃけカイルはいつでもいいかなーなんて」
全く顔面に似合わぬ悪戯っ子の笑みで、サキュロスはニヤッと笑ったのだった。
◇
深い深い森の中。途中から多少気を付けていたが、それでも戦闘が原因で倒木がかなり目立つ道程を、ロシェル達が街に向かい歩いている。
黒竜が生まれ変わる前ならば乗って帰る事も出来たろうが、小さくなってしまったアルはレイナードの肩に留まっていた。戦いで疲れ切ったシュウはロシェルの首に巻きつき、スヤスヤと眠っている。
『んでだ、今更なのじゃがお主ら儂を探しておったようじゃが、用向きは何なのじゃ?もしかして……カイルのお迎えか?そうなのか?』
アルは期待に満ちた目を、隣を歩くロシェルに向けた。長くてトゲのある尻尾を犬みたいに振っている。
「……えっと」
キラキラした黒い瞳を向けられては、お迎えでは無いとはとてもじゃないが伝え難い。鱗だけ欲しいとハッキリ言う気にもなれず、ロシェルは「そんな感じです!」と言ってしまった。
レイナードは空気を読みながら、説明を追加する。
「黒竜の鱗が必要らしくてな、カイルに会って直接彼に分けて欲しいんだ」
カイルに会いたがっていたアルを放置していたのだ。そのくらい勝手にこちらが決めても良いだろうとレイナードは考えた。
『儂の鱗がか?また古代魔法でもやるのか?相変わらず悪趣味じゃのう、あんな面倒なもの。前に会った時なんぞ、魔法具の材料にすると言って散々攻撃魔法をぶっ放し、儂の爪を剥いでいったような奴じゃが、今回は鱗でいいとは……優しいのう』
アルは嬉しそうに昔話を語っているが、ロシェル的には父の悪行に心が痛んだ。
「す、すみません……父がご迷惑をおかけしてしまって。……今回鱗が必要になったのは、私のせいなのです」
杖をギュッと握りしめたロシェルが、気まずそうに肩を縮める。そんな彼女の肩に手を乗せ、レイナードが気遣う様に撫でる。そんな二人を見て、アルが首を傾げた。
『まぁ理由なんぞ、そんな瑣末事気にせんわ。カイルにやっと逢えると思うと、心が踊るのう』
嬉しそうにしている黒竜の姿に、レイナードが「良かったな、気にしてないそうだ」とロシェルの耳元で囁く。彼的には内緒話をしたかっただけなのだが、彼女の方は耳に感じる熱い吐息に背を反らせた。
『しかし、カイルが嫁をもらっていたとはのう。式に呼んでくれても……無理じゃな、契約が無いと森からも出られんのじゃったわ』
一転して項垂れるアル。
そんな彼を見て今度はサビィルが気まずげに視線をそらした。
黒竜に言った言葉をカイルがスッカリ忘れているだろう事は察しがついているので、アルの一途な思いは、見ていてとても重かった。今それを黒竜に教えるべきではないと感じたサビィルは、『ウチの主人が申し訳ない!』と心で詫びるだけに留めた。
「色々面倒なんだな、竜である事も」
『まぁそうじゃな。何と言ってもこれは所詮呪いじゃしな。お主との契約により森を出られるようになったとしても、腹が減るから結局は定期的に森に戻って魔物を喰わねばならんしのう』
「その時は俺も付き合おう」
レイナードの言葉にアルは喜び、彼の頰に顔を擦り付けた。
「その時は私も同行したいわ、いいかしら?」
『カイルの娘もか!賑やかになるのう』
雑談をしながら、和気あいあいと二人と三匹は神殿へ戻っていく。魔物の邪魔が無いので、帰りはとてもスムーズに進めたという。
◇
魔物との戦闘が皆無だったので、三週間かけた道程を結局彼女達は一週間もかからずに戻る事が出来た。
カイルの神殿へと帰る前。最北の都市バルドニスに住まう神子の神殿へも立ち寄り、森でやらかしてしまった事を報告に行ったりもしたのだが、留守の為会う事が出来ず、この一帯を治める王族にのみ事の次第を伝えてきた。
再建の話は落ち着いたらまた改めてしようという事になり、彼等はその後直ぐに帰路へ着いた。
「おかえりなさいませ、ロシェル様」
彼らが神殿へ到着すると、すぐさまエレーナが神殿の住居部分にある玄関まで迎えに来てくれた。
この神殿へ神官として戻って来たばかりの頃のエレーナはまだ幼子だったのだが、今はもう二十代の立派な成人女性になっている。内面から出る年長者独特の貫禄は相変わらずで、若い女性であると感じさせないのが少し残念だ。
「ただいま!エレーナ」
嬉しさ余って、エレーナに抱きつくロシェル。抱擁に応え、孫でもあやすように彼女の背をポンポンとエレーナが軽く叩いた。
「お風呂の用意が出来ておりますわ。早速お二人共お入り下さい。ご一緒に入られるのでしたら、大浴場も使えますが如何なさいますか?」
二人の関係が相変わらず主従関係のままでしか無いと、夫であるセナから事前に聞いていたので、敢えてちょっと意地悪な事を言ってみた。『いい加減前に進まないかしら?焦ったいわ』という気持ちも込めて。
エレーナの発言に、ロシェルは顔を真っ赤にし無言になった。レイナードの方はと言えば、激しく咳き込み苦しそうだ。
「か、各人で入るわ。ね?シド」
上擦った声で、ロシェルが何とか答える。
シドが初めてお風呂に入った時に、自分がしでかした失敗をふと思い出し、穴を掘って埋まってしまいたい気分にもなった。
「あら、レイナード様は“使い魔”なのですから洗って差し上げる位のお世話はするべきなのでは?前にご自分でもそう仰っていましたのに」
頰に手を当て、エレーナが首を傾げた。
「シドはよく出来た使い魔だから大丈夫なの!」
「そうなのですか?わかりましたわ、ではその様に」
あまりからかい過ぎても可哀想だと、エレーナが一歩引き、頭を下げた。引き時を誤ると、信頼を失う。そうなっては意味が無い。
「シド様もそれでよろしいのですか?一緒に入りたいのであれば、私が説得いたしましょうか」
母の様な笑みでとんでもない事を問われ、レイナードの顔と首が茹で蛸の様に真っ赤になった。
「別々で!」
無駄に大きな声で答えるレイナードの肩の上で『儂はレイナードと入るぞ』とアルが宣言する。
「黒竜様。挨拶が遅れてしまいすみませんでした。神官のエレーナと申します。何か要望が御座いましたら遠慮無く私共に仰って下さいまし。私共神官は、常に神子様と竜族にお仕えいたします」
神官服のスカート部分を掴み上げ、脚を折って深々と頭を下げる。
『じゃあ儂はカイルに逢いたいぞ!』
声高に叫んだが、それに対してはエレーナがすまさそうな顔をした。
「申し訳ございません。カイル様は今別の神官と今後の事で話し合いをしておりまして……直ぐにとはいかないのです」
むーと声をもらしたが、アルは素直に頷いた。
『わかった。では風呂に入った後ならば逢えるかのう?』
「お風呂の後に、皆様でお食事をなさって下さい。その後でしたらお逢いできるかと思いますわ」
『わかった、従おう』
「ありがとうございます、黒竜様」
エレーナに向かい首肯し、アルがレイナードに向かい『風呂は広い方が良い!大浴場の方を儂らは使おうぞ』と勝手に決める。
彼が答えかねていると、エレーナが頷き、了承した。
「了解致しました。その様に用意致しましょう。ではお部屋まで一度お戻り下さい。お荷物などを先に片付けませんと」
「そうだな、わかった」
レイナードの言葉に頷くと、廊下へ向かい歩き始めたエレーナ。彼女に向かい、彼が「そう言えば」と声をかける。
「持って行った野営用のテントが開けてみると二人用になっていたんだが、一人用のテントが二つ神殿に残っていなかったか?」
レイナードの問いに、エレーナが一瞬肩を震わせそうになったが、彼女は堪えた。『私の夫が入れ替えました』など、絶対にバラす訳にはいかない。
「イレイラ様が色々沢山用意されていましたから、もしかしたらその中に混じっていたかもしれませんが……もう全て不用となった物は使用人達と共に倉庫へ片付けてしまったので、確認出来ませんわ」
彼の方へと振り返り、穏やかに微笑む。
その返答に対しレイナードは少し不満に思ったが、問い詰めても無駄だと察し「そうか、わかった」と頷いた。
シュウは相変わらず寝たままだったのでロシェルがそのまま部屋へと連れ帰り、レイナードはアルと共に客室へと戻った。
部屋のお風呂も用意してあったが、アルの要望に従う為にタオルや着替え一式を手に持ち、彼は早速大浴場へと向かう事にした。水浴びは森の中でもしてきたが、お風呂は久しぶりだったのでレイナードもちょっと楽しそうだった。
◇
彼等が風呂に入って旅の汚れを落としている間、カイルは執務室でセナと共に思い悩んでいた。
「何でこうなったんだろう?……そういえば、『黒竜となんか契約しちゃダメ』って僕言っていなかったよね。あーもう、結局全部、ぜーんぶ僕が蒔いたタネかぁ」
すっかり片付いた机に突っ伏し、カイルが頭を抱えている。
「えぇ、話してはいなかったですね。でもまさか黒竜様がレイナード様を気にいるとは思ってもいませんでしたし、仕方のない事かと」
「あの子は強い奴が好きだからね。レイナードの事を気にいるのは自然な流れだったよ、うん。でも、契約までするとはなぁ」
うんうんとカイルが頷き、そしてため息をこぼした。
「それにしても、問題が山積みだね。さて……どうしようか。やっぱりまずは謝罪?」
「いえ、それは止めましょう」
セナがキッパリ言い切った。
「まずは現状をレイナード様にお話し、今後彼がどうしたいのかを決めませんと。謝罪は軽くにしてあげて下さい」
カイルとイレイラに散々謝罪をされ、辟易していた彼を思い浮かべ、セナは釘を刺した。
「そうだね、夕食後にでも応接間で話し合おう。一対一がいいかな、ロシェルも居るべき?」
「まずは一対一がよろしいかと。ロシェル様もいらっしゃいますと、気に病まれます。いっそ、イレイラ様からお伝えしてもらってはいかがでしょうか?母娘の方が言いやすいかもしれません」
セナの提案に「わかった、じゃあその様に準備して」と、カイルは言った。
「アルシェナとサキュロスの事は、今後の事が決まってから会うとしよう」
本心としては面倒だから放置したい所だが、同じ神殿に居る以上どうにも出来ない。でも、少しでも先送りしたい気持ちで、うんざり顔をしたままカイルはセナにそう指示した。
「かしこまりました、カイル様」
セナはカイルに対し、胸に手を当てて頭を下げた。
◇
ロシェルとレイナードは久しぶりにまともな夕食を済ませた。サラダや果物、きちんと味付けされた数々の料理はとても美味しくて、心にもよい栄養となった。人間的な食事をしっかり食べる事で彼等はやっと、帰宅したのだと実感する事が出来た。
食後の紅茶を飲みながらアルやシュウと共に彼等が雑談をしていると、セナがレイナードを呼びにやって来た。カイルが話をしたい旨を彼に伝えると、ロシェルも一緒に行きたいと言い出した。だが、二人きりで会いたいというのが父の意向だと伝えると彼女は素直に従った。
「では行ってくる」
席から立ち上がり、レイナードがロシェルの頭を軽く撫でる。アルが当然にように同行しようとしたので、セナが慌てて止めた。
「申し訳ありません、黒竜様。カイル様は後日ゆっくりお会いしたいとの事ですので、今夜は用意したお部屋でお先にお休み下さい」
『そうか、ゆっくり逢いたいのか。沢山儂に話したい事があるのだな?愛い奴め‼︎』
アルが良い方に解釈し、空中でクルンッと回る。嬉しさを隠しきれないといった感じだ。どこまでもプラス思考の、よい竜だ。
『だが用意した部屋なんぞで寝るのは御免じゃ。儂はシドの部屋で眠るぞ』
鼻息荒く宣言するアルの姿に、シドがクスッと微笑みながら「わかった、じゃあ部屋に居るといい。先に休んでるんだぞ?アルも旅で疲れただろうしな」と言う。
ほぼレイナードの肩に乗っていただけなのでアルは全く疲れていなかったのだが、主人の気遣いに感動し、破顔した。
『わかったぞ!任せておけ、しっかりと休んでおくからのう』
「あぁ、そうしてくれ」
レイナードが優しく微笑むと、それを見上げていたロシェルも笑顔になった。
「じゃあ……おやすみなさい、シド」
「あぁ、おやすみロシェル」
キスの一つでもしたらいいのにと思いながらセナは二人を見ていたが、彼等は微笑み合うだけで挨拶を済ませてしまう。その様子に、『帰りの道中でもお二人は全然進展しなかったのか!』と思ったセナは心の中で悪態をつきたくなったが、すぐに気持ちを持ち直した。
「では、行きましょうレイナード様」
「あぁ」と短く返事をし、セナの後をついて行く。
二人はカイルの執務室へと向かい、ロシェルはシュウと共に部屋へと戻る。アルはロシェルに途中まで付いて行きつつ、客間へと帰って行った。
◇
カイルの執務室へ着くなり、セナの案内でレイナードが応接用のソファーへと腰掛ける。カイルが対面に座ると、事前に用意してあった紅茶を二人に出し、セナは早々に退出していった。
「まずは、お疲れ様レイナード。とても大変な旅になってしまったらしいね、サビィル達から聞いたよ」
「こうして無事に帰れたのですから、問題無いです」
風呂に入り、人間らしい食を得る事が出来たレイナードは今とても気分が良く、穏やかな表情でカイルに頷いてみせた。
「今からとても大事な話をしないといけないんだけど……その前に、どうしてもこれだけは言わせて欲しいんだ」
レイナードは少し嫌な予感がした。また謝罪の嵐が始まるのかと身構えた。
「今回の件の経緯は何もかもが全て僕の責任だ、本当にすまないと思っている。……申し訳ない」
膝に手をつきカイルが深々と頭を下げる。
「……いいんですよ、強力な味方も得ましたし」
「それが一番の問題なんだよ!」
下げていた頭を勢いよく上げ、突然あげたカイルの叫びにレイナードが驚いた。
「あ、すまない。まさか鱗を取って来てもらうだけのつもりが、あの子と契約までしちゃったもんだから色々と問題が加算されてしまって、かなり困っているんだ」
「アルとの契約は、何か問題が?もしかしてカイルとするべきだったからですか?」
アルは最初カイルに契約を迫っていた。その場でははぐらかされてしまい、結果的にアルはカイルを待つ為引き篭もりになった流れがある。それなのにレイナードと契約をしてしまった事がまずかったのではと、彼は困惑した。今更契約の取り消しなど出来るのだろうか?
「僕とあの子が契約?嫌だよ、可愛くない。サビィルやシュウみたいなフワフワと毛のある子が僕は好きなんだ。巨大な爬虫類と契約するなんてゴメンだね。あの子の食事の度に森へ行くとかも面倒だし、無理だ」
カイルが顔をしかめて本心を垂れ流す。それを聞き、絶対にアルの前では言わないでくれとレイナードは思った。
「しかも本気で僕を殺そうとしてきた相手に別れ際に契約を迫られて、『うんいいよ』って言える程僕は『体育会系』ってやつじゃないし、理解出来ない。殴り合いからの友情物語なんか、ゴメンだね」
それを聞いてレイナードは少しだけカイルの言い分がわかる気がした。この世界の人間達の様に悪意を持たぬ相手ならまだしも、竜と化した事で理の適用外にある存在からそう言われても、信じた瞬間寝首を掻かれる事だってあるかもしれないのだから。直前まで戦っていたのならば尚更だろう。
「なるほど。気持ちはまぁわかりましたが、アルにはもっとお手柔らかに頼みます。彼は本当にカイル様の事を気に入っていますので」
「んー……わかった。君の頼みなら、優しく接すると誓うよ」
「ありがとうございます」
レイナードは心から感謝し、頭を軽く下げた。帰りの道中ですっかり意気投合していたので、アルを悲しませる事は避けたかったのだ。
「——で、だ……」と言い、カイルが言葉を止めた。続きをどう言おうかと迷い、言葉を探す。
その様子を見て、レイナードは何かもっと大きな問題なのだなと察した。
「アルシェナと君が契約したよね、今回の件で」
「はい」
「それにより、その……君の魂はこの世界に、アルシェナによって拘束された状態になったんだ」
カイルの言葉を聞き、レイナードは「つまり——」と言ったが、続く言葉が消えた。答えは聞かなくてもわかった気がした。
「レイナード。君はもう、元の世界には帰れない」
カイルの言葉を聞き『そうか。やっぱり……』と、レイナードは思った。
だが、不思議な程絶望感が無い。ただ事実としてそれを受け止め、そうなんだなと考えただけだった。
「帰る為の材料を取りに行ってもらって、結果的に帰れなくなるとか……もうどう受け止めていいのかわからないよ」
カイルは深い溜め息を吐くと、項垂れてしまった。
「わかりました。では今後の身の振り方を決めなければいけませんね」
冷静に答えるレイナードに、カイルがギョッとした。何故彼はこうも切り替えが早いのかと。
「……元の世界へ帰れなくなった事を、君は怒ってはいないの?」
「アルと契約する事を選んだのは自分ですから。元の世界に思い残した事もありませんし、ここで生きていかねばならないのなら、そうするまでです」
戦火に巻き込まれてレイナードの家族はもう居ない。戦争は終了している今、絶対に戻ってやらなければならない何かがある訳でも無い。そうなると、残った望みは一つだけだ。でもそれは、元の世界でなければというものでもないので、悲壮感や絶望を感じなかったのかもしれない。
達観するレイナードを見て、カイルは複雑な気分になった。
「——わかったよ、レイナード。君がそう言うなら僕がこれ以上何か言ってもしょうがないよね」
息を吐き、カイルは言葉を続けた。
「僕としては、レイナードにこのままここへ滞在して欲しいと思っている。気に入ってるからとかそんな理由だけじゃ無く、君程の力量なら頼める事が多いからね。でも、それは僕だけの希望だから、今後自由にしてくれて構わない。騎士として城勤を希望するなら斡旋するし、旅を希望するなら手助けしよう」
「そこまでして頂く訳には——」
謙虚に一歩引こうとするレイナードの言葉をカイルが遮った。
「待って、レイナード。君のこの状況を招いたのは全て僕だ。帰してあげる事が出来なくなってしまった以上、全面的に支えるのは僕の義務であり責任だ。甘えてくれないなら、代わりに詫び続ける事になるけど、どっちがいい?」
本当に通じるかわからなかったが、セナから密かに受けていたアドバイスを、カイルは使ってみた。
「お言葉に甘えさせて頂きます」
「よし、決まりだね」
希望通りの言葉を引っ張り出す事ができ、カイルは満足気に微笑んだ。
まさか通じるとは。『案外単純なのか?彼は』と思ったが、そんな一面が可愛く感じた。
「今後先君がどうしたいのか決まったらいつでも教えて欲しい。それまでは客室を使ってもらう事になるけど、ここで正式に暮らす事を選んだのなら別の部屋を用意しよう。旅の疲れを癒しつつ、ゆっくり考えて。くれぐれも、焦って決めてはダメだよ?」
カイルの言葉を聞き、レイナードは深く頷いた。焦っては碌な事にならないのは、最もだ。
「わかりました、感謝しますカイル様」
「今更だけど、呼び捨てで頼むよレイナード。君とは対等でいたい」
一瞬の躊躇をみせたが、レイナードは「わかりました、ではその様に」と頷いた。
「決まりだね」
カイルはそう言うと、安堵した表情をしてソファーの背に体を預けた。
「あ、そういえば。君に会いたいって来てる奴がいるんだけど心当たりある?」
首を軽く傾げカイルが問うが、レイナードには一切の心当たりが無かった為、きょとんとした顔をした。
旅で知り合った者もいないし、道中で話した他人など馬車屋の主人だけだが、会話……というにはあまりにお粗末なものだ。バルドニスの王族や神官達などがここまで来る事は、尚更あり得ないだろう。
「いえ、サッパリ」
「んー……そうか、わかった。じゃあ帰ってもらうとしようかな」
「ですが、わざわざここへ来ているのですよね?会わずに追い返しても問題ないのですか?」
会いに来ている者を追い返すのも悪いと思いレイナードはそう言ったが、カイルは少し渋い顔をした。
「何が目的かわからないんだよね。神子の一人なだけあって、突飛な行動する奴だし。あーゴメン……一つそれっぽい理由あったな。森での騒動に対して、説明を求めに来たって可能性が」
「それでしたら、会わない訳にはいきませんね」
カイルの神殿へ戻る前に立ち寄ったバルドニスの神殿では神子に会えなかった。きっとその神子がここまで来ているのだろうと察し、レイナードは会う事を決めた。
「わかった、では明日にでもそのように整えよう。今日はもう休むといい」
「そうですね、この時間から会うのは流石に」
やっとベッドで、しかも久し振りに一人で休めるのだ。今夜は早く休みたかった。
「じゃあ、朝食が終わったら応接間に集合しよう」
「了解です」
レイナードが頷き答えると、セナが淹れてくれていた紅茶を飲み干しカップをソーサーへと戻す。
「では、今日はこれで失礼いたします」
「うん、おやすみレイナード。……本当にごめんね」
シュンと項垂れながら、カイルがソファーから立ち上がるレイナードへ向けて詫びる。
「いいんですよ。済んだことですから」
レイナードが少し困ったような笑顔をみせると、一礼し、カイルの執務室を後にした。
◇
客室へと戻った俺は、大きなベッドでスヤスヤと眠っているアルの姿を目視し、静かに笑った。本当に指示通り素直に寝ている姿をとても愛らしく感じる。
カイルは爬虫類が好きでは無いと言っていたが、アルは爬虫類とはまた違うと俺は思う。小さな体でベッドに横たわる姿はきっと、彼にとっても可愛いと感じるに違いない。クルッと猫のように丸まり眠る姿は、充分愛玩対象になり得るだろう。
風呂上がりに着た白いシャツとトラウザーズから、夜着へと着替える。
ベッド横にあるサイドテーブルの上に用意されていたレモン水をコップへ移しそれを飲むと、早速ベットへと腰掛けた。
神殿を旅立ってからの野営中。ずっとロシェルと二人、狭いテントの中に同衾せざるおえなかった為、……一匹先に寝ている者は居るがそれは別として、一人で寝るのは久しい事だ。そのせいか、ベッドがやけに広く感じてしまう。
端に寝てくれているアルに気遣いながらそっと布団へ入ると、紅い天蓋を見ながら彼はふうと息を吐いた。
「……さて、どうしたものか」
魔物戦での圧倒的不利な状況を覆す為、アルと契約した事により俺は元の世界へ帰還出来なくなった。その事を後悔していないが、じわじわと帰れない事実が心に少しだけ影を落とす。
地位も名誉も得る事が出来た矢先、身一つでこの世界へと来てしまった。世の中が平穏になり、やっと自分のささやかな望みに対し前向きに打ち込めると思っていたが、こうなってしまってはまた身を固める所から始めないと、嫁探しなど出来ないだろう。でも、身を固める手立てが思い浮かばない。カイルに頼み、仕事を斡旋してもらうか?とも思ったが、ロシェルの事が心配で、他の仕事など考えられない。この世界で自分は彼女の使い魔という立場を得てはいるが、はたして使い魔は仕事なのか?——色々考えては、どんどん泥沼にはまっていく気がする。
『嫁が欲しい』
帰れないとわかった以上、叶えたい望みはそのくらいだ。だが、自分は醜男である事からここでもそれは難しいだろう……と思ったのだが、ふと考えてみると、この世界に来てからというもの、異性に距離を置かれたなと感じた事が無いと気が付いた。
(もしかして、ここならば俺でも仕事さえあれば婚活が出来るのでは?)
いや待て。話した相手など、よく思い出してみれば既婚者ばかりじゃないか。未婚なのはロシェルくらいだが、彼女は俺の主人であり、多くの求婚者を抱える身だ。あり得ない。
絶望的状況である事に変わりはないのかもしれないが、愛する相手を得る為、本腰をいれて挑まねばならないだろう。
使い魔である以上主人から離れるなど言語道断だ。ここはそうだな、ロシェルに関わる仕事を何か得て、足元が固まったら本格的にこっそり嫁になってくれそうな相手を探そう。
するべき事が決まると、急に眠気が襲ってきた。きっとこれからの道筋が決まった事で安心したからだろう。今晩はゆっくり休み、全ては明日からだ。
◇
一方その頃、私は自室で母・イレイラから事の次第を聞かされ、ソファーに座ったまま茫然自失状態になっていた。
「——聞いてるの?ロシェル」
母にそう問われ、ハッと我に返った。
「……え、えぇ。聞いているわ」
不自然な程何度も頷いてから、口元を右手で隠す。『全ては私のせいだ』としか考えられない。当然だ、今回の旅が原因でシドが元の世界へ帰れなくなったと聞かされてしまったのだから。
私が『使い魔を召喚して欲しい』なんか言わなければ、彼が召喚魔法に巻き込まれてこの世界へ来る事など無かった。黒竜様とシドは契約をするべきでは無いと知っていれば、彼が元の世界へ帰れないという事態にはならなかった。彼の側に少しでも長く居たいと、鱗を手に入れるのが先延ばしになってくれたらと願ってしまった事も、今では後悔しか感じない。
我儘で無知な自分がひどく醜怪な心の人間に思えてきて、気持ちが悪くなってきた。
「レイナードは全て受け止めて、今後の事をゆっくり決めていくと言っていたそうよ」
「……シドらしいわ、優しいのね」
母の言葉に対し素直にそう思うと同時に、心の中では私を恨んでいるのでは?と思い、気が気じゃ無い。
嫌われたく無い、側に居たい……出来れば、ずっと。そんな事を私には考える資格すら無いのに、どうしても考えてしまう。
(明日からいったい私はどんな顔で彼に会えばいいの?)
「ロシェル、いいこと?レイナードは決してこの結果に関して、貴女を恨んだりなどするタイプの人じゃ無いわ。現実主義だって事、貴女もわかっているでしょう?」
膝に置いていた私の手に、母は己の手を重ねそう言った。
「でも……どうしても考えてしまうの。表面上は気にしない素振りでも、本心では私を恨んでいるんじゃないかって」
「そう考えてしまう事をやめろとは言わないけど、決めつけては駄目よ。貴女は彼の主人なのでしょう?ならば主人らしく、怯えたりなどせずに接しなさい」
「シドは人間なのよ、使い魔では無かったわ。私は彼の主人として振る舞うなんて、もう出来ない」
彼と自分を繋ぐ関係を放棄したくは無いが、それが事実だ。シドが人間である以上、シュウの様に彼を使い魔だとはもう流石に心からは思えない。
「彼はそうは思っていないわよ、断言できるわ。あくまでも使い魔として貴女を守り、側に仕える気満々よ。その気持ちをロシェルは蔑ろにするの?突然ここへ来て、使い魔として仕える事が唯一進むべき指標かもしれないのに?」
そう言われてしまうと弱かった。
ここで生きていく目的になり得るならば是非協力したい。どんな関係でも、彼の側に居られるならば喜んで受け入れたい。シドがここで生きていく糧になるならば、このまま“主人と使い魔”のままでいた方がいいのだろうか……。
母の言葉に心が揺れる。悪魔の甘い誘惑みたいな気もするが、不自然に避けて会えなくなるよりはいいのかもしれない。側に居た方が、本心を知る事ができるかも。
「見極めるといいわ、レイナードが本当はどう思っているのか。彼は何を求めているのか。そして、望みを叶えてあげて。この世界に呼んだ者として、主人としての義務よ」
前にレイナードへ対し『望みを叶えてあげる』と言った自分の言葉を思い出した。
(そうだ、この状況に悲観している暇など無いわ、私はシドの希望を叶えてあげないと。突然連れてきてしまったからには、せめてそうしてあげるべきだわ)
「わかったわ、母さん。今いきなり割り切る事は出来ないけど……頑張ってみるね」
力なく微笑み、頷いてみせる。
会ってもいないのに、シドに嫌われたかもと悲観するのは早計だと自分へ言い聞かせた。
「彼の望みを叶える事も大事だけど、自分の事も考えなさいね?どうしてレイナードの側に居たいと思うのか、いい加減ちゃんと自分と向き合いなさい。求婚者の事はもう全てお断りしておいたから」
「え?そうなの⁈いいの?」
知らない人に嫁がなくていいのはとっても嬉しいが、それでは私は行き遅れになるのでは?結婚したい相手が既にいるわけでも無いのに、どうしたらいいのだろう?
これから自分で探すの?
(……自分で、好きだと思える相手を、探していいんだ)
そう思った瞬間、シドの顔が頭に浮かんだ事に私は驚いた。
新緑色の瞳を持ち、長髪の髪を後ろに束ねている彼の頭には、親神から受け継いだヤギの角が生えている。高身長の体は線が細く、顔はとても神経質そうな印象だ。つり目がちな目元は意地が悪く見え、口を開けば罵詈雑言しか言いそうに無い。無いのだが……
「ねぇー頼むよセナァ、カイルに会わせてくれよ」
蒼白で、今にも頭痛薬をガブ飲みしそうな顔で可愛く言った。
「無理です、カイル様は今大変お忙しいのでお会いできません。先にご連絡を頂かないと、予定を開ける事はそもそも無理です」
神殿へ帰宅したばかりの、着替えはかろうじて済ませただけのセナが困り顔で告げる。
「まーた奥さんとよろしくヤってるだけだろう?どうせ。よし、一時間待つから、スッキリしてから私に会ってよ!」
いい事思いついた!と言いたげにパンっと手を合わせたが、似合っていない。言葉の内容も内容なので、セナは額を押さえて息を吐いた。
「サキュロス様、今カイル様は別件で本当にお忙しいのです」
「マジか!まさか仕事?何か行事とかあったっけ?この時期」
口元に指を当て、少し目線を上にやる。幼子がやると可愛い仕草なのだが、サキュロスがやるとサッパリだ。何故お前がそれをやる⁈とつっこみたくなるレベルで。
「……仕事とはまた違うのですが、とにかくお忙しいのです。私もまだ報告したい事が残っていますので下がらせて貰います」
「えぇぇ、セナも忙しいの?」
「はい、かなり。とっても」
「んー……じゃあ泊まる!暇になるまで泊まる!それならいいだろう?カイルが会えるまでいくらでも待っちゃうよ、時間は無限だからね」
サキュロスがパチっとウィンクしてみせた。だが——以下略。
彼の提案を受けて、セナが少し困った顔になった。独断で決めてもよいのか、と。だが、神子達は揃いも揃って自己中心的で我儘だ。セナの主人であるカイルは比較的温厚で話が他よりは通じるタイプなのだが、サキュロスは違う。典型的な自己中我儘神子様だ。帰れと追い返しても、庭に野営してでも自分の望みを突き通すタイプなのだ。
「わかりました、では少々こちらでお待ちいただけますか?すぐにエレーナを呼び、部屋の用意をさせましょう。ですが、いいですかサキュロス様。カイル様に会うのは、カイル様のご都合に合わせて下さい。約束出来ないのなら、貴方様が神子だろうがなんだろうが強制送還します」
キッと睨みつけるセナ。記憶を持ったまま転生を繰り返す者ならではの貫禄を見せ付ける、素晴らしい眼差しだ。
気合い負けしたサキュロスが、気圧されながら必死に頷く。
「うん!約束するよ、セナ。あーでも逢いたい人がいるんだ。その人にさえ逢えれば、ぶっちゃけカイルはいつでもいいかなーなんて」
全く顔面に似合わぬ悪戯っ子の笑みで、サキュロスはニヤッと笑ったのだった。
◇
深い深い森の中。途中から多少気を付けていたが、それでも戦闘が原因で倒木がかなり目立つ道程を、ロシェル達が街に向かい歩いている。
黒竜が生まれ変わる前ならば乗って帰る事も出来たろうが、小さくなってしまったアルはレイナードの肩に留まっていた。戦いで疲れ切ったシュウはロシェルの首に巻きつき、スヤスヤと眠っている。
『んでだ、今更なのじゃがお主ら儂を探しておったようじゃが、用向きは何なのじゃ?もしかして……カイルのお迎えか?そうなのか?』
アルは期待に満ちた目を、隣を歩くロシェルに向けた。長くてトゲのある尻尾を犬みたいに振っている。
「……えっと」
キラキラした黒い瞳を向けられては、お迎えでは無いとはとてもじゃないが伝え難い。鱗だけ欲しいとハッキリ言う気にもなれず、ロシェルは「そんな感じです!」と言ってしまった。
レイナードは空気を読みながら、説明を追加する。
「黒竜の鱗が必要らしくてな、カイルに会って直接彼に分けて欲しいんだ」
カイルに会いたがっていたアルを放置していたのだ。そのくらい勝手にこちらが決めても良いだろうとレイナードは考えた。
『儂の鱗がか?また古代魔法でもやるのか?相変わらず悪趣味じゃのう、あんな面倒なもの。前に会った時なんぞ、魔法具の材料にすると言って散々攻撃魔法をぶっ放し、儂の爪を剥いでいったような奴じゃが、今回は鱗でいいとは……優しいのう』
アルは嬉しそうに昔話を語っているが、ロシェル的には父の悪行に心が痛んだ。
「す、すみません……父がご迷惑をおかけしてしまって。……今回鱗が必要になったのは、私のせいなのです」
杖をギュッと握りしめたロシェルが、気まずそうに肩を縮める。そんな彼女の肩に手を乗せ、レイナードが気遣う様に撫でる。そんな二人を見て、アルが首を傾げた。
『まぁ理由なんぞ、そんな瑣末事気にせんわ。カイルにやっと逢えると思うと、心が踊るのう』
嬉しそうにしている黒竜の姿に、レイナードが「良かったな、気にしてないそうだ」とロシェルの耳元で囁く。彼的には内緒話をしたかっただけなのだが、彼女の方は耳に感じる熱い吐息に背を反らせた。
『しかし、カイルが嫁をもらっていたとはのう。式に呼んでくれても……無理じゃな、契約が無いと森からも出られんのじゃったわ』
一転して項垂れるアル。
そんな彼を見て今度はサビィルが気まずげに視線をそらした。
黒竜に言った言葉をカイルがスッカリ忘れているだろう事は察しがついているので、アルの一途な思いは、見ていてとても重かった。今それを黒竜に教えるべきではないと感じたサビィルは、『ウチの主人が申し訳ない!』と心で詫びるだけに留めた。
「色々面倒なんだな、竜である事も」
『まぁそうじゃな。何と言ってもこれは所詮呪いじゃしな。お主との契約により森を出られるようになったとしても、腹が減るから結局は定期的に森に戻って魔物を喰わねばならんしのう』
「その時は俺も付き合おう」
レイナードの言葉にアルは喜び、彼の頰に顔を擦り付けた。
「その時は私も同行したいわ、いいかしら?」
『カイルの娘もか!賑やかになるのう』
雑談をしながら、和気あいあいと二人と三匹は神殿へ戻っていく。魔物の邪魔が無いので、帰りはとてもスムーズに進めたという。
◇
魔物との戦闘が皆無だったので、三週間かけた道程を結局彼女達は一週間もかからずに戻る事が出来た。
カイルの神殿へと帰る前。最北の都市バルドニスに住まう神子の神殿へも立ち寄り、森でやらかしてしまった事を報告に行ったりもしたのだが、留守の為会う事が出来ず、この一帯を治める王族にのみ事の次第を伝えてきた。
再建の話は落ち着いたらまた改めてしようという事になり、彼等はその後直ぐに帰路へ着いた。
「おかえりなさいませ、ロシェル様」
彼らが神殿へ到着すると、すぐさまエレーナが神殿の住居部分にある玄関まで迎えに来てくれた。
この神殿へ神官として戻って来たばかりの頃のエレーナはまだ幼子だったのだが、今はもう二十代の立派な成人女性になっている。内面から出る年長者独特の貫禄は相変わらずで、若い女性であると感じさせないのが少し残念だ。
「ただいま!エレーナ」
嬉しさ余って、エレーナに抱きつくロシェル。抱擁に応え、孫でもあやすように彼女の背をポンポンとエレーナが軽く叩いた。
「お風呂の用意が出来ておりますわ。早速お二人共お入り下さい。ご一緒に入られるのでしたら、大浴場も使えますが如何なさいますか?」
二人の関係が相変わらず主従関係のままでしか無いと、夫であるセナから事前に聞いていたので、敢えてちょっと意地悪な事を言ってみた。『いい加減前に進まないかしら?焦ったいわ』という気持ちも込めて。
エレーナの発言に、ロシェルは顔を真っ赤にし無言になった。レイナードの方はと言えば、激しく咳き込み苦しそうだ。
「か、各人で入るわ。ね?シド」
上擦った声で、ロシェルが何とか答える。
シドが初めてお風呂に入った時に、自分がしでかした失敗をふと思い出し、穴を掘って埋まってしまいたい気分にもなった。
「あら、レイナード様は“使い魔”なのですから洗って差し上げる位のお世話はするべきなのでは?前にご自分でもそう仰っていましたのに」
頰に手を当て、エレーナが首を傾げた。
「シドはよく出来た使い魔だから大丈夫なの!」
「そうなのですか?わかりましたわ、ではその様に」
あまりからかい過ぎても可哀想だと、エレーナが一歩引き、頭を下げた。引き時を誤ると、信頼を失う。そうなっては意味が無い。
「シド様もそれでよろしいのですか?一緒に入りたいのであれば、私が説得いたしましょうか」
母の様な笑みでとんでもない事を問われ、レイナードの顔と首が茹で蛸の様に真っ赤になった。
「別々で!」
無駄に大きな声で答えるレイナードの肩の上で『儂はレイナードと入るぞ』とアルが宣言する。
「黒竜様。挨拶が遅れてしまいすみませんでした。神官のエレーナと申します。何か要望が御座いましたら遠慮無く私共に仰って下さいまし。私共神官は、常に神子様と竜族にお仕えいたします」
神官服のスカート部分を掴み上げ、脚を折って深々と頭を下げる。
『じゃあ儂はカイルに逢いたいぞ!』
声高に叫んだが、それに対してはエレーナがすまさそうな顔をした。
「申し訳ございません。カイル様は今別の神官と今後の事で話し合いをしておりまして……直ぐにとはいかないのです」
むーと声をもらしたが、アルは素直に頷いた。
『わかった。では風呂に入った後ならば逢えるかのう?』
「お風呂の後に、皆様でお食事をなさって下さい。その後でしたらお逢いできるかと思いますわ」
『わかった、従おう』
「ありがとうございます、黒竜様」
エレーナに向かい首肯し、アルがレイナードに向かい『風呂は広い方が良い!大浴場の方を儂らは使おうぞ』と勝手に決める。
彼が答えかねていると、エレーナが頷き、了承した。
「了解致しました。その様に用意致しましょう。ではお部屋まで一度お戻り下さい。お荷物などを先に片付けませんと」
「そうだな、わかった」
レイナードの言葉に頷くと、廊下へ向かい歩き始めたエレーナ。彼女に向かい、彼が「そう言えば」と声をかける。
「持って行った野営用のテントが開けてみると二人用になっていたんだが、一人用のテントが二つ神殿に残っていなかったか?」
レイナードの問いに、エレーナが一瞬肩を震わせそうになったが、彼女は堪えた。『私の夫が入れ替えました』など、絶対にバラす訳にはいかない。
「イレイラ様が色々沢山用意されていましたから、もしかしたらその中に混じっていたかもしれませんが……もう全て不用となった物は使用人達と共に倉庫へ片付けてしまったので、確認出来ませんわ」
彼の方へと振り返り、穏やかに微笑む。
その返答に対しレイナードは少し不満に思ったが、問い詰めても無駄だと察し「そうか、わかった」と頷いた。
シュウは相変わらず寝たままだったのでロシェルがそのまま部屋へと連れ帰り、レイナードはアルと共に客室へと戻った。
部屋のお風呂も用意してあったが、アルの要望に従う為にタオルや着替え一式を手に持ち、彼は早速大浴場へと向かう事にした。水浴びは森の中でもしてきたが、お風呂は久しぶりだったのでレイナードもちょっと楽しそうだった。
◇
彼等が風呂に入って旅の汚れを落としている間、カイルは執務室でセナと共に思い悩んでいた。
「何でこうなったんだろう?……そういえば、『黒竜となんか契約しちゃダメ』って僕言っていなかったよね。あーもう、結局全部、ぜーんぶ僕が蒔いたタネかぁ」
すっかり片付いた机に突っ伏し、カイルが頭を抱えている。
「えぇ、話してはいなかったですね。でもまさか黒竜様がレイナード様を気にいるとは思ってもいませんでしたし、仕方のない事かと」
「あの子は強い奴が好きだからね。レイナードの事を気にいるのは自然な流れだったよ、うん。でも、契約までするとはなぁ」
うんうんとカイルが頷き、そしてため息をこぼした。
「それにしても、問題が山積みだね。さて……どうしようか。やっぱりまずは謝罪?」
「いえ、それは止めましょう」
セナがキッパリ言い切った。
「まずは現状をレイナード様にお話し、今後彼がどうしたいのかを決めませんと。謝罪は軽くにしてあげて下さい」
カイルとイレイラに散々謝罪をされ、辟易していた彼を思い浮かべ、セナは釘を刺した。
「そうだね、夕食後にでも応接間で話し合おう。一対一がいいかな、ロシェルも居るべき?」
「まずは一対一がよろしいかと。ロシェル様もいらっしゃいますと、気に病まれます。いっそ、イレイラ様からお伝えしてもらってはいかがでしょうか?母娘の方が言いやすいかもしれません」
セナの提案に「わかった、じゃあその様に準備して」と、カイルは言った。
「アルシェナとサキュロスの事は、今後の事が決まってから会うとしよう」
本心としては面倒だから放置したい所だが、同じ神殿に居る以上どうにも出来ない。でも、少しでも先送りしたい気持ちで、うんざり顔をしたままカイルはセナにそう指示した。
「かしこまりました、カイル様」
セナはカイルに対し、胸に手を当てて頭を下げた。
◇
ロシェルとレイナードは久しぶりにまともな夕食を済ませた。サラダや果物、きちんと味付けされた数々の料理はとても美味しくて、心にもよい栄養となった。人間的な食事をしっかり食べる事で彼等はやっと、帰宅したのだと実感する事が出来た。
食後の紅茶を飲みながらアルやシュウと共に彼等が雑談をしていると、セナがレイナードを呼びにやって来た。カイルが話をしたい旨を彼に伝えると、ロシェルも一緒に行きたいと言い出した。だが、二人きりで会いたいというのが父の意向だと伝えると彼女は素直に従った。
「では行ってくる」
席から立ち上がり、レイナードがロシェルの頭を軽く撫でる。アルが当然にように同行しようとしたので、セナが慌てて止めた。
「申し訳ありません、黒竜様。カイル様は後日ゆっくりお会いしたいとの事ですので、今夜は用意したお部屋でお先にお休み下さい」
『そうか、ゆっくり逢いたいのか。沢山儂に話したい事があるのだな?愛い奴め‼︎』
アルが良い方に解釈し、空中でクルンッと回る。嬉しさを隠しきれないといった感じだ。どこまでもプラス思考の、よい竜だ。
『だが用意した部屋なんぞで寝るのは御免じゃ。儂はシドの部屋で眠るぞ』
鼻息荒く宣言するアルの姿に、シドがクスッと微笑みながら「わかった、じゃあ部屋に居るといい。先に休んでるんだぞ?アルも旅で疲れただろうしな」と言う。
ほぼレイナードの肩に乗っていただけなのでアルは全く疲れていなかったのだが、主人の気遣いに感動し、破顔した。
『わかったぞ!任せておけ、しっかりと休んでおくからのう』
「あぁ、そうしてくれ」
レイナードが優しく微笑むと、それを見上げていたロシェルも笑顔になった。
「じゃあ……おやすみなさい、シド」
「あぁ、おやすみロシェル」
キスの一つでもしたらいいのにと思いながらセナは二人を見ていたが、彼等は微笑み合うだけで挨拶を済ませてしまう。その様子に、『帰りの道中でもお二人は全然進展しなかったのか!』と思ったセナは心の中で悪態をつきたくなったが、すぐに気持ちを持ち直した。
「では、行きましょうレイナード様」
「あぁ」と短く返事をし、セナの後をついて行く。
二人はカイルの執務室へと向かい、ロシェルはシュウと共に部屋へと戻る。アルはロシェルに途中まで付いて行きつつ、客間へと帰って行った。
◇
カイルの執務室へ着くなり、セナの案内でレイナードが応接用のソファーへと腰掛ける。カイルが対面に座ると、事前に用意してあった紅茶を二人に出し、セナは早々に退出していった。
「まずは、お疲れ様レイナード。とても大変な旅になってしまったらしいね、サビィル達から聞いたよ」
「こうして無事に帰れたのですから、問題無いです」
風呂に入り、人間らしい食を得る事が出来たレイナードは今とても気分が良く、穏やかな表情でカイルに頷いてみせた。
「今からとても大事な話をしないといけないんだけど……その前に、どうしてもこれだけは言わせて欲しいんだ」
レイナードは少し嫌な予感がした。また謝罪の嵐が始まるのかと身構えた。
「今回の件の経緯は何もかもが全て僕の責任だ、本当にすまないと思っている。……申し訳ない」
膝に手をつきカイルが深々と頭を下げる。
「……いいんですよ、強力な味方も得ましたし」
「それが一番の問題なんだよ!」
下げていた頭を勢いよく上げ、突然あげたカイルの叫びにレイナードが驚いた。
「あ、すまない。まさか鱗を取って来てもらうだけのつもりが、あの子と契約までしちゃったもんだから色々と問題が加算されてしまって、かなり困っているんだ」
「アルとの契約は、何か問題が?もしかしてカイルとするべきだったからですか?」
アルは最初カイルに契約を迫っていた。その場でははぐらかされてしまい、結果的にアルはカイルを待つ為引き篭もりになった流れがある。それなのにレイナードと契約をしてしまった事がまずかったのではと、彼は困惑した。今更契約の取り消しなど出来るのだろうか?
「僕とあの子が契約?嫌だよ、可愛くない。サビィルやシュウみたいなフワフワと毛のある子が僕は好きなんだ。巨大な爬虫類と契約するなんてゴメンだね。あの子の食事の度に森へ行くとかも面倒だし、無理だ」
カイルが顔をしかめて本心を垂れ流す。それを聞き、絶対にアルの前では言わないでくれとレイナードは思った。
「しかも本気で僕を殺そうとしてきた相手に別れ際に契約を迫られて、『うんいいよ』って言える程僕は『体育会系』ってやつじゃないし、理解出来ない。殴り合いからの友情物語なんか、ゴメンだね」
それを聞いてレイナードは少しだけカイルの言い分がわかる気がした。この世界の人間達の様に悪意を持たぬ相手ならまだしも、竜と化した事で理の適用外にある存在からそう言われても、信じた瞬間寝首を掻かれる事だってあるかもしれないのだから。直前まで戦っていたのならば尚更だろう。
「なるほど。気持ちはまぁわかりましたが、アルにはもっとお手柔らかに頼みます。彼は本当にカイル様の事を気に入っていますので」
「んー……わかった。君の頼みなら、優しく接すると誓うよ」
「ありがとうございます」
レイナードは心から感謝し、頭を軽く下げた。帰りの道中ですっかり意気投合していたので、アルを悲しませる事は避けたかったのだ。
「——で、だ……」と言い、カイルが言葉を止めた。続きをどう言おうかと迷い、言葉を探す。
その様子を見て、レイナードは何かもっと大きな問題なのだなと察した。
「アルシェナと君が契約したよね、今回の件で」
「はい」
「それにより、その……君の魂はこの世界に、アルシェナによって拘束された状態になったんだ」
カイルの言葉を聞き、レイナードは「つまり——」と言ったが、続く言葉が消えた。答えは聞かなくてもわかった気がした。
「レイナード。君はもう、元の世界には帰れない」
カイルの言葉を聞き『そうか。やっぱり……』と、レイナードは思った。
だが、不思議な程絶望感が無い。ただ事実としてそれを受け止め、そうなんだなと考えただけだった。
「帰る為の材料を取りに行ってもらって、結果的に帰れなくなるとか……もうどう受け止めていいのかわからないよ」
カイルは深い溜め息を吐くと、項垂れてしまった。
「わかりました。では今後の身の振り方を決めなければいけませんね」
冷静に答えるレイナードに、カイルがギョッとした。何故彼はこうも切り替えが早いのかと。
「……元の世界へ帰れなくなった事を、君は怒ってはいないの?」
「アルと契約する事を選んだのは自分ですから。元の世界に思い残した事もありませんし、ここで生きていかねばならないのなら、そうするまでです」
戦火に巻き込まれてレイナードの家族はもう居ない。戦争は終了している今、絶対に戻ってやらなければならない何かがある訳でも無い。そうなると、残った望みは一つだけだ。でもそれは、元の世界でなければというものでもないので、悲壮感や絶望を感じなかったのかもしれない。
達観するレイナードを見て、カイルは複雑な気分になった。
「——わかったよ、レイナード。君がそう言うなら僕がこれ以上何か言ってもしょうがないよね」
息を吐き、カイルは言葉を続けた。
「僕としては、レイナードにこのままここへ滞在して欲しいと思っている。気に入ってるからとかそんな理由だけじゃ無く、君程の力量なら頼める事が多いからね。でも、それは僕だけの希望だから、今後自由にしてくれて構わない。騎士として城勤を希望するなら斡旋するし、旅を希望するなら手助けしよう」
「そこまでして頂く訳には——」
謙虚に一歩引こうとするレイナードの言葉をカイルが遮った。
「待って、レイナード。君のこの状況を招いたのは全て僕だ。帰してあげる事が出来なくなってしまった以上、全面的に支えるのは僕の義務であり責任だ。甘えてくれないなら、代わりに詫び続ける事になるけど、どっちがいい?」
本当に通じるかわからなかったが、セナから密かに受けていたアドバイスを、カイルは使ってみた。
「お言葉に甘えさせて頂きます」
「よし、決まりだね」
希望通りの言葉を引っ張り出す事ができ、カイルは満足気に微笑んだ。
まさか通じるとは。『案外単純なのか?彼は』と思ったが、そんな一面が可愛く感じた。
「今後先君がどうしたいのか決まったらいつでも教えて欲しい。それまでは客室を使ってもらう事になるけど、ここで正式に暮らす事を選んだのなら別の部屋を用意しよう。旅の疲れを癒しつつ、ゆっくり考えて。くれぐれも、焦って決めてはダメだよ?」
カイルの言葉を聞き、レイナードは深く頷いた。焦っては碌な事にならないのは、最もだ。
「わかりました、感謝しますカイル様」
「今更だけど、呼び捨てで頼むよレイナード。君とは対等でいたい」
一瞬の躊躇をみせたが、レイナードは「わかりました、ではその様に」と頷いた。
「決まりだね」
カイルはそう言うと、安堵した表情をしてソファーの背に体を預けた。
「あ、そういえば。君に会いたいって来てる奴がいるんだけど心当たりある?」
首を軽く傾げカイルが問うが、レイナードには一切の心当たりが無かった為、きょとんとした顔をした。
旅で知り合った者もいないし、道中で話した他人など馬車屋の主人だけだが、会話……というにはあまりにお粗末なものだ。バルドニスの王族や神官達などがここまで来る事は、尚更あり得ないだろう。
「いえ、サッパリ」
「んー……そうか、わかった。じゃあ帰ってもらうとしようかな」
「ですが、わざわざここへ来ているのですよね?会わずに追い返しても問題ないのですか?」
会いに来ている者を追い返すのも悪いと思いレイナードはそう言ったが、カイルは少し渋い顔をした。
「何が目的かわからないんだよね。神子の一人なだけあって、突飛な行動する奴だし。あーゴメン……一つそれっぽい理由あったな。森での騒動に対して、説明を求めに来たって可能性が」
「それでしたら、会わない訳にはいきませんね」
カイルの神殿へ戻る前に立ち寄ったバルドニスの神殿では神子に会えなかった。きっとその神子がここまで来ているのだろうと察し、レイナードは会う事を決めた。
「わかった、では明日にでもそのように整えよう。今日はもう休むといい」
「そうですね、この時間から会うのは流石に」
やっとベッドで、しかも久し振りに一人で休めるのだ。今夜は早く休みたかった。
「じゃあ、朝食が終わったら応接間に集合しよう」
「了解です」
レイナードが頷き答えると、セナが淹れてくれていた紅茶を飲み干しカップをソーサーへと戻す。
「では、今日はこれで失礼いたします」
「うん、おやすみレイナード。……本当にごめんね」
シュンと項垂れながら、カイルがソファーから立ち上がるレイナードへ向けて詫びる。
「いいんですよ。済んだことですから」
レイナードが少し困ったような笑顔をみせると、一礼し、カイルの執務室を後にした。
◇
客室へと戻った俺は、大きなベッドでスヤスヤと眠っているアルの姿を目視し、静かに笑った。本当に指示通り素直に寝ている姿をとても愛らしく感じる。
カイルは爬虫類が好きでは無いと言っていたが、アルは爬虫類とはまた違うと俺は思う。小さな体でベッドに横たわる姿はきっと、彼にとっても可愛いと感じるに違いない。クルッと猫のように丸まり眠る姿は、充分愛玩対象になり得るだろう。
風呂上がりに着た白いシャツとトラウザーズから、夜着へと着替える。
ベッド横にあるサイドテーブルの上に用意されていたレモン水をコップへ移しそれを飲むと、早速ベットへと腰掛けた。
神殿を旅立ってからの野営中。ずっとロシェルと二人、狭いテントの中に同衾せざるおえなかった為、……一匹先に寝ている者は居るがそれは別として、一人で寝るのは久しい事だ。そのせいか、ベッドがやけに広く感じてしまう。
端に寝てくれているアルに気遣いながらそっと布団へ入ると、紅い天蓋を見ながら彼はふうと息を吐いた。
「……さて、どうしたものか」
魔物戦での圧倒的不利な状況を覆す為、アルと契約した事により俺は元の世界へ帰還出来なくなった。その事を後悔していないが、じわじわと帰れない事実が心に少しだけ影を落とす。
地位も名誉も得る事が出来た矢先、身一つでこの世界へと来てしまった。世の中が平穏になり、やっと自分のささやかな望みに対し前向きに打ち込めると思っていたが、こうなってしまってはまた身を固める所から始めないと、嫁探しなど出来ないだろう。でも、身を固める手立てが思い浮かばない。カイルに頼み、仕事を斡旋してもらうか?とも思ったが、ロシェルの事が心配で、他の仕事など考えられない。この世界で自分は彼女の使い魔という立場を得てはいるが、はたして使い魔は仕事なのか?——色々考えては、どんどん泥沼にはまっていく気がする。
『嫁が欲しい』
帰れないとわかった以上、叶えたい望みはそのくらいだ。だが、自分は醜男である事からここでもそれは難しいだろう……と思ったのだが、ふと考えてみると、この世界に来てからというもの、異性に距離を置かれたなと感じた事が無いと気が付いた。
(もしかして、ここならば俺でも仕事さえあれば婚活が出来るのでは?)
いや待て。話した相手など、よく思い出してみれば既婚者ばかりじゃないか。未婚なのはロシェルくらいだが、彼女は俺の主人であり、多くの求婚者を抱える身だ。あり得ない。
絶望的状況である事に変わりはないのかもしれないが、愛する相手を得る為、本腰をいれて挑まねばならないだろう。
使い魔である以上主人から離れるなど言語道断だ。ここはそうだな、ロシェルに関わる仕事を何か得て、足元が固まったら本格的にこっそり嫁になってくれそうな相手を探そう。
するべき事が決まると、急に眠気が襲ってきた。きっとこれからの道筋が決まった事で安心したからだろう。今晩はゆっくり休み、全ては明日からだ。
◇
一方その頃、私は自室で母・イレイラから事の次第を聞かされ、ソファーに座ったまま茫然自失状態になっていた。
「——聞いてるの?ロシェル」
母にそう問われ、ハッと我に返った。
「……え、えぇ。聞いているわ」
不自然な程何度も頷いてから、口元を右手で隠す。『全ては私のせいだ』としか考えられない。当然だ、今回の旅が原因でシドが元の世界へ帰れなくなったと聞かされてしまったのだから。
私が『使い魔を召喚して欲しい』なんか言わなければ、彼が召喚魔法に巻き込まれてこの世界へ来る事など無かった。黒竜様とシドは契約をするべきでは無いと知っていれば、彼が元の世界へ帰れないという事態にはならなかった。彼の側に少しでも長く居たいと、鱗を手に入れるのが先延ばしになってくれたらと願ってしまった事も、今では後悔しか感じない。
我儘で無知な自分がひどく醜怪な心の人間に思えてきて、気持ちが悪くなってきた。
「レイナードは全て受け止めて、今後の事をゆっくり決めていくと言っていたそうよ」
「……シドらしいわ、優しいのね」
母の言葉に対し素直にそう思うと同時に、心の中では私を恨んでいるのでは?と思い、気が気じゃ無い。
嫌われたく無い、側に居たい……出来れば、ずっと。そんな事を私には考える資格すら無いのに、どうしても考えてしまう。
(明日からいったい私はどんな顔で彼に会えばいいの?)
「ロシェル、いいこと?レイナードは決してこの結果に関して、貴女を恨んだりなどするタイプの人じゃ無いわ。現実主義だって事、貴女もわかっているでしょう?」
膝に置いていた私の手に、母は己の手を重ねそう言った。
「でも……どうしても考えてしまうの。表面上は気にしない素振りでも、本心では私を恨んでいるんじゃないかって」
「そう考えてしまう事をやめろとは言わないけど、決めつけては駄目よ。貴女は彼の主人なのでしょう?ならば主人らしく、怯えたりなどせずに接しなさい」
「シドは人間なのよ、使い魔では無かったわ。私は彼の主人として振る舞うなんて、もう出来ない」
彼と自分を繋ぐ関係を放棄したくは無いが、それが事実だ。シドが人間である以上、シュウの様に彼を使い魔だとはもう流石に心からは思えない。
「彼はそうは思っていないわよ、断言できるわ。あくまでも使い魔として貴女を守り、側に仕える気満々よ。その気持ちをロシェルは蔑ろにするの?突然ここへ来て、使い魔として仕える事が唯一進むべき指標かもしれないのに?」
そう言われてしまうと弱かった。
ここで生きていく目的になり得るならば是非協力したい。どんな関係でも、彼の側に居られるならば喜んで受け入れたい。シドがここで生きていく糧になるならば、このまま“主人と使い魔”のままでいた方がいいのだろうか……。
母の言葉に心が揺れる。悪魔の甘い誘惑みたいな気もするが、不自然に避けて会えなくなるよりはいいのかもしれない。側に居た方が、本心を知る事ができるかも。
「見極めるといいわ、レイナードが本当はどう思っているのか。彼は何を求めているのか。そして、望みを叶えてあげて。この世界に呼んだ者として、主人としての義務よ」
前にレイナードへ対し『望みを叶えてあげる』と言った自分の言葉を思い出した。
(そうだ、この状況に悲観している暇など無いわ、私はシドの希望を叶えてあげないと。突然連れてきてしまったからには、せめてそうしてあげるべきだわ)
「わかったわ、母さん。今いきなり割り切る事は出来ないけど……頑張ってみるね」
力なく微笑み、頷いてみせる。
会ってもいないのに、シドに嫌われたかもと悲観するのは早計だと自分へ言い聞かせた。
「彼の望みを叶える事も大事だけど、自分の事も考えなさいね?どうしてレイナードの側に居たいと思うのか、いい加減ちゃんと自分と向き合いなさい。求婚者の事はもう全てお断りしておいたから」
「え?そうなの⁈いいの?」
知らない人に嫁がなくていいのはとっても嬉しいが、それでは私は行き遅れになるのでは?結婚したい相手が既にいるわけでも無いのに、どうしたらいいのだろう?
これから自分で探すの?
(……自分で、好きだと思える相手を、探していいんだ)
そう思った瞬間、シドの顔が頭に浮かんだ事に私は驚いた。
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