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【第一章 (雨宮七音・談)】
【第四話】魔装具店
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沢山のパンが詰まった大小二つの紙袋を片腕で抱え、手描きの地図を頼りに件の魔装具店前まで辿り着いた。
パン屋からはさほど離れておらず、たった数分程度の距離を運ぶ報酬として千円分相当のパンをもらってしまったのだが…… 今更ながら本当に良かったのだろうか?原価を考えればそれほど手痛い損失ではないのかもしれないが、それでも申し訳ないと思う気持ちが捨て切れない。
『気にしないでぇ。その代わり、是非また来てね。美人さんが店内に居ると客寄せにもなるから。ふふっ』
パンの入る袋を受け取った時、これでは流石に多過ぎると戸惑う私に彼女はそう言ってくれた。
この世界へ来て初めて遭遇した人が、下心を隠す事もしない程に裏表の無い優しい人で良かった。上手くいけば仕事にも有り付けるかもしれないし、考えていたよりも幸先のいいスタートを切れるかもしれない。
『オープン』と書かれた札を確認し、店の引き戸に手を掛けた。
メイン通りにはレンガや石材を使った洋風テイストな店構えが多いのに、この店は珍しく屋根瓦を使った和風の造りで、京都にでも建っていそうな雰囲気だ。灰桜色の外壁は目に優しく、木製の格子をあしらった丸窓には木彫りのミヤコワスレの花束があしらっていてとても上品だ。店先には小さな植木鉢も置いてあり、フクジュソウ、ムスカリやオダマキなど開花時期がバラバラなのにも関わらず綺麗に花を咲かせていた。
きちんとは覚えていないが、どれも悲しい花言葉だった気がする。…… 考え過ぎ、かな。ただ見た目が好きなだけかもしれないし。どれも清楚な雰囲気で綺麗だものね。
「——いらっしゃいませ」
引き戸を開け、店内に足を踏み入れて、さっと軽く周囲を見渡す。
外観と同じく内装も和風尽くしだ。だが陳列棚に並んでいる商品のデザインは一部にかんざし風の物もあるにはあるが、そのほとんどは洋風なものばかりだった。魔装具の店だと聞いてはいたが、一見しただけではアクセサリーショップの様に感じられ、色とりどりの宝石が埋め込まれた装飾品がランタンの明かりを受けて優しく光り輝いている。薬瓶の様な物も多数陳列されているが、それらはどれも香水瓶の様にお洒落な物ばかりで、見ているだけでちょっと楽しくなってきた。
「何かお探しですか?」
落ち着いた声色で再びこちらに対して声を掛けてきた店員の方へ視線をやると、彼は少しだけ目を見張った様な顔をしたが、その表情はすぐに穏やかな笑みへと変わった。私が何か変な事でもしてしまっただろうか?と不安になったが、「美味しそうな匂いですね。買い物帰りですか?」と訊かれ、先程の表情はこちらの気のせいだったのかなと考え直した。訳も分からずいきなり並行世界なんかに来たから、ちょっと気を張り過ぎているのかもしれない。
「いえ。こちらは貴方へのお届け物です。…… えっと、あ——」
パン屋の名前覚えていなかった事を思い出し、言葉が詰まる。
昨日飛ばした蝶々はもう全て使い切ってしまったし、諜報員の魔法で得られた知識の中には、あのパン屋も店員の名前の情報も全く無かった。
「あぁ、リゲルさんのお使いですね?ありがとうございます。こんな美人の獣人さんをお雇いになるとは。明日からは毎日三食ともパンの宅配をお願いしなければいけませんね。もちろん、可憐な貴女を指名して」
それ、死にますよ?栄養不足で。
袋から溢れるパンの香りでコレがどこからのお届け物なのか察してくれて助かった。でも宅配で注文した品だったそうだし、推測するのは簡単か。
それにしても、あの年配の店員さんの名前はリゲルというのか。ご近所の店だし、また行く約束もしているからちゃんと覚えておこうと思う。だがその前にまずは彼の健康の為にも誤解を解かなければ。
「いいえ。私は今回限りのお手伝いで、パン屋の店員ではありません。なので、朝くらいは毎日宅配のパンでもいいでしょうけど、流石にお昼と晩御飯はきちんと栄養価の高いものを食べて下さいね」
私がそう言うと、魔装具の店員さんがあからさまに肩を落とし、残念そうに俯いた。
「そうですか。とても残念ですが、貴女の金言の如きその言葉はきちんと受け止めておくとします」と言って彼は、自らの胸にそっと手を当て、大袈裟な仕草でがくりと項垂れてしまった。
陶器のように綺麗な色白の肌、優しそうなライトブルー色をした瞳を銀縁のモノクルの奥に隠し、肩まであるであろう銀色の長い髪を後ろで緩く束ねた髪型がよく似合うこの男性は、耳がファンタジーの物語に登場するエルフみたいに尖っている。金糸の上品な刺繍の入った学者風の白いローブを着ており、治癒魔法系が得意そうな雰囲気だ。
ちょっと優しく微笑むだけで周囲に花が咲いたような錯覚を他者に与えそうなくらい美しい人が、何故こうも落ち込むのか理由がよくわからないが、私は紙袋を抱えたまま少し彼に近づき、「大丈夫ですか?」と声を掛けた。
「えぇ、大丈夫です。…… 貴女は薔薇の様に美しいだけでなく、瑞風を彷彿とさせる程お優しいんですね」
ニコッと微笑むと、彼は私の頬を両手で包み、指先だけでそっと肌を撫でてきた。壊物でも扱うみたいな触れ方だからか知らない人に触られたという不快感を感じさせない。何故か、彼が私を、まるで懐かしむ様な瞳でじっと見つめてきているせいかもしれない。
どちらとも目の離せないまま、互いに見つめ合ってしまう。時が止まった様だ、という表現がぴったりなくらいに長く、穏やかに時計が時間を刻んでいく。
そんな中、ぐぅぅと情けない音が二人の間に響いてしまった。
茶々を入れたのはもちろん、空腹に耐えられないままでいる私の胃袋だ。私自身の認知範囲では丸一日近く何も飲食していないうえに美味しそうな匂いだけはずっと近くから漂い続けていては、これ以上堪え続ける事が出来ないのも当然だろう。
「す、すみません。朝食がまだだったもので」
この体が実際にはどうなのかは別として、朝食どころか昨日の晩御飯だって食べていない事までは恥ずかしいので話さなかった。
一歩後退して彼の手から離れ、軽く頭を下げて詫びを入れる。すると彼は嬉しそうに微笑み、店の入り口の方へ行ったかと思うと、『オープン』と書かれていたプレートを『クローズ』の方へとひっくり返し、きらきらと輝く笑顔をこちらに向けて「じゃあ、一緒に朝ご飯を食べましょうか」と誘ってきた。
ん?知らない人と?急に?
彼は目の保養になるくらいに美丈夫だが、この誘いを素直に受けるべきか迷ってしまう。先程のパン屋さんといいこの人といい、人懐っこい性格というのがこの世界の仕様なのだろうか。
「すみませんがお断りします。知らない人の誘いには応じるなと、祖父母に言われていますので」
私はこの人にパンを届け、そのついでに仕事の話を訊きに来ただけだ。決して彼と食事を共にする為ではないので、直様丁重にお断りした。
だが彼は自身の胸にそっと手を当てて、「まぁまぁ、そう言わずに。僕はエルナト・カストルといいます。この店の店主で、店内の魔装具は全て僕の作品です」と自己紹介を始め、「——これで、知らない人ではなくなりましたよね?」と言って近くにあった椅子を引き、半強制的に私をそこへ座らせた。
どうやらこの席は、本来なら商談用に置かれたものの様だ。ワインレッド色をしたベルベット生地の椅子は座り心地がとても良く、無駄に豪奢なデザインではなくても、高級品である事が即座に分かった。
「そうだ、鈴蘭が如く美しい貴女がパン屋の店員ではないのなら、ウチで働きませんか?他で働くよりも給与だっていいですし。ね?」
確かに私はその件でも来たのだが、展開の早さについていけない。
彼のパンはまだ私の膝上にあって渡せていないし、自分は仕事を探しているとも言っていないのに、どうして私を雇いたいという話を向こうからしてきたのだろうか?まさか求職者が来る事を事前に知っていた?いや…… 店の外には募集の紙を貼っていなかった。パン屋から事前に連絡を受けていたという可能性もあるが、この数分程度ではそれが解である確率は低そうだ。それに科学分野がロストしているこの世界では通信手段は限られているはず。ここは慎重に行動して、並行世界から来た事は隠しておかねば。そして、他人名義で仕事を探している事もバレない様に、きちんと言葉を選ばないと。
「えっと、それよりもまずは、そちらにこのパンをお渡ししてもいいですか?」
「そういえばそうですね。すみません、貴女が大きな袋を抱えている姿が愛らしくって、すっかり受け取るのを忘れていました。あぁ、今までその美しい腕に抱かれていた物を僕が受け取る事が出来るだなんて、考えただけでドキドキしてきます」
えっと…… この人は一々周りくどい事を言わないと喋れないタイプの人なのかな?
嬉しいというよりも困ってしまう。本来はモブ顔な私は容姿を褒められ慣れていないせいか、ここまで言われ過ぎると何だかむず痒い気持ちに。
「では、こちらをどうぞ」
すっと大きな袋の方を目の前のテーブルに置く。すると彼は何も無かったはずのテーブルの上に手をかざして大きめの皿を出現させ、冷たい牛乳の入るガラス製の水瓶や、小さな銀色のトング、お手拭きタオル、小皿までもが瞬時に並んだ。まるでマジックみたいだが、これらはきっと転移系の魔法を使ったのだろう。
朝食の誘いは断ったんだけどなぁ…… 。
と思いながらも黙って様子を窺っていると、彼は大きな袋の中からトングを使ってパンを全て取り出し、大きなお皿の上にそれらを並べた。とてもじゃないが朝から一人で食べる様な量ではなく、やはり私が来る事を予見していたのでは?と錯覚してしまう。
「どれでもお好きな物をどうぞ。ここのパン屋の品はどれも美味しいですが、ウィンナーの挟まったコレが一番おすすめですよ」
牛乳の入るカップを私の前にそっと置き、彼が一つのパンを勧めた。カストルが軽く指先でカップの淵を叩くと冷たい牛乳がホットミルクに早変わりし、気遣いが胸に沁みる。
空腹時に冷たいものはお腹に響くものね、カストルさんはイケメンってだけじゃなく、スパダリ系ってやつかも。
断りを無視する強引な所はあれど、不思議と不快感は無い。どうせ仕事の内容や雇用条件などを聞くのに時間がかかるだろうし、今から『それでも』と断るには相当労力が必要そうだ。もうこの際、この誘いに応じてみよう。
「じゃあ、遠慮なくおすすめのパンを頂きます」
礼を言ってトングに手を伸ばそうとすると、カストルが先に動き、私の前に置かれた小皿の上におすすめのパンをのせてくれた。
「ありがとうございます」
「いえいえ。他のパンも好きなだけ食べて下さいね」
彼は小さめのクロワッサンを手に取り、少しづつそれを食べ始める。揃って黙々とパンを食べていると、嬉しそうにカストルがクスッと笑い、「二人で食べると、より一層美味しいですね」と言われた。
「…… そう、ですね」
美しい以外では形容し難い容姿の人の笑顔の破壊力は凄まじく、同意以外の言葉が口から出てこなかった。
「あの、一つ訊いてもいいですか?」
食事が一段落し、ずっと一定温度を維持しているホットミルクの入るカップを手に持ったまま問いかける。
「はい。何でしょう?マイレディ」
…… 反応に苦しむ言葉が最後に追加されていたが、さらっと受け流す事に決めた。
「こちらの店で人手が必要らしいとパン屋のリゲルさんから聞いたのですが、先程の話から察するにまだ募集中で間違い無いですか?」
「はい。僕としては是非類まれな美を誇る貴女に此処で働いて欲しいです。明日…… いや、今日この瞬間からでも、すぐに」
「えっと、面接も無しで、ですか?」
どこの馬の骨ともわからぬ者を、こんな高級そうな店に受け入れる事に対する懸念は無いのだろうか?と、こちらが不安になってくる。ありがたい事ではあれども、名前も身元確認もせずに、何故こうも彼は、私を雇い入れる事に積極的なんだろうか?
「面接ですか。荘厳な美しさを秘めた貴女は、わざわざ面接をしたいですか?」と言い、エルナトが小首を傾げた。
「…… した方が、良いのでは?私はまだ、自己紹介すらもしていませんし」
「それもそうですね。では、雨露に濡れる赤薔薇の様な貴女の要望通り、今から面接をしましょうか。貴女と言葉を交わす時間が多いのは、僕にとっても喜ばしい事なので」
…… 雇い入れてもらう側からの要望で面接を行うって、あべこべ過ぎやしませんか?という言葉は、雇用主(仮)の前では黙っておく事にした。
パン屋からはさほど離れておらず、たった数分程度の距離を運ぶ報酬として千円分相当のパンをもらってしまったのだが…… 今更ながら本当に良かったのだろうか?原価を考えればそれほど手痛い損失ではないのかもしれないが、それでも申し訳ないと思う気持ちが捨て切れない。
『気にしないでぇ。その代わり、是非また来てね。美人さんが店内に居ると客寄せにもなるから。ふふっ』
パンの入る袋を受け取った時、これでは流石に多過ぎると戸惑う私に彼女はそう言ってくれた。
この世界へ来て初めて遭遇した人が、下心を隠す事もしない程に裏表の無い優しい人で良かった。上手くいけば仕事にも有り付けるかもしれないし、考えていたよりも幸先のいいスタートを切れるかもしれない。
『オープン』と書かれた札を確認し、店の引き戸に手を掛けた。
メイン通りにはレンガや石材を使った洋風テイストな店構えが多いのに、この店は珍しく屋根瓦を使った和風の造りで、京都にでも建っていそうな雰囲気だ。灰桜色の外壁は目に優しく、木製の格子をあしらった丸窓には木彫りのミヤコワスレの花束があしらっていてとても上品だ。店先には小さな植木鉢も置いてあり、フクジュソウ、ムスカリやオダマキなど開花時期がバラバラなのにも関わらず綺麗に花を咲かせていた。
きちんとは覚えていないが、どれも悲しい花言葉だった気がする。…… 考え過ぎ、かな。ただ見た目が好きなだけかもしれないし。どれも清楚な雰囲気で綺麗だものね。
「——いらっしゃいませ」
引き戸を開け、店内に足を踏み入れて、さっと軽く周囲を見渡す。
外観と同じく内装も和風尽くしだ。だが陳列棚に並んでいる商品のデザインは一部にかんざし風の物もあるにはあるが、そのほとんどは洋風なものばかりだった。魔装具の店だと聞いてはいたが、一見しただけではアクセサリーショップの様に感じられ、色とりどりの宝石が埋め込まれた装飾品がランタンの明かりを受けて優しく光り輝いている。薬瓶の様な物も多数陳列されているが、それらはどれも香水瓶の様にお洒落な物ばかりで、見ているだけでちょっと楽しくなってきた。
「何かお探しですか?」
落ち着いた声色で再びこちらに対して声を掛けてきた店員の方へ視線をやると、彼は少しだけ目を見張った様な顔をしたが、その表情はすぐに穏やかな笑みへと変わった。私が何か変な事でもしてしまっただろうか?と不安になったが、「美味しそうな匂いですね。買い物帰りですか?」と訊かれ、先程の表情はこちらの気のせいだったのかなと考え直した。訳も分からずいきなり並行世界なんかに来たから、ちょっと気を張り過ぎているのかもしれない。
「いえ。こちらは貴方へのお届け物です。…… えっと、あ——」
パン屋の名前覚えていなかった事を思い出し、言葉が詰まる。
昨日飛ばした蝶々はもう全て使い切ってしまったし、諜報員の魔法で得られた知識の中には、あのパン屋も店員の名前の情報も全く無かった。
「あぁ、リゲルさんのお使いですね?ありがとうございます。こんな美人の獣人さんをお雇いになるとは。明日からは毎日三食ともパンの宅配をお願いしなければいけませんね。もちろん、可憐な貴女を指名して」
それ、死にますよ?栄養不足で。
袋から溢れるパンの香りでコレがどこからのお届け物なのか察してくれて助かった。でも宅配で注文した品だったそうだし、推測するのは簡単か。
それにしても、あの年配の店員さんの名前はリゲルというのか。ご近所の店だし、また行く約束もしているからちゃんと覚えておこうと思う。だがその前にまずは彼の健康の為にも誤解を解かなければ。
「いいえ。私は今回限りのお手伝いで、パン屋の店員ではありません。なので、朝くらいは毎日宅配のパンでもいいでしょうけど、流石にお昼と晩御飯はきちんと栄養価の高いものを食べて下さいね」
私がそう言うと、魔装具の店員さんがあからさまに肩を落とし、残念そうに俯いた。
「そうですか。とても残念ですが、貴女の金言の如きその言葉はきちんと受け止めておくとします」と言って彼は、自らの胸にそっと手を当て、大袈裟な仕草でがくりと項垂れてしまった。
陶器のように綺麗な色白の肌、優しそうなライトブルー色をした瞳を銀縁のモノクルの奥に隠し、肩まであるであろう銀色の長い髪を後ろで緩く束ねた髪型がよく似合うこの男性は、耳がファンタジーの物語に登場するエルフみたいに尖っている。金糸の上品な刺繍の入った学者風の白いローブを着ており、治癒魔法系が得意そうな雰囲気だ。
ちょっと優しく微笑むだけで周囲に花が咲いたような錯覚を他者に与えそうなくらい美しい人が、何故こうも落ち込むのか理由がよくわからないが、私は紙袋を抱えたまま少し彼に近づき、「大丈夫ですか?」と声を掛けた。
「えぇ、大丈夫です。…… 貴女は薔薇の様に美しいだけでなく、瑞風を彷彿とさせる程お優しいんですね」
ニコッと微笑むと、彼は私の頬を両手で包み、指先だけでそっと肌を撫でてきた。壊物でも扱うみたいな触れ方だからか知らない人に触られたという不快感を感じさせない。何故か、彼が私を、まるで懐かしむ様な瞳でじっと見つめてきているせいかもしれない。
どちらとも目の離せないまま、互いに見つめ合ってしまう。時が止まった様だ、という表現がぴったりなくらいに長く、穏やかに時計が時間を刻んでいく。
そんな中、ぐぅぅと情けない音が二人の間に響いてしまった。
茶々を入れたのはもちろん、空腹に耐えられないままでいる私の胃袋だ。私自身の認知範囲では丸一日近く何も飲食していないうえに美味しそうな匂いだけはずっと近くから漂い続けていては、これ以上堪え続ける事が出来ないのも当然だろう。
「す、すみません。朝食がまだだったもので」
この体が実際にはどうなのかは別として、朝食どころか昨日の晩御飯だって食べていない事までは恥ずかしいので話さなかった。
一歩後退して彼の手から離れ、軽く頭を下げて詫びを入れる。すると彼は嬉しそうに微笑み、店の入り口の方へ行ったかと思うと、『オープン』と書かれていたプレートを『クローズ』の方へとひっくり返し、きらきらと輝く笑顔をこちらに向けて「じゃあ、一緒に朝ご飯を食べましょうか」と誘ってきた。
ん?知らない人と?急に?
彼は目の保養になるくらいに美丈夫だが、この誘いを素直に受けるべきか迷ってしまう。先程のパン屋さんといいこの人といい、人懐っこい性格というのがこの世界の仕様なのだろうか。
「すみませんがお断りします。知らない人の誘いには応じるなと、祖父母に言われていますので」
私はこの人にパンを届け、そのついでに仕事の話を訊きに来ただけだ。決して彼と食事を共にする為ではないので、直様丁重にお断りした。
だが彼は自身の胸にそっと手を当てて、「まぁまぁ、そう言わずに。僕はエルナト・カストルといいます。この店の店主で、店内の魔装具は全て僕の作品です」と自己紹介を始め、「——これで、知らない人ではなくなりましたよね?」と言って近くにあった椅子を引き、半強制的に私をそこへ座らせた。
どうやらこの席は、本来なら商談用に置かれたものの様だ。ワインレッド色をしたベルベット生地の椅子は座り心地がとても良く、無駄に豪奢なデザインではなくても、高級品である事が即座に分かった。
「そうだ、鈴蘭が如く美しい貴女がパン屋の店員ではないのなら、ウチで働きませんか?他で働くよりも給与だっていいですし。ね?」
確かに私はその件でも来たのだが、展開の早さについていけない。
彼のパンはまだ私の膝上にあって渡せていないし、自分は仕事を探しているとも言っていないのに、どうして私を雇いたいという話を向こうからしてきたのだろうか?まさか求職者が来る事を事前に知っていた?いや…… 店の外には募集の紙を貼っていなかった。パン屋から事前に連絡を受けていたという可能性もあるが、この数分程度ではそれが解である確率は低そうだ。それに科学分野がロストしているこの世界では通信手段は限られているはず。ここは慎重に行動して、並行世界から来た事は隠しておかねば。そして、他人名義で仕事を探している事もバレない様に、きちんと言葉を選ばないと。
「えっと、それよりもまずは、そちらにこのパンをお渡ししてもいいですか?」
「そういえばそうですね。すみません、貴女が大きな袋を抱えている姿が愛らしくって、すっかり受け取るのを忘れていました。あぁ、今までその美しい腕に抱かれていた物を僕が受け取る事が出来るだなんて、考えただけでドキドキしてきます」
えっと…… この人は一々周りくどい事を言わないと喋れないタイプの人なのかな?
嬉しいというよりも困ってしまう。本来はモブ顔な私は容姿を褒められ慣れていないせいか、ここまで言われ過ぎると何だかむず痒い気持ちに。
「では、こちらをどうぞ」
すっと大きな袋の方を目の前のテーブルに置く。すると彼は何も無かったはずのテーブルの上に手をかざして大きめの皿を出現させ、冷たい牛乳の入るガラス製の水瓶や、小さな銀色のトング、お手拭きタオル、小皿までもが瞬時に並んだ。まるでマジックみたいだが、これらはきっと転移系の魔法を使ったのだろう。
朝食の誘いは断ったんだけどなぁ…… 。
と思いながらも黙って様子を窺っていると、彼は大きな袋の中からトングを使ってパンを全て取り出し、大きなお皿の上にそれらを並べた。とてもじゃないが朝から一人で食べる様な量ではなく、やはり私が来る事を予見していたのでは?と錯覚してしまう。
「どれでもお好きな物をどうぞ。ここのパン屋の品はどれも美味しいですが、ウィンナーの挟まったコレが一番おすすめですよ」
牛乳の入るカップを私の前にそっと置き、彼が一つのパンを勧めた。カストルが軽く指先でカップの淵を叩くと冷たい牛乳がホットミルクに早変わりし、気遣いが胸に沁みる。
空腹時に冷たいものはお腹に響くものね、カストルさんはイケメンってだけじゃなく、スパダリ系ってやつかも。
断りを無視する強引な所はあれど、不思議と不快感は無い。どうせ仕事の内容や雇用条件などを聞くのに時間がかかるだろうし、今から『それでも』と断るには相当労力が必要そうだ。もうこの際、この誘いに応じてみよう。
「じゃあ、遠慮なくおすすめのパンを頂きます」
礼を言ってトングに手を伸ばそうとすると、カストルが先に動き、私の前に置かれた小皿の上におすすめのパンをのせてくれた。
「ありがとうございます」
「いえいえ。他のパンも好きなだけ食べて下さいね」
彼は小さめのクロワッサンを手に取り、少しづつそれを食べ始める。揃って黙々とパンを食べていると、嬉しそうにカストルがクスッと笑い、「二人で食べると、より一層美味しいですね」と言われた。
「…… そう、ですね」
美しい以外では形容し難い容姿の人の笑顔の破壊力は凄まじく、同意以外の言葉が口から出てこなかった。
「あの、一つ訊いてもいいですか?」
食事が一段落し、ずっと一定温度を維持しているホットミルクの入るカップを手に持ったまま問いかける。
「はい。何でしょう?マイレディ」
…… 反応に苦しむ言葉が最後に追加されていたが、さらっと受け流す事に決めた。
「こちらの店で人手が必要らしいとパン屋のリゲルさんから聞いたのですが、先程の話から察するにまだ募集中で間違い無いですか?」
「はい。僕としては是非類まれな美を誇る貴女に此処で働いて欲しいです。明日…… いや、今日この瞬間からでも、すぐに」
「えっと、面接も無しで、ですか?」
どこの馬の骨ともわからぬ者を、こんな高級そうな店に受け入れる事に対する懸念は無いのだろうか?と、こちらが不安になってくる。ありがたい事ではあれども、名前も身元確認もせずに、何故こうも彼は、私を雇い入れる事に積極的なんだろうか?
「面接ですか。荘厳な美しさを秘めた貴女は、わざわざ面接をしたいですか?」と言い、エルナトが小首を傾げた。
「…… した方が、良いのでは?私はまだ、自己紹介すらもしていませんし」
「それもそうですね。では、雨露に濡れる赤薔薇の様な貴女の要望通り、今から面接をしましょうか。貴女と言葉を交わす時間が多いのは、僕にとっても喜ばしい事なので」
…… 雇い入れてもらう側からの要望で面接を行うって、あべこべ過ぎやしませんか?という言葉は、雇用主(仮)の前では黙っておく事にした。
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