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第二章
【第四話】彼女にとっての、一度目の死亡《回想》(カーネ・談)
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重たい鉄製の扉が閉じていく無情な音が、とうとう消えた。それに続き、ふわりと室内の壁にある壁掛けのランタンに灯りが燈る。どうやら緊急時に閉じ籠る為の部屋であるという父の話しは嘘ではなかったみたいだ。だが、部屋の中が少し暑い。その辺の調整は、私が住む旧邸程ではないにしても、それでももうこの屋敷も随分と古くなり始めているからか、蓄えていた魔力不足が原因なのか。いずれかは不明だが空調が上手く発動していなかった。
のそっと立ち上がり、部屋の隅々まで確認する。防音魔法が掛かっているらしいから叫んでも誰も来ない。扉を叩こうが、壁を叩こうが無駄だという事も先程父が言っていた。
だが、此処が緊急的に籠る場所ならば、内部からも開ける事は出来るかもしれない。
一縷の望みに賭けて、壁に細工がないか、最初の扉以外に出口はないか必死に探してみた。室内の暑さのせいでちょっと動くだけでも汗が流れ出てくる。正確にはわからないが、三十度近くはある気がする。呼吸は出来るから何処かに通気口くらいはあるのだろうが、空気がこもっているせいで余計に暑く感じた。
「…… 無さそう、ね」
手が届く範囲は細かく確認したが、隠し扉などといった救済処置はどうもなさそうだ。壁掛けのランタンが仕掛けのスイッチになっているわけでもなく、もうこれ以上は今の自分ではお手上げだった。
出口や特別な仕掛けを見付ける事は叶わなかったが、隅に置かれた箱の中から、金貨や宝石などといった資産を少しだけ発見した。あとは、腐敗防止の魔法のかかった容器に入った水が数本と少しの食料。だけどせいぜい保っても三日程度の量だ。待っていれば助けが来る可能性がある、もしくは外を見張っている敵から逃れるまでの間だけ此処に居ればいいのなら問題の無い量なのだろうが、私みたいにいつ発見して貰えるか不明な身では不安しか抱けない。食事前だったから既に空腹の状態だし、家内に味方がゼロなので、私が居ないと気が付いても探してくれそうな人は誰もいないから…… 此処でじわりと死を迎える事になるだろう。
そんな現実を目の当たりにすると、妙に冷静になり始めた。どう足掻いても意味がないという境地に達してしまう。そんな心境であろうが生きているとどうしたって空腹には抗えず、私は目の前の袋から少しだけ食料を取り出し、多少の飢えを凌げる程度の量だけを口に入れた。水も飲み、ちょっとだけ喉を潤す。まだ実感は無いが、自分にはまた、じわりじわりと死が近づいてきているのだなと考えていると、五年前の出来事が頭に浮かんできた——
◇
忘れもしない。あれは私がまだ五歳の時だ。
誕生日当日にあったトラブルで顔面に火傷を負ったのだが、メンシス様の手配で治癒魔法を掛けて貰え、看護も出来る侍女のサポートもあったおかげもあって、私は二週間程度で元の生活に戻れた。予想通り顔面の左側は無惨にも火傷の跡が残り、今後は前髪を伸ばして隠しながら生活する事に。多少視力も落ちたが、眼球の損傷を免れたのだけは幸いだった。
セレネ公爵家から来ていた侍女の人達は皆とても親切で、『このまま此処に残れる様に交渉してみる』とまで言ってくれたのだが、家族全員から猛反対されてそれは叶わなかった。メンシス様の働きかけもあったそうだが、それでも頑なに父が断ったのはきっと、ティアンの顔色を窺っての事だろう。
結局私は自業自得の末に顔面を損傷した事になった為、シリウス公爵家一同からの目はより一層冷たいものになったが、それ以外は特に変化は無かった。食事を取りに本邸まで顔を出す度にされるティアンからの意地悪や虐めは今に始まった事ではないし、五歳の子供が出来ることなんて高が知れている。でもまあぁ流石に灼熱のオーブンの前で背中を押されるとは思ってもいなかったけれど、アレで気持ちはそれなりに満たされたみたいで、あの水準の意地悪はなかったのだけはありがたい。
私は一生この火傷の跡と付き合っていかねばならない。
もう済んだことだし、ティアンを恨んだり、責めた所で現状は変わらないので、私は渋々だが現実を受け入れていた。だけど、婚約者であるルチャル・タウルス公爵令息は当然そうではなかった。
前に一度庭先で、兄とは幼馴染の関係にある彼がこんな話をしていた事があった。
『オレはきっと、ニオス様の生まれ変わりだな。初代の聖女だったカルム様への憧れの強さといい、ニオス様の子孫であるタウルス家に生まれた事といい、聖痕も同じときたらもう確定だろ』
彼が口にしていた“ニオス”様とは“五人の聖人”の一人で、ルチャルのご先祖様の一人である。タウルス家の始まりの人であり、初代聖女・カルム様と二代目聖女・リューゲ様の幼馴染でもあったお人だ。カルム様がご健在の時は神官として聖女に仕え、聖痕を授かってからは大神官となり、“剣”の聖痕の所有者としてリューゲ様の護衛も担ったそうだ。お家存続の為に子供を作りはしたものの、その心は初恋の相手でもあったカルム様に捧げ、一生独身を貫いた。カルム様は別の男性と結婚してしまったのに、それでも捨てられない想いを綴った手記がタウルス家には今も多く残っているらしい。
『…… 生まれ変わりって、そんなの“獣人”達が言ってる戯言じゃないか。前世の記憶があるとかなんとか言ってるアレだよな』
兄はくだらない話が始まったとでも思っていそうな声で、そう返していた。
『そうだ。んでも、大多数の獣人が言ってんだろ?だったら、もしかすると、嘘じゃないかもだろ』
『何?じゃあお前は、実は前世を色々覚えてるとでも言うのか?』
『いや、全然』
『んなら、なんだってそんな自信満々にニオス様の生まれ変わりだって思うんだよ。聖女カルム様が好きなら、その夫だったナハトかもしれないだろ』
『——ハッ!アイツは裏切り者だぞ?あんな浮気男と一緒にするな!だが、ニオス様の一途さは推せるものがある。…… 聖女カルム様も』
遠くから見てもわかる程、聖女カルム様の名前を呟いた時のルチャルの表情は片思い中の人みたいな雰囲気だった。彼に恋心を抱いたことなんて無いので傷付きもしなかったが、聖女様に対する想いの深さには驚かされた。生まれ変わりがどうのという話は正直眉唾でしかないが、ニオス様に自分の想いを重ねるという事は、聖女への憧れは相当なものなのだろう。
そんな話をしていた事のあった彼が、私の顔を久しぶりに見た時の反応は、当然最悪極まりないものだった。
『んな、何なんだ!——ソレは!』
旧邸の自室で食事を済ませ、空いた食器を戻しに本邸まで戻ろうとしていた時。その日は運悪く、兄に会いに来ていたルチャルに遭遇してしまった。普段はこのルートを通ってもルチャルと会う事なんて無いのに、彼が落とした手袋が風で飛び、それを追いかけているうちに偶然私の所まで辿り着いてしまったみたいだ。
『…… 醜い…… 醜い醜い醜い、醜く過ぎる!』
ボソッと呟いた後、彼は私を指差しながら大声でそう叫び、五歳の弱い心を容赦なく傷付けた。婚約者である私に無関心であった事は周知の事実であるからか、どうやら彼は誰からも私の火傷の件を聞かされていなかったみたいだ。
私の顔がティアンとそっくりであるのを理由に、姉の模造品である双子の妹が自分の婚約者になる事を妥協してくれていたのだ。彼にとっては酷い裏切りにも似たものを感じたのだろう。
『何でそんな…… ?』
絶望というよりは、怒りしか感じ取れない表情をしながら、ルチャルがじわりとこちらに近づいて来る。一歩距離を詰められる度に私が後ろに少し下がって一定の距離を保つ。すると焦れた彼が『逃げるな!』と言った一言を皮切りに、私は手に持っていた食器を全て投げるみたいに放って、その場から走り出した。
『逃げるなってんだろうが!止まれぇぇぇ!』
そう言われて止まる人なんかいるはずがない。止まれば絶対に酷い目にあう。殴られたり蹴られたりするのは火を見るより明らかだと断言出来る形相で追いかけられて、素直に従うなんて到底無理だ。誰かが居そうな場所に逃げれば、その“誰か”が私を捕まえてルチャルに差し出すだろう。シリウス家とは私に対してはそういう場所である。
(出来るだけ人の居ない場所に行って、隠れてやり過ごそう)
そう決意し、逃げに逃げたが彼は全然諦めてはくれない。身長差のせいか距離は一向に離せず、とうとう私は隠れ場所すら無い、二階の最奥にあるベランダにまで追い詰められてしまった。
『うっぜぇ逃走劇はもうおしまいか?』
こっちは走り過ぎて息も絶え絶えだというのに、ルチャルは疲れてすらいないみたいだ。七歳にしてもう色々な騎士団からスカウトがくるだけの事はある。剣の腕前だけじゃなくてちゃんと基礎体力もあるのだろう。
『——言え!その顔はどうした!何があった!正直に吐け!』
ベランダの端まで追い詰められ、首根っこを掴んで持ち上げられる。そのせいで踵が床につかずに浮き、恐怖のせいか目の前がぐらついた。
『まさか、自分で焼いたのか?』
そんなはずがない。好き好んで痛い思いをしたり、顔を焼くなんて暴挙に出る者など精神を病んだ者がする行為だ。だが、本当の事を言ったところでメンシス様のようには信じてもらえる気がしない。困って黙ったままでいると、その態度が気に入らないのか上半身がベランダの向こう側に出てしまう程の高さまで体を持ち上げられてしまった。
『言えって、言ってるよなぁ。——早く言え!何故火傷なんかしたんだ!』
死ぬのは怖くない。でも、痛いのはもう嫌だ。その思いから私はつい、『…… ティアンに、押され、て』と事実を口にしてしまった。その一言は当然の様にルチャルの逆鱗に触れ、聖女信奉者でもある彼は烈火の如く怒り狂った。
『あの子が、そんな真似をするはずが無いだろうが!この、嘘つきめ!』
言うが早いか、彼の腕がぐっと私の体を押し、胸ぐらを掴んでいた手がぱっと離された。途端に私の小さな体は宙に投げ出され、次の瞬間にはドンッと地面に体を強打していた。栄養の取れていない体は驚く程に脆く、ぐしゃりと嫌な音を立てて砕けていく。ドクンッドクンッと心臓が脈打つ度に血が流れでて、土の地面に汚いシミを作り、じわりじわりと広がっていった。
(痛い、痛い痛い痛いいた、い——)
火傷とはまた違った痛みが全身に走る。そんな私をベランダ越しに見下ろすルチャルの顔がぼんやりとしていて殆ど見えない。
『…… あぁ、もっと早くこうすれば良かったんだ。こんなに簡単に始末出来るもんだったんだな、お前って』
そう言った声だけは不思議とはっきり耳に届いた。そして聞こえるのは少年の笑い声。本当に嬉しそうで、楽しそうで、痛いみで気が狂いそうな私との温度差があまりにも違い過ぎる。
嫌われていた事はわかっていた。助けも呼んで貰えないであろう事も。だが、死を目前にした姿を前にして、笑われる程にまで嫌われる様な事を私がしただろうか?…… いいや、そこまでの関係すらも二人の間にはなかったはずだ。なのに無邪気な笑い声は止む事なく私の体に降り注ぐ。意識が途切れる瞬間までずっと、彼の楽しそうな笑い声は私の心を砕き続けた。
◇
——はずだったのに、私が目を覚ますと、あの日の前日に日付が戻っていた。何が起きたのか、何故なのかわからず、最初は夢だったのかとも思った。でも、痛みも記憶も、今でも鮮明に思い出せるから、多分だけど、確信は無いけど…… きっと夢なんかじゃない。あまりにも不可思議な体験だったから、もしかして私にも聖痕が?とも考えたが、やっぱり胸の辺りには何もなく、期待を裏切られてあの時はいつも以上に凹んだ。自分は魔法が使えるとわかった時と同じ気持ちになった。使えるとは言っても、せいぜい生活がちょっと楽になる程度のものだったからだ。
結局自分は出来損ないの不純物なのだと痛感しただけだった。
何がきっかけであんな出来事が起きたのかはわからない。でも確かに私が死んだはずなのに、前日に巻き戻った状態で目が覚めて、数日後にはタウルス家から悲報が届き、『ルチャルがベランダから転落死した』と聞かされたのだから、私達の間で何かが起きた事は間違いないのだ。
(じゃあ…… 私が此処で死んだら、今度は父が此処に閉じ込められるのでは?)
そんな恐ろしい考えが頭をよぎる。灯りがあるとはいえ、狭い部屋に閉じ込められたせいか、とんでもない事を考えてしまった。駄目だ、親を相手にそんな、と一度は首を横に振ったが、親らしい事なんか何一つしてくれず、最後はこの部屋に捨てていった相手に義理立てなんか必要か?という考えた頭の中でじわりと存在感を高めていく。
それでもまだ空腹を誤魔化せるうちは、怨みがましい気持ちなんか駄目だと考える余裕もあった。人を呪ってもいい事なんか何も無い。負の連鎖を生むだけだとも思えた。だけどそのうち、食料がなくなり、飲み水も無くなってきた頃には、この理不尽を大人しく受け入れる事が馬鹿馬鹿しく思えてきた。何故自分だけが我慢しないといけないのだ?とも。
この十年間。母殺しの汚名を着せられて私は生きてきた。私を真っ当な心根の主に育てなかったのは向こうの方だ。ならば自分には報復の権利があるはずだ。
今此処で死ぬ事により、父に報復が出来るのなら、私は喜んでこの死を受け入れよう。
幸いにして私は魔法が使える。これは父にも兄にも、姉のティアンにだって無い、亡くなった母と私だけが持つ才能だ。
拳をぎゅっと握り、力の入らない手に魔力を込めていく。ただ無駄に、暴走させる意図を持って、外へ外へ魔力を吐き出し続け、私は自分自身を廃人になるように仕向ける事にした。どうせもう保っても数日の命だ。ならば苦しみや痛みすらわからない状態になって死を迎えたい。もうあんな痛い思いはしたくない。苦しいのは嫌だ、怖いのも大っ嫌いだ。
(魔法の使えない父には出来ない逃げ方だから、きっと父は真っ当に餓死するはずだ。そしてこの薄暗い部屋で思い知ればいい、自分が、何を選択したのかを)
バツンッと脳内で何かが弾けた気がする。きっとこれが魔力の暴走だ、と思った以降の記憶は、今も真っ黒く塗りつぶされていて何も思い出せない。
のそっと立ち上がり、部屋の隅々まで確認する。防音魔法が掛かっているらしいから叫んでも誰も来ない。扉を叩こうが、壁を叩こうが無駄だという事も先程父が言っていた。
だが、此処が緊急的に籠る場所ならば、内部からも開ける事は出来るかもしれない。
一縷の望みに賭けて、壁に細工がないか、最初の扉以外に出口はないか必死に探してみた。室内の暑さのせいでちょっと動くだけでも汗が流れ出てくる。正確にはわからないが、三十度近くはある気がする。呼吸は出来るから何処かに通気口くらいはあるのだろうが、空気がこもっているせいで余計に暑く感じた。
「…… 無さそう、ね」
手が届く範囲は細かく確認したが、隠し扉などといった救済処置はどうもなさそうだ。壁掛けのランタンが仕掛けのスイッチになっているわけでもなく、もうこれ以上は今の自分ではお手上げだった。
出口や特別な仕掛けを見付ける事は叶わなかったが、隅に置かれた箱の中から、金貨や宝石などといった資産を少しだけ発見した。あとは、腐敗防止の魔法のかかった容器に入った水が数本と少しの食料。だけどせいぜい保っても三日程度の量だ。待っていれば助けが来る可能性がある、もしくは外を見張っている敵から逃れるまでの間だけ此処に居ればいいのなら問題の無い量なのだろうが、私みたいにいつ発見して貰えるか不明な身では不安しか抱けない。食事前だったから既に空腹の状態だし、家内に味方がゼロなので、私が居ないと気が付いても探してくれそうな人は誰もいないから…… 此処でじわりと死を迎える事になるだろう。
そんな現実を目の当たりにすると、妙に冷静になり始めた。どう足掻いても意味がないという境地に達してしまう。そんな心境であろうが生きているとどうしたって空腹には抗えず、私は目の前の袋から少しだけ食料を取り出し、多少の飢えを凌げる程度の量だけを口に入れた。水も飲み、ちょっとだけ喉を潤す。まだ実感は無いが、自分にはまた、じわりじわりと死が近づいてきているのだなと考えていると、五年前の出来事が頭に浮かんできた——
◇
忘れもしない。あれは私がまだ五歳の時だ。
誕生日当日にあったトラブルで顔面に火傷を負ったのだが、メンシス様の手配で治癒魔法を掛けて貰え、看護も出来る侍女のサポートもあったおかげもあって、私は二週間程度で元の生活に戻れた。予想通り顔面の左側は無惨にも火傷の跡が残り、今後は前髪を伸ばして隠しながら生活する事に。多少視力も落ちたが、眼球の損傷を免れたのだけは幸いだった。
セレネ公爵家から来ていた侍女の人達は皆とても親切で、『このまま此処に残れる様に交渉してみる』とまで言ってくれたのだが、家族全員から猛反対されてそれは叶わなかった。メンシス様の働きかけもあったそうだが、それでも頑なに父が断ったのはきっと、ティアンの顔色を窺っての事だろう。
結局私は自業自得の末に顔面を損傷した事になった為、シリウス公爵家一同からの目はより一層冷たいものになったが、それ以外は特に変化は無かった。食事を取りに本邸まで顔を出す度にされるティアンからの意地悪や虐めは今に始まった事ではないし、五歳の子供が出来ることなんて高が知れている。でもまあぁ流石に灼熱のオーブンの前で背中を押されるとは思ってもいなかったけれど、アレで気持ちはそれなりに満たされたみたいで、あの水準の意地悪はなかったのだけはありがたい。
私は一生この火傷の跡と付き合っていかねばならない。
もう済んだことだし、ティアンを恨んだり、責めた所で現状は変わらないので、私は渋々だが現実を受け入れていた。だけど、婚約者であるルチャル・タウルス公爵令息は当然そうではなかった。
前に一度庭先で、兄とは幼馴染の関係にある彼がこんな話をしていた事があった。
『オレはきっと、ニオス様の生まれ変わりだな。初代の聖女だったカルム様への憧れの強さといい、ニオス様の子孫であるタウルス家に生まれた事といい、聖痕も同じときたらもう確定だろ』
彼が口にしていた“ニオス”様とは“五人の聖人”の一人で、ルチャルのご先祖様の一人である。タウルス家の始まりの人であり、初代聖女・カルム様と二代目聖女・リューゲ様の幼馴染でもあったお人だ。カルム様がご健在の時は神官として聖女に仕え、聖痕を授かってからは大神官となり、“剣”の聖痕の所有者としてリューゲ様の護衛も担ったそうだ。お家存続の為に子供を作りはしたものの、その心は初恋の相手でもあったカルム様に捧げ、一生独身を貫いた。カルム様は別の男性と結婚してしまったのに、それでも捨てられない想いを綴った手記がタウルス家には今も多く残っているらしい。
『…… 生まれ変わりって、そんなの“獣人”達が言ってる戯言じゃないか。前世の記憶があるとかなんとか言ってるアレだよな』
兄はくだらない話が始まったとでも思っていそうな声で、そう返していた。
『そうだ。んでも、大多数の獣人が言ってんだろ?だったら、もしかすると、嘘じゃないかもだろ』
『何?じゃあお前は、実は前世を色々覚えてるとでも言うのか?』
『いや、全然』
『んなら、なんだってそんな自信満々にニオス様の生まれ変わりだって思うんだよ。聖女カルム様が好きなら、その夫だったナハトかもしれないだろ』
『——ハッ!アイツは裏切り者だぞ?あんな浮気男と一緒にするな!だが、ニオス様の一途さは推せるものがある。…… 聖女カルム様も』
遠くから見てもわかる程、聖女カルム様の名前を呟いた時のルチャルの表情は片思い中の人みたいな雰囲気だった。彼に恋心を抱いたことなんて無いので傷付きもしなかったが、聖女様に対する想いの深さには驚かされた。生まれ変わりがどうのという話は正直眉唾でしかないが、ニオス様に自分の想いを重ねるという事は、聖女への憧れは相当なものなのだろう。
そんな話をしていた事のあった彼が、私の顔を久しぶりに見た時の反応は、当然最悪極まりないものだった。
『んな、何なんだ!——ソレは!』
旧邸の自室で食事を済ませ、空いた食器を戻しに本邸まで戻ろうとしていた時。その日は運悪く、兄に会いに来ていたルチャルに遭遇してしまった。普段はこのルートを通ってもルチャルと会う事なんて無いのに、彼が落とした手袋が風で飛び、それを追いかけているうちに偶然私の所まで辿り着いてしまったみたいだ。
『…… 醜い…… 醜い醜い醜い、醜く過ぎる!』
ボソッと呟いた後、彼は私を指差しながら大声でそう叫び、五歳の弱い心を容赦なく傷付けた。婚約者である私に無関心であった事は周知の事実であるからか、どうやら彼は誰からも私の火傷の件を聞かされていなかったみたいだ。
私の顔がティアンとそっくりであるのを理由に、姉の模造品である双子の妹が自分の婚約者になる事を妥協してくれていたのだ。彼にとっては酷い裏切りにも似たものを感じたのだろう。
『何でそんな…… ?』
絶望というよりは、怒りしか感じ取れない表情をしながら、ルチャルがじわりとこちらに近づいて来る。一歩距離を詰められる度に私が後ろに少し下がって一定の距離を保つ。すると焦れた彼が『逃げるな!』と言った一言を皮切りに、私は手に持っていた食器を全て投げるみたいに放って、その場から走り出した。
『逃げるなってんだろうが!止まれぇぇぇ!』
そう言われて止まる人なんかいるはずがない。止まれば絶対に酷い目にあう。殴られたり蹴られたりするのは火を見るより明らかだと断言出来る形相で追いかけられて、素直に従うなんて到底無理だ。誰かが居そうな場所に逃げれば、その“誰か”が私を捕まえてルチャルに差し出すだろう。シリウス家とは私に対してはそういう場所である。
(出来るだけ人の居ない場所に行って、隠れてやり過ごそう)
そう決意し、逃げに逃げたが彼は全然諦めてはくれない。身長差のせいか距離は一向に離せず、とうとう私は隠れ場所すら無い、二階の最奥にあるベランダにまで追い詰められてしまった。
『うっぜぇ逃走劇はもうおしまいか?』
こっちは走り過ぎて息も絶え絶えだというのに、ルチャルは疲れてすらいないみたいだ。七歳にしてもう色々な騎士団からスカウトがくるだけの事はある。剣の腕前だけじゃなくてちゃんと基礎体力もあるのだろう。
『——言え!その顔はどうした!何があった!正直に吐け!』
ベランダの端まで追い詰められ、首根っこを掴んで持ち上げられる。そのせいで踵が床につかずに浮き、恐怖のせいか目の前がぐらついた。
『まさか、自分で焼いたのか?』
そんなはずがない。好き好んで痛い思いをしたり、顔を焼くなんて暴挙に出る者など精神を病んだ者がする行為だ。だが、本当の事を言ったところでメンシス様のようには信じてもらえる気がしない。困って黙ったままでいると、その態度が気に入らないのか上半身がベランダの向こう側に出てしまう程の高さまで体を持ち上げられてしまった。
『言えって、言ってるよなぁ。——早く言え!何故火傷なんかしたんだ!』
死ぬのは怖くない。でも、痛いのはもう嫌だ。その思いから私はつい、『…… ティアンに、押され、て』と事実を口にしてしまった。その一言は当然の様にルチャルの逆鱗に触れ、聖女信奉者でもある彼は烈火の如く怒り狂った。
『あの子が、そんな真似をするはずが無いだろうが!この、嘘つきめ!』
言うが早いか、彼の腕がぐっと私の体を押し、胸ぐらを掴んでいた手がぱっと離された。途端に私の小さな体は宙に投げ出され、次の瞬間にはドンッと地面に体を強打していた。栄養の取れていない体は驚く程に脆く、ぐしゃりと嫌な音を立てて砕けていく。ドクンッドクンッと心臓が脈打つ度に血が流れでて、土の地面に汚いシミを作り、じわりじわりと広がっていった。
(痛い、痛い痛い痛いいた、い——)
火傷とはまた違った痛みが全身に走る。そんな私をベランダ越しに見下ろすルチャルの顔がぼんやりとしていて殆ど見えない。
『…… あぁ、もっと早くこうすれば良かったんだ。こんなに簡単に始末出来るもんだったんだな、お前って』
そう言った声だけは不思議とはっきり耳に届いた。そして聞こえるのは少年の笑い声。本当に嬉しそうで、楽しそうで、痛いみで気が狂いそうな私との温度差があまりにも違い過ぎる。
嫌われていた事はわかっていた。助けも呼んで貰えないであろう事も。だが、死を目前にした姿を前にして、笑われる程にまで嫌われる様な事を私がしただろうか?…… いいや、そこまでの関係すらも二人の間にはなかったはずだ。なのに無邪気な笑い声は止む事なく私の体に降り注ぐ。意識が途切れる瞬間までずっと、彼の楽しそうな笑い声は私の心を砕き続けた。
◇
——はずだったのに、私が目を覚ますと、あの日の前日に日付が戻っていた。何が起きたのか、何故なのかわからず、最初は夢だったのかとも思った。でも、痛みも記憶も、今でも鮮明に思い出せるから、多分だけど、確信は無いけど…… きっと夢なんかじゃない。あまりにも不可思議な体験だったから、もしかして私にも聖痕が?とも考えたが、やっぱり胸の辺りには何もなく、期待を裏切られてあの時はいつも以上に凹んだ。自分は魔法が使えるとわかった時と同じ気持ちになった。使えるとは言っても、せいぜい生活がちょっと楽になる程度のものだったからだ。
結局自分は出来損ないの不純物なのだと痛感しただけだった。
何がきっかけであんな出来事が起きたのかはわからない。でも確かに私が死んだはずなのに、前日に巻き戻った状態で目が覚めて、数日後にはタウルス家から悲報が届き、『ルチャルがベランダから転落死した』と聞かされたのだから、私達の間で何かが起きた事は間違いないのだ。
(じゃあ…… 私が此処で死んだら、今度は父が此処に閉じ込められるのでは?)
そんな恐ろしい考えが頭をよぎる。灯りがあるとはいえ、狭い部屋に閉じ込められたせいか、とんでもない事を考えてしまった。駄目だ、親を相手にそんな、と一度は首を横に振ったが、親らしい事なんか何一つしてくれず、最後はこの部屋に捨てていった相手に義理立てなんか必要か?という考えた頭の中でじわりと存在感を高めていく。
それでもまだ空腹を誤魔化せるうちは、怨みがましい気持ちなんか駄目だと考える余裕もあった。人を呪ってもいい事なんか何も無い。負の連鎖を生むだけだとも思えた。だけどそのうち、食料がなくなり、飲み水も無くなってきた頃には、この理不尽を大人しく受け入れる事が馬鹿馬鹿しく思えてきた。何故自分だけが我慢しないといけないのだ?とも。
この十年間。母殺しの汚名を着せられて私は生きてきた。私を真っ当な心根の主に育てなかったのは向こうの方だ。ならば自分には報復の権利があるはずだ。
今此処で死ぬ事により、父に報復が出来るのなら、私は喜んでこの死を受け入れよう。
幸いにして私は魔法が使える。これは父にも兄にも、姉のティアンにだって無い、亡くなった母と私だけが持つ才能だ。
拳をぎゅっと握り、力の入らない手に魔力を込めていく。ただ無駄に、暴走させる意図を持って、外へ外へ魔力を吐き出し続け、私は自分自身を廃人になるように仕向ける事にした。どうせもう保っても数日の命だ。ならば苦しみや痛みすらわからない状態になって死を迎えたい。もうあんな痛い思いはしたくない。苦しいのは嫌だ、怖いのも大っ嫌いだ。
(魔法の使えない父には出来ない逃げ方だから、きっと父は真っ当に餓死するはずだ。そしてこの薄暗い部屋で思い知ればいい、自分が、何を選択したのかを)
バツンッと脳内で何かが弾けた気がする。きっとこれが魔力の暴走だ、と思った以降の記憶は、今も真っ黒く塗りつぶされていて何も思い出せない。
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けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
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