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本編
【第6話】Refrain——のんびり夫婦生活(仮)
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香坂君が帰り、居間で一人きりになった。
ふと、部屋の中を見渡してみる。
すると、じわじわと言葉に出来ない不安が心に押し寄せてきた。ここはまだ、自分の居場所じゃないなという、違和感。
何が何処にあるとか、そんな事知った程度じゃ埋められない疎外感を抱いてしまう。
香坂君の気持ちに応える事はしない、自分の夫は司さんなんだという気持ちはこんなにも早く抱く事が出来たというのに、この疎外感だけは…… すぐにどうこう出来る類のものじゃないなと感じた。
いいなぁ…… “未来の自分”は、ここが居場所なんだもん。
「…… 司さん?」
名前を呼びながら、彼が寝室だと教えてくれた部屋のドアをノックする。
「 …… 」
返事が無い。
まだ寝ているんだろう。だってすごく疲れていたもの。
「…… 入りますね」
人の寝室に入るのはとても抵抗があったが、どうしても今一人で居たくは無い気分になってしまった私は、あまり音がたたないようゆっくりと、司さんの寝る部屋のドアノブを回してみた。
カチャッ——。
とても小さい音しかたたなかったのに、静かな部屋の中では大きな音に感じてしまい、ちょっと焦った。
焦る必要ないじゃない、起こすつもりで部屋に入ったのに。
でもきっとまだ、彼が目覚ましをセットした時間じゃない。
本当に起こすの?自分の勝手な理由で。
自分の中の不安と対面し、その事で心が乱れているだけで、司さんを起こしてなんていいのかな。
記憶にない自分に嫉妬して、無性に“今の私”が司さんに触れてみたいってだけで、部屋に入ってもいいのかな。
“好きな人が自分の手に入っている”という状況を経験した記憶のない私では、どこまでが許される事なのか判断が出来ない。
突き進んで良いのか、相手に気持ちをぶつけてもいいのか。
今までの私はどうしていたの?
どこまで司さんに心を開いていたの?
どこまで自分自身を預けていたの?
わからない、ワカラナイヨ——
心の中が、ぐちゃぐちゃだ。もうなんでこんなふうに嫌な気持ちでいっぱいになっているのかもわからなくなってきた。
一歩、また一歩と、ベットの方へ歩いて行く。
声、かけながらの方がいいのかな?起こすんだったら。
でも、起こしてもいいのかな、自然に司さんが起きるまで待った方がいいのかな、疲れているんだし。
色々グダグダ悩んでいるうちに、司さんの寝顔が布団の端で見えてきて、急に頬が緩んでしまった。ぐちゃぐちゃだった心の中が、大人相手なのに、可愛いと感じてしまう司さんの寝顔の事でいっぱいになって、ちょっとその場で踊り出したい変な気分になってくる。
「ふにゃあって…… ふにゃあって顔してるっ」
小さな声だったけど、つい言葉にしてしまった。
普段の雰囲気だったら、もっと気難しい顔で寝ている方がずっとしっくりくるだろうに、どうしてこの人はこんな些細な事まで私好みなんだろうか。寝顔を見ているだけで、自分がいっぱい心の中でモヤモヤと考えていた事が、なんだか馬鹿らしく思えてきた。
私って、なんだか現金だなぁ…… 。
ベットのすぐ側の、司さんの寝顔が見える位置で私はしゃがみこむと、ベットの上に腕を預け彼の顔をじっと見詰めた。
規則的に聞える寝息が、なんだか落ち着く。
寝かせておいてあげよう、やっぱり疲れて寝ている人を起こすのは忍びないし…… 寝顔可愛いし。
私は自分の腕に頭を預けると、司さんの寝顔にちょっと微笑みかけ、ゆっくり瞼を閉じた。
◇
枕の下に入る携帯電話が急に震えだし、俺はパチッと目を覚ました。
「…… ご飯作らないと」
目の前に広がる見慣れた天井に向かいそう呟くと、ガバッと身体にかけていた布団を剥いで、上半身を起こす。
そして、ベットから降りようと横を向いた時、教室の机に突っ伏して寝る学生の様な寝方を俺達のベットでしている唯が目に入り、ビックリして「うわっ」と声をあげた。
目の前にベットがあるのに、なんでまた。
「…… 唯?」
顔を覗きこみ、声をかけたが反応がない。熟睡しているみたいだ。
唯の眠りの深さはよく知っているが、さすがにここでこのまま寝かせておく訳にはいかない。
起きた時、全身痛いぞ?こんな寝方じゃ。
そう思った俺はベットからすぐに降り、唯の小さな身体をひょいっとお姫様抱っこになるように持ち上げた。
「…… ん…… 」
姿勢が変わった事は何となくわかるのか、唯が小さく唸る。でも、瞼は重く落ちたままで、起きるような様子は無い。
「相変わらずだな、うちの眠り姫は」
くすっ笑うと俺は、今まで自分が寝ていたベットの上に唯の身体をそっと置いた。
「可愛いな、ホント」
ベットに腰掛け、つい唯の寝顔に魅入ってしまう。結婚してもうある程度経つというのにまだ俺は、唯の姿を見ていると心が落ち着かなくなる。
起きていれば、何かと突っ走ってはあちこちぶつかって危なっかしく、目が離せない。
寝ていても、襲いたくなる位に魅惑的な色香を放つし。
休みとその前日はいつも、幼女を襲っているみたいな錯覚を感じながらも、唯に触れる事を止められない。
そういえば、最近休みが取れなくてずっと触れていなかったよな…… 。
そう思った瞬間、ドクンッと自分の心臓が跳ねた。
まさか、寝息をたて、ベットに横たわる唯の姿に…… 欲情しているのか?
おいおい待て、今は駄目だ!
唯には俺達の関係の記憶が無い。
彼女の表情から、また一目惚れなりなんなりしてもらえている絶対的な自信は正直あるが、自分の衝動をぶつけても、今度もまた平気である自信はさすがに無い。
あの時は、新婚直後なのに抱いてもらえないと唯もヤキモキしていたし、情欲を抱えていてくれていたが——今は違う。
記憶では、まだ学生だ。
学生…… か…… 。
——ちょ、ちょっと待て、俺っ!
今、そんなシチュエーションも熱いなとか、んな事一瞬でも考えてなかったか!?
「ぅん…… 」
唯が小さく唸り、ごろんっと寝返りをうった。やましい気持ちでいっぱいだった俺は、たったそれだけの事なのに全身をビクッと震わせ、ちょっと嫌な汗が額を伝ってしまった。
「…… 布団、かけないと風邪ひくよな」
そそくさと布団を引っ張り、唯の身体の上にかける。大きな布団から覗く、小さな顔がすごく可愛い。ハムスターが穴からひょっこり顔を出している時みたいな、そんな感じの雰囲気だ。
「我慢、我慢っ。全部ぶつけて、初日から嫌われたくないからな」
履いているズボンの中で、少し硬さを持ってしまっている奴の存在に俺は目を瞑り、晩御飯の準備をする為に寝室からそっと出て行った。
◇
いい匂いがする…… 。
どこのお家からかな?
いいなぁ、美味しいご飯食べたいなぁ
でも今月お金ないんだよなぁ…… 。
うつらうつらとする頭でそんな事を考えながら、ゆっくり瞼を開ける。
あれ、布団柔らかい…… 。
枕もふかふかで、美味しそうな香り以外にも、ちょっといい香りもする。
ここ…… どこだっけ?
——そうだっ!
現状を一気に理解し、私はすっかり目が覚めた。
周囲を慌てて見回したが、何故か、ベッドで寝ていたはずの司さんが居ない。
「司さんはどこ!?」
ガバッと布団から起き上がり、布団を意味も無くペシペシと叩く。
「何で私ベットで寝てるの?司さん居ないしっ!」
きっと司さんが先に起きて、私をベットに寝かせてくれたんだ。
…… って事は、私を持ち上げてくれたって事で、イコールあの腕に抱っこしてもらったって事だよね!?
あの身体に——抱っこ!?
え、や、待って、その前に絶対寝顔見られてるよね?
自分でも見た事ないのに、寝顔見られたっ。
そう考えただけで、恥ずかしさに頬がかぁっと熱くなっていく。
どうしよう…… 。
司さんの手に触ってもらえたんだって思っただけで、心臓がドキドキしてくる。今まで感じた事のない変な感覚も、身体の奥にちょっと感じる。
何だろう?変な感じ…… 。
身体も熱いし、頬の熱も引かないし、心臓が五月蝿い。両手で頬を覆って熱を冷まそうと思っても、両の手も熱くて全然意味がない。
「やだ…… このままじゃ司さんの顔まともに見られないよ…… 」
抱っこくらい何よ、夫婦だったのならもっとすごい事だってしてるじゃない。
そうよ、抱っこくらい。
…… ん?待って、もっと…… 凄い事!?
ちょ、あ…… やああああっ。
心を落ち着かせようと思って考えた事だったのに、完全に墓穴を掘った。
さっき以上に奥の方がすごく熱くて、“もっと凄い事”の知識だけが暴走し始める。経験まであると推測出来る身体が勝手に自分の妄想に反応し、下着を濡らす。胸まで苦しくなり、ちょっと覆うものが窮屈に感じてきた。
「ちょ…… 待ってよ、何コレ…… 」
呼吸まで乱れ始め、自分の身体が自分の物じゃないみたいだ。
司さん、どこに触ってくれたんだろう?
持ち上げたって事は、腕とか、背中とか…… ?
「んっ…… 」
駄目だ、考えただけでぞくっとした感覚が身体に走る。
ココ…… 触ったらどんな感じがするんだろう?
視線を下に落とし、脚にかかる布団を剥ぐと、一番むずむずしてしょうがない部分をじっと見詰める。そんな事、今まで一回も考えた事なかったのに。
このまま爆発でもしちゃうんじゃないかってくらいに心臓が跳ねる中、おそるおそる、脚の方へと手を伸ばす。
あと少しで、湿り気を帯びている部分に指が触れそうだ。
そんな手がちょっと震えだした瞬間——
「唯、起きてるか?」
急に勢いよく寝室のドアが開き、居間の明かりと共に、司さんが暗い部屋の中に顔を覗かせる。私はひどく驚き、「きゃああああっ!」と悲鳴をあげてしまった。
大慌てで布団を引っ張ると、顔だけを出した状態で司さんの方を向く。
「起きてます!大丈夫ですよ!」
焦る気持ちを隠せないまま出した声は裏返っていたが、もうそれどころじゃない。人には絶対に見られたくない、やましい事をしようとしていた自覚がある為、もう頭の中は完全にパニック状態だ。
「…… えーっと、ごめん。何か俺、邪魔した?」
「な⁈な、なんっ…… 何の邪魔したって言うんですか!!何もあるはずないでしょう!?ね、寝て起きただけなんですからっ」
林檎か!ってくらいに顔を真っ赤にして、必死に叫ぶ。
「ならいいんだけど。…… えっと、起きられるか?ご飯の用意が出来たんだけど」
「平気ですよっ」
「じゃあ、食卓で待ってるから。来られるようになったらおいで」
「は、はい!」
顔だけを出した状態で、寝室のドア側から離れて行く司さんの背中に向かい、無意味に大きな声で返事をする。
バタンッと音をたててドアが閉まった瞬間、糸が切れた操り人形のように私は、ベットの上に倒れこんだ。
「焦ったぁ…… 」
まだ司さんの入ってきたのが未遂のタイミングであった事に感謝しつつも、ノックぐらいはして欲しかったと思いながら、私は枕に顔を埋めた。
閉まった寝室のドアの向こう。
司さんがボソッと「今度はそっとドア開けよう…… 」ともらしていた事は、私の耳には聞えていなかった。
◇
「美味しいっ。凄いですね、お料理できるなんて!」
野菜の多く入ったお味噌汁を一口食べたのだが、司さんの料理の上手さにビックリした。一緒に出してくれている火の屋の店長の差し入れも、勿論文句無しに美味しくって、つい次々に箸がのびてしまう。
「本の通りにやっただけだ。慣れてもいないくせに、アレンジを加えようとしなければ、誰でも出来るよ」
「そんな、それでも凄いですっ」
料理の本を見て作っても、見て作ったはずなのに、私が作ったらその通りには全然ならないのに…… いいなぁ、司さん。
「俺はもともと料理はしない奴で、飯は全部外か弁当だったんだが、必要に迫られたらなんとかなったよ」
「そ、そうなんですか?」
お行儀が悪いって判ってるくせに、ぼそっと呟きながら咥え箸。
「大事な人の為とか、節約の為とか、理由が明確なら案外すんなりいくもんだ」
明確な理由?…… 司さんも、何かきっかけがあって料理出来るようになったの?
それって…… 。
「あの!自惚れかもしれませんけど、それってもしかして、私の…… 為?」
「…… うーん」
頬をかき、司さんがちょっと困った表情をする。
違ったの!?うわ、私完全に馬鹿じゃないっ。
「あまり記憶にない話をしたくないんだけど…… 避けてもいられないか」
司さんはふぅと息を吐き出し、話をを続けた。
「気になる言い方をしてしまう俺も悪いよな、すまん。でも、料理を始めたきっかけは唯だ、安心していい」
その言葉に安堵し、私はほっとした表情に。
「嬉しいのか?」
「と、当然じゃないですかっ。私の為にずっとやっていなかった事に挑戦してくれたなんて知ったら、そりゃ…… 」
頬が赤く染まっていくのが自分でも判る。
「風邪でダウンしてる奥さんを、ご飯を買いに行く為にでも放置したくないし。かといって、餓死させる訳にもいかなかったからな。それがキッカケだ」
「いいのに、買い物くらいほんの数十分で帰って来られるじゃないですか」
「いやいや、やっぱり気になるぞ?そんな小さな身体で、高熱出して寝込んでたら」
「か、身体は小さくても、ちゃんと大人ですよ!?」
「解っていてもやっぱり心配で心配で、添い寝までしたら俺が風邪ひいちゃって。後日、治ったその日に頭叩かれたよ」
「そ、それは叩きたくなりますね…… 」
安易にそのやりとりが想像できて、ちょっと楽しかった。
「そうだ、料理が出来る様になりたいんだったら、台所にいっぱい料理の本があるからそれを見てみるといい」
あれ?そういえば…… 私って料理上手な妻だったそうだけど、思いっきり自分で今は料理出来ない事ばらしちゃった!?
「いっぱい頑張った跡のある、唯だけの料理の本がちゃんと残ってるから」
「え…… 」
司さんはスクッと立ち上がると「見せてあげようか、俺の宝物」と言い、台所の方へ歩いて行った。棚の隅に並ぶ料理の本達の中から、一冊のノートを取り出す。それを手に持つと、食卓に戻り、一冊のボロボロになっているノートを私の側に置いた。
「ご飯中で悪いけど、今開いて見て欲しい」
「あ、はい」と答え、パラッと捲る一ページ目。
「『白米の炊き方』?…… 計量の方法…… 調味料の種類…… 」
料理の基本中の基本が、見覚えのある字で細かく書かれている。次のページを見ると、料理のレシピのコピーが綴じてあって、それにも細かく色々メモをした跡が。
「唯は教えてくれなかったから、これは推測なんだが」
食卓の向かいに座り、司さんがちょっと嬉しそうに微笑んだ。
「学生時代の唯は、料理が全く出来なかったんじゃないか?」
「あ…… えっと…… 」
ばれてるとは解ってても、素直に『はいそうです』と言い難い。司さんの好みが家庭的な子だったら、今の私なんてお荷物でしかないからだ。
「だけど、俺の為にこっそり、必死で、料理を覚えてくれたんじゃないかな」
「 …… 」
返事はせず、ノートに目を戻す。
あちこちに丸の書かれた付箋が貼ってあったり、色々な方法で集めたと思われる基本的なレシピに書かれた自分のメモを見てると、私もそんな気がしてきた。
「そう…… みたいですね」
なんだか…… 今の自分の気持ちなんか比じゃない位に、このノート中に司さんへの『好き』って気持ちが詰まっていて、自分の物なのに気分が悪い。
「で、これなんだけど」と言いながら、今度は司さんが別の一冊のノートを私の前に出してきた。
それを受け取り、中を開く。開く意味なんて全然感じられない、何も書かれていない、何も挟まっていない真新しいノートだ。
「…… これ、新品ですね」
「うん。俺もまだまだ料理は上手い方じゃないから、一緒にその一冊をこれから埋めていくってのはどうだろう?」
「え…… 」
「あ、もちろん怪我が完治したらの話しだ。嫌なら無理強いはする気もない」
そうと言う司さんの言葉を遮り、私は「やります!」と強く答えた。
「よかった」
司さんが、ほっとした表情をする。でも、『よかった』は私のセリフだ。彼が、今の私の事もちゃんと見ててくれているんだなって、改めて実感出来たから。
司さんの事、好きだって思った自分の選択は間違いじゃない。
私はそう強く実感した。
◇
「んーっ」
ベットの中、思いっ切り伸びをする。そしてゴロンッと転がる広いベットの上。
…… このベットに一人は広過ぎるよ。
そんな事を考えながら、思い出すのは昨夜のやり取りだ。
『もうこんな時間か。そろそろ寝ておかないと、明日の朝起きれなくなるな』
パソコンの前に椅子を二つ置き、一緒にインターネットで料理のレシピ探し&プリントアウトをしていた時、司さんが画面の端にある時間表示を見て言った。
『明日の朝、早いんですか?』
何もないなら、別に寝坊しても問題ないのでは?
一緒に好きな料理のレシピ探しをするのが楽しくて、この時間が終わってしまうのがちょっと嫌だった。でも、私はそんな我侭を司さんに言うような妻だったのかわからず、ちょっと言い出し難い。
司さんはちゃんと今の私と向き合おうとしてくれているみたいなのに、度胸のない私は、あまり彼の中に居る“自分”と違う事をしたくないと思ってしまうのだ。
『いいや、特にはない。ただ、唯にちゃんと三食食べさせてあげたいからな。店長の差し入れはあるが、それだけってのもな』
優しい声でそう言われたのが嬉しくって、我侭を言ってしまいたい気持ちは一瞬でどこかに飛んでいってしまった。
司さんの手料理がとても美味しいからなぁ。
もちろん、一緒に出してくれた店長の料理も美味しいけど、なんだろう…… 愛情の差?
——なんて、私ったら何考えてんだろ。
『ベットはさっきの部屋のを使ってもらえるか?俺は別の部屋で寝るから』
『え、そうなんですか?』
『…… あ、うん。だって流石に、ね』
ちょっと困った表情を一瞬すると、司さんが座っていた椅子から立ち上がり、パソコンの電源を落とした。
『寝る前にシャワー使うなら、着替えとか全部寝室のクローゼットにあるから。あ、でも傷に染みるか…… 』
ね、ねる前にお風呂っ!?
卑猥でも何でもない普通の言葉だっていうのに、変に深読みしちゃって、心臓がばくんっと跳ねてしまった。
『きょ、今日はいいかな…… 。明日にしておきます』
でも下着だけは寝る前に替えないと。
『うん、わかった。俺はシャワー浴びてから寝るから、気にしないで先に休んでいて』
そう言いながら、部屋のドアの前まで行き、パソコンのある部屋から出ようとした時、司さんの足がぴたっと止まり、椅子に座ったまま彼の事を目で追っていた私の方を向いてくれた。
『おやすみ』
ニコッと微笑み、司さんが部屋を出る。
『おやすみなさい』と答えると、シャワーを浴びに司さんは部屋を出て行ってしまった。
——昨夜の回想が終わった途端、私はむすぅとした顔になった。
「むぅ…… 」
一緒に寝たいなぁとか思っちゃったりする私って、気が早いのかなぁ?
形だけかもしれないけど、結婚生活の記憶はなくったって、今だって私は司さんの奥さんなのに。気を使ってくれているのか、もともと一緒に寝る習慣がないのか。いやいや、この広いベットが家にあって、それは無いでしょう。
私は掛け布団にどさっと覆い被さると、ぎゅーっとその布団を抱き締め、そのままゴロゴロと広いベットの上を転がり始めた。
「ああっもう!」
やきもきする気持ちを少しでも発散しようと、右に左にと転がる。
…… あれ?ちょっと楽しくない?これ
ギリギリまで攻めて、逆に戻る。このベットから落ちるか落ちないかの繰り返しが、なんだかゲームみたいに思えてきた。
ゴロンゴロンゴロン——
ピタッ
ゴロゴロゴロ——
「…… お楽しみの最中悪いけど、それはダーメ」
突然聞える司さんの声。
急に抱き締めていた布団から剥がされ、ベットから私の体が浮いた。その事にビックリし「ふあぁっ!っ」と叫びながら顔を上げると、司さんが私の腰を、お米でもかついで運ぶみたいに持ち上げていた。
「頭怪我してるんだから、転がったら駄目だろ」
「は、はい…… 」と答えはしたが、変な遊びをしていた事を見られてしまった恥ずかしさで小さな声しか出ない。叱られた子供の気分だ。
「ほら、朝ご飯出来たから着替えたら食卓までおいで」
そう言うと、そっと私の身体をベットの上にそっと戻した。
「楽しかったか?」
司さんは軽く腰を曲げ、私の耳元まで近づくと、耳にかかる髪をそっと除けてそう囁いた。耳に軽くかかる彼の息に、否応なしに頬が桜色に染まってしまう。
「ちょ…… ちょっとだけ」
ベットシーツに顔を埋めながら、そう呟く。
「じゃあ、続きは治ったらだな。その時は俺も一緒にやってみようか、唯となら楽しそうだ」
司さんは私の髪からゆっくりと手を離し、居間に続くドアの方へ戻って行く。
「ご飯、冷める前に来てくれな」
司さんがそう言い残し部屋を出ると、ドアを閉めた。
それと同時に、ベットから床へとドサッと音をたてて、わざと転がり落ちる。フローリングの冷たい床に頬をくっつけ、私は「恥ずかしぃ…… 」と小さな声で呟いた。
◇
ぼーっと、ソファーに座りながら、ベランダに洗濯物を干す司さんの姿を見る。
『手伝いますよ』と声をかけたら、頬を軽くぷにっと突かれ、『唯は怪我人だろう?』と言われ断られてしまった。
確かに、ちょっとは頭縫ったけれど、健忘症以外はそんなにたいした怪我じゃないのに…… 。
司さんったら、心配し過ぎっ。
朝食後も食器洗いも、掃除機かけたりも、『座って休んでて』って言われちゃって正直暇だ。
世のお父さん達は休日、家事で忙しい奥さんに構ってもらえず、下手したら邪魔扱いされて肩身の狭い思いをする人が居る事があると聞いた事がある。
——今の私は、まさにそれだ。
せめて読書の趣味でもあれば大人しく時間を潰せるのだろうけど、家にある司さんの本はどれも難しそうな文字ばかりが並んでいて、初心者の私には難易度が高過ぎだった。パソコンで何か出来る事はともちょっと考えたが、下手にいじって壊してしまっては困る。
結局、大人しくソファーに座って司さんの家事姿を見てる以外、今の私にはする事がないのだ。
…… エプロン姿が案外似合ってるなぁ。
家事はやり慣れてる感じがするのは、休みの日に一緒にやっているから?
一人暮らしの時に身に付いた技能?
ちゃんと洗濯物のシワを伸ばしたりだとかしながら干してるし。
ボーッと見ていると、司さんがベランダから居間の方へと、籠を手に戻ってきた。
「お疲れ様です」
「お茶でも飲むか?今日は暖かいし、喉乾いただろう?」
「私が淹れましょうか!」
「大丈夫だよ。こんなに休める事少ないからな、いっぱいこき使っていい。俺の事は、家政夫か下僕くらいに思って」
「その二つって、ものすごく違う存在だと思うんですけど…… 」
「でも、執事じゃ格好つけ過ぎだろう?」
「…… その方が似合ってる気が」
スーツにビシッとネクタイ締めて、トレーとか白手袋した手にお茶だとか…… 司さんだったらすごく様になる気がする。
「ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
お世辞何かじゃないんだけどなぁなんて思っていると、司さんは部屋の隅に一旦籠を置き、ヤカンに火をかけた。
「…… まだ、お昼じゃないんですね」
窓の外に目をやりながら、ぼそっと呟く。
「あぁ。お腹でも空いたのか?」
「いえ、一日ってすごく長いんだなってちょっと思っただけです。こんなにのんびりした経験、子どもの頃以来なので」
「そっか、唯は学校やバイトで毎日忙しかったそうだからな」
「どっちも無い日なんて、ありませんでしたしね」
「よく倒れないよなぁ、関心するよ」
「ずっとそんな生活が長いからか、体力だけは人一倍あるみたいで」
「…… そうだな、うん。わかるわかる」
何度も頷き、妙に納得顔をされた。
私は何か、司さんに、体力のある事を実感させるような事をしたりでもしたんだろうか?
「ほうじ茶でもいいかい?紅茶って気分じゃないんだ」
「ええ、大丈夫ですよ。お茶はわりと何でも好きなんで」
「よかった。まぁ…… これも慣れてないんで、あまり期待しないで」
「淹れてもらえるだけでもう」
目の前のテーブルにほうじ茶の入る湯飲みが、やけに丁寧に置かれた。
「さぁどうぞ、お嬢様」
「お嬢様だなんて…… 湯飲みじゃあんまり執事っぽくはならないですね」
「残念だな。もっと映画でも見て、執事の作法を盗んでおくべきだったよ」
和やかに微笑み合うと、司さんがソファーにドサッと座り、背もたれに身体を預けた。
「大丈夫ですか?」
なんだかとても疲れてるみたいに見える。
「あぁ、家事をやり慣れていないから手順がまだ効率的に出来なくてな。どうしたらいいかとか思ってただけだ、気にしなくていい」
「時間はいっぱいあるんですから、そんなに効率重視する事もないと思いますけど?」
「でも早く終わらせないと、家事の間、唯を暇にさせてしまうだろ?休んでいろって言ってるのは俺だが、やっぱり気になるからな」
…… 気にしててくれていたんだ。
「そ、そんな事ないですよ!司さんが家事をやってる姿見れるのって、なんだか楽しいし」
「そうか?もっとお手本になれる程だったらよかったんだが、すまない」
「謝る事なんてないですよ!私よりも効率いいし、ちゃんと真面目にやっていてすごいなって思いますっ」
掃除なんて週に一回やるかどうかだったし、料理は食事付のバイトばっか選んでほとんど作った事なかったから、家事の出来る人が羨ましい。
「ありがとう。唯に褒めてもらえるのは嬉しいな。明日はもっと頑張るよ」
「何も、毎日掃除洗濯しなくてもいいんじゃ?」
「そうなのか?一日おきくらいでも、唯が平気ならそうするが」
いや、だからそんなにしなくてもいいんじゃ。
それとも一般的には毎日とかなもんなの!?
そう思っても、司さんのやる気を折るのも悪いかと思い、心の中にそっと仕舞う。
「大変だったら手伝いますから、いつでも言って下さいね。大人しくしていれば治るってものでもないですし」
「イヤ、傷は大人しくしてる方がいいだろ。健忘症の方は…… まぁそうかもしれないが」
「傷に関してだけなら、頭ですからね。動いても、急に傷が開く心配はあまりないと思いますよ?」
「うーん…… 。唯がそう言うなら、どうしてもって時だけなら」
「司さんよりも下手ですけど、是非」
「お茶、冷めないうちに飲んで」
テーブルの上にあるお茶を勧めてくれた。
「あ、はい。頂きます!」
ずずず…… 。
二人分のお茶をすする音が、日差しの気持ちいい部屋の中に響く。
こんな暖かいと、洗濯物がよく乾きそう。
のんびりとした一日って、暇なだけで退屈そうって今までずっと思ってきたけど、好きな人の横で、こうやってお茶を飲んでいるこの時間のなんと幸せな事か。
「空が広いですね、この部屋」
「だろう?好きなんだ、ここから眺める景色。大きな窓もすごく気に入ってる」
「ずっと、何歳になっても、こうやって一緒に過ごせたら…… きっとすごく幸せだろうなぁ」
二人で外の景色を見ていて、司さんの視線を感じないせいか、ついポロッとそんな言葉が口から出てしまった。
「…… え」と言い、私の方に司さんが顔を向けた。
「あ、や…… 変な事言いました?…… 」
「いや、嬉しいよ、すごく。唯とだったら、俺も縁側で仲良くお茶を飲むような老夫婦になれる気がするからな」
司さんの笑顔が本当に嬉しそうだ。
「もうそんな先の話しになっちゃうんですか?まだまだ一緒にいっぱい居られるのに」
嬉しそうな顔の司さんを前にすると私まで嬉しくなっちゃって、私も笑顔でそう答えたが、私の言葉に彼の表情が少し曇った。
持っていた湯飲みをテーブルに戻し、肘を膝に預けると、両手をあわせて掌を指で擦るような仕草を始める。
…… どうしたんだろう?
私変な事でも言っただろうか。
不思議に思い、でも言葉が出ずに司さんの方を見ていると、彼がゆっくり口を開いた。
「…… 突然、好きな人を失う事だってあるんだって。頭では『人間はいつ死ぬかわからない』って知っていても、理解はしてなかったんだなって…… 痛感して」
…… 私が怪我をしたから?
そんなに心配してくれていたんだ。
「すまない、言葉が上手くまとまっていないな」
「いえ、言いたい事は分かりますよ」
「今みたいな時間が当たり前の様に目の前にあって、好きな人はずっと傍で笑ってる。そんな平穏が、必ず続くものじゃないんだって思うと、二人で人生を重ねてきた老夫婦がすごく羨ましく感じたんだ」
「どちらも欠ける事無く、時を重ねてきたんですものね」
「あぁ…… 羨ましいよ、とても」
「私もです。何歳になっても、お互いに愛情を感じているようなそんな夫婦っていいなって…… 。司さんとだったら、そんな夫婦にもなれるんじゃないかなって」
「嬉しいよ、唯にも同じように思ってもらえるなんて」
「今の私が、言っていい言葉じゃないかな…… とも、思いますけどね」
頬をかき、つい自虐的な言葉が出る。
形は夫婦であっても、今の私は、本当に自分は司さんの妻だって胸を張って言える様な状態じゃないからだ。
「いいや、何があっても唯は俺の奥さんだよ。結婚した記憶がなかろうが、俺を嫌っていようが…… 俺は、唯を手放す気は無い」
「嫌ってるなんて、あるはずがないです!」
身体を少し前に乗り出し、即座に否定した。ちょっとでもそんな風になんて、思われたくない。
「嬉しいよ、ありがとう。じゃあ…… ちょっと我が侭になっても、構わないか?」
そう言い、司さんが軽く俯いて息を少し吐き出す。
立ち上がり、テーブルに手をついて身体を支えると、ゆっくり私の方へと手を伸ばしてきた。
司さんの手が近づいてくる距離と呼応するように、高まっていく私の心音と乱れる呼吸音。そんな私の変化が、司さんにも伝わってしまうんじゃないかって不安になりながらも動けずにいると、そっと彼の暖かな手が私の頬に触れ、じっと私の目を見詰めてきた。
真剣な目に射抜かれ、体が硬直する。
罠にかかった獲物の様に動けず、瞬きすらもしていいのか迷ってしまう。正す事の出来ない呼吸のまま、司さんの言葉をじっと待つ。
「添い寝を、させて欲しい」
……添い寝?あれ?思ってた言葉とち——
いやいやいや!期待してた訳じゃないよ!?
司さんとの夫婦の営みのお願いなんてされちゃうのかな?とか、全然そんな事考えちゃったりなんてそんな!
………… すみません、してました。
雰囲気的にも、ちょっと真面目な感じだったし…… こんな状態でもやっぱり私達は夫婦なんだし?
「駄目か?すまない、高望みし過ぎだったか?」
不安げな表情で訊かれ、私は慌てて首を横に振った。
「違います!全然平気ですよ。あんな広いベットで一人よりも司さんが傍に居てくれた方が心強いです!」
無駄に饒舌な口調で答えた。
「よかった、一人寝は正直寂しくてな」
司さんは私の頬から手を離し、再びさっきまで座っていたソファーへと腰を下ろした。
…… ばれなかったかな?ちょっと変な事期待しちゃってた事。
恥ずかしくて、まともに正面に座る司さんの方を見る事が出来ず、視線を下に落とす。
「…… 本当に嫌じゃないか?無理強いはしたくないから、もしなんだったら、同じ部屋に別の布団を敷いてだとかでもいいんだが」
「いえ!同じベットでの方が…… う、嬉しいです」
途中で声が段々と小さくなってしまう。
「よかった。ちょっとでも一緒に居たいからな。嬉しいよ、ありがとう」
邪な感情なんて、微塵もなさそうな…… いや、きっとマジで無いんだわ!と思えるくらい優しい笑みを、彼が私に向けられ、顔を真っ赤にして硬直してしまった。
「そろそろ家事に戻って、残りを終わらせるとするか」
そう言って、司さんがソファーから立ち上がる。
「全部終わったら、また昨日の続きでもやるか?ちょっと外を散歩してもいいかもな。まぁ、唯の体調次第だが」
「司さんのしたい事で」
「いいや。唯の為に取った休みだ。家事が終わるまでの間に、唯が決めておいてくれ」
そう言い残し、司さんは飲み終わった自分の湯飲みを手に持って、台所の方へ歩いて行く。
家事の終えた司さんとは結局、昨日の続きをやろうという事になり、二人でまた色々な簡単レシピを探して過ごした。
夜には添い寝付きというご馳走まであり、私は夫婦生活をとても満喫し、一日を終える事が出来たのだった。
ふと、部屋の中を見渡してみる。
すると、じわじわと言葉に出来ない不安が心に押し寄せてきた。ここはまだ、自分の居場所じゃないなという、違和感。
何が何処にあるとか、そんな事知った程度じゃ埋められない疎外感を抱いてしまう。
香坂君の気持ちに応える事はしない、自分の夫は司さんなんだという気持ちはこんなにも早く抱く事が出来たというのに、この疎外感だけは…… すぐにどうこう出来る類のものじゃないなと感じた。
いいなぁ…… “未来の自分”は、ここが居場所なんだもん。
「…… 司さん?」
名前を呼びながら、彼が寝室だと教えてくれた部屋のドアをノックする。
「 …… 」
返事が無い。
まだ寝ているんだろう。だってすごく疲れていたもの。
「…… 入りますね」
人の寝室に入るのはとても抵抗があったが、どうしても今一人で居たくは無い気分になってしまった私は、あまり音がたたないようゆっくりと、司さんの寝る部屋のドアノブを回してみた。
カチャッ——。
とても小さい音しかたたなかったのに、静かな部屋の中では大きな音に感じてしまい、ちょっと焦った。
焦る必要ないじゃない、起こすつもりで部屋に入ったのに。
でもきっとまだ、彼が目覚ましをセットした時間じゃない。
本当に起こすの?自分の勝手な理由で。
自分の中の不安と対面し、その事で心が乱れているだけで、司さんを起こしてなんていいのかな。
記憶にない自分に嫉妬して、無性に“今の私”が司さんに触れてみたいってだけで、部屋に入ってもいいのかな。
“好きな人が自分の手に入っている”という状況を経験した記憶のない私では、どこまでが許される事なのか判断が出来ない。
突き進んで良いのか、相手に気持ちをぶつけてもいいのか。
今までの私はどうしていたの?
どこまで司さんに心を開いていたの?
どこまで自分自身を預けていたの?
わからない、ワカラナイヨ——
心の中が、ぐちゃぐちゃだ。もうなんでこんなふうに嫌な気持ちでいっぱいになっているのかもわからなくなってきた。
一歩、また一歩と、ベットの方へ歩いて行く。
声、かけながらの方がいいのかな?起こすんだったら。
でも、起こしてもいいのかな、自然に司さんが起きるまで待った方がいいのかな、疲れているんだし。
色々グダグダ悩んでいるうちに、司さんの寝顔が布団の端で見えてきて、急に頬が緩んでしまった。ぐちゃぐちゃだった心の中が、大人相手なのに、可愛いと感じてしまう司さんの寝顔の事でいっぱいになって、ちょっとその場で踊り出したい変な気分になってくる。
「ふにゃあって…… ふにゃあって顔してるっ」
小さな声だったけど、つい言葉にしてしまった。
普段の雰囲気だったら、もっと気難しい顔で寝ている方がずっとしっくりくるだろうに、どうしてこの人はこんな些細な事まで私好みなんだろうか。寝顔を見ているだけで、自分がいっぱい心の中でモヤモヤと考えていた事が、なんだか馬鹿らしく思えてきた。
私って、なんだか現金だなぁ…… 。
ベットのすぐ側の、司さんの寝顔が見える位置で私はしゃがみこむと、ベットの上に腕を預け彼の顔をじっと見詰めた。
規則的に聞える寝息が、なんだか落ち着く。
寝かせておいてあげよう、やっぱり疲れて寝ている人を起こすのは忍びないし…… 寝顔可愛いし。
私は自分の腕に頭を預けると、司さんの寝顔にちょっと微笑みかけ、ゆっくり瞼を閉じた。
◇
枕の下に入る携帯電話が急に震えだし、俺はパチッと目を覚ました。
「…… ご飯作らないと」
目の前に広がる見慣れた天井に向かいそう呟くと、ガバッと身体にかけていた布団を剥いで、上半身を起こす。
そして、ベットから降りようと横を向いた時、教室の机に突っ伏して寝る学生の様な寝方を俺達のベットでしている唯が目に入り、ビックリして「うわっ」と声をあげた。
目の前にベットがあるのに、なんでまた。
「…… 唯?」
顔を覗きこみ、声をかけたが反応がない。熟睡しているみたいだ。
唯の眠りの深さはよく知っているが、さすがにここでこのまま寝かせておく訳にはいかない。
起きた時、全身痛いぞ?こんな寝方じゃ。
そう思った俺はベットからすぐに降り、唯の小さな身体をひょいっとお姫様抱っこになるように持ち上げた。
「…… ん…… 」
姿勢が変わった事は何となくわかるのか、唯が小さく唸る。でも、瞼は重く落ちたままで、起きるような様子は無い。
「相変わらずだな、うちの眠り姫は」
くすっ笑うと俺は、今まで自分が寝ていたベットの上に唯の身体をそっと置いた。
「可愛いな、ホント」
ベットに腰掛け、つい唯の寝顔に魅入ってしまう。結婚してもうある程度経つというのにまだ俺は、唯の姿を見ていると心が落ち着かなくなる。
起きていれば、何かと突っ走ってはあちこちぶつかって危なっかしく、目が離せない。
寝ていても、襲いたくなる位に魅惑的な色香を放つし。
休みとその前日はいつも、幼女を襲っているみたいな錯覚を感じながらも、唯に触れる事を止められない。
そういえば、最近休みが取れなくてずっと触れていなかったよな…… 。
そう思った瞬間、ドクンッと自分の心臓が跳ねた。
まさか、寝息をたて、ベットに横たわる唯の姿に…… 欲情しているのか?
おいおい待て、今は駄目だ!
唯には俺達の関係の記憶が無い。
彼女の表情から、また一目惚れなりなんなりしてもらえている絶対的な自信は正直あるが、自分の衝動をぶつけても、今度もまた平気である自信はさすがに無い。
あの時は、新婚直後なのに抱いてもらえないと唯もヤキモキしていたし、情欲を抱えていてくれていたが——今は違う。
記憶では、まだ学生だ。
学生…… か…… 。
——ちょ、ちょっと待て、俺っ!
今、そんなシチュエーションも熱いなとか、んな事一瞬でも考えてなかったか!?
「ぅん…… 」
唯が小さく唸り、ごろんっと寝返りをうった。やましい気持ちでいっぱいだった俺は、たったそれだけの事なのに全身をビクッと震わせ、ちょっと嫌な汗が額を伝ってしまった。
「…… 布団、かけないと風邪ひくよな」
そそくさと布団を引っ張り、唯の身体の上にかける。大きな布団から覗く、小さな顔がすごく可愛い。ハムスターが穴からひょっこり顔を出している時みたいな、そんな感じの雰囲気だ。
「我慢、我慢っ。全部ぶつけて、初日から嫌われたくないからな」
履いているズボンの中で、少し硬さを持ってしまっている奴の存在に俺は目を瞑り、晩御飯の準備をする為に寝室からそっと出て行った。
◇
いい匂いがする…… 。
どこのお家からかな?
いいなぁ、美味しいご飯食べたいなぁ
でも今月お金ないんだよなぁ…… 。
うつらうつらとする頭でそんな事を考えながら、ゆっくり瞼を開ける。
あれ、布団柔らかい…… 。
枕もふかふかで、美味しそうな香り以外にも、ちょっといい香りもする。
ここ…… どこだっけ?
——そうだっ!
現状を一気に理解し、私はすっかり目が覚めた。
周囲を慌てて見回したが、何故か、ベッドで寝ていたはずの司さんが居ない。
「司さんはどこ!?」
ガバッと布団から起き上がり、布団を意味も無くペシペシと叩く。
「何で私ベットで寝てるの?司さん居ないしっ!」
きっと司さんが先に起きて、私をベットに寝かせてくれたんだ。
…… って事は、私を持ち上げてくれたって事で、イコールあの腕に抱っこしてもらったって事だよね!?
あの身体に——抱っこ!?
え、や、待って、その前に絶対寝顔見られてるよね?
自分でも見た事ないのに、寝顔見られたっ。
そう考えただけで、恥ずかしさに頬がかぁっと熱くなっていく。
どうしよう…… 。
司さんの手に触ってもらえたんだって思っただけで、心臓がドキドキしてくる。今まで感じた事のない変な感覚も、身体の奥にちょっと感じる。
何だろう?変な感じ…… 。
身体も熱いし、頬の熱も引かないし、心臓が五月蝿い。両手で頬を覆って熱を冷まそうと思っても、両の手も熱くて全然意味がない。
「やだ…… このままじゃ司さんの顔まともに見られないよ…… 」
抱っこくらい何よ、夫婦だったのならもっとすごい事だってしてるじゃない。
そうよ、抱っこくらい。
…… ん?待って、もっと…… 凄い事!?
ちょ、あ…… やああああっ。
心を落ち着かせようと思って考えた事だったのに、完全に墓穴を掘った。
さっき以上に奥の方がすごく熱くて、“もっと凄い事”の知識だけが暴走し始める。経験まであると推測出来る身体が勝手に自分の妄想に反応し、下着を濡らす。胸まで苦しくなり、ちょっと覆うものが窮屈に感じてきた。
「ちょ…… 待ってよ、何コレ…… 」
呼吸まで乱れ始め、自分の身体が自分の物じゃないみたいだ。
司さん、どこに触ってくれたんだろう?
持ち上げたって事は、腕とか、背中とか…… ?
「んっ…… 」
駄目だ、考えただけでぞくっとした感覚が身体に走る。
ココ…… 触ったらどんな感じがするんだろう?
視線を下に落とし、脚にかかる布団を剥ぐと、一番むずむずしてしょうがない部分をじっと見詰める。そんな事、今まで一回も考えた事なかったのに。
このまま爆発でもしちゃうんじゃないかってくらいに心臓が跳ねる中、おそるおそる、脚の方へと手を伸ばす。
あと少しで、湿り気を帯びている部分に指が触れそうだ。
そんな手がちょっと震えだした瞬間——
「唯、起きてるか?」
急に勢いよく寝室のドアが開き、居間の明かりと共に、司さんが暗い部屋の中に顔を覗かせる。私はひどく驚き、「きゃああああっ!」と悲鳴をあげてしまった。
大慌てで布団を引っ張ると、顔だけを出した状態で司さんの方を向く。
「起きてます!大丈夫ですよ!」
焦る気持ちを隠せないまま出した声は裏返っていたが、もうそれどころじゃない。人には絶対に見られたくない、やましい事をしようとしていた自覚がある為、もう頭の中は完全にパニック状態だ。
「…… えーっと、ごめん。何か俺、邪魔した?」
「な⁈な、なんっ…… 何の邪魔したって言うんですか!!何もあるはずないでしょう!?ね、寝て起きただけなんですからっ」
林檎か!ってくらいに顔を真っ赤にして、必死に叫ぶ。
「ならいいんだけど。…… えっと、起きられるか?ご飯の用意が出来たんだけど」
「平気ですよっ」
「じゃあ、食卓で待ってるから。来られるようになったらおいで」
「は、はい!」
顔だけを出した状態で、寝室のドア側から離れて行く司さんの背中に向かい、無意味に大きな声で返事をする。
バタンッと音をたててドアが閉まった瞬間、糸が切れた操り人形のように私は、ベットの上に倒れこんだ。
「焦ったぁ…… 」
まだ司さんの入ってきたのが未遂のタイミングであった事に感謝しつつも、ノックぐらいはして欲しかったと思いながら、私は枕に顔を埋めた。
閉まった寝室のドアの向こう。
司さんがボソッと「今度はそっとドア開けよう…… 」ともらしていた事は、私の耳には聞えていなかった。
◇
「美味しいっ。凄いですね、お料理できるなんて!」
野菜の多く入ったお味噌汁を一口食べたのだが、司さんの料理の上手さにビックリした。一緒に出してくれている火の屋の店長の差し入れも、勿論文句無しに美味しくって、つい次々に箸がのびてしまう。
「本の通りにやっただけだ。慣れてもいないくせに、アレンジを加えようとしなければ、誰でも出来るよ」
「そんな、それでも凄いですっ」
料理の本を見て作っても、見て作ったはずなのに、私が作ったらその通りには全然ならないのに…… いいなぁ、司さん。
「俺はもともと料理はしない奴で、飯は全部外か弁当だったんだが、必要に迫られたらなんとかなったよ」
「そ、そうなんですか?」
お行儀が悪いって判ってるくせに、ぼそっと呟きながら咥え箸。
「大事な人の為とか、節約の為とか、理由が明確なら案外すんなりいくもんだ」
明確な理由?…… 司さんも、何かきっかけがあって料理出来るようになったの?
それって…… 。
「あの!自惚れかもしれませんけど、それってもしかして、私の…… 為?」
「…… うーん」
頬をかき、司さんがちょっと困った表情をする。
違ったの!?うわ、私完全に馬鹿じゃないっ。
「あまり記憶にない話をしたくないんだけど…… 避けてもいられないか」
司さんはふぅと息を吐き出し、話をを続けた。
「気になる言い方をしてしまう俺も悪いよな、すまん。でも、料理を始めたきっかけは唯だ、安心していい」
その言葉に安堵し、私はほっとした表情に。
「嬉しいのか?」
「と、当然じゃないですかっ。私の為にずっとやっていなかった事に挑戦してくれたなんて知ったら、そりゃ…… 」
頬が赤く染まっていくのが自分でも判る。
「風邪でダウンしてる奥さんを、ご飯を買いに行く為にでも放置したくないし。かといって、餓死させる訳にもいかなかったからな。それがキッカケだ」
「いいのに、買い物くらいほんの数十分で帰って来られるじゃないですか」
「いやいや、やっぱり気になるぞ?そんな小さな身体で、高熱出して寝込んでたら」
「か、身体は小さくても、ちゃんと大人ですよ!?」
「解っていてもやっぱり心配で心配で、添い寝までしたら俺が風邪ひいちゃって。後日、治ったその日に頭叩かれたよ」
「そ、それは叩きたくなりますね…… 」
安易にそのやりとりが想像できて、ちょっと楽しかった。
「そうだ、料理が出来る様になりたいんだったら、台所にいっぱい料理の本があるからそれを見てみるといい」
あれ?そういえば…… 私って料理上手な妻だったそうだけど、思いっきり自分で今は料理出来ない事ばらしちゃった!?
「いっぱい頑張った跡のある、唯だけの料理の本がちゃんと残ってるから」
「え…… 」
司さんはスクッと立ち上がると「見せてあげようか、俺の宝物」と言い、台所の方へ歩いて行った。棚の隅に並ぶ料理の本達の中から、一冊のノートを取り出す。それを手に持つと、食卓に戻り、一冊のボロボロになっているノートを私の側に置いた。
「ご飯中で悪いけど、今開いて見て欲しい」
「あ、はい」と答え、パラッと捲る一ページ目。
「『白米の炊き方』?…… 計量の方法…… 調味料の種類…… 」
料理の基本中の基本が、見覚えのある字で細かく書かれている。次のページを見ると、料理のレシピのコピーが綴じてあって、それにも細かく色々メモをした跡が。
「唯は教えてくれなかったから、これは推測なんだが」
食卓の向かいに座り、司さんがちょっと嬉しそうに微笑んだ。
「学生時代の唯は、料理が全く出来なかったんじゃないか?」
「あ…… えっと…… 」
ばれてるとは解ってても、素直に『はいそうです』と言い難い。司さんの好みが家庭的な子だったら、今の私なんてお荷物でしかないからだ。
「だけど、俺の為にこっそり、必死で、料理を覚えてくれたんじゃないかな」
「 …… 」
返事はせず、ノートに目を戻す。
あちこちに丸の書かれた付箋が貼ってあったり、色々な方法で集めたと思われる基本的なレシピに書かれた自分のメモを見てると、私もそんな気がしてきた。
「そう…… みたいですね」
なんだか…… 今の自分の気持ちなんか比じゃない位に、このノート中に司さんへの『好き』って気持ちが詰まっていて、自分の物なのに気分が悪い。
「で、これなんだけど」と言いながら、今度は司さんが別の一冊のノートを私の前に出してきた。
それを受け取り、中を開く。開く意味なんて全然感じられない、何も書かれていない、何も挟まっていない真新しいノートだ。
「…… これ、新品ですね」
「うん。俺もまだまだ料理は上手い方じゃないから、一緒にその一冊をこれから埋めていくってのはどうだろう?」
「え…… 」
「あ、もちろん怪我が完治したらの話しだ。嫌なら無理強いはする気もない」
そうと言う司さんの言葉を遮り、私は「やります!」と強く答えた。
「よかった」
司さんが、ほっとした表情をする。でも、『よかった』は私のセリフだ。彼が、今の私の事もちゃんと見ててくれているんだなって、改めて実感出来たから。
司さんの事、好きだって思った自分の選択は間違いじゃない。
私はそう強く実感した。
◇
「んーっ」
ベットの中、思いっ切り伸びをする。そしてゴロンッと転がる広いベットの上。
…… このベットに一人は広過ぎるよ。
そんな事を考えながら、思い出すのは昨夜のやり取りだ。
『もうこんな時間か。そろそろ寝ておかないと、明日の朝起きれなくなるな』
パソコンの前に椅子を二つ置き、一緒にインターネットで料理のレシピ探し&プリントアウトをしていた時、司さんが画面の端にある時間表示を見て言った。
『明日の朝、早いんですか?』
何もないなら、別に寝坊しても問題ないのでは?
一緒に好きな料理のレシピ探しをするのが楽しくて、この時間が終わってしまうのがちょっと嫌だった。でも、私はそんな我侭を司さんに言うような妻だったのかわからず、ちょっと言い出し難い。
司さんはちゃんと今の私と向き合おうとしてくれているみたいなのに、度胸のない私は、あまり彼の中に居る“自分”と違う事をしたくないと思ってしまうのだ。
『いいや、特にはない。ただ、唯にちゃんと三食食べさせてあげたいからな。店長の差し入れはあるが、それだけってのもな』
優しい声でそう言われたのが嬉しくって、我侭を言ってしまいたい気持ちは一瞬でどこかに飛んでいってしまった。
司さんの手料理がとても美味しいからなぁ。
もちろん、一緒に出してくれた店長の料理も美味しいけど、なんだろう…… 愛情の差?
——なんて、私ったら何考えてんだろ。
『ベットはさっきの部屋のを使ってもらえるか?俺は別の部屋で寝るから』
『え、そうなんですか?』
『…… あ、うん。だって流石に、ね』
ちょっと困った表情を一瞬すると、司さんが座っていた椅子から立ち上がり、パソコンの電源を落とした。
『寝る前にシャワー使うなら、着替えとか全部寝室のクローゼットにあるから。あ、でも傷に染みるか…… 』
ね、ねる前にお風呂っ!?
卑猥でも何でもない普通の言葉だっていうのに、変に深読みしちゃって、心臓がばくんっと跳ねてしまった。
『きょ、今日はいいかな…… 。明日にしておきます』
でも下着だけは寝る前に替えないと。
『うん、わかった。俺はシャワー浴びてから寝るから、気にしないで先に休んでいて』
そう言いながら、部屋のドアの前まで行き、パソコンのある部屋から出ようとした時、司さんの足がぴたっと止まり、椅子に座ったまま彼の事を目で追っていた私の方を向いてくれた。
『おやすみ』
ニコッと微笑み、司さんが部屋を出る。
『おやすみなさい』と答えると、シャワーを浴びに司さんは部屋を出て行ってしまった。
——昨夜の回想が終わった途端、私はむすぅとした顔になった。
「むぅ…… 」
一緒に寝たいなぁとか思っちゃったりする私って、気が早いのかなぁ?
形だけかもしれないけど、結婚生活の記憶はなくったって、今だって私は司さんの奥さんなのに。気を使ってくれているのか、もともと一緒に寝る習慣がないのか。いやいや、この広いベットが家にあって、それは無いでしょう。
私は掛け布団にどさっと覆い被さると、ぎゅーっとその布団を抱き締め、そのままゴロゴロと広いベットの上を転がり始めた。
「ああっもう!」
やきもきする気持ちを少しでも発散しようと、右に左にと転がる。
…… あれ?ちょっと楽しくない?これ
ギリギリまで攻めて、逆に戻る。このベットから落ちるか落ちないかの繰り返しが、なんだかゲームみたいに思えてきた。
ゴロンゴロンゴロン——
ピタッ
ゴロゴロゴロ——
「…… お楽しみの最中悪いけど、それはダーメ」
突然聞える司さんの声。
急に抱き締めていた布団から剥がされ、ベットから私の体が浮いた。その事にビックリし「ふあぁっ!っ」と叫びながら顔を上げると、司さんが私の腰を、お米でもかついで運ぶみたいに持ち上げていた。
「頭怪我してるんだから、転がったら駄目だろ」
「は、はい…… 」と答えはしたが、変な遊びをしていた事を見られてしまった恥ずかしさで小さな声しか出ない。叱られた子供の気分だ。
「ほら、朝ご飯出来たから着替えたら食卓までおいで」
そう言うと、そっと私の身体をベットの上にそっと戻した。
「楽しかったか?」
司さんは軽く腰を曲げ、私の耳元まで近づくと、耳にかかる髪をそっと除けてそう囁いた。耳に軽くかかる彼の息に、否応なしに頬が桜色に染まってしまう。
「ちょ…… ちょっとだけ」
ベットシーツに顔を埋めながら、そう呟く。
「じゃあ、続きは治ったらだな。その時は俺も一緒にやってみようか、唯となら楽しそうだ」
司さんは私の髪からゆっくりと手を離し、居間に続くドアの方へ戻って行く。
「ご飯、冷める前に来てくれな」
司さんがそう言い残し部屋を出ると、ドアを閉めた。
それと同時に、ベットから床へとドサッと音をたてて、わざと転がり落ちる。フローリングの冷たい床に頬をくっつけ、私は「恥ずかしぃ…… 」と小さな声で呟いた。
◇
ぼーっと、ソファーに座りながら、ベランダに洗濯物を干す司さんの姿を見る。
『手伝いますよ』と声をかけたら、頬を軽くぷにっと突かれ、『唯は怪我人だろう?』と言われ断られてしまった。
確かに、ちょっとは頭縫ったけれど、健忘症以外はそんなにたいした怪我じゃないのに…… 。
司さんったら、心配し過ぎっ。
朝食後も食器洗いも、掃除機かけたりも、『座って休んでて』って言われちゃって正直暇だ。
世のお父さん達は休日、家事で忙しい奥さんに構ってもらえず、下手したら邪魔扱いされて肩身の狭い思いをする人が居る事があると聞いた事がある。
——今の私は、まさにそれだ。
せめて読書の趣味でもあれば大人しく時間を潰せるのだろうけど、家にある司さんの本はどれも難しそうな文字ばかりが並んでいて、初心者の私には難易度が高過ぎだった。パソコンで何か出来る事はともちょっと考えたが、下手にいじって壊してしまっては困る。
結局、大人しくソファーに座って司さんの家事姿を見てる以外、今の私にはする事がないのだ。
…… エプロン姿が案外似合ってるなぁ。
家事はやり慣れてる感じがするのは、休みの日に一緒にやっているから?
一人暮らしの時に身に付いた技能?
ちゃんと洗濯物のシワを伸ばしたりだとかしながら干してるし。
ボーッと見ていると、司さんがベランダから居間の方へと、籠を手に戻ってきた。
「お疲れ様です」
「お茶でも飲むか?今日は暖かいし、喉乾いただろう?」
「私が淹れましょうか!」
「大丈夫だよ。こんなに休める事少ないからな、いっぱいこき使っていい。俺の事は、家政夫か下僕くらいに思って」
「その二つって、ものすごく違う存在だと思うんですけど…… 」
「でも、執事じゃ格好つけ過ぎだろう?」
「…… その方が似合ってる気が」
スーツにビシッとネクタイ締めて、トレーとか白手袋した手にお茶だとか…… 司さんだったらすごく様になる気がする。
「ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
お世辞何かじゃないんだけどなぁなんて思っていると、司さんは部屋の隅に一旦籠を置き、ヤカンに火をかけた。
「…… まだ、お昼じゃないんですね」
窓の外に目をやりながら、ぼそっと呟く。
「あぁ。お腹でも空いたのか?」
「いえ、一日ってすごく長いんだなってちょっと思っただけです。こんなにのんびりした経験、子どもの頃以来なので」
「そっか、唯は学校やバイトで毎日忙しかったそうだからな」
「どっちも無い日なんて、ありませんでしたしね」
「よく倒れないよなぁ、関心するよ」
「ずっとそんな生活が長いからか、体力だけは人一倍あるみたいで」
「…… そうだな、うん。わかるわかる」
何度も頷き、妙に納得顔をされた。
私は何か、司さんに、体力のある事を実感させるような事をしたりでもしたんだろうか?
「ほうじ茶でもいいかい?紅茶って気分じゃないんだ」
「ええ、大丈夫ですよ。お茶はわりと何でも好きなんで」
「よかった。まぁ…… これも慣れてないんで、あまり期待しないで」
「淹れてもらえるだけでもう」
目の前のテーブルにほうじ茶の入る湯飲みが、やけに丁寧に置かれた。
「さぁどうぞ、お嬢様」
「お嬢様だなんて…… 湯飲みじゃあんまり執事っぽくはならないですね」
「残念だな。もっと映画でも見て、執事の作法を盗んでおくべきだったよ」
和やかに微笑み合うと、司さんがソファーにドサッと座り、背もたれに身体を預けた。
「大丈夫ですか?」
なんだかとても疲れてるみたいに見える。
「あぁ、家事をやり慣れていないから手順がまだ効率的に出来なくてな。どうしたらいいかとか思ってただけだ、気にしなくていい」
「時間はいっぱいあるんですから、そんなに効率重視する事もないと思いますけど?」
「でも早く終わらせないと、家事の間、唯を暇にさせてしまうだろ?休んでいろって言ってるのは俺だが、やっぱり気になるからな」
…… 気にしててくれていたんだ。
「そ、そんな事ないですよ!司さんが家事をやってる姿見れるのって、なんだか楽しいし」
「そうか?もっとお手本になれる程だったらよかったんだが、すまない」
「謝る事なんてないですよ!私よりも効率いいし、ちゃんと真面目にやっていてすごいなって思いますっ」
掃除なんて週に一回やるかどうかだったし、料理は食事付のバイトばっか選んでほとんど作った事なかったから、家事の出来る人が羨ましい。
「ありがとう。唯に褒めてもらえるのは嬉しいな。明日はもっと頑張るよ」
「何も、毎日掃除洗濯しなくてもいいんじゃ?」
「そうなのか?一日おきくらいでも、唯が平気ならそうするが」
いや、だからそんなにしなくてもいいんじゃ。
それとも一般的には毎日とかなもんなの!?
そう思っても、司さんのやる気を折るのも悪いかと思い、心の中にそっと仕舞う。
「大変だったら手伝いますから、いつでも言って下さいね。大人しくしていれば治るってものでもないですし」
「イヤ、傷は大人しくしてる方がいいだろ。健忘症の方は…… まぁそうかもしれないが」
「傷に関してだけなら、頭ですからね。動いても、急に傷が開く心配はあまりないと思いますよ?」
「うーん…… 。唯がそう言うなら、どうしてもって時だけなら」
「司さんよりも下手ですけど、是非」
「お茶、冷めないうちに飲んで」
テーブルの上にあるお茶を勧めてくれた。
「あ、はい。頂きます!」
ずずず…… 。
二人分のお茶をすする音が、日差しの気持ちいい部屋の中に響く。
こんな暖かいと、洗濯物がよく乾きそう。
のんびりとした一日って、暇なだけで退屈そうって今までずっと思ってきたけど、好きな人の横で、こうやってお茶を飲んでいるこの時間のなんと幸せな事か。
「空が広いですね、この部屋」
「だろう?好きなんだ、ここから眺める景色。大きな窓もすごく気に入ってる」
「ずっと、何歳になっても、こうやって一緒に過ごせたら…… きっとすごく幸せだろうなぁ」
二人で外の景色を見ていて、司さんの視線を感じないせいか、ついポロッとそんな言葉が口から出てしまった。
「…… え」と言い、私の方に司さんが顔を向けた。
「あ、や…… 変な事言いました?…… 」
「いや、嬉しいよ、すごく。唯とだったら、俺も縁側で仲良くお茶を飲むような老夫婦になれる気がするからな」
司さんの笑顔が本当に嬉しそうだ。
「もうそんな先の話しになっちゃうんですか?まだまだ一緒にいっぱい居られるのに」
嬉しそうな顔の司さんを前にすると私まで嬉しくなっちゃって、私も笑顔でそう答えたが、私の言葉に彼の表情が少し曇った。
持っていた湯飲みをテーブルに戻し、肘を膝に預けると、両手をあわせて掌を指で擦るような仕草を始める。
…… どうしたんだろう?
私変な事でも言っただろうか。
不思議に思い、でも言葉が出ずに司さんの方を見ていると、彼がゆっくり口を開いた。
「…… 突然、好きな人を失う事だってあるんだって。頭では『人間はいつ死ぬかわからない』って知っていても、理解はしてなかったんだなって…… 痛感して」
…… 私が怪我をしたから?
そんなに心配してくれていたんだ。
「すまない、言葉が上手くまとまっていないな」
「いえ、言いたい事は分かりますよ」
「今みたいな時間が当たり前の様に目の前にあって、好きな人はずっと傍で笑ってる。そんな平穏が、必ず続くものじゃないんだって思うと、二人で人生を重ねてきた老夫婦がすごく羨ましく感じたんだ」
「どちらも欠ける事無く、時を重ねてきたんですものね」
「あぁ…… 羨ましいよ、とても」
「私もです。何歳になっても、お互いに愛情を感じているようなそんな夫婦っていいなって…… 。司さんとだったら、そんな夫婦にもなれるんじゃないかなって」
「嬉しいよ、唯にも同じように思ってもらえるなんて」
「今の私が、言っていい言葉じゃないかな…… とも、思いますけどね」
頬をかき、つい自虐的な言葉が出る。
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「嬉しいよ、ありがとう。じゃあ…… ちょっと我が侭になっても、構わないか?」
そう言い、司さんが軽く俯いて息を少し吐き出す。
立ち上がり、テーブルに手をついて身体を支えると、ゆっくり私の方へと手を伸ばしてきた。
司さんの手が近づいてくる距離と呼応するように、高まっていく私の心音と乱れる呼吸音。そんな私の変化が、司さんにも伝わってしまうんじゃないかって不安になりながらも動けずにいると、そっと彼の暖かな手が私の頬に触れ、じっと私の目を見詰めてきた。
真剣な目に射抜かれ、体が硬直する。
罠にかかった獲物の様に動けず、瞬きすらもしていいのか迷ってしまう。正す事の出来ない呼吸のまま、司さんの言葉をじっと待つ。
「添い寝を、させて欲しい」
……添い寝?あれ?思ってた言葉とち——
いやいやいや!期待してた訳じゃないよ!?
司さんとの夫婦の営みのお願いなんてされちゃうのかな?とか、全然そんな事考えちゃったりなんてそんな!
………… すみません、してました。
雰囲気的にも、ちょっと真面目な感じだったし…… こんな状態でもやっぱり私達は夫婦なんだし?
「駄目か?すまない、高望みし過ぎだったか?」
不安げな表情で訊かれ、私は慌てて首を横に振った。
「違います!全然平気ですよ。あんな広いベットで一人よりも司さんが傍に居てくれた方が心強いです!」
無駄に饒舌な口調で答えた。
「よかった、一人寝は正直寂しくてな」
司さんは私の頬から手を離し、再びさっきまで座っていたソファーへと腰を下ろした。
…… ばれなかったかな?ちょっと変な事期待しちゃってた事。
恥ずかしくて、まともに正面に座る司さんの方を見る事が出来ず、視線を下に落とす。
「…… 本当に嫌じゃないか?無理強いはしたくないから、もしなんだったら、同じ部屋に別の布団を敷いてだとかでもいいんだが」
「いえ!同じベットでの方が…… う、嬉しいです」
途中で声が段々と小さくなってしまう。
「よかった。ちょっとでも一緒に居たいからな。嬉しいよ、ありがとう」
邪な感情なんて、微塵もなさそうな…… いや、きっとマジで無いんだわ!と思えるくらい優しい笑みを、彼が私に向けられ、顔を真っ赤にして硬直してしまった。
「そろそろ家事に戻って、残りを終わらせるとするか」
そう言って、司さんがソファーから立ち上がる。
「全部終わったら、また昨日の続きでもやるか?ちょっと外を散歩してもいいかもな。まぁ、唯の体調次第だが」
「司さんのしたい事で」
「いいや。唯の為に取った休みだ。家事が終わるまでの間に、唯が決めておいてくれ」
そう言い残し、司さんは飲み終わった自分の湯飲みを手に持って、台所の方へ歩いて行く。
家事の終えた司さんとは結局、昨日の続きをやろうという事になり、二人でまた色々な簡単レシピを探して過ごした。
夜には添い寝付きというご馳走まであり、私は夫婦生活をとても満喫し、一日を終える事が出来たのだった。
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