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【最終章】

【第三話】秘匿の決意(カーネ・談)

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 体に力が入らなくて動けずにいると、シスさんが私を横抱きにして領地内にあるシリウス公爵の旧邸の方へ連れて行ってくれた。『何故私が暮らしている場所を彼が知っているんだろうか?』と一瞬怪訝に思ったが、よくよく考えてみると、そもそもあの日誰かが私を助けてくれる事はなかったのだから色々記憶と今の状況と符合していない。それに、この姿をした私を“カーネ”であるとシスさんが認識するはずがないのに。

(…… あの日抱いた願望が、この現状に影響でもしているんだろうか?)

 ——ということは、此処はきっと私の記憶をベースとした夢か何かに間違いない。路地裏で起きた一件ははっきりと覚えているし、先程兄から受けた仕打ちはあくまでも三年も前の出来事だったから此処が現実ではない事は確かだし、きっとそうだ。


 旧邸内に入り、私が寝床として利用している部屋に迷いなくシスさんが進んで行く。部屋の前に辿り着くと、どうしてか扉が勝手に開いた。この屋敷の設備にはそんな機能はなかったのにだ。
「もう、痛いところはありませんか?」
 ボロボロのベッドに私を下ろしながらシスさんが訊く。その問い掛けに「大丈夫です」と返した声は掠れていて、我ながら痛々しさがまだ残っていた。
「もっと早く助けに行くべきでしたね…… 」
 ベッドに腰掛けた私を見て、悔しそうに顔を顰めながらそう言われた。『これはきっと、過去の記憶に迷い込んでしまったな』と悟った時は確かに『兄に殺された日あの日』と全く同じだったのに、どうして当時は面識の無かったシスさんが此処に居るんだろうか。幼馴染であるメンシス様だったのなら理解出来るのに…… 。
「いえ、助けて頂き感謝しています。ありがとうございます」
 そう言って頭を下げる。私の作り出している幻みたいな彼には必要無い行為かもだが、このやり取りが妙にリアルで、反射的なものだった。

「先程は失礼しました。人違いを、してしまって」
「お気になさらず」と言って、シスさんがはにかんだ笑顔を向けてくれる。
「…… ところで、あの、『メンシス様』というのは、大事な人だったりするんですか?」
「——え?あ、まぁ…… 」
 そういった類いの質問をされるとは思っていなかったから驚いた。自分が無自覚にそう言わせているのかと思うと恥ずかしくなってくる。
「えっと…… 大事な、幼馴染です。彼は姉の婚約者でしたから、義妹になる予定だからと仲良くしてもらっていただけ、ですけどね」
 苦笑しか出来ない。改めて考えを声に出すと、己に現実を突きつけた気がした。

「そうなんですか?…… でも、それだけで将来の義妹と仲良くしたりは、しないと思いますけどね」

 淡い期待を持たせる言葉だ。だけど同時に、現実では“ティアン”姉の体に入り込んでしまった私ではもう抱える事すら許されない感情なのだと痛感してしまう。そのせいか、急に黙り込んでしまった私の手をそっとシスさんが握り、気遣う様な視線を向けてくる。私の記憶をベースにした幻なんかではなく、まるで本人が目の前に居るかの様な完成度で。

(…… 本物のシスさんに逢いたいな。そしてちゃんと、本人に謝らないと)

 自分から望んだ事ではないとはいえ、『待っていて』と言われた地点から離れてしまった事をきちんと謝罪したい。そしてすぐあの場に駆けつけてくれた事には感謝を伝えたかった。

 姉のせいで顔に火傷を負った時以外はずっと、私はほぼ一人で耐えてきた。叔父の存在や、たまにまともな使用人が居てくれたおかげで日々を乗り切れはしたものの、生活は常に綱渡り状態だった。屋敷の使用人達から冷遇されてまともな食事にもありつけず、生活に最低限必要な物資も足りず、まともな教育も受けられずに過ごした。兄が毒で死に、叔父が当主代理になってから多少は改善されたとはいえ、姉の目がある中では誤差の範囲だったし。

 父には隠し部屋に閉じ込められ、婚約者には二階から突き落とされ、兄には毒を飲まされて、姉からは首を絞められた時も。耐えるのが当たり前で、自力で乗り切らねばならなくて、殺されたはずなのに死なず、何故か時間が戻って相手が死ぬという現象の意味も発現理由も不明なまま受け入れざるおえなかった薄幸な人生の中。困っていた時に助けてくれ、見ず知らずの私相手に優しく接してくれたシスさんは本当に希有な存在だ。
 生まれてからの十八年。長いとはいえずとも、決して短いとも言えない人生の中で心許せる相手が、今では、メンシス様とララ、そしてシスさんのたったの二人と一匹しか居ないんだなと思うと流石に寂しい気持ちになってきた。

「…… 少し、手が冷たいですね」
 そう心配してくれるシスさんの声音が耳奥に優しく染み込み、繋いだ手から伝わってくる体温が心地いい。さっきまで過去の出来事に囚われて悶え苦しんでいたのがまるで嘘の様だ。

 シスさんの事を色々と振り返る。たまたま宿屋で会っただけの私にも優しくって、気遣いの人で、長い前髪で隠れていてもわかる程に笑顔が眩しい上に見目麗しいとか。自分の境遇のせいもあるかもしれないが、そんな人が傍に居て、惹かれずにいられる人なんかいるんだろうか?

(シスさんとは出逢ってまだたった数日程度なのに、もう一生分の片想いをしているみたいに胸が苦しい)

 ぎゅっと強めに瞼を閉じる。手はまだ彼と繋がったままで、冷えていた手はすっかり温まったどころか、緊張から手汗まで出てきている気がする。シスさんが好きだと自覚したはいいが、懸念が頭をよぎる。

 毒を飲まされた記憶のせいで苦しかったあの時、咄嗟に出た名前が『メンシス様』だった事だ。

 今の自分は確かにシスさんに恋心を抱いているが、初恋の相手であるメンシス様の事も忘れられない。公爵様でもあるメンシス様とはこの先一生逢う機会なんか無いとはわかっている。しかも自ら選んで逃げたクセに、心の片隅にはどうしたって彼がいるのだ。五歳の時からずっと逢っていなくても、身勝手に抱いていた淡い期待を打ち消されても、それでもメンシス様を忘れる事は叶わなかった。

 私の心に住み着いて離れないままなのである。

 こんな状態では、この恋を抱き続ける事なんて無理だ。相手に失礼だ。好きな人に己の全てを差し出すのが恋のはずなのに、今の私では到底それは出来ない。だけどこの想いを胸の中で燻らせていてはいつか溢れ出てきて本人に言ってしまいそうだ。となると、この場合の最適解は——

「…… 私、貴方の事が好きみたいです」

 彼にそう告げて、夢の様に不可思議な世界に私は、この想いを置いていこうと心に決めた。まさか目の前に居るシスさんが幻などではなく、此処まで私を迎えに来てくれていた本物の彼かもだなんて、微塵も思わず。
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