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【第四章】
【第二話】開店前(雨宮七音・談)
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各々朝の支度を終わらせ、クルスが用意してくれた食事を頂いた後は、エルナトは昨日の作業の続きがあるからと早々に作業部屋へと篭った。
私とクルスはといえば、部屋の片付けやベッドのシーツ交換、家中の床や水回りなどといった箇所の掃除をしたりして店の開店までの時間をすごす事に。それぞれ持ち場に分かれて作業をした方が効率的な気がしたのだが、クルスは一時も私から離れず、ずっとこちらの様子を気遣ったままだった。時折、今朝の私はもう泣いていないのに涙でも拭うみたいな仕草で頬を撫でてきたので、寝落ちするまでの間ずっと泣き通しだった事に彼らは気が付いていたのだと確信出来た。
泣いていた事情を、何も訊かないでくれるって事がこんなに嬉しいのものだったとは。
ちょっとでも私の様子に変調があると家族総出で大騒ぎするような家庭で育ったからか、周囲を心配させたくなくって、自分の中にある感情をあまり表面には出さないようにしていた。悲しい・辛い・苦しいといった感情は特にだ。楽しいや嬉しいとかならいくらだってみんなと沢山共有出来たけれど、それ以外の感情なんか、心配をかけさせるだけなので邪魔でしかなかった。
あんなに泣いたのはいつ以来だったろうか?
思い出そうとしてみてもなかなか思い出せない。いつも私よりも先に弟妹達が泣き出すから、自分が悲しみに浸る暇なんか今までちっとも無かったんだなと改めて思い至った。あぁそうか…… 自分の感情を発散させる機会が極端に無かったのも、体への負荷に繋がったのかもしれない。過労に加えて睡眠不足気味でもあったし、あの日私が倒れたのは当然の結果だったという訳か。
一人でそんなふうに納得していると、クルスが何か言いたげな表情をしながら私の頭を猫耳ごとぐしゃっと一度撫で、口を開けたのに何も発しないまますぐに閉じた。
やはり彼も昨晩の涙の理由が知りたいのだろうか?
だけど訊かれたからって答えられる様な内容じゃない。『もう帰れないんですって、元の世界に』だなんて、言葉にするのも怖い。私はまだなんにも足掻いていないのに、生き残る手段探しばかりなせいで何一つ帰還方法を探し始めてもいないのに、答えだけ急にドンッと提示されたって心の整理なんか出来る訳がなかった。
…… だけど、待って。
前例が無いってだけで、もしかしたらまだ何か手段があるんじゃ?
今回みたいな“神隠し”のような事例だけはずっと昔から私の世界ででも知られている現象なんだし、それを自発的に引き起こせばいいんじゃ?
もっと上手くこの魔力を使いこなせたなら並行世界への転移だって可能なんじゃないだろうか。
借りた本に書かれていたからって、それが全てとは限らないじゃないか。
頭に感じるクルスの温かな手の感触のおかげか、ちょっと…… いや、かなり前向きに気持ちを立て直す事が出来た。この程度の事で泣く程落ち込んでいた状態から持ち直せるなんて、もしかしたら日常のルーチンに追われていないおかげで発想をポジティブに保てているのかもしれない。
「えっと、クルスさん」
「ん?」
「…… ありがとう、ございます」
いきなり感謝されたって『何の事だ?』と訊かれるのがオチだろうが、どうしても伝えておきたかった。なのに彼は意外にも「どういたしまして」と言い、腰を軽く折って、私の頬にちゅっと小さな音をたてながら優しくキスをしてきた。
「さてと、そろそろ店を開けるか」
頭から手を離し、壁に飾られた時計を見上げたクルスが店舗スペースのある方へ顔を向けた。だが私は今さっきの出来事が頭で処理出来ずにいる。顔は蛸みたいに真っ赤に染まり、魚の様に口をパクパクとさせるだけで返事が声になって出てこない。『どうかしたか?』なんて言いたげにクルスは首を傾げているが、彼にとって頬へのキスは挨拶程度の行為なのだろうか?それとも彼の中ではもう、私は恋人枠に入れられていると思うべき?…… うーん、今までの発言や行動的に充分ありえるかも。
だとしたら余計に、まだ元の世界に帰る事を諦めていない事は意地でも隠し通さねば。
「了解です」と必死に冷静を装って返事をし、掃除道具を片付ける為に水の入ったバケツを持ち上げた。結局さっきのキスはスルーする形になってしまったけど、クルスはそんな事すらも気にしていないみたいだ。もういっその事私なんぞにプロポーズした事も水に流してくれたらいいのに。方法が見つかり次第元の世界へ帰還する奴になんか好意を持ち続けるだけ無駄なのだから。
◇
雑巾を洗う為に使った水を排水口に捨て、バケツを掃除道具入れに片付けて店の販売スペースに戻る為廊下を歩く。その時ふと壁に飾られた小さな梟の絵画に目が止まった。
…… そうだ。監視役の梟の置物をアパート前の木に設置しておいていたけど、近いうちに撤去しないと。
本に書かれた情報が確かなのならば、この世界で一番最初に目覚めた部屋の借主であるナナリーさんと自分は同一人物らしいし、服やお金を借りた物だからいつかご本人に謝罪しないと!といった類の心配はもうしなくていいのはありがたい。並行世界の“私”同士が合体して一人の存在として生まれ変わったみたいな感じみたいだから、いくら待っても探してもこの世界のナナリーさんにはもう会えないのだと早めに知る事が出来て本当によかった。
ナナリーさんが天涯孤独っぽいのも今となっては正直ありがたい話でもある。もし彼女を愛する人に遭遇し、『この世界にはナナリーこそが存在するべきである』とか『ナナリーを返せ』だなんて責められても私にはどうする事も出来ないのだから。
「…… あれ?よく見るとこの梟、あのガラスの梟とそっくりだ」
偶然の一致。もしくはただ似ているだけ、かも?
だが、そう片付けるにはあまりにも…… 。
私にはまだ頼れるヒトがあまりにも少ない。もし彼らがナナリーと知り合いかそれ以上の関係で、『お前のせいでナナリーの人格が消えた』だなんて言われて追い出されたら、自分には行き場が無い。盤石な基盤が、せめて信頼出来る味方を早く見付けないと。
万が一にでも、彼らが本来のナナリーさんと知り合いではありませんように。
この世界の“ナナリー”とエルナト達の関係に気が付けそうなチャンスをみすみす逃した事すらプロポーズ騒動のせいですっかり忘れている私は、そんな事を願いながら小さな梟の絵画から視線を逸らし、クルスの待つ店舗スペースへと戻って行ったのだった。
私とクルスはといえば、部屋の片付けやベッドのシーツ交換、家中の床や水回りなどといった箇所の掃除をしたりして店の開店までの時間をすごす事に。それぞれ持ち場に分かれて作業をした方が効率的な気がしたのだが、クルスは一時も私から離れず、ずっとこちらの様子を気遣ったままだった。時折、今朝の私はもう泣いていないのに涙でも拭うみたいな仕草で頬を撫でてきたので、寝落ちするまでの間ずっと泣き通しだった事に彼らは気が付いていたのだと確信出来た。
泣いていた事情を、何も訊かないでくれるって事がこんなに嬉しいのものだったとは。
ちょっとでも私の様子に変調があると家族総出で大騒ぎするような家庭で育ったからか、周囲を心配させたくなくって、自分の中にある感情をあまり表面には出さないようにしていた。悲しい・辛い・苦しいといった感情は特にだ。楽しいや嬉しいとかならいくらだってみんなと沢山共有出来たけれど、それ以外の感情なんか、心配をかけさせるだけなので邪魔でしかなかった。
あんなに泣いたのはいつ以来だったろうか?
思い出そうとしてみてもなかなか思い出せない。いつも私よりも先に弟妹達が泣き出すから、自分が悲しみに浸る暇なんか今までちっとも無かったんだなと改めて思い至った。あぁそうか…… 自分の感情を発散させる機会が極端に無かったのも、体への負荷に繋がったのかもしれない。過労に加えて睡眠不足気味でもあったし、あの日私が倒れたのは当然の結果だったという訳か。
一人でそんなふうに納得していると、クルスが何か言いたげな表情をしながら私の頭を猫耳ごとぐしゃっと一度撫で、口を開けたのに何も発しないまますぐに閉じた。
やはり彼も昨晩の涙の理由が知りたいのだろうか?
だけど訊かれたからって答えられる様な内容じゃない。『もう帰れないんですって、元の世界に』だなんて、言葉にするのも怖い。私はまだなんにも足掻いていないのに、生き残る手段探しばかりなせいで何一つ帰還方法を探し始めてもいないのに、答えだけ急にドンッと提示されたって心の整理なんか出来る訳がなかった。
…… だけど、待って。
前例が無いってだけで、もしかしたらまだ何か手段があるんじゃ?
今回みたいな“神隠し”のような事例だけはずっと昔から私の世界ででも知られている現象なんだし、それを自発的に引き起こせばいいんじゃ?
もっと上手くこの魔力を使いこなせたなら並行世界への転移だって可能なんじゃないだろうか。
借りた本に書かれていたからって、それが全てとは限らないじゃないか。
頭に感じるクルスの温かな手の感触のおかげか、ちょっと…… いや、かなり前向きに気持ちを立て直す事が出来た。この程度の事で泣く程落ち込んでいた状態から持ち直せるなんて、もしかしたら日常のルーチンに追われていないおかげで発想をポジティブに保てているのかもしれない。
「えっと、クルスさん」
「ん?」
「…… ありがとう、ございます」
いきなり感謝されたって『何の事だ?』と訊かれるのがオチだろうが、どうしても伝えておきたかった。なのに彼は意外にも「どういたしまして」と言い、腰を軽く折って、私の頬にちゅっと小さな音をたてながら優しくキスをしてきた。
「さてと、そろそろ店を開けるか」
頭から手を離し、壁に飾られた時計を見上げたクルスが店舗スペースのある方へ顔を向けた。だが私は今さっきの出来事が頭で処理出来ずにいる。顔は蛸みたいに真っ赤に染まり、魚の様に口をパクパクとさせるだけで返事が声になって出てこない。『どうかしたか?』なんて言いたげにクルスは首を傾げているが、彼にとって頬へのキスは挨拶程度の行為なのだろうか?それとも彼の中ではもう、私は恋人枠に入れられていると思うべき?…… うーん、今までの発言や行動的に充分ありえるかも。
だとしたら余計に、まだ元の世界に帰る事を諦めていない事は意地でも隠し通さねば。
「了解です」と必死に冷静を装って返事をし、掃除道具を片付ける為に水の入ったバケツを持ち上げた。結局さっきのキスはスルーする形になってしまったけど、クルスはそんな事すらも気にしていないみたいだ。もういっその事私なんぞにプロポーズした事も水に流してくれたらいいのに。方法が見つかり次第元の世界へ帰還する奴になんか好意を持ち続けるだけ無駄なのだから。
◇
雑巾を洗う為に使った水を排水口に捨て、バケツを掃除道具入れに片付けて店の販売スペースに戻る為廊下を歩く。その時ふと壁に飾られた小さな梟の絵画に目が止まった。
…… そうだ。監視役の梟の置物をアパート前の木に設置しておいていたけど、近いうちに撤去しないと。
本に書かれた情報が確かなのならば、この世界で一番最初に目覚めた部屋の借主であるナナリーさんと自分は同一人物らしいし、服やお金を借りた物だからいつかご本人に謝罪しないと!といった類の心配はもうしなくていいのはありがたい。並行世界の“私”同士が合体して一人の存在として生まれ変わったみたいな感じみたいだから、いくら待っても探してもこの世界のナナリーさんにはもう会えないのだと早めに知る事が出来て本当によかった。
ナナリーさんが天涯孤独っぽいのも今となっては正直ありがたい話でもある。もし彼女を愛する人に遭遇し、『この世界にはナナリーこそが存在するべきである』とか『ナナリーを返せ』だなんて責められても私にはどうする事も出来ないのだから。
「…… あれ?よく見るとこの梟、あのガラスの梟とそっくりだ」
偶然の一致。もしくはただ似ているだけ、かも?
だが、そう片付けるにはあまりにも…… 。
私にはまだ頼れるヒトがあまりにも少ない。もし彼らがナナリーと知り合いかそれ以上の関係で、『お前のせいでナナリーの人格が消えた』だなんて言われて追い出されたら、自分には行き場が無い。盤石な基盤が、せめて信頼出来る味方を早く見付けないと。
万が一にでも、彼らが本来のナナリーさんと知り合いではありませんように。
この世界の“ナナリー”とエルナト達の関係に気が付けそうなチャンスをみすみす逃した事すらプロポーズ騒動のせいですっかり忘れている私は、そんな事を願いながら小さな梟の絵画から視線を逸らし、クルスの待つ店舗スペースへと戻って行ったのだった。
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