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【第一章 (雨宮七音・談)】
【第十話】ブラッシング
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三人で食べるにはちょっと量も品数も多い豪勢な食事を終え、私はシャワーを浴びるためにダイニングを後にした。『片付けを手伝います』の一言がどういった結果になったかはお察しの通りだ。
化粧品、着替え、洗面道具一式が完璧に揃ったシャワールームで体を洗い終えた後は真っ直ぐ自分の部屋に戻ったのだが、髪が濡れたままで気持ちが悪い。
あぁー!ドライヤーが欲しいっ。
タオルでガシガシ髪を拭いてもなかなか乾かず、苛立った末に魔法を使って乾かす事も考えた。だけどエルナトに魔法を使う事を止められているので、すぐに諦める羽目に。
「うぅ、魔法科学文明が恋しい…… 。これじゃあ、髪が乾くまで寝られないじゃない——って、それ以前に布団!」
布団の事を訊くのをすっかり忘れていた。
時間的にもまだ二人共起きているだろうし、布団を貸してもらいに行かないと。
そう思って頭にタオルを被ったまま部屋から出ようとすると、ドアをトントンッとノックする音が。どっちだろうか?と思いながら「どうぞ」と答えるとすぐに扉が開き、さらりとした銀髪をなびかせながらエルナトが隙間から顔を見せた。
「何か困った事はないですか?必要な物や、足りない物があればお持ちしますよ」
「ド——。か、髪を乾かすのに、何か便利な物はありますか?」
“ドライヤー”と言いそうになったが、どうにか回避した。冒頭で変な言い回しをしてしまった事を変に思われていないといいが。
「それなら僕にお任せを。こちらにどうぞ」
あ、持って来てくれる様な物は無いのか。
「ありがとうございます」
軽く頭を下げ、廊下を数歩歩き始めたエルナトの後に続く。彼はすぐ隣にある部屋の扉のノブに手をかけると、大きく開けて私が先に入る様にと促した。
十畳以上もありそうな室内にはお洒落な鏡台と椅子、天蓋付きの巨大なベッド、その脇に置かれた引き出し付きのナイトテーブル、背の高い観葉植物しかない。なのにベッドの存在感があまりに激しくてコレ以上無い程に『寝室』と言うに相応しい空間だ。キングサイズよりも更に横幅が大きく、天蓋もあるせいでこのまま外に置けばグランピングをするのにも使えそうな程だ。
「…… 失礼します」
な、なんなんだこの部屋は。
そう思うせいで、ちょっと不自然な声が出た。
昼間、家の中を案内してもらった時には中までは見なかった部屋だったが、こんな室内では異性に容易く見せる気にはなれないのも納得だ。一人で眠るにはあまりにも大き過ぎる気がするが、もしかしたらかなり寝相が悪いんだろうか。
「そこにある鏡台の椅子に座っていて下さい。今、髪を乾かせる物を持って来ますから」
彼もシャワーないしお風呂を済ませた後の様で、昼間よりも更に拍車をかけていい匂いがする。ミントっぽいさっぱりとした香りだ。動くたびにほのかに漂う香りが気分をさっぱりさせてくれる。
「では、失礼して」
言われた通り椅子に座った。
大きな鏡の前にはポプリの入ったガラス瓶が飾ってあり、そこからは甘い香りが漂っている。彼からする香りとは違う系統なのに喧嘩する事なく匂いが混じり、私の興味をくすぐった。
なんの香りだろうか?
「お待たせしました」と言ってエルナトは私の背後に立つと、当たり前のように髪に触れてきた。その行動に驚き、咄嗟に体を引き、少しだけ距離を取る。弟妹以外には気安く触れられた経験が無いせいか心臓がバクバクと跳ねてしまい、煩いくらいだ。多分これは、彼の端正過ぎる顔のせいだ。『貴方はもしかして、金色の指輪を溶岩に投げ込む為に旅する映画の出演者の一人ですか⁉︎』と騒ぎたくなる程のエルフ系イケメンに触れられて、心臓が勝手にびっくりしてしまったんだ、きっと。
「…… あ、すみません。僕が髪を乾かそうと思ったのですが、嫌でしたか?」
エルナトがひどく傷付いた表情をしている。振り払うに近い事をしてしまったのは確かだが、何もここまで落ち込む程の事ではなかったはずだ。だけど、こうも見目麗しい人だったら誰からでも好かれているはず。そうなると、こういった態度には慣れていないのかもしれない。
「いえ、急だったのでちょっと驚いただけです」
「じゃあ、今からこの、雨露に濡れる美しい薔薇色の髪に触れてもいいですか?」
心配そうに訊かれたが、「いいえ、自分でやりますので乾かす物を借りられますか?」と言って断った。『あれはダメ』『これは危ない』があまりにも多過ぎる一日だったせいで、少しだけ自分の表情が固くなる。
一瞬、エルナトが目を見張った。だがその表情はすぐに笑顔の奥に隠れ、ゆっくりと彼が頭を横に振った。
「それはいけません。だけどそれは、自分でやるには慣れが必要だからです。扱い方を今教えますから、次からは自分でやってみましょうか」
「…… 」
譲歩してくれた、のかな?
その事がちょっと嬉しくって、私は「ありがとうございます」と素直な気持ちでお礼を口に出す事が出来た。
「本当なら、『危険だから毎日僕らが乾かす』と言いたいのですけどね。でもその…… 貴女の、人任せにしない姿勢がちょっと嬉しかったです」
「当然では?自分の事は自分でやらないと。人任せにしていいのは、自分ではやれない理由のある人か、行為に対して対価を払える人だけだと思いますけど」
「そうかもしれませんね。でも、そういう考えじゃないヒトもいますから…… 」
俯きながらそう口するエルナトの顔を見て、胸の奥がちくりと痛んだ。何故だかこの痛みは罪悪感に近いものの様な気がする。私は一度も彼らに無償で何かを要求してはいないのに、なんでこんな気持ちになるんだろうか。
「まずは、使い方を教えましょう」
「お願いします」
内情を隠して頷くと、エルナトが手に持っている物を私の前に差し出してくれた。それを受け取り、全体を把握しようと観察してみる。見た目はただのちょっと大きめなブラシの様だ。木製のそれは持ち手の部分に花柄が掘り込んであり、ブラシ部分は動物の毛を使用した物っぽい。中央部分には火のマークが入っていて、うっすらと光を帯びており、魔力の気配も感じられるので、このブラシが生活魔法を閉じ込めた魔法道具の一種である事がわかった。
「これで髪を梳かせば乾かす事が出来ます。でも、乾く速度が遅いからといって、絶対に自分の魔力を込めないで下さいね。過剰反応を起こして、髪を焦がす恐れがありますから」
「え、それは怖いですね…… 」
「ヒト型の者達向けの物なので、エルフ型の人達がヤキモキしてたまにやってしまうんです。せっかちな者が半分以上の髪を焦がしてしまって、泣きながら美容院に駆け込むなんて話もたまに聞きますよ」
「悲鳴モノの大惨事ですね、気を付けます」
「今日は僕が髪を乾かしますから、加減を覚えておくといいですよ」
そう言ってエルナトは私の髪を束で掴むと、ブラシを当ててゆっくりと梳かし始めた。
頭皮に軽く当たるたびに温かい感触が気持ちよく、頭皮マッサージをしてもらっているみたいな感じがする。髪の濡れた感触が段々と減ってくれているが、本当にとてもゆっくりで、せっかちさんが魔力を込めて一気に乾かしたくなる気持ちがちょっとわかった気がした。
「気持ちいいでしょう?豚の毛を使った物なんで、しなやかだし頭皮を傷付けないんです」
「そうですね。これも貴方が作ったんですか?」
「はい。とは言っても、出来合いの物を買って、持ち手の部分に花柄を彫って生活魔法を閉じ込めた宝石を埋め込んでみただけですけどね」
「そこまでやれば、もう手作りしたも同然なのでは?すごいと思います、私はそういった類の細工がからっきし出来ないので」
「向き不向きのある作業ですからね。でもその分ナナリーは、そこに居るだけで華があるからいいじゃないですか」
「…… あはは、お世辞が上手ですね」
「いいえ、お世辞なんかじゃありません。この部屋の香りの、月下香みたいなヒトに会えたのは長く生きている僕でも、初めてですよ」
その表現の意味が私には伝わらず、空笑いを浮かべながら目の前の鏡を見詰める。この世界ではごく自然な例え話じゃないといいけど、と思うと少し不安になった。
それにしても、何て無駄に大きなベッドなんだ。鏡台の鏡だってそれなりに大きいはずなのに、私達とベッドしか映っていない。天蓋から下がる布は白いレース製で通気が良さそうだが、あれにも魔力の気配がするから暗幕の様な効果も付与しているかもしれない。へッドボードの辺りには枕が何個も並んでいて、あんなに置く意味はあるんだろうか?と不思議に思った。
…… そうだ、布団!
頭皮マッサージを受けているみたいな状況のせいですっかり忘れていた。
「あの、髪が乾いたら布団を一式借りたいんですが」
「…… 布団ですか?」
「はい。用意してもらった部屋にベッドが無かったので、布団をお借り出来ればと」
「あはは。ご心配なく、寝る場所はちゃんとありますから」
「そうなんですか?」
きょとんとした顔をしていると、部屋の扉が開き、クルスが髪をタオルでガシガシと拭きながら室内に入って来た。
彼は真っ直ぐに私達の側まで来て立ち止まると、私の髪を束で掴んで状態を確認し、「乾いたな」と言いながら掴んだままの髪に対し口付けをしてきた。
「——⁉︎」
な、な、何をされたの⁉︎
驚いて反射的に逃げる事も、まるで騎士や紳士みたいだと喜ぶ事も、何もかも出来ずに硬直していると、エルストとクルスの顔が同時に綻んだ。
「シャンプーの類をこの香りにして正解だったな、ナナリーによく似合いっている」
満足気な声でそう言うと、クルスは顔に着けていた烏っぽい仮面を外して鏡台の上に置いた。
褐色の肌をしてはいるが、予想通りエルナトとほぼ同じ顔をしている。だが彼よりも少し瞳のラインが切れ長で、ちょっと気の強そうな印象だ。黒髪の奥に隠れた耳は丸く、ヒト型と似ているせいか獣人型の要素が感じられなかった。
拭ききれていない髪はまだちょっと濡れていて、滴り落ちる水滴が肌を伝い落ち、艶かしい雰囲気を漂わせている。そのせいか、この部屋が寝室である事を妙に意識してしまい、私の鼓動が否応無しに早まってしまった。
「今のままじゃ寝具が濡れるね」
エルナトがクルスの頭に手をかざす。その途端、彼の濡れた髪の毛が一瞬で乾いた。
え。ちょ、ちょっと待って、このブラッシングタイムは必要無かったんじゃ?
とは思ったが、今度の事を考えると必要だった…… のよね、と無理矢理割り切ることにしたのだが——
私に魔法を使わせない為、きっとそう。だけどそれならそれで、今みたいに毎回一瞬で乾かしてもらえばいいのでは?あ、いや…… 自分でやる姿勢が大事よ、うん。きっとそうなの。
『よし、割り切ったぞ』と言い切るには、もうちょっと時間が必要そうだ。
「じゃあ髪も乾いた事ですし、今夜は早めに眠ろうか」
と言って、エルナトが私の両肩に手を置き、耳元に顔を近づけてくる。クルスは髪を掴んだまま離してくれないし、心なしか高揚感を漂わせている気がするのだが、私の盛大な勘違だろうか?
「じゃ、じゃあ私も休みますね」
二人のバグった距離感のせいで心臓がものすごく煩い。勝手に赤くなってしまう顔を見せまいと視線を逸らし、早々にこの部屋から出るべく椅子から立ち上がった。だが即座に腰をぐっとクルスに抱かれ、ドアの方へと向かう事を阻止されてしまう。
「あ、あの——」
声が震え、二人の目を見られない。
「添い寝、してくれるんだろう?」
「本も用意しておいたんで、ちゃんと僕らが眠るまで読んでいて下さいね」
左右の耳元で囁かれ、私はあんな契約をしてしまった事を激しく後悔した。
化粧品、着替え、洗面道具一式が完璧に揃ったシャワールームで体を洗い終えた後は真っ直ぐ自分の部屋に戻ったのだが、髪が濡れたままで気持ちが悪い。
あぁー!ドライヤーが欲しいっ。
タオルでガシガシ髪を拭いてもなかなか乾かず、苛立った末に魔法を使って乾かす事も考えた。だけどエルナトに魔法を使う事を止められているので、すぐに諦める羽目に。
「うぅ、魔法科学文明が恋しい…… 。これじゃあ、髪が乾くまで寝られないじゃない——って、それ以前に布団!」
布団の事を訊くのをすっかり忘れていた。
時間的にもまだ二人共起きているだろうし、布団を貸してもらいに行かないと。
そう思って頭にタオルを被ったまま部屋から出ようとすると、ドアをトントンッとノックする音が。どっちだろうか?と思いながら「どうぞ」と答えるとすぐに扉が開き、さらりとした銀髪をなびかせながらエルナトが隙間から顔を見せた。
「何か困った事はないですか?必要な物や、足りない物があればお持ちしますよ」
「ド——。か、髪を乾かすのに、何か便利な物はありますか?」
“ドライヤー”と言いそうになったが、どうにか回避した。冒頭で変な言い回しをしてしまった事を変に思われていないといいが。
「それなら僕にお任せを。こちらにどうぞ」
あ、持って来てくれる様な物は無いのか。
「ありがとうございます」
軽く頭を下げ、廊下を数歩歩き始めたエルナトの後に続く。彼はすぐ隣にある部屋の扉のノブに手をかけると、大きく開けて私が先に入る様にと促した。
十畳以上もありそうな室内にはお洒落な鏡台と椅子、天蓋付きの巨大なベッド、その脇に置かれた引き出し付きのナイトテーブル、背の高い観葉植物しかない。なのにベッドの存在感があまりに激しくてコレ以上無い程に『寝室』と言うに相応しい空間だ。キングサイズよりも更に横幅が大きく、天蓋もあるせいでこのまま外に置けばグランピングをするのにも使えそうな程だ。
「…… 失礼します」
な、なんなんだこの部屋は。
そう思うせいで、ちょっと不自然な声が出た。
昼間、家の中を案内してもらった時には中までは見なかった部屋だったが、こんな室内では異性に容易く見せる気にはなれないのも納得だ。一人で眠るにはあまりにも大き過ぎる気がするが、もしかしたらかなり寝相が悪いんだろうか。
「そこにある鏡台の椅子に座っていて下さい。今、髪を乾かせる物を持って来ますから」
彼もシャワーないしお風呂を済ませた後の様で、昼間よりも更に拍車をかけていい匂いがする。ミントっぽいさっぱりとした香りだ。動くたびにほのかに漂う香りが気分をさっぱりさせてくれる。
「では、失礼して」
言われた通り椅子に座った。
大きな鏡の前にはポプリの入ったガラス瓶が飾ってあり、そこからは甘い香りが漂っている。彼からする香りとは違う系統なのに喧嘩する事なく匂いが混じり、私の興味をくすぐった。
なんの香りだろうか?
「お待たせしました」と言ってエルナトは私の背後に立つと、当たり前のように髪に触れてきた。その行動に驚き、咄嗟に体を引き、少しだけ距離を取る。弟妹以外には気安く触れられた経験が無いせいか心臓がバクバクと跳ねてしまい、煩いくらいだ。多分これは、彼の端正過ぎる顔のせいだ。『貴方はもしかして、金色の指輪を溶岩に投げ込む為に旅する映画の出演者の一人ですか⁉︎』と騒ぎたくなる程のエルフ系イケメンに触れられて、心臓が勝手にびっくりしてしまったんだ、きっと。
「…… あ、すみません。僕が髪を乾かそうと思ったのですが、嫌でしたか?」
エルナトがひどく傷付いた表情をしている。振り払うに近い事をしてしまったのは確かだが、何もここまで落ち込む程の事ではなかったはずだ。だけど、こうも見目麗しい人だったら誰からでも好かれているはず。そうなると、こういった態度には慣れていないのかもしれない。
「いえ、急だったのでちょっと驚いただけです」
「じゃあ、今からこの、雨露に濡れる美しい薔薇色の髪に触れてもいいですか?」
心配そうに訊かれたが、「いいえ、自分でやりますので乾かす物を借りられますか?」と言って断った。『あれはダメ』『これは危ない』があまりにも多過ぎる一日だったせいで、少しだけ自分の表情が固くなる。
一瞬、エルナトが目を見張った。だがその表情はすぐに笑顔の奥に隠れ、ゆっくりと彼が頭を横に振った。
「それはいけません。だけどそれは、自分でやるには慣れが必要だからです。扱い方を今教えますから、次からは自分でやってみましょうか」
「…… 」
譲歩してくれた、のかな?
その事がちょっと嬉しくって、私は「ありがとうございます」と素直な気持ちでお礼を口に出す事が出来た。
「本当なら、『危険だから毎日僕らが乾かす』と言いたいのですけどね。でもその…… 貴女の、人任せにしない姿勢がちょっと嬉しかったです」
「当然では?自分の事は自分でやらないと。人任せにしていいのは、自分ではやれない理由のある人か、行為に対して対価を払える人だけだと思いますけど」
「そうかもしれませんね。でも、そういう考えじゃないヒトもいますから…… 」
俯きながらそう口するエルナトの顔を見て、胸の奥がちくりと痛んだ。何故だかこの痛みは罪悪感に近いものの様な気がする。私は一度も彼らに無償で何かを要求してはいないのに、なんでこんな気持ちになるんだろうか。
「まずは、使い方を教えましょう」
「お願いします」
内情を隠して頷くと、エルナトが手に持っている物を私の前に差し出してくれた。それを受け取り、全体を把握しようと観察してみる。見た目はただのちょっと大きめなブラシの様だ。木製のそれは持ち手の部分に花柄が掘り込んであり、ブラシ部分は動物の毛を使用した物っぽい。中央部分には火のマークが入っていて、うっすらと光を帯びており、魔力の気配も感じられるので、このブラシが生活魔法を閉じ込めた魔法道具の一種である事がわかった。
「これで髪を梳かせば乾かす事が出来ます。でも、乾く速度が遅いからといって、絶対に自分の魔力を込めないで下さいね。過剰反応を起こして、髪を焦がす恐れがありますから」
「え、それは怖いですね…… 」
「ヒト型の者達向けの物なので、エルフ型の人達がヤキモキしてたまにやってしまうんです。せっかちな者が半分以上の髪を焦がしてしまって、泣きながら美容院に駆け込むなんて話もたまに聞きますよ」
「悲鳴モノの大惨事ですね、気を付けます」
「今日は僕が髪を乾かしますから、加減を覚えておくといいですよ」
そう言ってエルナトは私の髪を束で掴むと、ブラシを当ててゆっくりと梳かし始めた。
頭皮に軽く当たるたびに温かい感触が気持ちよく、頭皮マッサージをしてもらっているみたいな感じがする。髪の濡れた感触が段々と減ってくれているが、本当にとてもゆっくりで、せっかちさんが魔力を込めて一気に乾かしたくなる気持ちがちょっとわかった気がした。
「気持ちいいでしょう?豚の毛を使った物なんで、しなやかだし頭皮を傷付けないんです」
「そうですね。これも貴方が作ったんですか?」
「はい。とは言っても、出来合いの物を買って、持ち手の部分に花柄を彫って生活魔法を閉じ込めた宝石を埋め込んでみただけですけどね」
「そこまでやれば、もう手作りしたも同然なのでは?すごいと思います、私はそういった類の細工がからっきし出来ないので」
「向き不向きのある作業ですからね。でもその分ナナリーは、そこに居るだけで華があるからいいじゃないですか」
「…… あはは、お世辞が上手ですね」
「いいえ、お世辞なんかじゃありません。この部屋の香りの、月下香みたいなヒトに会えたのは長く生きている僕でも、初めてですよ」
その表現の意味が私には伝わらず、空笑いを浮かべながら目の前の鏡を見詰める。この世界ではごく自然な例え話じゃないといいけど、と思うと少し不安になった。
それにしても、何て無駄に大きなベッドなんだ。鏡台の鏡だってそれなりに大きいはずなのに、私達とベッドしか映っていない。天蓋から下がる布は白いレース製で通気が良さそうだが、あれにも魔力の気配がするから暗幕の様な効果も付与しているかもしれない。へッドボードの辺りには枕が何個も並んでいて、あんなに置く意味はあるんだろうか?と不思議に思った。
…… そうだ、布団!
頭皮マッサージを受けているみたいな状況のせいですっかり忘れていた。
「あの、髪が乾いたら布団を一式借りたいんですが」
「…… 布団ですか?」
「はい。用意してもらった部屋にベッドが無かったので、布団をお借り出来ればと」
「あはは。ご心配なく、寝る場所はちゃんとありますから」
「そうなんですか?」
きょとんとした顔をしていると、部屋の扉が開き、クルスが髪をタオルでガシガシと拭きながら室内に入って来た。
彼は真っ直ぐに私達の側まで来て立ち止まると、私の髪を束で掴んで状態を確認し、「乾いたな」と言いながら掴んだままの髪に対し口付けをしてきた。
「——⁉︎」
な、な、何をされたの⁉︎
驚いて反射的に逃げる事も、まるで騎士や紳士みたいだと喜ぶ事も、何もかも出来ずに硬直していると、エルストとクルスの顔が同時に綻んだ。
「シャンプーの類をこの香りにして正解だったな、ナナリーによく似合いっている」
満足気な声でそう言うと、クルスは顔に着けていた烏っぽい仮面を外して鏡台の上に置いた。
褐色の肌をしてはいるが、予想通りエルナトとほぼ同じ顔をしている。だが彼よりも少し瞳のラインが切れ長で、ちょっと気の強そうな印象だ。黒髪の奥に隠れた耳は丸く、ヒト型と似ているせいか獣人型の要素が感じられなかった。
拭ききれていない髪はまだちょっと濡れていて、滴り落ちる水滴が肌を伝い落ち、艶かしい雰囲気を漂わせている。そのせいか、この部屋が寝室である事を妙に意識してしまい、私の鼓動が否応無しに早まってしまった。
「今のままじゃ寝具が濡れるね」
エルナトがクルスの頭に手をかざす。その途端、彼の濡れた髪の毛が一瞬で乾いた。
え。ちょ、ちょっと待って、このブラッシングタイムは必要無かったんじゃ?
とは思ったが、今度の事を考えると必要だった…… のよね、と無理矢理割り切ることにしたのだが——
私に魔法を使わせない為、きっとそう。だけどそれならそれで、今みたいに毎回一瞬で乾かしてもらえばいいのでは?あ、いや…… 自分でやる姿勢が大事よ、うん。きっとそうなの。
『よし、割り切ったぞ』と言い切るには、もうちょっと時間が必要そうだ。
「じゃあ髪も乾いた事ですし、今夜は早めに眠ろうか」
と言って、エルナトが私の両肩に手を置き、耳元に顔を近づけてくる。クルスは髪を掴んだまま離してくれないし、心なしか高揚感を漂わせている気がするのだが、私の盛大な勘違だろうか?
「じゃ、じゃあ私も休みますね」
二人のバグった距離感のせいで心臓がものすごく煩い。勝手に赤くなってしまう顔を見せまいと視線を逸らし、早々にこの部屋から出るべく椅子から立ち上がった。だが即座に腰をぐっとクルスに抱かれ、ドアの方へと向かう事を阻止されてしまう。
「あ、あの——」
声が震え、二人の目を見られない。
「添い寝、してくれるんだろう?」
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当然の事ながら、この話はフィクションです。
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