コイシイヒト

月咲やまな

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本編

【第3話】夫の心境

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 逆プロポーズされるという、嬉しくも情けない一日から少し経ち、俺は既婚者となった。
 階級は警部補へと昇進し、若くて可愛い妻を得た俺は、端から見れば幸せな生活を送っているように見えるだろう。
 実際、生活や仕事、妻にもなんら不満はない。むしろ幸せ過ぎて怖いくらいだ。
 だが、最近とにかく気が重い…… 。
 家に帰るのも気が引ける。
 妻の唯に問題はない。家事も料理も、忙しい俺の代わりによく頑張ってくれている。

 問題があるのは、俺自身だ。

 自分の欲求がコントロールできない事に、かなり参ってきているのだ。
 今の生活を維持する為に一番必要な、自制心や理性が欠落しそうな毎日。

 いったい、どうしたらいい——

       ◇

 俺の初めての性的経験は高校の時だ。近くにある、別の高校に通っていた子とだった。知らない子にいきなり告白されて驚いたが、別に問題も無かったから付き合う事にした。

 半年後、彼女の方から迫られて行為に及んだのだが、終わった直後にフラれた。
『こんな人だと思わなかった!』の言葉とビンタ付きで。
 正直、彼女が何故怒っているのかさっぱりわからなかった。何が悪かったのかを振り返って考えようともしなかった。
 別に、彼女を失う事など怖くもなかったから。


 その後も数人の女性から告白され、同様にそれなりの期間が経っても手を出そうとしない俺に焦れ、襲われる様に行為へと到るが、初めての時の様にフラれた。
『こんなことついていけない』
『こんな人だと思わなかった』と、決まりの台詞付きで。
 最中は相手も喜んでいたようにしか見えなかったのに、何故そこまで言われるんだ?
 何度も何度も絶頂を与え、何の不満があるというんだ。
 …… 理解できない。
 いったい何が悪い。

 でもそれ以来、俺は誰とも交際する気になれなくなり、付き合いを申し込まれても全て断るようになった。誰かと肉体的関係を持つという事自体、したくなくなった。


 妻の唯と出会い、四年間の空白期間を経て交際。
 今回は同じ失敗はしたくない。今までと違って、自分からもちゃんと好きだったからだ。

 失いたくない、傷つけたくない。

 しかもこんな訳の解らない理由でなど、唯にはフラれたくなどない。もっと時間をかけて互いを知り合ってから、きちんと今までの事を話して、抱き合う機会でも持てればと思っていた。
 手も繋がない。
 もっと触れたくなるから。
 キスもしない。
 もっと君が欲しくなるから——

 なのにだ!交際が始まった一ヵ月半後には唯から逆プロポーズをされてしまった。
 高級ホテルの最上階レストラン。夜景に囲まれた中でのそれは、とてもいい思い出にはなっているが、結婚はいくらなんでも早過ぎるだろうと、してしまった今でもちょっと思う。でも、断れなかった。愛しているのに断れるわけがなかった。
 初めて手を繋いだのも、キスをしたのもこの日。
 帰りのエレベーターの中。
 二人っきりになった途端、今まで押えてきた情念が表に出てしまい俺は唯に欲情してしまった。扉が開き、別の客が乗ってこなかったらどうなっていた事か…… 。


 その後両家への挨拶などで慌ただしい中籍を入れ、部屋を探す暇がなかった為俺のマンションで新生活を始めることになった。
 生活のし易さを優先してしまったせいで、独身のくせに広めの部屋を借りる羽目になっていたんだが、こうなると結果としては良かったのかもしれない。
 荷物置きくらいにしか使っていなかった部屋に唯の荷物を入れて、彼女専用の空間を作る。
『私の部屋はいらないよ?』と言われたが、一緒に寝る事など絶対に出来ないので『あると便利だぞ』と誤魔化した。

       ◇

 今日から新婚生活のスタートだという日がとうとうきてしまっても、怖くて一度も自分の性癖を話せなかった。何が悪いのかがまず自分でわかっていないんだ、なのにどう説明したらいいのかなど考えがまとまるはずがなかった。

 一緒に少し豪華な夕飯を作り、お酒を飲みながらのお祝い。
 唯の好きなお店で買ったケーキと、彼女の紅茶も頂く。食後にはソファーに座って、再び酒を片手に色々な話をした。
 ちょっとした沈黙のあと、どちらともなく、惹かれあうようにキス。それは段々と熱を帯び、舌を絡める激しいものになっていった。
 彼女の胸に自然と手がいきそうになった時『…… 司さん』と甘い声で呼ばれ、手が止まる。

 俺は何をやっているんだ。マズイ、このまま流されてはダメだ。

 必死に衝動を堪え『おやすみ』と言い、俺は自分の部屋へ逃げる様に入っていった。


 唯を傷つけてしまっただろうか?
 どう見ても期待していたし…… 。
 でもダメだ、ちゃんとまずは話さないと手なんか出せない!
 唯にまで事後に別れを告げられたら、もう生きていける気がしなかった。


 深夜三時。
 全然眠れない…… 。
 普段は疲れのせいですぐ寝てしまうのに、今日はずっともやもやとした感覚がどうしても消えない。
 仕方なくゆっくりと体を起こし、ベットから出る。部屋からそっと出て、居間を通り、唯の部屋のドアを音も無く開けた。静かな部屋に聞こえるのは彼女の穏やかな寝息だけだ。

 ドクンッ…… ドクンッ…… ドクンッ——

 自分の心臓の音がやけに耳に障る。息が荒れ、何も考えられなくなってくる。ただ本能のままに動く体。自分が自分じゃないみたい気さえする。魂が抜けて、体だけ勝手に動いていくみたいな感覚だ。
 そっと唯の眠るベットに上がり、彼女の布団をはぐ。酒が入っているせいなのか、唯が起きる様子は無い。
 触れないよう気をつけながら唯へと覆い被さり、顔を近づける。

 …… いい香りだ。

 頬に軽くキスをし、首を甘噛みして、パジャマの上からそっと胸に触れる。体はすごく小さいのに、意外に自己主張の激しい大きめの胸は横になっていても存在感がある。そのギャップでより一層衝動的な感情が胸にわいてしまい、ボタンを丁寧に外し、パジャマをよけた。
 露わになった唯の素肌はとても綺麗で、自分の跡を残してしまいたくなる。
 ブラをクッと少しずらして乳首を舐める。すると、唯の体がピクッと反応した。
 起きたか?……いや、寝息に乱れはない。
 ホッとした瞬間、ふと我に返った。

 ——何をやっているんだ俺は!

 慌ててボタンを閉めなおし、ベットから降りて自分の部屋へと戻る。音をたてないようになんて気を使う余裕は全く無かった。


「はあはあはあ…… 」
 走った訳でもないに呼吸が苦しい。心臓の鼓動も異様に早く、体が熱くてしょうがない。
「どれだけ自制心が無いんだ、俺は…… 」
 頭をかきむしり、布団へともぐりこむ。自然と自分のモノへ手が伸び、この日は無心で自慰行為に走ってしまった。


       ◇


 それからというもの、毎日のように自分の欲求を必死に押える日々が始まった。
 何もしらない唯は平気で俺に抱きついてくるし、キスも求める。
 友人の新婚夫婦の夜の話なども「すごいよねーびっくりしちゃうよ」と言いながら、恥ずかしそうに話してきた。
 『頼むから止めてくれ』とも言えず、俺は徐々に仕事へと逃げるようになっていった。
 これじゃまずい。俺はもっとちゃんと唯に幸せになってもらいたいのに。
 寝れない日も続いた為、俺は縋るような気持ちで知り合いの医者のもとへ行くことを決めた。


       ◇


「——んで、俺に相談か」
「相談じゃない、寝れるように薬が欲しいだけだ」
 総合病院の内科に勤務する友人、宮川昂みやかわこう
 少しぶっきらぼうな奴だが、仕事には真面目な態度のこいつならどうにかしてくれるんじゃないかと、時間休をもらって俺は病院へ来てみた。
「睡眠専門の医者もここにはいるが、あえて俺を選んだのは友人だからか?」
「あぁ」
「ふむ…… お前は新婚で悩みなどないと思ってたんだが、違うんだな」
「新婚だから悩んでるんだよ」
「…… あぁ、察しがついた」
 なんでだ?たいして説明もしてないのに。
 ニヤッと、何か悪い事を思いついたような顔をする宮川が怖い。
「いいぞ、協力してやるよ。お前の奥さんの身長と体重は?」
「俺の、じゃないのか」
「んなもんいらない。不眠症はストレスからくるものだ大半だ。だからお前のそれを発散する必要がある」
「それと妻になんの関係が…… 」
「あるんだろう?」
「 ……… 」

 カンがいいのか、当てずっぽうなのか——どっちだ?

 何かを企んでいるのは間違いなさそうなんだが、のってもいいんだろうか?
「どうする?別に俺は、お前に睡眠導入剤を処方してやってもいいが。でもそうじゃない方が、色々と楽しめると思うけどな」

 楽しめるって何を言ってるんだこいつは。

「一四五センチ…… 体重は知らん。が、太ってはいないから標準体重じゃないかと思う」
 宮川が悪巧みを実行する直前の、悪戯っ子の様な顔で笑う。そんな悪どい顔が似合い過ぎて怖い。
「了解、今処方箋書いてやるよ。薬局にいる湯川か佐倉に渡すんだな」
 出てきた名前は、どちらも高校時代からの友人の名前だった。
「今日は居るのか?」
「佐倉は常に居る、湯川はバイトみたいなもんだからわからんが…… できれば湯川に頼むべきだな。アイツの方がこういった事に寛大だ」
「いや、待て。いったい何を処方したんだお前は」
「悪い薬じゃないよ、刑事さん?」
「疑ってない、お前はそんな奴じゃないからな」
「ははは、ありがとう。その信頼には充分応えられる品だ、とだけ教えておこうかな」
 椅子を回し、宮川が机にあるPCをいじる。俺はそれを黙って見詰めながら、本当にこのままコイツに任せてもいいんだろうか?と不安になってきた。
「あ、お前はもういいよ。次の患者もいるんでな。このままここで長くは話せないんだ、悪いな」
「いや、それはいいんだが…… 本当に大丈夫なのか?」
 不安を口にするも、宮川の楽しそうな表情は変わらない。
「どうしても不安なら湯川に訊けよ、アイツなら表情一つ変えずに教えてくれるさ」


 宮川の診察室から出た俺は、会計を済ませ、薬局へ向った。
 運良く湯川と佐倉の姿がすぐに確認出来たので、処方箋を渡す時に「湯川の友人なんだが、彼に頼めるか?」と伝える。
 俺の声がした事に、二人はすぐ気が付いてくれた。
 薬剤師の湯川大和と佐倉一哉。宮川昂と同じく、彼等は二人とも高校時代からの友人だ。
 湯川は一礼し、佐倉は俺に手をふってきた。それに軽く手を上げて応え、椅子に座って呼ばれるのを待つ事にした。


「日向様、日向司様」
 湯川が薬引渡しの窓口で俺を呼んでいる。友人に様付けで呼ばれるのが、なんだか少しくすぐったい。
 鞄を持って立ち上がり、受取窓口へと向う。
「元気がないですね、大丈夫ですか?」
「あぁ、平気だ。今はな」
 きっと、久しぶりに友人達の顔を見る事が出来たからだろう。いい気分転換になったと思う。
「…… この薬は、昂が出したんですか?」
「ああ」
「…… 司のものじゃありませんね」
 やっぱりそうなのか。当然か、唯の情報を求められたんだから。
「効果や用途は聞いたんですか?」
「いや、全く」
 珍しく湯川の端正な顔がギョッとした様な表情になり、少し経ってから深いため息をついた。
「僕がこれを渡すのは構いませんが、どうか自分の良心に従って使用して下さい」
 湯川が淡々と告げる声がやけに耳に響く。
 何の薬が目の前にあるのかわからないっていうのに、どう従えというのだ。訳が分からず、自然と眉間にシワが寄った。
「…… そんなに危険なものなのか?」
「使い方次第です。司が今の職業でなければ絶対に僕は渡してません。そもそも、昴も処方しないでしょうけどね」
 湯川が首を横に振り、再びため息をこぼした。
「なんだ?それ」
「睡眠薬ですよ、この量ならきっかり六時間は絶対に起きないでしょう」
「睡眠薬?…… 起きないのか?何をしても…… 」
「ええ、効果は保証されている品です。危険性は割と低めですが、連日の使用だけは避けるべきですね。薬と毒は紙一重。絶対に安全なものなどありませんから」
「そんなものを、俺にどうしろと?」
「それはわかりません」
 わからないって顔じゃない。湯川まで悪巧みした笑顔を薄っすらと浮かべている。
「…… じゃあ、お前がこの薬をもらっていたとしたら、何に使う?」
「過去の妻に飲ませます」
 間髪いれずに湯川が答える。その回答には微塵も迷いが無かった。
「…… なぜ?ってか、過去って無理だろうが」
「抱きたいのに抱けない、そんな相手には丁度いい品だとは思いませんか?僕なら絶対に飲ませますね。彼女にもっともっと近づきたいから」
 そう言って、男の俺でもゾクッとする様な笑みを湯川が浮かべる。
 言葉の意味が耳奥で響いて、俺はゴクッと唾を飲み込んでしまった。

 そんな事考えてもいなかった。
 でも、もしそれができるのなら——

「お前、結構怖い奴だな」
「いいえ、僕はただ妻を愛してるだけですよ。彼女が手に入ればそれでいい」
 ここまで俺も正直になれたら、きっとこんなに悩んだりしないだろうに。
「あ、一哉にはこの薬の話はしない方がいいですよ。司はただの不眠症だと言ってあります」
「佐倉も欲しがるからか?」
「いいえ、そういう卑劣な手段を嫌うからです。今回の事がバレれば、それこそ僕達三人もと血祭りでしょうね」
「アイツは口に似合わず純粋な奴だからな…… 」


 病院を出て、また職場に戻る。
「不眠気味のせいでの過労らしかったんで、薬だしてもらってきました」と報告し、また仕事を始める。
「体調が悪いなら帰ってもいいぞ」と言われたが、まだその決心がつかず、結局定時までは仕事を続ける事にした。


       ◇


「ただいま」
 二十時頃、やっとの思いで帰宅した。仕事が忙しくなって遅かったとかじゃない。ただ薬の扱いに困って悶々としていたらこんな時間になってしまっただけだ。
 宮川に出してもらった薬は鞄の中にある。使うか、使わないかは別としても、きちんと管理しないといけない品が入っていると思うだけで、少し緊張してしまう。

「おかえりなさい!お疲れ様でした」

 ニコニコ笑いながら唯が出迎えてくれた。
 とても嬉しそうな笑顔に癒されるが、色々な事に対し申し分けない気持ちにもなる。
 背広から室内着に着替え、食卓につく。今夜は夕飯はシチューにしてくれたみたいだ。
「いただきます」
 手を合わせ、食事を始める。一緒に出してくれたサラダに手を伸ばした時、唯が何やら変な臭いのする飲み物を出してきた。
 栄養ドリンクか?
「…… 何これ?」
「えへへ、司さんお疲れみたいだから栄養つけてもらおうと思って。試供品の栄養ドリンクだよ」
 あまり寝れてない事がばれていたんだろうか?
 でも、やけにニヤニヤと笑うな。
「…… 美味いのか?これ」
 臭いから考えるに、決して美味しそうでは無い。
「私はそういうの飲めないの、吐いちゃうんだよね」
 いや、待て。
 自分が吐くようなモノを俺に飲めって、随分いい根性してるな。
 けどまぁ、俺の為を思って出してくれたんだ。飲まないのも悪いと思い、一思いにグッと飲み込んだ。
「うわぁっ!」
 マズっ!何だこれ?よく飲み込んだよ俺!
 反射で吐かなかった自分を褒めたくなった。
「美味しくない⁈」
 すごく、気持ち悪い…… 。
「…… できればもう飲みたくないかな」
「そうかぁ、司さんも苦手な人だったんだね」
 それで終わるなよ…… うぐっ——


 その後唯は風呂へ。一緒に入る夫婦も多いだろうが、うちは別々に入る。本当なら一緒に入って、風呂につかりながらまったり色々話したりしたい所なんだが…… それで済む訳がないので出来ない。
 唯が風呂の間はいつも居間で彼女が終わるのを待つ。テレビを観たり、本を読んだりして待ち時間をのんびり過ごす。
 読みかけの本があったのでそれを広げたんだが、何故か集中できない。食後くらいから、緩やかに体の中から変な感じがする。
 もやもやとするというか、ちょっと体が熱い。
「…… まさか、あの栄養剤のせいか?」
 そう思った俺は台所に行き、空き缶を捨てるゴミ箱を開けてみた。栄養剤らしきビンが一番上にあり、それを取り出してラベルを確認する。

『赤マムシドリンク』

 ——んなっ!なんじだコレ!ちょっと待て、何を考えてるんだオイ!
 いや、考えてる事はわかる。
 わかるんだが…… 頭がクラクラしてきた。
 駄目だ、色々と。
 ちょっと横になろうと思い、俺は自分の部屋へ行き、ベットに倒れこんだ。
 …… あんなもん、無理して飲むんじゃなかった。


 コンコンっと、部屋をノックする音が聞こえる。
「お風呂あいたよ?」
「わかった」
 短く返事をした。でも、即座に動く気になれない。というか、今唯の顔をまともに見れる自信がない。
 媚薬とかではないんだ、別にそんな劇的に衝動が強くなるような効果はあるはずなどない。そうわかってはいるんだが、自分の中に『赤マムシドリンク=精力増強』の図式がどうもあるようで、何となくそんな効果が出てきてしまっている気がしてならない。
 だがこのまま部屋に篭ったままでいても、唯に心配をかけるだけだ。そう思った俺は、仕方なくベットからゆっくり起き上がり、着替えを持って風呂場に向った。


 風呂場に入るなり、真っ先に冷たいシャワーを頭からかけ、気持ちを落ち着けようと何度も深呼吸をする。さっさと済ませてもう寝よう。寝ればきっと落ち着くはずだ。
 頭や体をざっと洗い、お湯の中へ。
「…… ふう」
 湯船に浸かると、少し落ち着いてきた気がしてきた。

 長湯はできないが、風呂につかるのは好きだ。色々な入浴剤を試してみたりするのも、結構楽しいと思っている。
 今度休みでも取って、唯を温泉にでも連れて行ってやるかな。
 新婚旅行も出来ていないし。

 そんな事を色々考えているうちに、思いのほか長湯してしまったようで、少しのぼせてきた。
 それと同時に、先程より強くなりだす衝動。

 何でだ?あんなに落ち着いてきてたのに…… 

 なんだか頭がくらくらしてきた。
 長湯だけのせいじゃない、衝動を無理に押さえ込もうとしていて、無理がかかっている感じがする。一体何が原因だ?
 血行がよくなって、一気に栄養剤の成分が回ったんだろうか。
 ちょっと待ってくれよ…… そんな事って。

 否定しようとしても、事実そうなってしまった以上は現実を受け入れるしかない。
 まずは水を飲んで緩和させよう。それから部屋に戻る。——そして、さっさと寝る!

 決意を胸に、慌てて風呂場から出てパジャマに着替え、台所へ走る。冷蔵庫から水の入ったペットボトルを出し、コップにそれを注ぎ、何杯も、何杯も水を飲んだ。
 水分を多く取って、少しでも緩和効果を上げたい。出来るのかは知らないが、藁にもすがる思いだった。


「なにしてるのー?」
 突然聞こえる唯の声と、後ろから抱きつかれた事に驚き「うわぁ!」と叫んでしまった。普段なら気が付ける気配が全くわからなかった。
 抱きついたまま唯が離れない。子犬がじゃれついてきてるみたいですごく可愛い。
 少し体をひねり、頭を撫でる。
「うふふ、大好きー司さんっ」
 そう言う唯の、鈴みたいな音色の声が耳にくすぐったい。普段ならすごく嬉しいいんだが、今はちょっと困る。でもちゃんと返事しないとと思い「俺もだよ」と答えた。
 想いを言葉に出してしまうと、必死に堪えている衝動が少し出てきてしまい、唯の頬にそっと触れてしまった。

 ドクッン…… 

 心臓が跳ね上がる。
 なんて肌が柔らかいんだ…… すべすべで…… とても気持ちがいい。

 もっと触れたい——と思うも、何とかグッと堪える。
「もう寝るから、おやすみ」
 暴れ出そうな気持ちを抑えながら俺は、自分の部屋へと戻った。


 部屋のドアを閉め、真っ先に仕事で使う鞄に駆け寄る。息が少し荒いが、全然整えられない。震える手で鞄を開け、中から宮川に処方してもらった薬を取り出した。

「ハァハァハァ…… 」

 深呼吸しようにも、うまくいかない。全然呼吸が落ち着かない。
「くそっ!」
 苛立ちをぶつける様に、勢いよく床をドンッと叩く。手に持つ薬が、早く使えと言わんばかりに存在感を増した気がした。

 コレを飲んだら、六時間は起きないって言っていた。
 すぐにでも彼女に飲ませようか?
 いや、もう少し待とう…… 。

 ——いや、駄目だ。

 いくら起きないとは聞いていても、このまま何かをすれば彼女を壊してしまう。それぐらい、自分でもこの湧き上がる衝動が激しいのがわかる。
 これじゃまるで獣そのものじゃないか、なんて情けない。
 よくまぁ長い事、誰とも抱き合わずにいられたものだ。
 こんな衝動をずっと抱えていては、いつか俺は犯罪者にでもなってしまうんじゃないだろうか?…… そう考えると、すごく不安になってきた。


 時計を見る。
 あれから一時間程経っていたようだ。だが、時間の感覚があまりない。長かったのか短かったのか、それすらももう考えられない。
 そっとドアを開け、居間に向う。電気は消えており、唯の部屋からも生活音はせず、とても静かだ。ドアの隙間から光も洩れていないから、流石にもう寝ているのだろう。
 コップに水を入れて、薬を中に溶かす。それはスッと消えてなくなり、見た目は普通の水となんら変わりなかった。
 問題は味だが、唯が寝ぼけていれば気にならないかもしれない。


 ゆっくりと彼女の部屋のドアを開けて、中に入る。ベットを見ると、予想通り唯は寝ており、安らかな寝顔が閉まるカーテンの隙間から少し入る明りで、なんとなく確認できた。
 トントンと肩を叩き、わざと起こす。
「…… ん?どうし…… たの?」
 少し掠れた、寝ぼけた声。
「うなされてたけど、大丈夫か?」
 大嘘だ。でも、普段なら感じる罪悪感も今はわかない。
「そうなの?…… なんでだろう」
 ぼーっとしたまま、なんとか返ってくる返事。
「水持ってきたから、飲むといい。気持ちが落ち着く」
 そう言って、唯の上半身を起こし、薬の入った水を飲ませた。

 コクッ…… コクッ…… コクッ——

 ただ水を飲んでいるだけなのに、それすらもすごく淫靡なものに見えてしまう。
「全部飲んだ方がいい」
「…… うん」
 唯は素直に俺の言葉を聞き、全て飲み尽くした。少し口の横から洩れた水を指で拭う。
「んっ」
 もれる短い声。腹の奥がゾクッとする。
「…… もう寝たほうがいい、ゆっくりおやすみ」
「ありがとう、司さん…… 好きだよ…… 」
「あぁ、俺もだ。おやすみ」
 そう言って、頬にキス。——あとは効くのをここで待つだけだ。


「…… 唯?」
「 ……… 」
 呼んでも反応はない。薬が効いたんだろうか?どのくらいで効き始めるのか、湯川に聞いておくべきだった。
 待ってる間に少し熱の醒めてきていた俺は、ちょっと迷う気持ちも出てきた。本当に問題ないのだろうかと不安にもなる。
 ベットでスヤスヤと眠る妻が、めちゃくちゃ可愛い。
 この眠りを邪魔するような…… まぁ、強制的に起きられない状態になっているのだとわかってはいるが、そんなマネをしてもいいのかと、どうしたって少し思ってしまう。
 そっと頬に触れる。
 掛け布団の上からでもわかるくらい小さい体。柔かい肌。まだ本当に子供みたいだ。
 頬に口付けをし、おでこを重ねる。でも、起きる気配は全くない。呼吸が乱れる感じもなく、反応も返ってこない事から、完全に睡眠状態なのだろう。

 薬が効いたみたいだ。

 肌に触れていると、押えていた感情がゆっくりと再び湧き始めてくる。掛け布団をよけ、全身が見える状態に。
「…… 本当に小さいな、お前は」
 改めて思い、クスッと笑ってしまった。
 体に似合わず大きい唯の胸が、横になっていても目立つ。そっとパジャマの上からそれに触れ、軽く揉んでみた。ピクッと震え、驚いた。——が、どうやら大丈夫そうだ。
 ゆっくりと、少しづつ手に力が入る。
 柔かい…… すごく気持ちがいい。安心感すら感じるこの感触。他の何よりも心地いいこの触り心地を直に感じたくなり、唯のパジャマのボタンを1つずつ外していく。起こす心配がないからか、少し乱暴になった。
 時間をかけるのが惜しくて堪らない。
 ボタンを外し終わったら、次に彼女の上半身を起こして背中に手を回し、ブラのホックを外す。そしてまた横に寝かせて、それを上へとずらした。

 プルッと胸が揺れ、白い胸が露わになる。

 綺麗な色をした乳首を見ると、ゾクゾクとした感覚が体に走った。
 子供のような勢いでそれを口に含み、丹念にしゃぶると、また少しピクッと唯の体が反応した。

 多少は何かしら感じるんだろうか?

 口の中で転がしたり、吸い上げたり、時には周囲の膨らみを軽く噛んだりしているうちに、乳首に少し硬さが出てきて、なんだかグミでも食べているみたいだった。
 胸を充分に堪能した俺は、ゆっくり下へと手を伸ばし、パジャマの上から脚を撫でる。背が低いせいか、その脚がひどく細く感じた。
 脚を持ち上げ、ズボンを脱がせる。
 ショーツだけになった下半身をベットの戻し、再び素肌を撫で、上から下へとあちこちにキスをしていく。
 脚の間に入り、内腿を舐め上げ、ショーツに触れる。

「……紐?」

 両サイドにリボン型結ばれた紐が見え、もしかしたらと思い引っ張ってみた。
 予想通りスルッとあっさりリボンは解け、ショーツの両サイドが開いた状態になった。

 …… コレは何かを期待してたのか?それとも、普段からこういう下着が好きなのか。

 あんなもんを飲ませてきたくらいだ、明らかに前者だろう。
 開いたショーツを除けると、見える薄い茂み。身長は低くとも、きちんと大人の女性なのだと実感させられる。

 ゆっくりと手を伸ばし、茂みの奥を目指す。当然、秘部には全く湿り気が無い。仕方なく自分の指を舐めて滑らせ、再びそこにあてる。割れ目を丹念に擦り、少しづつ襞を触りながら膣の中へ指が沈んでいく。ひどくキツイが、指ならば何とか入らなくもない。
 膣の中はすごく熱くて、きつくて、気持ちのいい触り心地だった。
 その感触に興奮してきた俺は、だんだんと指の動きが速くなり、雑なものになってきた。少しでも早く、ここに欲望をぶつけてしまいたい。早く、早くここを自分のモノで味わいたいと、そればかりしか考えられなくなってきた。

 一旦指を引き抜き、一緒に持って来ていたローションを直接秘部に垂らし、それを中へ中へと入れるように指で押し込む。冷たかったそれも、唯の体温で温まり、俺の動きにあわせてグチュグチュという音がたち始めた。その音がひどく卑猥なモノに聞こえ、衝動がより一層強いものへとなっていく。
 抑えのすっかりきかなくなった俺は、パジャマのズボンを下ろし、すでに随分と前から勃起している自身を秘部に当てると、一気に唯の中へと挿入した。
「ぅぁ…… っ」
 短く声が洩れる。
 なんなんだこれは、キツイにも程があるだろうが。
 手で思いっきり握られでもしているようなくらいに狭い。残念ながら奥行きが足りないのか、全て入りきらない。こればかりは、体格差の所為だと諦めるしか無さそうだ。

 膣の全てで俺を締め付けてくる唯の秘部の感触に酔いながら、ゆっくりと…… 次第に激しく腰を動かし、快感を求める。
 相手を楽しませる必要がないので、ひたすら自分の快楽のみを追い、激しく動き続ける。想像を遥かに凌駕する心地よさに、すぐにでも果てそうになるも、グッと堪えて、また快楽に耽る。

 そんな俺とは正反対に、相変わらず規則正しい呼吸で唯は眠り続ける。

 その相反する状態に更なる興奮を覚え、いつもでは想像も出来ない早さで絶頂が近づいてきた。
「…… まずぃっ」
 慌てて引き抜き、ビクビクと脈打つモノを手で押えながら、唯のお腹の上へと白濁とした液を吐き出す。
「はぁはぁはぁ…… 」
 呼吸が落ち着かない。
 お腹の上に溜まる精液に指を付け、それを伸ばすように唯の体を触る。ぬるぬるとした精液の感触。熱く、柔かい肌。
 愛しい女性を、どんな形ではあるにしても、やっと抱くことが恍惚感がたまらない。それにより、再び硬さを増しはじめる俺自身。

 再び唯の秘部へ欲望を押し込むと、何度も何度もそこから得られる快楽を貪った。

 時間も忘れて行為を続け、体には疲れが出始めても、果てぬ悦楽。
 唯への欲情する気持ちには果てがない事を表すかのように、動かぬ彼女をただひたすらに抱き続けた。


 ——外が薄っすらと明るくなってきた。
 マズイ、さすがにもう起きるかもしれない。
 そう思い、行為を止め、精液でグチャグチャになっている唯の体を、台所からお湯を持ってきて、温かなタオルで体を綺麗に拭く。そんな行為にすらも衝動的な感情に繋がりそうになるも、堪えてパジャマを着せようとした。
 上半身が終わり、次に下をと思った時、布団と内腿に血がついているのが目に入った。

「——ぇ」

 ローションでたっぷりと濡らしてから入れたんだが、爪ででも傷つけたのか?
 ティシュでそれを拭い、濡れたタオルで綺麗にする。だが布団だけはどうにも出来なかった。シーツまでは換える余裕は、きっとない。

 もしかしたら、俺は唯の初めての相手だったんだろうか?

 そう思うと、こんな形で初めてを失わせてしまったのかもしれないという罪悪感が頭をもたげはじめた。

 それと同時に感じる、激しい虚無感。

 性欲はある程度発散出来ても、抱き合ったという達成感がまるで体に残っていない。
 もしかして自分は、ひどく間違った事をしてしまったんじゃないだろうか。
 そんな思いが、心に重く伸し掛かった。


 あれから少しして、唯が起きて、居間に出てきた。
「おはよう、今日はお休みだったの?」
「…… ああ」
「じゃあ、いっぱい一緒にいられるね」
 嬉しそうに笑う唯の笑顔に、心が押し潰されそうだ。


       ◇


 深夜に何があったかなど、一切知らない唯が楽しそうに家事をこなしてくれている。
 ベットシーツの汚れも、洗濯を手伝うといって処理したので隠し通せた。でも、後ろめたい気持ちがどうしても隠し切れず、俺はいつも以上に彼女の家事の手伝いに勤しんだ。
 …… これではまるで、浮気してきた後の夫みたいだ。


 その日以降も風呂上りに抱きついてきたり、友人夫婦の夜の話なども相変わらず色々話してくる。でもそれ以上の事はしてこないのは、これが唯の精一杯のアピールなのだろう。昏睡している嫁に夜這いまでかけてしまった俺と比べると、随分可愛いレベルだ。

 その差に、罪悪感が生じる。

 彼女は我慢しているのに、俺は我慢などしていなかったから。


 何らかの形で彼女に薬を飲ませ、体を貪る日々がそれから始まった。
 最初は休みの前だけだったその行為も、次第に回数が増え、最近では衝動を感じる度に使っている。
 終わる度に虚無感を抱えるも、やはり愛する女性を抱く心地よさは一度味わってしまうとなかなか我慢する事が出来ない。
 まるで麻薬のように、依存気味になってきている。
 連日は使うなと言っていた湯川の言葉には従ってはいるが、それもいつまでもつか。
 薬の量も少なくなってきている。
 これではマズイと、『仕事だ』『疲れてる』だと言い訳をして、彼女を出来るだけ避けるようにした。だが、そろそろ見切りを付けてきちんと唯と話し合わなければ、取り返しのつかない事になりそうだ。


       ◇


 『そろそろ、ちゃんと話さないと』

 そう思った矢先、仕事が急に忙しくなり始め、職場に泊り込んでの捜査が続いた。
 メールも電話も、そんな余裕など皆無で、唯に心配をかけているとは思うも、とにかく早く終わらせられないかと仕事に打ち込んだ。

 一週間後、一旦帰宅できそうだったので彼女に「今日は帰れる」とメールを入れる。
 ずっと会っていないから、顔を見たくて見たくてしょうがない。

 会えるんだ、やっと唯に会える。

 純粋にそれだけが嬉しくて、帰り道に唯の好きな店に寄ってケーキを購入し、それを土産にする事にした。
 喜ぶ顔を想像するだけで、幸せな気分になる。
 罪悪感にばかり苛まれていたのが嘘の様に、今日は幸せな気分だった。


 小走りになりながら急いで帰宅する。
 玄関を開けながら「ただいま」と言い、ドアと鍵を閉めた。
 すると部屋の奥からガンッ、ドスッ、ドンッと、何かがあちこちにぶつかる音が聞こえた。

 おいおい、何をやってるんだ?

 そう不思議に思っていると、唯が玄関までの短い廊下をダダダッと走り、俺を見るなり飛びついて子どもみたいに抱きついてきた。抱き締めてくれる腕の力がやけに強い。
 俺の帰宅を、かなり喜んでくれているみたいだ。
「ただいま」
 再び言いながら唯の頭を優しく撫でる。気持ちがとても穏やかなせいか、変な衝動は全く感じなかった。


 一旦ケーキの箱を靴箱の上に置き、ネクタイを緩めながら居間に入る。
 一番最初に目に入ったのは大量の料理だ。そのあまりの多さに、流石に驚いた。
「…… ごめん、誰か来るの?」
 二人で食べられるような量ではないと思ったからの質問だったのだが、「来ないよ?」と、あっさり言われた。
 これは、ケーキまで買ったのは失敗だったかもと思うと、困り顔になるのを隠せない。その様子を見て、唯が悲しそうな顔になってしまった。
 当然か、こんな量を作るのは大変だったろう。努力が無駄になったみたいで、悲しいに違いない。
「まぁいい…… ケーキあるから食べれるよう、ご飯はほどほどにしておけよ」
 そう言いながら、薬箱の入っている棚を目指す。
「まずは座れ、足あちこちぶつけてたから軟膏塗ってやる」
 勢いであちこちぶつけたんだ、痛いに違いない。
 折角の綺麗な脚なんだ、きちんと手当てしてやらないと。
「…… 司さん、ありがとう」
 嬉しそうな顔で唯が言う。
「…… まだ何もしてないぞ」
「いいの、ありがとう」
 首をブンブンと振る仕草が可愛い。
「…… どういたしまして」
 和む気持ちのおかげで、優しい笑顔で答える事が出来た。


 薬箱を手に持ち唯の方を見ると、椅子に座り、足をブラブラして俺が来るのを待っていた。その姿が異様に幼さを助長している。
「ますます子供に見えるからやるな」
 俺の言葉にピタッと足が止まり、唯がじっとする。まるで、待てと言われた子犬みたいで可愛い。
 つい「いい子だな」と頭を撫でてしまった。
 座る唯の前に、膝をついて座る。自分の太股に唯の足を取り乗せ、軟膏の蓋を開けた。
「慌てて走るな。帰ってきただけで飛びつく必要もない」
 気持ちはわかるが…… 子供じゃないからな。
「…… 久しぶりだったから」
 そうだよな、俺でもこんなに会えて嬉しいんだ。
 家でずっと待っているだけの彼女は、もっと嬉しかっただろう。
「一段落したから、明日からは一応家には帰れる。…… たぶん」
「本当⁈」
「期待はするなよ」
「うん」
 そう返事するも、本当に嬉しさいっぱいでたまらないと思ってるのが見ただけでわかるくらい可愛い笑顔で微笑まれた。
 あぁ…… 俺は妻に愛されてるな、と深く感じさせられる。家に帰れて、本当に良かった。

 薬を手にとり、唯の脚に少しのせる。それを指で伸ばしていると「…… んっ」と甘い声を唯が漏らした。

 ドクンッと、心臓が、衝動が激しく跳ね上がる。

 まずい、このまま触れていたら何を仕出かすかわからない。
 唯の味を既に知っている今、一度衝動が強くなってしまったら押えられる自信がなかった。
「も、もう終わったから。あまりぶつけるなよ?」
 バッと手を離し、慌てるように唯の脚を下おろす。薬を片付けようとするも、動揺しているのか蓋が上手く閉めれない。その姿を不思議そうな目で唯が見詰めてくる。
 ——頼むから、あんまり俺を見ないでくれ。


「ごちそうさまでした」
 大量の料理をどうにかこうにか食べきった。さすがにもう何も入る気がしない。
 残してもよかったんだろうが、折角唯が俺の好きな料理ばかりを作ってくれたんだ。厚意にはきちんと応えなければ。
 食器の片づけを手伝い、先にお風呂に入らせてもらう事にする。ムカムカする胸を叩きながら、俺は風呂場へと向った。


 シャワーを浴び髪や体を洗った後、湯船に入る。
「あー、きもちわるっ」
 胸のムカムカが全然消えない、さすがに食べ過ぎた。もともと歳のせいで大量に食べられる方ではなくなってきているのに、無理をしたと深く後悔した。この後にまだケーキがあると思うと、買ってきたのは自分なのに憂鬱になる。
 唯には言っていないが、あまり甘いものは好きじゃない。
 だが、唯が楽しみにしているに違いない。紅茶も用意しておくと言っていたし、もうあがるか。


 湯船から出た俺は、勢いよくドアを開けた。
 その瞬間、タオルのしまってある棚の前に立つ唯と、思いっきり目があってしまった。

「い、いたのか⁉︎」

 そう叫び、バンッと勢いまかせに風呂場のドアを閉め、中に戻る。
 絶対に全身全部見られた!
 しかも唯の視線は思いっきり下を見ていたし!
 恥ずかしさに顔が赤くなる。昔から鍛えてはいるので見られて恥ずかしい体はしていないが、覚悟が無かったから、隠したい気持ちが上回った。
「ご、ごめん…… 下着ないみたいだったから…… 」
 ドアの向こうにから聞こえる唯の声。動揺からなのか、少し上擦っている。
「わかった、ありがとう。でも出てもらえるか?」
 慌てて風呂場に戻ってしまったから、今更堂々と全身を晒してここから出る気にはなれない。
「あ、ごめん」
 唯がその場から去る音が聞こえる。

 何裸を見られたくらいで動揺しているんだ俺は!

 女じゃあるまいし、女々しいにも程がある。
「くそっ…… 」と、ぼやく声が勝手に出る。
 唯に見られたんだというだけで、自分のモノが少し固さをもってきた。
 ちょっと待てよ、そんな場合じゃないだろうが!
 頼むから落ち着けよ!
 何度も深呼吸をするも、またしばらく、俺は風呂場から出られなくなった。


「……… 」
「……… 」
 居間に流れる気まずい空気。
 せめてあの後、あそこで勃起までしていなければ別にこんなに不機嫌にはならなかったんだが、恥ずかしさも加算され、まともに唯の顔が見られない。

「えっと…… いただきます…… 」

 唯の声が、静かな居間にやけに響いて聞こえる。
「はい」と返事をし、黙々とケーキ食べるが、正直味がよくわからない。
 唯の美味しそうに食べているであろう顔でも見られればまた違うのかもしれないが、今はそんな彼女の様子を見る事すら出来ない。
 何かを食べる姿すら、別の行為に連想してしまいそうだった。
「…… 怒ってるの?」
 恐る恐るといった声色で、唯に訊かれる。
「怒る事はなにもしてないだろう」
 そうだ、唯は何もしていない。ただ『夫の裸を見た』だけだ。
 それだけの唯を怒る方がおかしい。
「でも黙ってるから…… 」
 気まずい空気が嫌でたまらないといった感じだ。
 話題を変えようと思ったのか、「短期でアルバイトがしたい」といった内容の話をしてきた。
 昔勤めていた、俺たちが初めて会った店の手伝いを、後輩経由で店長から頼まれたのだとか。
 飲み屋である為少し心配になったが、唯が酔っ払いのあしらいが相当上手いのは俺自身イヤって程身に染みてよくわかっている。
 変な男に引っかかるような事もないだろう。なにせ客の顔も覚えないくらいに、きっちり割り切って働けるくらいだから。
 手助けをさせないのも可哀想なので、俺は渋々許可する事にした。
「ただし条件がある」
「え?何?」
 唯がキョトンとした顔をする。何度見ても、可愛い仕草だ。
「指輪は外すな。誰に誘われても飲みには行くな。知り合いでもだ」
 たぶん連絡してきた後輩ってのは、昔俺にやたら突っかかってきた事のあるあの男だろう。なので俺は、この条件だけは譲れないと唯に約束させた。

「大丈夫だよ、司さんしか見えてないから」

 幸せそうな顔で言ってくれるのが、とても嬉しい。
 彼女が話題を変えてくれたおかげで、何とかこの日は普通に話せるようになって一日を終えた。


       ◇


 風呂での些細な騒動があった次の日。
「よう」
 仕事が終わり、職場から出た俺に、誰かが声をかけてきた。

 誰だろう?

 そう思いながら振りかえると、そこには宮川の姿があった。とても大きな犬を一緒に連れている。
「お前、どうしてここに?会う約束、してないよな?」
 宮川が職場まで会いに来たことは今まで一度も無い為、正直かなり驚いた。
「この時間にここに居たら会えると思ってな。家では出来ない話しだったから、こっちに来てみたんだ」
「…… お前はどうしてそうも、行き当たりばったりに行動しても失敗しないんだか」
「カンと運がいいんだよ」
 宮川がそう言って、ニッと笑う。一緒の犬が、『その通りです』と同意でもしたいかのようにコクッと頷いた。
「大きいな、お前の犬か?」
「…… あぁ、美人だろう?」
 愛おしいとでも言いたげな視線を犬に向け、宮川が首元を撫でると、犬が気持ち良さそうに目を細めた。
「メスなんだな、その様子だと。確かに、とっても品があるよ」
 俺はしゃがんで視線を合わせてみる。すると、頭をさげてお辞儀をしてきた。
「はじめまして、だとさ」
「…… 頭いいな」
「まぁ、そうだな」
 触ろうと少し手を伸ばすと、俺の手を避ける様に一歩下がる。
 これは触って欲しくないという意味だと思った俺は、立ち上がり「大丈夫だよ、無理はしない」と声をかけた。
 するとまた、頷いて返してくれるので、別に嫌われてはいないみたいだ。
 だが、どういう躾をしたらこうなるんだろう?
「今日は俺にこの子を見せに来たのか?」
「そんな訳がないだろう。あれからどうなったのか知りたかっただけだ」
「…… 言わないと、ダメなのか?」
 眉間にシワが寄り、話したくない気持ちが前面に出る。
「感情はある程度隠すのが、警察官には必要なスキルだと思うぞ」
「友達にその必要はないだろう」
「そうだな、まぁ確かに。で、どうだった?多少は気持ちが晴れたか?」
「あえて言えば…… 逆効果、だったかな」
 俺の言葉を聞き、顎に手をあてて宮川が黙る。
 予想とは違う答えだったんだろうか。
「——だろうとは思ったが、その勢いで打ち明けようとかにはならなかったのか?」
「おい!どこまでわかってるんだ?お前は」
「わかってなんかいないさ。全て推測でしかない。たぶんこうだろうと思っている事を元に話しているだけで、実際にそうなのかは全く確信してない」
 どうだか。コイツは昔からこうだ。
「ああ、お前の言う通り、まだ何も言ってないよ」
 ため息をつき、俺は素直に認めた。
「今日奥さんは?」
「唯は、バイトだな。短期で頼まれたんだそうだよ」
 それを聞いて、宮川がニッと笑う。
 まさか、また何か思いついたのか?
「そうか。じゃあ、もう帰って家で待っていてあげるのがいいかもな。仕事で疲れた奥さんを出迎えて、癒してやるといい」
「言われなくても、そのつもりだ」
「近道でも通ったらどうだ?そうしたら、一本早いバスで帰れるかもしれない」

 近道って…… あの通りか?
 あんまり辛気臭い所は好きじゃないんだが——

「また何か悪巧みか?」
「人聞きが悪いな、友人として思ってる事を伝えただけさ」
 こいつの、こういう部分にはいつも参る。根拠も無く、いきなり変な事を言い出すのは昔からだ。だが、その通りにして失敗した事は今まで一度もなかった。そう、一度もだ。
 少し困る事態になる事はあっても、その後は全てが上手い具合に回っていく。

 もし、今回もそうなのだとしたら——俺達夫婦の関係が、少しは違うものになるきっかけになるかもしれない。

「…… わかった。お前の言う通りにするよ」
「それがいい、お前は素直でいい奴だな」
 珍しく宮川が優しい笑顔になった。
 もしかしたら、初めて見るかもしれない。


       ◇


 家まで帰るには、地下鉄とバスを使わなければいけない。直線距離では大して遠くはない方なんだが、丁度いい交通機関がないのだ。急いで地下鉄に向かい、三つ目で降りる。乗りたいバスの出ている場所までは、地下鉄から少し離れたJRの駅前まで行かなければならない。
 いつもなら表通りを通って向うのだが、『近道を』と言っていた宮川の言葉に従い、裏手の路地に入った。

 ここは風俗店が軒を連ねている通りで、正直俺は大っ嫌いな場所だ。
 色々な事情でこういう場所で働く人達を非難する気はない。だが、呼び込みの人間に声をかけられるのがどうもイヤでしょうがない。
 確かに近道ではある。でも、呼び止められるのが嫌いでどうしても通る気になれない場所だ。強引な奴がいると、表を通るより時間がかかる事もあるからだ。
 出来るだけ周囲を見ないようにして、急いで歩く。
 だが、未成年者に売春を斡旋しているかもしれない店がこの辺りにあるという話を聞いたのを思い出し、ふと顔を上げて見てみた。
 確か店の名前は『ピンクドール』だ。
 店名を思い出せても、看板が多くてうまく探せない。どれもこれも、女の裸に近い絵や写真ばかりが周囲に溢れる。
 あった、あれか。
 看板の位置から、店舗は二階にあるようだ。
 念の為場所も覚えたし、もう行こう。噂の域を出ていない情報だし、事件でも起きない限り、今の俺に無関係だ。

 ——そう思った時だった。

 ゆっくりとその店のドアが開くのがチラッと視界に入った。客だろうか?
 少し隠れ、誰が出てくるのか確認しようと店の方を見る。そんな事をする必要もないのに、体が自然に動いた。

 出てきたのは、ひどく背の低い女だった。
 水色のキャミソールに、短めのスカート。
 ブランド物と思われる鞄を持ち、周囲の様子を窺っている。

「…… 嘘だろ、まさか…… そんな」

 あまりのショックに驚いて体が動かない。
 …… 唯じゃないか。
 あまり周囲に人がいないタイミングを見計らって、唯は急いで階段を駆け下り、バス停の方向へと走って行った。

 その様子に言葉を失い、口元を押える。
 信じられない……なんでよりにもよって、唯があの店から出てくる?
 飲み屋での、火の屋でのバイトではなかったのか?
 まさか、そう偽って、彼女が売春でもしていたというんだろうか。
 いや、まさか…… そんな、はずは…… 無い。
 無いと思いたい——
 でも、結婚してからというもの、唯はやたらと俺に抱かれたがっていた。
 ずっと夫婦だからなのだと思っていたんだが、もしそれがただ男に飢えていただけだとしたら?
 誰でもよかったんだろうか。
 
 心の中で、何かが崩れていく感じがする。
 今まで押さえ込んでいた全てが——

「…… ははは!…… なんだ、もう守る必要なんて無いんじゃないか」
 ボソッと呟き、バスに乗る気のなくなった俺は、タクシーを拾ってそれに乗った。
 移動中、すれ違ったバスに乗っている唯の姿がチラッと見えた。
 眼を閉じ、満足気な顔。
 イライラする。
 誰と寝てきた?
 誰に体を許し、甘えてきたというんだ。
 人が必死に働いている間に、よくもまぁこんな酷い裏切りが出来たもんだよ。
 俺がどれだけお前を愛してると思っているんだ…… 。


 黒い感情に支配されたまま、タクシーがマンションの前に停まる。料金を払い、部屋へと向うが、足がおぼつかない。
 なんとか家に入り中に上がるも、電気をつけるような気持ちにはなれなかった。窓から入る外灯の灯りにすらイライラする。何もかもが気に入らない。
 シャッとカーテンを閉め、その場に座り込んだ。


 …… もうすぐ唯が帰って来る。
 知らない男とでも寝るような女の体が壊れようが、俺には関係ないよな。
 思うがままに抱き、たとえ今までの女達同様に嫌われたとしても、もう唯が俺から逃げる事など出来ない。離婚は両方の承諾がいるし、夫婦間での強姦罪は立証が難しい為、成立した例が少ないはずだ。

 そうか、もう我慢しなくていいんだ…… 。

 何かが吹っ切れた感じがする。が、同時に唯への猜疑心に支配される。理性なんてものは既になく、もう何もかもがどうでもいい。

 ガチッと、鍵の開く音が部屋に響く。
 ゆっくりと立ち上がり、唯の方へと歩いていく。

 裏切りの代償がどれだけ重いのか、自らの体で味わってもらおうか——
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