近くて遠い二人の関係

月咲やまな

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回想と今の想い

額の傷跡【回想編】(烏丸・談)

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 あれは確か綾瀬と俺が、まだ小学三年くらいの頃だったと思う。
 放課後に近所のコンビニで食べる物を買い、河川敷にある坂道に並んで座り、一緒に軽食タイムを楽しんでいた。普段は甘いおやつやスナック菓子などを選ぶ事が多いのだが、その日は給食で出たメニューが二人揃ってあまり好みではなく、足りる量を食べられなかったせいでお腹が空いてしまい、レジ横のホットスナックコーナーにあったコロッケを買った。
 袋から取り出し、俺が少し出した状態で持って、綾瀬がソースをかけてくれる。彼女の指が汚れてしまい、それを赤い舌で舐め取る姿を見ていて少しドキドキした記憶があるのだが、あの時は何故そう感じたのか分からなかった。今ならばもう色々と妄想のネタにさせて頂き、発展させて昇華し、夜のお供として活用させてもらう所なのだが、あの時の俺はまだガキだったので心がざわついただけで終えてしまい、今更勿体無いなと思う。

『いただきます』

 それぞれのコロッケにソースをかけ終わり、冷えてしまう前にとすぐに揃って食べ始める。まだちょっと熱くって、『あひゅっ』と言いながらちょっとづつ食べていく綾瀬の姿に見惚れていると、視界の隅に犬の散歩をしているおじいさんの姿が映った。

 …… タイミングが悪いな。

 噂で聞く限り、あまり評判のよくない人だったので、子供ながらに警戒して身構える。今のままでは何を出来るわけでもないのだが、少なくとも言い掛かりや因縁をつけられる事だけは無い様にと大人しくしていたのに、トラブルというものはどうしたって起きる時は起こるものらしい。おじいさんが連れていた犬が美味しそうな食べ物の匂いを嗅ぎつけたのか、一目散に俺達の方へ向かって走り寄って来たのだ。
 体格のいい犬だったので綾瀬が過剰に驚き、叫び声をあげて土手下へと走り出してしまう。コロッケを持ったままだったのが災いしたのか、犬は俺の事を無視して綾瀬を追いかけ始めた。運動なんか得意じゃない彼女はすぐに足を雑草に取られ、もつれさせながら坂道を転げそうになった。慌ててコロッケを投げ捨て、綾瀬を追いかけて小さな体を抱きとめる。そのおかげで一旦は二人共、地面には倒れずに済んだ。

 バウバウッ!と激しく吠えられ続け、とうとう綾瀬が声を出して泣き始めてしまった。
 綾瀬に対し、「コイツは弱い」とでも思ったんだろうか。躾をされず、ワガママ放題に育ったのであろう犬は調子に乗って、唾液に塗れた牙を抜き出しにして俺達に向かい、勢いよく襲いかかってきた。あの犬は綾瀬が持つコロッケを狙っていただけだったのだが、綾瀬は思考停止しているせいでそんな事まで考えは及んでいなかった。普段から相当な量を充分食べていそうな外見をしているクセに、まだ寄越せとは、随分と食い意地の張った犬だ。

『ぎゃあああ!』

 悲痛な叫び声をあげ、綾瀬が俺に抱きついてきた。
 一瞬、そのせいで頭の中が真っ白になる。犬に襲われているんだ、冷静にならねばと思うのに、頭も体も動かない。不謹慎にも、このまま彼女の温もりを感じていたいだなんて事ばかりを考えてしまう。

『透君っ!——だ、ダメ!あっち行ってぇぇ』

 綾瀬がそう叫び、持っていたコロッケを遠くに投げる。やっとそうすべきだと気が付いてくれたか、と安堵したが、同時に激しい痛みを腕に感じ、痛みのする方へ顔を向けた。
『グルルルルッ』
 興奮して我を失っている犬が汚いヨダレをダラダラ垂らし、俺の左腕に噛み付いているではないか。
 血が滲み、着ていた服がじわりと赤く染まっていくと、綾瀬の悲鳴が更に大きくなった。意味を持たぬ声は恐怖に染まる。その声が俺の心を抉るように傷付けるせいで、噛まれ続けている腕の痛みを気にする余裕が無い。早く、怯える彼女を慰めないととしか考えられない。

 異常事態に気が付き、周囲を散歩していた大人達が駆けつけて来る。『助けて!友達が死んじゃうっ』と子供が叫んでいれば当然の反応だが、犬の飼い主は苦々しい顔でこっちを見て『お前らが悪いんだぞ!オレは関係無いっ』とほざいているではないか。
 その言葉には流石にカチンッときて、俺は拳を握り、左腕に噛み付いたままになっている犬の頭部を思いっ切り、全身全霊の力を込めるくらいの気持ちで殴りつけた。ゴンッと鈍い音がして、犬の牙がより深く腕に食い込む。流石にかなりの激痛が全身に走ったが、それ以上にやり返してやったという爽快感の方が大きかった。
 そこからはもう、綾瀬の驚いた顔を筆頭に、飼い主の激昂する声や、助けようとしてくれている大人達の声などが雑多に聞こえ始めた。血が流れ、自覚している以上の痛みで、もう意識が飛びそうなのだろう。そんな中、最後に視界に映ったのは、怒り狂ったおじいさんの顔と眼前に迫り来る木の棒だった——


       ◇


『——…… る、君。透君…… ごめんね、ごめんねっ』
 聞き慣れた音が悲しみに染まっている。そんな、グスグスと泣き続ける綾瀬の声で目が覚めた。
 ゆっくりと目蓋を開け、真っ白い天井を見上げながらボォっとしてしまう。体中の色々な箇所に痛みがあって、視界はいつもと違い、半分以下にと狭くなっていた。

『奈々美ちゃんか、どうしたの?何で泣いてるの?…… あぁ、コロッケ落としたとか?』

 俺の記憶はとても曖昧で、口にした言葉はこの状況とは一致しないものだった。
『ち、違う』と言い、綾瀬が首を横に振る。彼女の体はあちこちに擦り傷やガーゼが貼られたりしており、随分と痛々しい姿になっている。

 女の子なのに、どうしてこんな、酷い…… 。

 苦しそうに俺が顔を顰めると、反対側から母の声が聞こえてきた。
『犬に襲われて怪我をしたのよ。透がお友達を庇ったそうね。でも、軽率だわ…… 犬を拳で叩くだなんて。そのせいで飼い主が怒って、状況が悪化したのだから』
 心配してくれているというよりは、母の声に怒りを感じる。すぐ後ろに立っている父は口元に笑みを浮かべて、『母さんの言う通りだ』と同意した。
『…… でもまぁ、あの人も非難されるべきではあると思うよ。飼い犬可愛さで、首輪もリードもしていなかったらしいからね』
 父が教えてくれた言葉に対し、俺は疑問を抱いた。

『首輪を?…… 好きなら、なおさら着けるべきだと思うけど』

 そう言って、泣き顔のまま隣に居てくれている綾瀬の首にそっと触れる。細くって白くって、彼女の首にも首輪がとても似合いそうだなと、子供心にそう思った。
 そんな俺の様子を前にして、母の眉間にシワが入る。だが父がそっと母の肩に触れ、無言のまま首を横に振った。
『透達が犬に石を投げてきて、それから怯えた犬が驚いて噛み付いたと相手側からは聞いたんだけど…… 実際の所は、どうなんだい?』
『おじさん、それはさっき私が違うって——』と言う綾瀬の言葉を、『ごめんね、今度は透の口からも聞きたいんだ』と父が遮断した。
 話がちゃんと一致しているかどうかを知りたいのだなと思い、きちんと一から父達に説明をしていく。記憶が曖昧で、最後の方はちゃんと話せなかったのだが、『その辺は助けに入ってくれた大人達からも聞けているから問題無い』と許してもらえた。

『——やはり、向こうの言い分は全て出鱈目の様だね。そもそもオカシイなとは思っていたんだ。透一人で居る時ならいざ知らず、奈々美ちゃんと一緒の時に、犬に向かって石なんか投げるはずがないってね』
 俺自身を信用…… してくれているのか、何とも微妙な言葉ではあるが、一応は嬉しく思う。

 犬の飼い主側の言い分としては、大人しくってよく懐いており、自分の傍を離れたがらない温厚な子だから首輪もリードもしていなかったそうだ。だがその代わりにずっと腕に抱っこしていたので、危険性は無かったと主張しているらしい。それなのに、河川敷に居た子供二人が、急に石を投げてきて、驚いて犬を離してしまった。子供達は怯える犬に追い討ちをかけ、終いには俺が脳天を殴りつけて犬が大怪我したのだから、謝罪と治療費、慰謝料に賠償金まで要求して来ているのだとか。

 だが実際は、犬は普通に好き勝手走っていて抱っこなんかされていなかったし、コロッケの匂いに釣られて走ってきて急に襲いかかってきたのだから、俺達に一切非は無いはずだ。
 しかも助けに来てくれた大人達の話によると、犬を殴られて激昂した飼い主が、木の棒を振り回して綾瀬を殴ろうとしたらしい。だが、咄嗟に俺が綾瀬を庇い、その攻撃は頭に直撃してしまったそうだ。

 誇らしい気持ちになった。
 あちこちが痛いけど、ちゃんと最後まで女の子を守れたんだ。
 友達を助ける事が出来た事実が胸の奥を熱くさせる。

『ごめんね、ごめんね』
 父の話を側で聞き、状況を反芻してしまった綾瀬が泣き声で何度も謝罪する。
『そんな、奈々美ちゃんは何も悪くないよ』
 手を伸ばし、涙で濡れる頬を優しく撫でる。すると彼女は涙でぐちゃぐちゃになった顔をこちらに向けた。
『傷は残るって聞いたよ。私、ちゃんと責任を取るから——』

『やめてぇ!責任なんか取らなくていいの!もう貴女は、透に関わっちゃダメよ!』

 普段は穏やかな母がすごい剣幕で叫び、その声は個室の病室内だけでなく廊下にまで響いた。
 はっと即座に我に返り、口元を隠して『…… ご、ごめんなさいね。その…… お友達のままでいいの。その方がいいわ』と言う母の声は震えている。
『でも、極力ウチの透には関わらないで…… 。思い出してしまうと、お互いに辛いんじゃないかしら、今回の件は』
 母の真っ青な顔には汗が滲んでいて、怯えている様にも見える。そんな母の肩を父が後ろから抱くと、『それはダメだよ、母さん』と囁くような声で言った。

『親が止めて、どうこうなるものでもないからね。…… だからこれからも、透とは仲良しでいてくれるかい?奈々美ちゃん』

 作り物みたいに整った笑顔を顔面に貼り付けた父が、綾瀬に向かいそう言った。
『…… は、はい』
 子供ながらに不自然さを感じるのか、強ばった顔で綾瀬が応える。
 母の体が全身ガタガタと震えていて、父はふっと笑いながら『大丈夫だよ、透には君の血が混じっているじゃないか』と耳元で呟いた。
 何がどう大丈夫で、どうして母がこんなにも警戒心を強めているのかわからないが、きっと父が宥めてくれるから平気だろう。

『じゃあ私達は、奈々美ちゃんを家まで送って、その後また戻って来るね。今夜は念の為入院していた方がいいから、一緒に泊まるよ』
『僕は一人でも平気だけど』
『それはダメだよ。大人しく待っていてね。眠れそうなら、しっかり寝ていて』
 父にそう言われ、『…… わかった』と素直に頷く。綾瀬と離れてしまうのが寂しくって彼女の顔を見上げると、『明日もお見舞いに来るね』と申し訳なさそうな顔で彼女は言った。
 力無く椅子から立ち上がり、鞄を持って部屋の出口の方へ綾瀬が向かう。
『…… また明日』
『うん、早く治るといいね』
『奈々美ちゃんも』
『…… ありがと。じゃ』
 扉を開けて、綾瀬が俺の両親が来るのを待つ。
 すると父は移動を始め、ふと足を止めて、『——透』と俺の名前を呼んだ。

『…… “責任”という鎖は酷く脆い。心まで欲しいなら、慎重に行動した方がいいよ』

『…… わかったよ、父さん』
 足首から下が無い母が座る車椅子を押しながら言った父の言葉が、ちゃんと意味もわからぬまま、深く胸の奥に刺さった。
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