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【幕間の物語・①】

心の拠所(カムイ・談)

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 生まれ育った土地を離れ、宵闇市にある『弟切荘』という名のアパートに引っ越してきてから四日目。やっと、心待ちにしていた“彼の者”が隣室に入居してくれたおかげで少しは休む事が出来るようになった。だが、常時触れていたい気持ちが先走り、そのせいで隣室に居るとわかってはいても深くは眠れていない。だが幸か不幸か、儂の顔色が悪いと“彼の者”が心をこちらに向けてくれる。ゴミを投げに行く時も、商店街へ誘ってくれた時も。気遣いの気持ちが触れ合っている手や表情から伝わり、“省力化のせいで小さくなってしまっているこの体”の歩幅に合わせて歩いてくれる事が心底嬉しくって堪らなかった。

 こんなにも穏やかな時間は、三百年ぶりだ。

 逃すものか、奪われるものか、遠くへ何ぞもうやらぬ。——そんな事ばかりに心が支配されていた時には無かった幸せである。…… だが、自分は戻りたい。あの頃に。傍に居たい、名前を呼びたい、永遠に繋がっていたい。その願いだけはずっとワシの根底に残り続けている。


       ◇


 近傍の商店街でアパートの大家である服部と偶然出会い、儂の種族が“神族”であり、自身は半神半人の存在であると知った時の“彼の者”は酷く驚いた様子だった。あの様子ではきっと誰からも何も聞かされていなかったのだろう。

 昼ご飯を共にする約束も忘れ、放心状態となった彼女を部屋まで送る。内心もっと傍に居たかったが、今の自分は“彼の者”の許可が無ければ何も出来ないから、到着後はすぐ別れる流れとなった。

 この現状は、儂が、彼女の罰なので仕方がないのはわかっている。

 …… だが、随分とその縛りが緩い。彼女の言葉一つで簡単に解かれる程に。きっと儂の事を何も覚えていない弊害だろう。そうしたのも…… きっと“友”でもある“奴”じゃ。

(ならば儂は、この甘さをしっかりと活用せねば)

 自然にニタリと笑ってしまう口元を手で隠しつつ、一〇二号室に隣接する壁を背にして寄りかかる。そしてその辺に放置したままになっている筆と紙を手に取り、“彼の者”の生活音を聞きながら姿絵を描き始めた。“彼の者”の笑顔をいつも見ていられる様に、何枚も何枚も何枚も——


       ◇


 昼時も流れ行き、夕刻が迫った頃。一〇二号室に大家がやって来た。商店街で遭遇した時に、『夕方には脚立か何かを持って行く』みたいな事を言っていたからそれだろう。だが、何故そんな物が必要なんだろうか?これといってあの部屋に不備は無かったはずだが。

(そう言えば、随分と大きな鞄を持って此処まで来たから、それを片付ける為にか?)

 だとしたら申し訳ない事をした。このアパートの部屋の広さはせいぜい八畳程度だ。一人で暮らすには困らないであろう広さだろうが、いかんせん収納出来る箇所は少ない。元々あった押入れは洒落たベッドスペースに改装させたので、そのせいで大きな物は上部の空きスペースに詰め込む感じになる。だがそこに何かを納めるとなると女性である“彼の者”では無理がある。手伝ってやれれば良かったのだが——

(今の儂では…… 無理だな)

 自分の小さな手をじっと見て、深い溜め息を吐いた。こんな姿である事を情けなく思う。これでは“彼の者”も儂を頼りにはしない。保護対象である事も心くすぐられるものはあるが、“彼の者”の隣に立つに相応しい者からは程遠い。
「…… っ」
 悔しさを込めて、眺めていた両の手をギュッと握る。口元の震えをいい加減どうにかせねばと思っていると、急に隣から生活音の一切合切が聞こえなくなった。
「——っ⁉︎」
 驚き、急に振り返ったせいで膝に置いていた紙が床に散らばる。右手に持っていた筆を放って両の手を壁につけて直様耳も当てた。夜な夜な引っ掻き過ぎて『いずれ隣室に到達するのでは?』と思う程に削れた壁だというのに隣室からはもう何も聞こえない。本をめくる些細な音ならまだしも、意味もなく流しっぱなしになっている映像と共に流れる音や、足音すらもこちらには届かなくなった。

(…… 何故じゃ?)

 一瞬考え込んでしまったが、すぐに音を遮る効力のある札の存在を感じ取り、全てを察した。昔とは違って、本当に効果のある代物を誰でも対価を払えば手に入れられる世になった事を心底呪いたくなった。

「——っ!」

 “彼の者”の名前を叫んだはずなのに声にならない。許可が無いせいで制約が発動し、名前が喉の奥で消え去っていく。何度も何度も何度も叫んでも、結果は同じだ。だが叫ばずにはいられなかった。音を介し“彼の者”を身近に感じられているという事実だけがまともな精神を保てる寄る辺だったのに、それを断たれてしまったのだから。
「あぁ…… あぁぁぁ…… 」
 硬い爪でガリガリと壁を引っ掻く。だが力が入らず、体はすぐに頽れていった。畳に両手をつき、今度は畳を無心になって掻きむしる。“彼の者”が『聞かせない』と決断した以上、儂には止める権利は無い。全てを聞かれている事にも気が付いてはいなかったろうから致し方無いのだが…… 精神的支柱を失った様な気分だ。すぐ隣に居るのだという事実があろうが、それを感じ取れないのでは意味が無いのに。


 夜が更け、一層気持ちが追い込まれていく。真っ暗な部屋には月光すらも差し込まず、この世にたった一人にでもなった様な気分だ。耳に届くのは酷い雨音と雷が轟く音ばかりでは心が荒れ狂う一方だった。

 “彼の者”の寝息が聞きたい——

 心から願えども叶わず、気が滅入る。引っ掻き過ぎてボロボロになった畳が肌に刺さって痛いのに、それでも黙々と爪で抉り続けてしまう。

(…… 駄目だ。このままでは本当に、共倒れてしまう)

 はこの程度で消滅する訳にはいかぬのに、今にも消え入りそうだ。
 不意に昼間貰った紙袋が目に入り、力無くそれに手を伸ばした。封を丁寧に開けて中からアロマウッドとオイルを取り出す。この部屋には隣室にあるような洒落た飾り棚など無い。彼女の部屋さえ整えられればいいからと、この部屋の家具なんぞは木箱程度だ。其処に二つを並べ、店で見た通りのやり方で部屋をオイルの香りで充した。

『お部屋に置いておくと良い香りのおかげよく眠れるかもよ』

 “彼の者”はきっと何の気なしに言った言葉であろうが、この香りと、その言葉のおかげでやっと眠気が襲ってきた。宵闇がそっと安堵の時間をくれる。彼女自身の香りに包まれながら眠りたいのが本心ではあるが、この際壮大な欲は捨てねば。
 酷い有様にしてしまった畳に横たわり、瞼を閉じる。

(きっと隣室でも同じ香りがしているのだろう)

 そう思い込みながら眠りはしたが、命の炎がじわじわと消えかかっているという感覚は…… 無くなってはくれなかった。
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