騎士団長は恋と忠義が区別できない

月咲やまな

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本編

【第二話】召喚へ求めた期待

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 あれからカイルは、セナ、エレーナという二人の神官を呼び出し、俺のために部屋の用意を頼んでくれた。いつまでここに滞在する事になるのか見当もつかないとの事で、長期滞在が可能な物を一式用意してくれるらしい。身一つで来てしまっているので、正直有難い話だった。
 今頃祖国カルサールでは『終戦の英雄の失踪』で大騒ぎになっているかもしれないが、それを確かめる術は無いと思っていて欲しいと言われた。その確認の為だけに遠見の古代魔法というものを使い、一手間かけて更に時間を無駄にするよりは最初から返還魔法の準備をしたいとの事だった。
 その決定に対し俺がどうこう言っても仕方ないだろうと、全てはカイルの判断に一任する事にした。知識も無い奴が感情論で口を挟んでも、ロクな事にはならない。得意な者へ任せるのが一番だ。
『お手伝い出来る事があったら遠慮無く言ってください』とだけ最後に伝え、俺はロシェルに引かれるがまま神殿の庭園へと向かう事になった。


       ◇


 この神殿はどうやらかなり広い様だ。白を基調としたシンプルな装飾の廊下が、どこまでも続いている。壁には神々を讃える絵画が飾られ、神の御使を思わせる銅像なども随所に置いてある。王宮の様な華やかさは無いが、神を祀る神殿としての荘厳さに溢れていた。
 そんな廊下を俺は、何故か左肩に豪華なドレスを着た少女を座らせるという不安定な状態で歩いている。右肩にはシュウと名付けられた“使い魔”仲間が乗り、俺は完全に二人の移動手段と化していた。
 ドレスのスカートが視界を邪魔し、歩き難いが文句も言いづらい。落ちない様にと頭にしがみつき、はしゃぐロシェルが正直とても可愛らしいと思ってしまっているからだ。耳や後頭部に微かに当たる、やけに柔らかい物の正体も……少し気になる。
「シド、この角を左に曲がって下さる?」
「わかりました」
「ありがとう!優しいのね!」
 過剰に喜び、ロシェルが軽く脚をバタつかせた。太ももに手を添えて落ちない様に気を付けてはいるが、それをやられると落としそうで少し不安になる。
「まだ遠いですか?」
「いえ、あと少しよ。父さんの執務室からなら庭に向かうのはまだ近い方ですから」
「わかりました」
 俺がそう答えると、上から「んー……」と少し不満気な声が聞こえてきた。
「どうされました?」
 表情を窺い知りたくても、頭を動かせない。
「シドは普段からそんな話し方なのですか?」
 その言葉に「ははっ」と俺は短く笑った。
「ロシェル様こそ、普段からその様な話し方で?」
「えぇ、私は常にこうです。誇り高き神子の娘ですもの。これでも王族の方々と会う時よりかなり砕けて話しているのよ?」
「では、尚更私はこのまま話し方を変えてはいけませんね」
「あら、何故ですか?」
「この世界で神子というのは王族よりも上のお立場なのでしょう?私はカルサール王国の騎士団長でしかなく、貴女様とは身分にかなりの差がありますから」
「私だって偉いのは両親だけです、私ではないわ。だけど、シドは私の使い魔よ。それなのに、私のお願いを優先してはくれないの?」

 そう言われると、参ったなぁ……。
 ふぅと息を吐き、俺は軽く頷いてみせた。子供の可愛い我儘くらい聞いておくか。

「では、普通に喋らせてもらうよ」
「ホントですか?ありがとう!とっても嬉しいわ!」
 ロシェルがはしゃぎ、俺の頭にギューと抱きついてきた。前が腕で完全に見えなくなりその場に立ち止まる。何となく触れていた柔らかい感触が思いっきり頭に押し付けられ、疎い俺でも流石にソレの正体がわかった。

 む、胸かぁぁぁっ!
 ちょっと待て!ソレはまずい!

 引き剝がしたくても肩に座るロシェルをどうこうする事も出来ず、足元がふらつく。胸の感触なのだと確信してしまうと、免疫が無いからか変に体が火照って頭がクラッとした。
「ご!ごめんなさい!」
 倒れかねない様子に慌てたのか、ロシェルが俺から胸を離し、最初の様に頭に手を置く程度に留めてくれた。呼吸が苦しいのかと思ったみたいだ。
「……大丈夫ですか?」
 心配そうな声が耳に聞こえる。
「あ、あぁ……大丈夫だ」
 かろうじて答えたが、鼓動が落ち着かない。耐性が無いとはいえ、子供相手にここまで動揺するとは……不覚だ。
「そうですか、良かったです。なら進みましょう?庭園まではもう少しですから」
 頭に感じた胸の感触を中々忘れる事が出来ないまま、俺は庭園へと続く廊下を覚束無い足取りで歩き続けた。


「ここです。降ろしてもらってもいいですか?」
 庭園の奥の方にある植木で作った迷路の中まで案内されて中心部に辿り着くと、ロシェルはそう言った。
 そこには鉄製と思われる白い小さな椅子が四脚と丸いテーブルが置かれており、ちょっとした茶会を開けそうなスペースになっている。だが、招待客がここまで来るのがとても大変そうだ。今ここから一人で神殿へ戻れと言われたら、俺は戻れる気がしない。そのくらい複雑で、迷路は随分と広いものだった。
 要求通りロシェルを降ろすため腰を落とし、随分と細い腰を掴んで彼女を地面へと立たせた。
「ありがとう。我儘を聞いてくれて……本当に嬉しかったわ。実はちょっと、憧れていたの肩車というものに。父さんにはお願いし辛かったから」
 少し寂し気に笑い、ロシェルがそう言った。
「俺はロシェルの“使い魔”なんだから、これぐらいおやすいご用だ」
 “使い魔”仲間であるシュウも「ピャッ」と賛同する様に声をあげたが『お前は何もしてないだろ!』と言いたくなった言葉を、俺はすかさず飲み込んだ。

 ここはくつろぐには良い場所だ。神殿からも離れており、他に人も居ない。何かを質問したり秘密の話をするにもうってつけだと思った。
「一つ、訊いていいか?」
「何でもどうぞ」
 ロシェルはそう言うと、そこにあった椅子に座り、俺にも座る様に促す。それに従い椅子へ自分も腰掛けると、一息吐いて些細な疑問を彼女へ投げかけた。
「ところで、“使い魔”とは何なんだ?その、俺は魔法の無い世界から来たからよくわからないんだ。だから、何を求められているのか全く見当がつかない」
 それもそうだと言いたげにロシェルは頷くと、愛らしい笑みでこう言った。
「私も正直きちんとはわかっていないのです、ごめんなさい。わかっているのは、異世界に残っている神々のお友達と、私もお友達になれる素敵な魔法って事くらいね。ねー?シュウ」
 名を呼ばれ、テーブルに乗っていたシュウがロシェルの差し出した指にじゃれついた。後ろ足で立ち上がり、短い前足で必死に彼女の指を掴もうとする姿がとても可愛い。
「あとは……『ずっと一緒に寄り添ってくれる者』と古代文書に書いてあるって、父さんが言っていたわ」
「……はは、まるで伴侶みたいだな」
 思った事をそのまま口にしたら、ロシェルが驚いた顔をして俺を見上げた。
「じゃあ私は重婚罪で捕まってしまいますね」
 ロシェルはそう言うと、口元を隠してクスクス笑う。
 そんな笑顔に温かい気持ちになるが、疑問が解消出来なかった事は残念だった。俺がロシェルに何をしてやるべきなのかわからないままだから。役割がわからないものを演じるのはなかなか骨が折れそうだ。シュウの様に気ままにすごす事が出来ればいいのだが、そうするには人間はあまりに思考し過ぎてしまう。どうしても行動に意味を求めてしまうので、俺はどうするべきかと悩み、後頭部をさすった。

「実は……私、お友達がいないの」

 ロシェルが少し躊躇するような口調で、ボソボソと話し始めた。
「ここに住む人は、みんなとても良い人なの。優しいし、意地悪なんかする人なんて誰一人として居ないわ」
「それはすごいな」
 それならば、彼女の様に朗らかな少女ならば友人には事欠かないだろう。なのに何故友人がいないのか、俺は不思議に思った。
「この世界の人達は、感情の……喜怒哀楽の、“怒”が無い気がするのです。欠落しているというか…。私の思い込みかもしれませんが、そう感じるの」
「きっと、自制心が高いんだな」
「本当にそうなだけならいいんですが……どうなのでしょうね。わからないわ」
 頭を横に振り、ロシェルは困った様な顔をした。
「……私の母さんは、異世界から召喚されたんです。シドやシュウと同じですね」
「それは話が合いそうだな」
 話が飛んだなと思ったが、その事は気にせずに頷いてみせた。女性にはよくある話だと、部下がボヤいていた事を思い出したから。
「父さんは神子で、二人とも喜怒哀楽がハッキリしていて、他の人達とはちょっと違うんです。そんな二人から生まれたからか……私はどうしても他の人達と心からは、馴染めません」
 手を膝の上でモジモジさせて、目を伏せる姿に寂しさを感じる。俺はそんなロシェルへ手を伸ばすと、そっと自分の手を彼女の手へと重ねて掴んだ。
 それを払う事なくロシェルはそっと微笑み、言葉を続けた。
「お茶会や勉強会に参加したらお話をする知り合いは多くいるのだけれど、『私達は親友ね』と思えるような、本心で全てを話せる相手がいないのがとても寂しいわ。一緒に、感情をぶつけ合うことが出来ないのは……案外辛いものね」
「それは、わかるな」
 共感し頷く。でも、何と声をかけてやるべきか、不器用過ぎて思い付かなかった。
「いつまでも私はここには居られないわ。いつか私は、沢山きている求婚者の中から誰かを選び、神殿から出ないといけない。そうなったら、完全なる善人にのみ囲まれた生活をして、もし何かに憤りを感じてもそれを隠し続けないといけないわ」

「……求婚者?」

 こんな子供にですら、もうそんな奴らが多くいる事に驚いた。神子とやらの子供という有望株は早めにという事なのだろうか。

 それなのに俺ときたら……三十にもなって縁談の一つも無かった事にかなりヘコんだ。容姿のせいだとはわかっていても、この差は地味に辛い。

「使い魔の召喚ならば、異世界から来るでしょう?だから、父さん達みたいに私の気持ちをわかってくてるんじゃないかしらと思ったの。しかもずっと側に居てくれるのよ、本心を話せる相手が側に居てくれたら、結婚先でも上手くやっていけるって……きっと私も、自分らしく生きられるんじゃないかと思ったの」
 幼子が今からそんな事に思い悩んでいた事に、心が苦しくなる。“使い魔”とやらの役割を相変わらず明確に理解出来ていないが、ロシェルが俺達に何を期待しているのかはわかった。
「俺でよければ、いつでも話を聞くよ」
 それぐらいしか出来ないだろうが、それでもここにいる間くらいそうしてやりたいと思った。
 深く頷き、出来得る限りの笑顔をロシェルへ向ける。慣れない事だったので頰が少し引きつったかもしれないが、それでもやらないよりはマシだろう。
「ありがとう……シド。貴方は最高の使い魔ですね!」
 溜め込んでいた気持ちを吐き出せたからなのか、スッキリした顔でロシェルが微笑む。
「もちろんアナタもよ、シュウ」
 スッと伸ばされた腕の上をじゃれて走るシュウにも、ロシェルは礼を告げた。シュウも「ピュウゥ」と嬉しそうに声をあげ、頭を軽く揺らした。その度に光の粒が溢れでて、この白い生き物が魔法によって生きている存在なのだなと感じさせた。
「逢ったばかりの私に言われても困るかもしれないけど、二人とも大好きよ!」
 そう言い、素晴らしいい笑顔をみせてくれるロシェルに、俺は一瞬にして完全に魅せられた。

 この少女を守りたい。
 その為なら何だって出来る。
 こんな俺にそう思われても気持ち悪いかもしれないが、心からそう思った瞬間だった。


「迎えに来たぞ!彼の部屋の準備が出来たそうだ!」
 上空から声が聞こえ、俺は驚いて顔を上げた。するとそこには、白い梟が飛んでいて「お迎えだ!」と何度も声を張り上げていた。
「すごいな!鳥が話せるのか」
 俺が感心していると、ロシェルが「わかったわ、先に戻っていてサビィル」と白梟に向かい叫んだ。
「わかったぞ!伝えよう!」
 サビィルと呼ばれた白梟はそう言うと、先に神殿のあるであろう方角へと戻って行く。
「彼は、父さんの伝達係ですよ。普段はあまりこの神殿には居ないのだけれど、今日は珍しいわ。お休みなのかしら?」
「梟が話したり、魔法が使えたり……すごい世界だなここは」

「あら、シドも魔法が使えるようになりますよ?」

「……は?」
「だってシドの毛色は濃い茶色ですもの、時がきたら魔法が使えるようになりますよ」
 当然じゃないと言いたげな顔で言われたが、待ってくれ俺は異世界召喚とやらでここに来たんだから知る訳が無いじゃないか。
「時がきたら、魔法が?俺も?」
「それがここの決まりです。髪や瞳の色が濃い者は、魔法を使う能力に長けているの」
「じゃあ、髪も瞳も黒いロシェルは魔法が得意なのか?」
「えぇ!とっても得意よ。私は……父さんと違って、神子では無いから古代魔法は残念ながら使えないけど」
 肩を竦め、苦笑いをするロシェル。父との違いを少し寂しく思っているのだろうか?
 それにしても、面白い事が聞けた。俺も魔法が使える様になるのか。どんな事が出来る様になるのか想像も出来ないが、戦う事に役立つなら有難い。もっとも、この平和そうな世界では戦闘能力の高さなど不要かもしれないが。

「じゃあ、戻りましょうか。……シド、またお願いしてもいいですか?」
 首を少し傾け、可愛く『お願い』の仕草をされた。来た時と同じく、きっとロシェルは俺に肩車をしてもらいたいのだろう。
「あぁ、どうぞ。ご主人様」
 冗談めいた声でそう言い、地面に膝をつく。ロシェルが俺の近くまで来てくれたので、腰を掴み持ち上げて左肩にまた座らせた。嬉しそうな笑い声が聞こえ、俺まで嬉しくなった。
 落ちない様に太ももにそっと手を置き、ロシェルを支える。彼女が俺の頭にしがみつき、また柔らかな感触がそっと触れてきた。今自分がどんな表情をしてしまっているのか想像もしたくない。顔が赤い気がするし、口元もキツく引き結んでしまっていてとても険しい目付きになっていそうだと思う。
 シュウも反対側の肩に飛び乗り、やっぱり俺を運搬係にする気満々だ。
「シドはいつもこんな世界を見ているのね……。本当に、素晴らしいわ」
 風が吹き、ロシェルの髪をフワッと舞上げた。スッと目を細めながら髪を手で押さえる彼女の姿が視界の端に少し写り、心がざわつく。

(こんな少女相手に何故こんな……)

 そんな戸惑いを感じつつも、この体の感触を享受する事を役得だと思っておこうと考えながら俺は神殿への道をロシェルに案内されながら戻ったのだった。


       ◇


 その後、俺達が神殿にたどり着くと神官・セナという者に案内されて食堂へと向かう事になった。そこでロシェルの母・イレイラを紹介する予定を立てていたらしいのだが、彼女は疲労により睡眠中らしく会食は延期された。カイルも返還魔法の準備の為に欠席したので、俺とロシェルだけでの夕食会となった。
 似た様な世界だなと思った印象通り、食事にも大差が無く、普通に飢えを満たす事が出来て助かった。好き嫌いは無い方なのだが、食べやすい物ばかりなのは正直有難い。

 部屋へは女性の神官・エレーナとここの使用人達とに付き添われて向かい、何が何処へしまっているのかなどを説明してもらった。使い勝手の不明な物などもほとんど無く助かった。水回りだけは魔法具とやらが置いてあって使い方に少し困ったが、触れるだけでお湯や水が使えると聞いた時は本当に驚いた。魔法はどこまで万能なのかと。
「他に不明な点はございませんか?入浴のお手伝いが必要でしたら使用人を置いていきますが」
「いや、問題無いです。ありがとうございます」
「わかりました。ではもし何か不自由がありましたらこちらを使いになって、お呼び下さい」
 ニコッと年若い見た目に合わぬ、とても落ち着いた雰囲気のある笑みを浮かべるエレーナが、俺に淡く光るベルを差し出してきた。それを振れば、手の空いている者が直ぐに駆けつけて来るそうだ。
「ありがとうございます」
 礼を告げ、頭を下げる。
「では、私共は失礼させて頂きます。おやすみなさいませ、レイナード様。明日の朝は起こしには来ませんので、どうか存分にお体をお休め下さいまし」
 エレーナがそう言い頭を下げると、一緒に来ていた使用人達も同じく礼をし、退出していった。

 扉が閉まり、その様子を見た途端、無意識にふうと息を吐いた。
 やっと……一人になれた。
 朝からずっと慌ただしく過ごしてきて、まともに色々考える間も無く、流されるままに夜になってしまった。
 『嫁が欲しい』なんて悩みを遥かに凌駕する大問題が目の前に現れてしまい、困ったなとは思いつつも不思議とカルサールにいた時より渇望感が無い。ロシェルとの交流により溜まっていた鬱憤を少しは解消出来たという事……なんだろうか?だが、あくまで彼女は俺の“ご主人様”なので問題は何も解決していない。
 でも、今この世界で嫁探しをするのはいずれ帰らねばならぬ事を考えると無意味なので、当分俺の小さな悩みには蓋をするしか無い様だ。


 浴槽にお湯をためて、入浴の用意をする。泡風呂とかいうものにできる入浴剤を用意しておいたと言われていたので、試しにそれを湯船に入れておいた。
 お湯がたまる間に、居間へと戻り別室になっている寝室へと入る。客間なだけあってどちらも豪華な作りで、どこを向いても細工が細かい装飾で溢れている。金細工のされたキャビネットやテーブル一式もあり、壁にはこの神殿を描いたと思われる大きな絵画が飾られていた。豪奢な雰囲気のインテリアは正直俺には落ち着けないものばかりだ。
 寝室にあるクローゼットを開くと数多くの服が並べられており、下着の類も全て用意されていた。サイズの心配もない様にしておいたと言われて、いつの間にと驚かされた。棚を開け、夜着と下着、バスタオルなどを用意し浴室へと戻る。
 お湯はまだしっかりと溜まってはいなかったが、半身浴から始まるのも悪くないと思い、服を脱いで浴槽へと入った。

 お湯が適温のままたまっていき、改めて魔法の凄さを痛感する。
 泡がかなりの量できてきて、ちょっと楽しくなってきた。体が段々と泡で隠れ、膝もあと少しで見えなくなりそうだ。そろそろお湯を止めようかと思い、魔法具へと手を伸ばした時、聴こえてはならない声が耳に入ってきて、俺は思わず手を止めてしまった。
 浴室のドアは開く音と共に「お手伝いに来ました!何か困った事はないかしら?」と言う女性の声。どう考えてもそれは、ロシェルの声だった。
 ギョッとし、背後にある入り口に向かいゆっくり振り返る。

「まぁ!泡風呂ね。素敵だわ」

 昼間とは違い、淡いピンク色のブラウスに濃紺のスカート姿のロシェルが靴音を鳴らしながら側に近づいてきた。
 ボタンを外し袖をまくる。長くて綺麗な黒髪を持っていたリボンで一本に束ねると「よし!準備が出来ました」とロシェルが気合の入った声をあげた。

「……は?」

 状況が理解できず、やっとの思いで声を出す。
「洗うのを手伝いに来ました。使い魔の世話も主人の務めでしょう?」

「不要だ!自分で出来る!」

 首が千切れそうな勢いで横へと振り、これ以上近寄るなと言わんばかりに声を張り上げた。だが、ロシェルは不思議そうに首を傾けただけで、魔法具に触れてお湯を止めると、近くにあるスポンジへ手を伸ばした。
 共に来ていたシュウはロシェルの肩の上で尻尾を揺らし、我関せずといった雰囲気だ。
「大丈夫ですよ、サビィル夫妻の水浴びに付き合ったりもしていますから私でも手伝えます。使い魔の世話くらい、私だって出来ないと良い主人とは言えないわ」
 俺の事を安心させたいのか、気持ちいい程綺麗な笑みを向けてくれた。だからといって任せる訳にはいかない。この俺が全裸で異性の前に居るとか、それだけでもう警備兵に連行され兼ねない暴挙だ。例え、浴室へと入ってきたのがロシェルの方だったとしても、だ。この状況をカイルやセナ達にでも見られたらどうなることかと思うと、恐怖で震えてくる。俺から何かをする気など決してないとしても、思い込みからくる勘違いがどういった結果を生むのか、考えただけでも恐ろしい。

「いや!本当に自分で出来るから!」

 必死に訴えるも、この格好ではここから出る訳にいかないので、逃げる事も出来ない。
「さぁ、背中を洗ってあげますね!」
 俺の訴えなど『このクマは照れているな』くらいにしか思っていないっぽい。
 スポンジに泡をのせ、グシュグシュと潰して、より泡を多くする。それを持ったままロシェルは俺の背後に回ると、軽く体を押し浴槽から離れさせ、背中を丁寧に擦り始めた。
 『やーめーろーぉぉぉ!』と、大声で叫びたくても声は出なかった。声を聞きつけ、誰か来ても困る!こんな状況を見られてなるものか!この世界で唯一頼れる存在を失う訳にはいかない。全く知らない世界でいきなり準備も無しにサバイバル生活に入る訳にはいかないのだ。もし放り出されるならせめて、剣の一本くらいは持たせてもらう事を許してほしい!
「あちこちに傷跡があるのですね……もう痛くはないの?」
 そう言い、ロシェルがそっと指で傷跡をなぞる。その指の動きに、背中にゾクッと震えが走った。恐怖とは全く異なる、初めての感覚に頭がクラッとふらついた。のぼせたのか?
「い、痛くはないが……季節の変わり目には少し疼くな」
 どこまでロシェルが洗う気でいるのか不安でならない。逃げ出したい!その一心だが当然実行する事は出来ず、されるがままになってしまう。
 優しい手付きで首や耳の裏をスポンジで擦られる。髪も洗いたいのかまたに触れられ、その度に硬直して動けなくなった。
「綺麗な色の毛よね」
 褒めてくれて嬉しいが、濡れた手で頭を撫でられると腹の奥が妙に疼いた。
「痒い所は無い?」
「だ、だぃ、大丈夫だ!」
 むしろもうこれで十分だ!もう止めてくれ!
 そう願うも、泡だらけのスポンジを握った手は前へと伸びてきて、俺の腕を持ち上げる。悲鳴に近い短い声が出そうになったが、既でで堪えた。
「腕も傷が多いわ……シドは、怖い場所に居たの?」
 不安げに揺れる瞳で見詰められ、心がギュッと苦しくなった。
「戦争が、長い長い……戦争が、あったんだ。でも大丈夫、ロシェルは心配しなくていい。もう終わらせたから」
 安心させたくて笑顔を作ったつもりだったが、眉間の皺はどうにも出来なかった。
「……戦争なんて本当にあるのね、それこそ物語の世界の話だわ……。安心して、ここにはそういった心配だけは無いから」
 切なげな瞳で、ロシェルが俺の頰を撫でてきた。濡れた手が肌を滑り、彼女から垂れた水が俺の首に滴り落ちる。
 心臓が騒ぎ、腹の奥の疼きがより強くなった。
 よく知った感覚に不安が走る。
「ピギャ⁈」
 突然変な声が聞こえ、同時に水の中に何かがドボンッと落下してきた。
「シュウ!」
 ロシェルがシュウの名を呼び、慌てて泡風呂へと顔を向けた。
「肩から滑ったのね⁈大変だわ!」
 お湯の中で確かに何かがもがいているのを感じる。脚にシュウが何度かぶつかり、慌てているのがわかる。俺が泡の中に手を入れて探そうとすると、同じ事をロシェルも考えたようで、お湯へと彼女が腕を突っ込んできた。
「シュウ!慌てないで下さい!止まって!」
 そう言いながらお湯の中で必死にシュウを探す。お互いに既でかすり、ロシェルがなかなかあの子を掴めない。
「ま、待て!俺が探すから!」
 何度もロシェルの手や腕が俺の脚にもぶつかり、かなり際どいところまで何度も手が伸びてきて、肝が冷える。彼女が必死にシュウを探すたびにお湯が跳ね、泡が舞う。それにより彼女の服や髪まで濡れて、下着が透けて見えた。
「任せてくれ!頼むから!」
 悲鳴に近い声をあげながら、ロシェルを止めるが彼女に聴こえている気がしない。

 ギュッ。
 一番起きて欲しくない事が……とうとう起きた。

「シュウ!」
 ロシェルが叫び引っ張ったがソレは違う。勘弁してくれ!
 焦りながらも優しく掴む手付きで、泡の中に隠れる俺の一部が質量を増す。
 異性が水に濡れ、下着を透かせた状態のまま自分の側に無防備な姿を晒している状態に、すっかり元気になってしまった部分をしっかり握られているせいで、俺は「うあ!」と変な声をあげてしまった。
「……シュウ?」
 キョトンとした顔でロシェルが手を離す。それと同時にシュウが泡の中から顔を出し「ピャァァァァァ」と声をあげながら彼女へと飛びついた。
「シュウ!良かったわ、無事だったのですね!」
 シュウが飛びついた事で、より一層濡れ鼠になったロシェルが、手で包む様にシュウを抱き留める。安心したいのか、水で布が張り付きガッツリできている胸の谷間にシュウは頭を擦り付け、何度も声をあげた。
 その様子を真横で見て、視線が全く反らせない。
 泡風呂の中で滾るモノがピクッと震え、恥ずかしさにやっと顔を反らすことが出来た。顔だけじゃなく、首までもが赤くなっているのが自覚できる。これは何の拷問だ!俺が何をしたと言うのだ!と、恨み言を言いたくなった。
「こんなに濡れてしまっては、着替えないといけませんね」
 困り顔でロシェルがそう言うと、俺にすまなそうな顔を向けてきた。が、その顔すら直視出来ない。
「ごめんなさい。シュウの事を乾かしたりしないといけなくなったわ。シドのお世話はまた今度にしますね」
「小さい子を優先するのは当然だ。自分で出来るから気にしないでくれ!」
 早口になった。声が裏返ってはしまったが、よく噛まずに言えたものだ。
「では、また来ますね。今夜は、おやすみなさい」
 シュウをギュッと胸に抱きしめ、水の滴る色香のある姿で俺に向かいロシェルが微笑みかける。それに対し俺は、無言で何度も頷き返す事しか出来なかった。

 バタンッ——

 ドアが完全に閉まるまでの時間を、これ程までに長く感じた事があっただろうか。土に穴を掘って作った簡易的な掩体壕に、部下達と立て篭もった時に感じた時間より長く感じるとか……焦り過ぎだろ!
 俺がこの後風呂場で自慰に耽ってしまった事は、自然な流れだったと思って貰いたい。
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【決してご迷惑はお掛けしません。どうか私をここに置いて頂けませんか?】 妾腹の娘として厄介者扱いを受けていたアリアドネは姉の身代わりとして暴君として名高い辺境伯に嫁がされる。結婚すれば幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱いていたのも束の間。望まぬ花嫁を押し付けられたとして夫となるべく辺境伯に初対面で冷たい言葉を投げつけらた。さらに城から追い出されそうになるものの、ある人物に救われて下働きとして置いてもらえる事になるのだった―。

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