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本編
【第4話】Refrain——病室にて
しおりを挟む『死が二人を別つまで、貴女は夫を愛すると誓いますか?』
昔参列した友人の結婚式で、牧師様がそんな事を言っていた気がする。
司さんを酷く困らせてしまった私からのプロポーズの日、帰りのエレベーターの中でそんなフレーズをふと私は思い出していた。
私はそっと心の中で『死が二人を別とうとも、私は貴方を愛すると誓います』なんて考えていた事はもう随分前の事だ。
一瞬の事で走馬灯何てものは見えなかったけど、薄れる意識の中で私は、司さんの事だけは——
◇
友人である宮川から突然携帯に電話があったのは、定時を過ぎ、残業があったので同僚の桐生と一緒に警視庁に残っている時だった。
今朝家を出る時は唯に『今日は定時で帰れるかもしれない』って言ってあったのに、無理だった事が悔やまれる。
彼女には悪い事をしてしまったなと少し思ったが、定時に帰ったとしても今日は彼女もバイトでまだ帰っていないから問題はないのだが、宣言通りに行動出来なかった事は悔しかった。
何とか割り切り、久しぶりに晩御飯でも用意しておいてやろうかなんて考えていた計画が流れてしまった事も諦め、同僚の桐生と溜め込んでしまっていた書類の整理に追われ続けるはずだった。だが、宮川からの電話の内容が内容だったので、上司と桐生に無理を言って俺は、大急ぎでその場を飛び出した。
作業着と化しているスーツに鞄を抱えた姿で駅まで大急ぎで走る間、電話で聴かされた宮川の言葉が頭をよぎる。
『お前の奥さん、今うちの病院に来てるぞ。バイト中に怪我したとかで…… ちょっとマズイ事になってるんだが、お前今からすぐこっちに来られないか?』
容態を訊いても『外傷はそう酷くはない』と言うだけで、宮川は詳しく言わなかった。
『確証が持てないんだが、あまりいい状態では無いとだけは言える。彼女の命には別状はないが…… とにかく急いで来てくれ』
核心に触れぬ言い方にかなりイラッとしたが、そう言われては行かない訳にはいかない。
駅前でタクシーを拾うと、運転手に行き先を急いで伝える。
『命には別状はない』
そう聞いてはも、唯が怪我をしたという事実に気持ちが陰る。
居酒屋でのバイトは、そろそろ止めさせるべきなんだろうか。
俺が居ない時間暇を持て余すよりは、やりたい事をやっていてもらえる方が気持ち的には楽なのだが、怪我をしてしまうような状況は許せるものではない。
過保護だと言われてしまうかもしれないが、何かあってからでは遅いのだ。
ぐだぐだとそんな事を考えていると、「お客さん、着きましたよ」と運転手の声が。
請求通りの額を払い、すぐにタクシーを降りる。
正面玄関前で下ろしてくれたので、すぐに、もう診察時間も終わり真っ暗になっている入り口の横にあるインターホンを押して病院の関係者を呼び出した。
妻が病院に運ばれたから来てくれと言われた旨をインターホン越しに相手に伝えると、すぐに時間外の訪問者用に用意された扉を開けてくれた。
院内はメインの電気が消えていて、最低限の電気しか点けられていない入り口は少し暗い。その中でまだ明るいままのスペースに行くと、警備担当の人達が待機しており、その中の一人がメモを片手にこちらへ駆け寄って来た。
「日向唯さんのご家族のお方でお間違い無いですか?」
「はい」と答えると、病室の番号と行き方が書かれたメモをくれた。それを受け取り、先を急ぐ。
もう歩く人間の居ない院内を、少し小走りになりながら病室へと向かう。外科病棟の方まで移動し、そこからエレベーターに乗り込むと、警備室でもらったメモにある階数ボタンを押して上へ。
十階に着いて開いた扉が、まだ開け切っていないのに無理に出ると、すぐ右手に見えたナースステーションに向かう。
開けたままのドアから中を覗き、中に居た看護師の一人に声をかける。
「すみません、こちらに日向唯が入院していると聞いたのですが」
「ええ、いらっしゃいますよ。ご家族の方ですね?宮川先生から窺っております、どうぞ中へ」
そう言い、看護師はすぐ向かいにある病室のドアを指差した。
「ありがとうございます」
頭を軽く下げ、唯の居る病室へとすぐ足を向ける。
数歩歩き、引き戸の窪みに手をかけた時だ——
「あはははは!」と盛大な笑い声が病室の中から聞えてきて、ビックリした。数人の人間が、一緒に笑っているような声もする。
一番大きな笑い声には聞き覚えがあるぞ…… 絶対に唯だ。
致命傷ではないとはいえ、怪我をした事に心配して大急ぎで仕事まで中断して来たというのに、本人は大声で笑っているとは。
肩に入っていた力が一気に抜けて、俺は少し呆れ、息をついた。だがそれと同時に、無事だった事にすごく安心する。
そして唯が、絶対に失いたくない一番大事な人なんだと、改めて思った。
病室の中には唯以外の人間も居る事は既にわかったので「失礼します」と言いながら引き戸を開けて中へ入る。
「悪い、遅くなって。大丈夫だったか?唯」
病室の中を見渡すとベットが一つしかなかったので、唯は個室の病室をあてがわれたみたいだ。
ベットの上、枕を背にした状態で脚を伸ばして唯が座っている。それと、彼女のバイト先である火の屋の店長の姿が見えた。
その周囲には数人の見覚えがある店員が立ち、唯の一番近くには、火の屋に行く度に、結婚した今でも俺を敵対視してくる男の店員がベットに腰掛けて唯に寄り添っていた。
さっきまで笑っていたというのに、病室に居る奴らは俺が入ってきた途端に急に黙り込み、感情の読み取り難い表情で俺をチラチラと見てくる。
いつも俺を敵対視してくる男だけが少し勝ち誇った様な顔をしていて、夫である俺が来ても唯の傍から離れない事にかなり腹が立った。
無言で、俺に向かいペコッと頭を下げる唯の顔には表情が固い。
周囲の様子に少し焦りが出てくる。
何だ?この違和感は…… 。
「唯、傷は深いのか?どうして怪我を?」
包帯を頭に巻き、痛々しい姿でベットに座る唯の詳しい容態と経緯を早く知りたくて、早く傍に行きたくて、数歩前に歩いた時。違和感の答えを突き付けられた。
「…… すみません、誰かのお知り合いですか?」
周囲にチラッと視線をやりながら、唯が言った。
「 …… 」
前にも聞いた事のある様な言葉に、足が止まる。
時間が止まったような、遡る様な、変な感覚が身体を走る。
「イヤだな唯先輩、本当に忘れちゃったんですね」
場違いな笑顔で、敵対視してくる男が唯に言った。
「…… 何を、言って——」
唯に近づこうとした時、不意に肩を力強く掴まれ動きが阻まれた。誰だ?と思いながら勢いよく後ろに振り返ると、そこには宮川の姿が。
「悪い、ちょっと廊下で話そう」
「内科医のお前がどうしてここに?」
「いいから、とにかく今は外に出るんだ」
宮川はそう言うと、俺の腕を力強く掴み、病室のドアを開けて廊下へと引っ張って行った。
◇
「どこに行くって言うんだ?」
腕を引かれたまま、ずんずんと先に進む宮川に訊いても「五月蝿い、寝てる患者を起こす気か?」と小声で言うだけで、欲しい答えが返ってこない。
仕方なく黙ったまま、引かれるままに宮川に着いて行く。
しばらくすると、休憩所と思われる、飲み物やカップラーメンの販売機がずらっと並んだコーナーにまで連れて来られた。
「ここなら少しくらい話しても平気だ」
そう言うと、宮川は俺の腕を離し、白衣のポケットから小銭入れを取り出した。
「何飲む?残念ながら酒は無いが、おごるぞ」
「いらない」
「そうか、じゃあコーヒーでいいな」
いらないと答えたのに、流される。
ホットの缶コーヒーを二本買い、宮川は側にある長椅子に腰掛けると、前にあるテーブルの上にそれを一本置いた。
「…… いらないと言ったはずだが」
「俺のおごりなんて滅多にないんだ、受け取るだけでも受け取っておけ。今は飲みたくないなら、持って帰って後日飲むといい」
「…… わかったよ、ありがとう」
ため息混じりにそう答えると、俺も宮川の座る長椅子に勢いよく腰を下ろした。
「んで、内科医のお前が何でここに居るんだ?外傷だけじゃないのか?唯は。何があって怪我をしたんだ?さっきの態度は何だ?」
「待て、待て。一気に訊かれても即座に全てを話すのは無理だ。順を追って話すのと、結論から話すのと、どっちがいい?好きな方を選べ」
「結論からだ」
当然の選択だ。
「了解。お前なら絶対にそう言うと思っていたよ」
カコッと音をたて、宮川が手に持った缶コーヒーを開る。それを一口飲み、息をつくと、表情がいつもとは違う硬いものに。
「“外傷性健忘症”だと思うと、脳外科の奴が言っていた。たぶんあの様子からいって、部分健忘だろうな」
「健忘って…… おい、まさか」
「俗に言う“記憶喪失”ってやつだよ。最近の記憶だけが無いらしいが、生活に支障はない」
「外傷性って事は、怪我が原因なのか!?誰がそんな怪我を唯に!すぐに犯人を——」と、俺は大声で叫んだ。
即座に立ち上がろうとした俺の腕を、宮川が強く掴み、無言で首を横に振る。
「示談で済ますそうだよ、本人が決めた事だ。医療保険から治療費がオーバーした場合の金額の負担と、火の屋の常連になる事を条件に警察沙汰にはしないと言ったそうだ」
「アホか…… 」
唯のお人よし加減に盛大なため息がもれ、俺は長椅子の背もたれに思いっきり寄りかかった。
「夫婦喧嘩を客が始めたらしくてな。心配でその傍を様子を窺いながらウロウロしていたら、ビール瓶が飛んできたそうだ」
「直撃したのか…… 」
「かなり気性の荒い奥さんだったみたいでな。旦那の方に投げたらしいんだが…… コントロールも出来ないくらいに酒が回っていたのかもな」
「その様子を見た香坂って店員がすぐに救急車を呼んで、警察もと叫んだ時、まだうっすらと意識のあったお前の奥さんが『警察だけは呼ばないで』と言ったそうだ。『そこまでの事じゃない』とな」
「香坂?誰だそれ」
「お前の奥さんの、一番傍に居た男だろうな」
初めて名前を知った気がする。
店員の名前は胸元に付けた名札で確認出来るというのに、アイツに対しては、それすらする気になれなかったから。
「なんで警察を呼ぶななんて…… 充分呼ぶべき事件だろうに」
「これ以上警官達に忙しくさせたくなかったんだろうな。お前の姿を見ていて、そう思ったんじゃないか?それに、相手は逃げたりもせずに一緒に病院にまで来たそうだ。傷も浅いし、警察を呼ぶほどではないと思ったのも、まぁ多少は分かるよ」
「…… それで?どうして健忘症だと診断が出たんだ?」
「付き添いで来た店員から看護師が聞いていた名前とは、違う名前を本人が答えたからだそうだ。目の覚ました時、『日向さんが目を覚ましました!』と言った看護師に、『皆川唯ですけど』と答えたらしい」
「どの位の記憶がないんだ?」
「さあ?俺が診察した訳じゃないから詳しくは知らないが、店長と香坂の事は覚えていたらしい。明日の授業の心配もしていたそうだから、大学生くらいまでは戻っているだろうな」
「大学生…… 店長はわかる——」
ぼそぼそっと呟き、反復する。
丁度、俺達が店で会った時位じゃないか?
あの時まで戻ったのか?
…… 嘘だろう?
まさか、同じ人間に二度も忘れられるなんて…… 。
「家族に説明をしてもなかなか納得してもらい難い状態なんでな、外科医の奴が俺に押し付けてきたんだ。『お前、親族と友達ならそれくらい言えるよな』とな。実際問題、友人だからこそ言いたくないんだが…… 」
宮川はそう言い、コーヒーを一口飲んだ。
「 ………… 死亡宣告と変わらないよな、これって」
額を押さえ、俺は小声で言った。
体に力が入らない。
「しかも、“お前の”な。彼女の人生から、お前が居ないんだ。夫であるお前が」
「追い討ちかけるような事言うなよ…… 」
「事実だろう?事実は認め、真摯に受け入れる。でなければ、前には進めない」
宮川はそう言うと、バンバンッと俺の背中を強く叩いた。
「また惚れさせればいいだけだ、簡単だろう?一度は射止めた相手なんだしな」
宮川が不敵に笑う。
「簡単に言うなよ、相手は記憶が無いんだぞ?俺に行き着くまでの経緯が全くないのに、どうしろと——」
◇
「…… ねえ、さっきの人誰なの?」
すぐ傍に座る後輩の香坂君に、病室のドアが閉まった瞬間そう訊くと、彼は少し渋い顔をした。
「日向司さんっていってね、刑事さんなんだよ。うちの店の常連で、友人の桐生さんとよく二人で開店当時から来てくれている人さ」
香坂君では無く、店長さんが代わりに答えてくれた。
「お客様が来てくれたんですか?でも何で…… あ!まさか、怪我したから刑事さんを?警察は呼ばないでって言ったのに——」
慌てて動いたせいで、ズキンッと頭の傷口が傷んだ。
「くっ…… 」
短い声を漏らし、頭を押さえる。
「無理しないで!唯先輩っ」
頭を押さえる私の手に、香坂君が手を重ねてきた。
「ごめん…… 大丈夫だよ、大丈夫」
「怪我をした時の事は、覚えているみたいだね」
店長がそう言い、困った顔をした。
「『覚えてる』って…… さっきから皆何を言ってるの?」
店長と、香坂君はわかる。
でも、後で来てくれた同じアルバイト仲間らしき子の顔がわからない。さっきいたお医者さんも、私が貴方の事は知らないと言った時驚いていたし、さっきの常連客だという人も私を知っているみたいだった。
目を覚ました時の私の話す内容のおかしさに、お医者さんが『もしかしたら、“外傷性健忘症”なんじゃないか』って言ってたけど…… 。
“外傷性健忘症”って何!?
不安げに周囲に目をやっても、皆気まずそうな顔をするばかりで答えてくれない。
「無理に思い出す事ないですって。忘れた記憶があるって事は、唯先輩にとってそれは、それ程大事な事じゃなかったんですよ」
そう言う香坂君が、何故か嬉しそうだ。
「…… そうなのかな」
「そうですって」
決め付けるような口調で言われ、安心する所か逆に、心がチクッと痛んだ。
「失礼します」
その言葉と同時に引き戸が開き、先ほど病室を出て行った二人が中に入ってきた。無言で会釈して返すと、二人とも同じ様に返してくれる。
香坂君とは逆の方へ周り、刑事さんだと店長が教えてくれた人が私の傍にやって来た。
一瞬切なそうな表情をしたかと思うと、すぐに優しい笑顔になり、手を私の前に差し出しす。その手にどう返していいのかわからず、とりあえず彼の顔を見上げてみた。
「はじめまして、日向司といいます。警視庁で刑事をやっていて、所属は捜査一課です。生まれも育ちもこの街で——」
と、彼は急に自己紹介をし始めた。
優しく丁寧に色々教えてくれて、私はそれを必死に覚る。覚えないと、いけない気がした。
「ゆっくりでいい。でも、知っていって欲しい」
切ない声が耳に痛い。私は無意識のうちに彼の、日向さんの手を取った。
「あの、私と貴方の関係は…… その、本当にただのお客様と店員だったんでしょうか?」
何故か違う気がする。確認しないとならないと、心が叫んでいる。
恐る恐る、相手の表情を窺いながらそう尋ねると、日向さんの表情にまた少し陰りが。
「…いいえ。俺の知っている唯…… さんの年齢は二十五歳で、俺の妻でした」
そう言い、病室の冷たい床に膝を立てて日向さんが座る。
私の首が辛くない様にと、配慮してくれたんだろうか?
「でも、妻である事を君に強要するつもりは無いから安心して下さい。指輪も、気になるのなら外しておきますから」
「——外さないで!」
頭で考えるよりも、言葉が先に出た。
急に出た大きな声に、日向さんが酷く驚いた顔をしたが、すぐに優しい笑顔に。その笑顔にほっとし、心が温かな気持ちになる。
…… なんだろう?この感じ、知らない人なのに怖くない。
まさか——ツボど真ん中ってくらい、カッコイイ…… から?いやいや、まさかね。
私も笑顔で返すと、店長が嬉しそうな声で「やっぱり、お前等は似合いの夫婦だな」と言った。
「そうですかねぇ…… 。でも、忘れる程度の関係じゃないですか」
香坂君の不機嫌な声が背中に聞え、私はそっと日向さんの手を離した。
「あ、あの、先生?私はいつまで入院していればいいんでしょう?」
日向さんと一緒に病室へ入ってきた、宮川先生に訊く。
「怪我の治療は済んでいるし、脳波に異常はない。健忘症がある事は大いに問題だが、入院していて治るものではないからな。自宅療法が適当な処置だと思うんだが、なにぶん私は君の担当医じゃないから断言は出来ない。朝一番で担当医と相談しておこう」
「わかりました」
先生の言葉に素直にそう頷いてみせたが、正直即退院したい訳ではなかった。私の実家は遠いし、裕福な家庭でもない。共働きをしている両親に面倒をみてくれとはとてもじゃないが言い難い。
動けない様な位置の外傷ではないけど、時々痛む傷を考えると一人暮らしの家に帰るのも…… 。
——待って、私の部屋ってもう無いんかもしれないんじゃないの!?
さっき日向さんが、私の事“妻”だって言ってたじゃない!
あれ?え?まさか——あんなカッコイイ人と私、屋根の下!?
美味し過ぎないですか!このシュチュエーションはっ!
一気に頬が熱を持ち、ニヤけてしまいそうになった口元を咄嗟に手で覆い隠した。香坂君が不思議そうに首を傾げたが、流石日向さん——『夫だ』と言うだけあって、私の行動の意味がすぐに判ったのか、くすっと笑い声が彼の方から聞えた。
チラッと宮川先生の方に視線をやると、先生まで見透かしたような目で笑ってて、少し恥ずかしい気持ちに。
イケメンには人の心を読む力でもあるんだろうか?と真剣に考えてしまった。
「退院時は日向、お前迎えに来られるか?無理そうなら、信頼できる看護師に頼んで家まで送らせるが」
「事情が事情だからな、急ではあるが休暇をもらうよ。今担当の事件も終わったばかりで…… 書類整理はあるが任せられる奴もいるし、一週間くらいは休めると思う」
宮川先生と日向さんが相談を始める中、香坂君の表情が、ドンドン曇っていった。
「待って下さい!いくら戸籍上では夫婦だとは言っても、唯先輩はこの人の事覚えていないんですよ?知らない相手の家に寝泊りするのは、先輩も不安だと思います!」
香坂君が急に立ち上がり、宮川先生に言った。
「君の言葉には一理あるが、自宅に戻る方が荷物の事を考えても一番いい。それに、日常をなぞる方が記憶を取り戻す機会は多いかもしれないしな」
「唯…… さんは、どうしたい?休暇中の昼間は食事の準備もあるから家に俺も居るけど、夜は友人の家にでも泊まりに行こうと思っているので、変な心配はいらないよ」
「いえ、そこまで心配しないで下さい。家に帰ります、宮川先生の言う様に何か思い出すかもしれないし」
私の言葉を聞き、日向さんがホッとした顔をした。
「わかった、じゃあ退院の日には迎えに来る」
「ご飯は俺が差し入れしてあげるよ、日向さんは自炊得意じゃないだろう?」
店長がにこやかな笑顔で言った。
「やだな、昔よりはやれますよ。唯さんに教えてもらいましたからね」
「俺、店長の料理宅配します!知らない奴と二人っきりよりは、知ってる奴が顔出した方が、先輩も落ち着くだろうし!」
香坂君が手を上げて必死に立候補する姿に、私はちょっと笑ってしまった。
「別にそこまで心配しなくてもいいのに。相手は刑事さんだよ?心配いらないってば」
「唯先輩は、もっと警戒心を持って!」
香坂君のその言葉に、日向さんと店長が無言で深く頷く。よく見ると、他の人達も皆納得顔で頷いていた。
「え!?待って、私ってそんなに警戒心の薄い人間だったの?」
抜け落ちた記憶のせいでか、自分だけ納得が出来ない。
「警戒心が薄いというよりは、鈍感かな」
と、日向さん。口元は笑っているのだが、眉が困った時の様に曲がっている。
「ど、鈍感…… ですか」
「無くなってる記憶と関係無しに、昔からそうですよ先輩は」と、香坂君まで。
「初めて意見が合ったな」
日向さんが香坂君に言うと、彼は嫌そうな顔で「アンタとはもう一生意見すら合いたくないですね」と顔も見ずに答えた。
どうやら、この二人は仲が悪いらしい。香坂君が一方的に嫌ってる感が強いが。理由はわからないが、居心地が悪くなるのだけは確かだ。
私ではどうしていいのか分からず、一番この中で穏便に全てを解決してくれそうな宮川先生に視線をやると、先生は無言で頷いてくれた。
「さて、面会時間はもう終わりだ。彼女をちゃんと休ませたいからな、皆そろそろ帰ってくれ。日向、お前はナースステーションに言って、付き添い用のベットを出してもらってこい。書類はもう俺の方から出しておいたから」
「——は!?」
香坂君が五月蝿い。
「分かった、すぐ行って来る」
日向さんは立ち上がって、誇った様な顔で香坂君を見た。
「家族が付き添いで泊まるのは当然だろう?」
「だからって、知らない奴よりは——」
そう言って、香坂君が食い下がる。
「君は学校の後輩でバイト先の同僚かもしれないが、家族じゃない。覚えていてもらえてた事実だけを喜んで、今は帰りなさい。ここに君を泊める理由は無い」
宮川先生がそう言うと、香坂君は急に黙り、悔しそうにギュッと握り拳を作った。
「…… 香坂君」
彼の服の袖を掴み、名前を呼ぶ。
「はい?」
「ありがとう、付き添って来てくれて。こんな時間まで残ってくれて、いっぱい心配させちゃってごめんね。でももう大丈夫、ありがとう」
安心させる様に微笑むと、香坂君が少しほっとした表情になった。
「…… わかりました。今日は帰りますけど、明日また絶対にすぐ来ますね!退院の時間とか、ちゃんと教えて下さいね!」
「うん、わかった。ありがとう、大丈夫」
頷いて答えると、店長が香坂君の腕を掴む。
「ほら、もう行くぞ。唯ちゃん、お前も変な期待をコイツに持たせるなよ」
店長はそう言うと、香坂君をを引きずって病室から出て行った。
それに続き、宮川先生も「じゃあお大事に」と言い、廊下へと出て行く。
私と香坂君とのやり取りを無言で見詰めていた日向さんが、宮川先生の後に続くように病室を出てナースステーションへと向かった。
◇
ナースステーションに居る看護師に泊まる旨を伝えると、簡易ベットの位置と布団のある場所を教えてくれた。教えてくれた看護師と一緒に病室まで戻り、場所を確認。運ぶのを手伝ってくれようとしたが、「自分で出来ますから」と断った。
寝床を用意し唯の方を見ると、もうすでに穏やかな寝息が聞こえた。相当頑張って起きていたんだろう、時間も遅いし寝ていて当然だ。
俺も休むか。そう思うも、最近は一緒のベットで寝るのが普通になってきていたせいか、一人でベットに入るのが少し寂しい。簡易ベットなせいか、狭いし硬いし。
仕事で泊まる時はもっと粗末な環境で寝たりもするっていうのに、唯が傍に居るってだけでつい我侭になってしまう。
でも『一緒に寝たい』なんて事が、記憶が無い上に、既に眠っている相手に言えるはずもなく。でも、それでも、唯に触れたい衝動だけは我慢出来ずに俺は、規則的な寝息をたてている唯の頬にそっとキスをした。
寝ている彼女にこんな事をするのはいつ以来だろうか?
薬で無理に寝かせ、墓場まで持ち帰る様な秘め事まで作った事もあったが、それももう随分前の話だ。
唇をそっと離し、唯の頬をぷにゅと押す。
「よりにもよって、健忘症とはなぁ…… ったく」
本人の起きている前では言えないが、どうしても愚痴がもれてしまう。
「他の全てを忘れいてもいいから、俺だけは覚えていて欲しかったのに…… 」
呟く言葉と一緒に、目頭がカァと熱くなり、気がついた時には涙が頬を伝い落ちた。
一つ、二つ…… 。
零れてはベットのシーツに小さなシミに作っていく。
「くそっ…… 」
手の甲で涙を拭い、俺も寝ようと簡易ベットまで戻ろうとした時だ——
「寝られないの?」と、寝惚け顔の唯が俺の服の袖を引いた。
「…… ここ、空いてるよ?」
ベットの隅にゆっくり寄りスペースを作ると、唯がポンポンッとそのスペースを叩いてみせた。
空いているとは言っても、シングルのベットに二人で寝ては狭い。絶対簡易ベットの方が一人で眠る分広いだろう。
それになにより、絶対に唯は寝惚けてる!
自分で言っている言葉の意味なんて絶対に分かってない異性の布団になんて、入れるわけがなかった。今は知らない男をベットに招き入れ様としているんだって事にも、きっと気が付いていない。
「駄目だよ、一緒には寝られない」
袖を掴む手をそっと離しそう言うと、不思議そうな顔をする。
「何故?まだスーツだから?待ってるよ、脱いだら?」
的外れな言葉が返ってきた。
「ぬ…… 脱いだらって、お前なぁ、意味も分からずに言う言葉じゃないぞ?」
妻である唯と話しているような気持ちになり、言葉が崩れた。少し呆れながら、唯の頭を犬でも撫でる様に少し乱暴に撫でる。
「待ってるよ、待ってるの…… 日向さんをね…… 」
段々声が小さくなり、言葉が途切れた。
「…… 唯?」
顔を覗き込むと、また寝息をたてている。
「寝たか」
少し残念な気もしたが、二人きりで話せた事に少し嬉しくなった。
「今回は、苗字はすぐ覚えたみたいだな」
呟き、スーツの上着を脱いでベット横にある椅子に置く。ロッカーにはハンガーもあるんだろうが、唯の寝息を聞いていたせいか酷く眠くなってきたので面倒でそこに。ベルトも外し、ワイシャツ姿のまま寝ようとしたら、また唯が俺の服を掴んできた。
「…… 離してくれないと寝られないんだけど」
「違うでしょ?こっちでしょ?」
ぐいぐいとワイシャツを唯が引っ張る。
「寝てたよな?今さっきまで」
「知らない、寝てないよ?」
寝惚け声でそう訴えるが、さっきまで確実に意識は飛んでいた。
「寝てないもの…… 寝てないの」
酔っ払いみたいに繰り返し、唯の瞼がゆっくり落ちていく。
「…… わかったよ、今朝になって驚いても知らないからな?」
「平気だよ、怖くないもの。…… 寝れないの?こっちおいでよ」
今にも舌を咬みそうな、たどたどしい言葉遣いでそう言い、唯はまた俺のワイシャツを引っ張った。でも力が入ってない。今度こそ本当に寝るのかもな。
引かれるがまま、俺は病院の狭いベットに一緒に入りると、抱き枕にしがみ付くように唯が俺にしがみ付いてきた。
流石にそれには焦り、腕を解いて彼女に背を向ける。すると、今度は俺の背中に唯は抱きついてきた。
唯に抱き癖何かあったか!?
見た事の無い一面を見た事への驚きが隠せない。
「離れてくれないか?さすがにちょっとこれは…… 」
休暇が取れず、夜の営みがご無沙汰なせいも相俟って変な気分になっては困ると思い、そう唯に声をかけたが全然反応が無い。
どうやら、今度こそ本当に寝てしまったみたいだ。
「参ったなぁ…… 」
そうこぼしつつも、正直嬉しい。
“俺だから”なのかはわからないが、それでも、記憶がない今の状況であってもこうして抱きついてくれた。少なくとも俺に対しての警戒心は無く、嫌いではないのだろうと推測は出来る。
「また、好きになってもらえるだろうか?」
そっと呟き、俺は胸の方にまで手を回し抱きつく、唯の手に自分の手を重ねて瞼を閉じた。
◇
日が昇ったのが、病室の分厚い遮光カーテンのほんの少しある隙間から見える明かりでわかった。瞼を閉じ、仕事や気疲れでヘトヘトだった身体を休ませようと思っていたのだが、全然寝る事は出来なかった。
身体を簡易ベットから起こし、カーテンを開ける。
腕時計に目をやると時間は朝の五時五十分。もう少しで、唯がいつも目を覚ます時間だ。
味気のない病院のベットの上で、布団に包まり穏やかな寝息をたてている唯の傍に戻り、側にある椅子の上に置いた物を避けてそこへ座る。
頭に巻かれた包帯以外はいつも通りの妻の姿を見ていると、少し複雑な気分になってきた。『俺の事を忘れてしまっているというのは、ただ悪い夢でも見ただけなんじゃないか』って考えてしまう。目を開けたら、いつものように『おはよう、司さん』って微笑みながら言ってくれるんじゃないかって、そう思えてならない。
可愛い子供みたいな寝顔を、色々考えながら見ていると無性に唯の肌に触れたくなってきた俺は、そっと彼女を起こさないように手を伸ばした。
白い頬を、壊れ物でも扱うような手付きで優しく触る。すべすべとした肌をそっと撫でると、唯の瞼が少しぴくっと動いた。
そんな様子が可愛くて、くすっと少し笑いがもれる。
ぷにっと頬を指で押すと、眉間にシワを寄せながらも「ぅ…… ん…… 」とちょっと言うだけで起きる気配がない。
ここまでしても起きないなら、少しくらいはいいだろうか?
音をたてないよう椅子から立ち上がり、唯の頬に触れたまま彼女にそっと口を近づける。寝ているんだ、口は流石にマズイかとは思うが、頬にキスくらいはいいだろう。
そう思い、あと少しで頬に俺の唇が触れようとした瞬間——
「そろそろ起きてくれないか、看護師が来るぞ」と言いながら、宮川が病室のドアをガラッと開けて中に入ってきた。
大慌てで唯から手を離し、急いで彼女から離れ、椅子に座る。
「…… あれ?一緒に寝てるだろうと思っていたんだが、先に起きていたのか?」
そう言う宮川の少し眠そうな顔。
「いや、一睡もしてないよ」
首を少し傾け、苦笑しながらそう言うと、宮川は「そうか…… 」と小さな声で答えた。
「てっきり同じベットで寝ているものと思っていたんだがハズレたな、残念だ」
「残念って…… おいおい、唯は今俺を覚えていないだぞ?一緒になんて寝れる訳がないだろうが」
一度は誘われ…… たのかよくわからない流れではあったが、同じベットに入りはしたものの、唯が完全に寝入ったタイミングでベットを抜け出し、結局は簡易ベットの方で横になった事を、俺は宮川には黙っておく事にした。
「戸籍上は夫婦だとはいえ、一緒のベットで寝ていたら看護師が驚くだろうと思って先に起こしに来たんだが、そんな必要なかったか」
「そこまで気を回さなくてもよかったのに…… 。でもまぁ、わざわざ悪いな」
「気にするなよ、お前らしくない。ところでだ、担当医の奴の話だと退院は夕方までちょっと待って欲しいそうだ。怪我をしたのが頭なんで、二・三念のため検査しておきたいそうなんだ。お前も上に連絡だとかあるだろうし、丁度いいよな?」
「そうだな、じゃあ検査の間一度職場に戻るか。事情を話して、溜め込んでた代休と休暇を一気に使わせてもらうよ」
「それがいい。さてと…… それじゃ、悪いが俺はもう戻るよ。これから仕事なんでな」
「これからか?昨夜は夜勤じゃなかったのか?」
「違う。昨日は、お前の友人だって理由で呼び出されただけだ」
「…… なんで俺らが友達だって、その医者が知っていたんだ?」
「気心の知れている奴だったからな、警官の友人がいるってちょっと前に話した事があったんだよ。警察に行くか行かないかで悩んでいた件があったらしくてな、警視庁の番号とお前の名前を教えた事があったんだ」
「そうなのか。でも俺には何も連絡はきてないが、何事も無く終わったのか?」
「ああ、無事解決したようだよ。でも、勝手に教えて悪かったな」
「いや、問題ない。何事もなく済んで良かったな」
ホッとしたのも束の間。
「日向さーん、起きて体温を…… え?宮川先生!?お、おはようございます!」
病室の扉を開けて入ってきた看護師が、宮川の顔を見てひどく驚いた顔をした。外科病棟に内科医の医師が居た事に驚いたのか、宮川の存在そのものに驚いたのか。
いずれにせよ、看護師の表情が少し強張っている事から、どうやら彼女は奴の事が苦手そうだ。
俺の前では最近殆ど見せなくなった無機質な表情に、宮川の顔が一瞬で変わる。
「ああ、おはよう。友人の家族の容態が気になってね、邪魔をしてすまなかった」
「い、いえ。こちらこそお話中に急に入ってしまい失礼致しました。また後で来ます」
「いや、もう仕事に戻らないといけないから君の仕事を優先してくれ。日向、忙しくなければ退院前にもう一度顔を出せたら出すよ」
そう言い、病室を出て行く宮川に「わかりました、すみません。お、お疲れ様でした」と頭を下げる看護師。
「色々悪いな、ありがとう」
『気にするな』と返事するように軽く手を上げて見せて、宮川は仕事へと戻って行った。
看護師がほっと息をつく。
短時間なのに、相当緊張していたみたいだ。
「えっとそれじゃ、奥様の体温を測ってもらってもいいですか?」
嵐が去った後の様な安堵した表情でそう訊く。
…… これは、かなり宮川の奴は嫌われてるな。いったい、どんな言葉を彼女に投げつけたんだか。
◇
「唯、起きてくれないか?」
身体を揺すられ、まだ朦朧とする意識の中に聞き覚えの無い声が聞えてきた。
薄っすらと目を開けると、これまた見覚えのない無機質な背景と、知らない男の人の顔が目の前に。
いや違う、何となく見た事があるかも。
どこでだっけ?思い出せない……
覚えてる最後の記憶は、こっちへ向かって飛んできたビール瓶と、香坂君と店長の心配そうな顔——
思い出した!この人、運ばれた先の病院で会った男の人!
カッと目をいっぱいに開き、勢いよく飛び起きると、すぐ傍に居た男の人が「わ!」と驚いたような声をあげ、後ろへと下がった。
「あ、ごめんなさい!」
慌てて謝る。
「急に起きないほうがいいぞ?今俺が避けていなかったらおもいっきり頭をぶつけていた所だったんだから」
彼が冷や汗でも流れ落ちそうな顔をする。
「そうですよね、すみません」
「いいよ、気にするな。でも、頭を怪我しているんだからもうちょっと慎重に動いた方がいい」
目の前の彼はそう言い、包帯を気にしながら頭部にそっと触れて、優しく頭を撫でてくれた。
この人の名前…… 何て言っていたっけ?
——日向…… 司さん?だったかな
ちょっと自信はなかったが、彼の顔を見上げながら「日向…… さん、でしたっけ?」と、顔色も探りつつ訊いた。
「名前、一回で覚えてくれたんだね。嬉しいよ」
優しく微笑みながらそう言うと、そっと日向さんが私の頭から手を離した。
「日向司、昨日話した通り職業は公務員で年齢は三十五歳だ。記憶にない相手で不安だろうが、君が嫌でなければ出来る限り看病をするつもりでいる。でもどうしても嫌なら、君の実家の方へ頼んではみようと思うが…… どうしたい?君に任せるよ。言葉遣いもこのままが嫌なら敬語で話すが、どうしたらいい?」
膝の上に手を置き、すごく真面目な顔で訊かれた。
確かに、記憶に無い人に『看病する』と急に言われて不安ではあるが、うろ覚えの記憶では確かこの人は私の“夫”なのだと、昨日店長が言っていた気がする。
そして今の私は、アルバイトをしないと家賃も払えないような苦学生ではなく、この人の——“奥さん”。
——ん?待って、私が『奥さん』!?
家事も掃除もろくに出来ないっていうのに、いったい私はどんな主婦生活をしていたんだろうか?…… ぜ、全然想像がつかない。
食事付だという理由でバイト先を選び、掃除する手間が減るという理由で物のない部屋に住んでいたというのに。
でも…… でも、この、私の好みドストライクなお兄さんが私の“夫”である今の状況は手放しがたいお話で、知らない人だからという理由で看病をしてくれるなんて美味し過ぎるシチュエーションを蹴る何て——
「いえ、日向さんさえよければ、このままで色々と是非お願いします!」
当然、私には出来なかった。
相手は私の記憶にはない人だとはいえ夫婦だったそうだし、変な人ではないはず。欠落している部分ではあるが、自分の視る目を信じ、私はこの現状を甘んじて受け入れる事にしてみた。
「よかった、正直それが一番楽だからね。君のご両親は知っての通り仕事で忙しいし、俺の両親に頼むのもオカシイから。かといってずっと入院しててもらう程にはうちも余裕はないからね、ありがとう」
日向さんのほっとした表情に、下心たっぷりで現状を受け入れた事に少し心が痛んだ。
この人、とてもいい人みたいだ…… 。
きっと奥さんの事もすごく大事にしていたんだろうなぁ。
自分がその“奥さん”であるというのに、他人事みたいに思える。そして、少し感じる嫉妬に似た気持ち悪さも。
「検査がまだ少しあるらしいんだ、退院出来るのは夕方になるらしい。早期退院出来るのはきっと、外傷は少ないおかげだな」
「わかりました、じゃあ退院の用意しておかないといけませんね」
コクッと頷いてそう言ったが、よく考えたら荷物何て殆ど無い。
バイト先に持っていった手荷物が一つある程度なのに、私ったら何言ってるんだか。
「そうだね。俺は一度職場に戻って休暇願いを出したり、退院の手続きをしたりするために判子とかを取りに一度家に戻るけど、一人でも大丈夫かい?」
「ええ、平気ですよ。心配してくれてありがとうございます」
少しでも安心してもらいたくて、笑顔でそう答えた。
「そうか…… よかった。欲しい物だとかはない?」
「いいえ、特には」
「じゃあ食べたくないものだとかは?俺は“今の君”の好みをよく知らないから、教えてもらえるとありがたいんだが…… 」
——チクッ。
また心の端に妙な痛みを感じた。
「…… 貧乏性なので、何でも平気ですよ」
「料理は得意ではないんだ、あまり期待はしないで」
「あの…… 私は、きちんと料理だとかはやっていたんですか?」
「ああ、とても上手だったよ。家事全般は得意なのか、何でも一人でこなしていたね」
「…… そう、なんですか」
たった数年先の自分の事なのに、自分の話だとはとてもじゃないけど聞えない。
いったい、私の中で何があったというんだろうか?
一人暮らしをしていても、趣味の紅茶以外はさっぱりまともに出来ない人間だったというのに。
◇
夕方になり、少し離れた位置にある窓から綺麗な夕日が見える。
退院する為に、私は日向さんと病室を出て、ナースステーションへと向かった。
「色々とありがとうございました」
揃って待っていてくれた担当医のお医者様と看護師の方、そして宮川先生の三人に、日向さんと一緒に頭を下げながらお礼を言う。
「検査結果は脳に異常はなかったけれど、少しでも変化があればすぐに病院に来るんだよ。あと、何もなくても経過を診たいから、絶対に来週また来るように」
心配そうにそう言う担当医の方に「はい、わかりました」と、頷きながら返事をする。
「俺も何かあればすぐ行くから、遠慮なく連絡してくれ」と、宮川先生は日向さんに言った。
「悪いな、お前にまで色々と気を使わせてしまって」
「何度も言うが、本当に気にするな。分野は違うとはいえ、友人の奥さんの事となるとやはり気になるからな。俺の自己満足に付き合っているとでも思っておけ」
「あぁ、わかったよ」
親しげに話す二人を見ていると、日向さんが私の視線に気がついたのか、「あぁ、コイツとは古い友人なんだよ。うちにも何度か大きな犬を連れて遊びにも来ていたんだ」
そう、司さんが微笑みながら教えてくれた。
「退院の手続きはもう全て済んでいるし、タクシーも外に待たせてある。さ、行こうか」
私の少ない荷物を手に持ち、日向さんがこちらの方へ手を差し出してきた。その手を素直に取ると、ちょっと強めに握る。役得を存分に堪能しておきたくってした事だったのだけど、日向さんがすごくほっとした表情になった。
「よかった、嫌がられると思っていたからね」
「嫌だなんてそんな…… 」
「行こう。晩御飯の準備とかしないといけないしな」
そう言い、もう一度見送りにと出て来てくれていた方達にペコッと軽く頭を下げると、日向さんはエレベーター前まで行き、ボタンを押した。
「一週間だけ休みがもらえたんだ。本当はもう少し欲しかったんだが…… 万年人手不足の職業だからね、さすがに無理だったよ。すまない」
「いえ、かえってなんだがすみません…… 」
私が怪我なんかしたばかりにこうなっちゃったんだよね?と思うと、なんだか申し訳ない気分になる。
「気にしなくていい、俺が君の面倒を看たいだけだから。君を人に任せて仕事をするよりも、傍に居させてもらえる方がずっといい。それに、仕事したって、部屋で倒れてないかと気になって集中できないしな」
「倒れるような怪我じゃないですよ?数針縫っただけで、本当はこんな大げさな包帯頭に巻くほどじゃないんですから」
「そうなのか?そう言えば、健忘症にばかり気を取られてて、全然怪我の状態を君に訊いてなかったな…… すまない」
口元に手をやり、日向さんが黙り込む。
「髪の生え際辺りを数針縫ったそうです。頭だったせいで出血はちょっと多かったみたいですが、縫った後が目立つような場所ではないそうですよ」
「そうなのか、よかった。君の可愛い顔に傷がついたらちょっと悲しいからね」
「ちょっと、なんですか?」
「あぁ。だって、別に顔だけが好きで一緒に居たい訳じゃないからね。顔面を大火傷していたとしても、俺は君から離れない自信があるよ」
優しく微笑みながらそう言い日向さんがそっと私の肩に触れようとしたが、その手が触れる事無く下ろされた時、丁度エレベーターのドアが開き、私達は一緒に一階のフロアに降りた。
そして、すぐに病院の正面に待たせていたタクシーまで向かい、私達は日向さんの家へと向かったのだった。
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