近くて遠い二人の関係

月咲やまな

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二人のお仕事

前編(綾瀬・談)

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 頭の中から言葉が消える。
 私の中身は砂漠や砂丘並みにカラッカラに乾いていて、一言も、何も出てこない。
 自分という存在の器が入るモノにヒビが入って、そこからボロボロと溢れ出てしまって、今にも全てが枯渇してしまう気がする。
 何を書けばいいのか、書くべきなのか、何も思い付かない。
 焦燥感だけが胸を締め付け、長い時間キーボードの上に手を置いてはいても、一文字も書き出せない始末である。

 ——つまり私は、スランプって状態に陥っているみたいだ。

「うぅぅぅっ。うぐうぅぅ、くぅぅっ!」
 大きめの仕事机に突っ伏し、側にあったペンを意味もなく右手に持って、くるくると指先で回しながら私は、何とも形容し難い顔で訳のわからぬ音を口から垂れ流した。

「う・る・さ・い・ぞー」
「煩い言うお前が煩い!文句を言うな、文句を」

「いや、ちょっと待て。言いたくもなるだろ、こっちはそっちに呼ばれたからわざわざお前の部屋まで来てやったってのに、もう何十分も放置されてんだぞ?呼んだ理由くらい聞かせろよ」

 スランプで苦しんでいる私に向かい、ド正論をぶつけてきた長身・前髪長しのメカクレなこの男は、私の幼馴染で烏丸透からすまとおるという。彼とは小学校一年生の頃からの付き合いで、小中だけでなく、高校までもが同じという典型的な腐れ縁の仲にある。

 不貞腐れた感情を隠す事なく烏丸に向けると、彼は容赦なく私の額にデコピンをくらわせてきた。幼馴染とはいえ女の額だというのに容赦無い。
「あだぁ!」
 衝撃のせいで後頭部が後ろに軽くさがった。

 痛い!しかもかなり。コレ、絶対に赤くなるぞ。
 乙女の柔肌に何ちゅう打撃を喰らわせるんだ、コイツは。
 烏丸が私を何とも思っていない事を痛感する一撃だった。

 鏡を見なくてもわかるレベルの痛みのせいで、不貞腐れていた私の顔が怒りに染まった。
「やり過ぎだって!加減を考えてよ、加減を!」
「はいはい」と答えた声は適当なものだったのだが、「——んで?」と言って、烏丸は首を傾げながら私の額を軽くさすり始めた。一応は、加減する事なくやってしまった行為をすまないと思ってくれているのだろうか。

「し、仕方ないなぁ。聞きたいのならば教えてあげようか。私が、暇人であろう君を、わざわざ此処へ呼んだ理由を!」

 肌に触れられたせいで動揺する気持ちを隠すようにわざと鼻でふふんっと笑い、スクッと仕事用の椅子から立ち上がる。すると烏丸は、「いや、全然暇じゃねぇし。むしろ締め切り前だから急いで帰りたいんだけど」と、頭をガシガシを掻きむしりながら私に対して新情報を投入してきた。
「…… 締め切り前?…… 」
 間の抜けた声で言い、天井を見上げてちょっと考える。

 何の話だ?聞いてないぞ?

 今度はこちらが疑問を抱く番の様だ。
 私の記憶に間違いが無いのなら、烏丸は高校卒業後そのままフリーターになったはずだ。何箇所かを掛け持ちで働いてはいるけれども、どれも肉体労働ばかりだった気がする。

 じゃあ何故『締め切り』なんて恐怖の塊に、彼まで追われているのだろうか?

「何の締め切り?」
 首を傾げる私に向かい、烏丸が「あ、いや…… えっと…… 。仕事の、だけど…… 」と返事をしたが、何だか話したくなさそうな顔をしている。やっちまったと言いたそうだが、それさえも我慢しているみたいだ。
「就職したの?いつ?何の仕事?ねぇ何で教えてくれなかったの?言ってくれたらちゃんとお祝いしたのに!」
 捲し立てる様に、前のめり気味になりながらそう言うと、机の近くにある二人掛けのソファーに座っている烏丸があからさまに顔を逸らした。

「べ、別に何だっていいだろ?それよりも、呼び出した本題を言え、本題を!」

「ふーん。…… そう、わかった」
 スッと冷めた声でそう言い、仕事机の上にあるマウスに手を置いて検索サイトをパソコンの画面に表示させる。そして叩き慣れた仕事道具であるキーボードを爽快に叩き、「からすま・とおる——っと」と呟きながら奴の名前を入力してみた。

「んな⁉︎ちょ、ま、お前何して——」

 ご近所迷惑になりそうな程の大きな声で喚きながら、烏丸が一気に距離を詰め、慌てて私の手をキーボードから払い除けた。だが残念ながらもう遅い。ダメ元で、いや、どうせ微塵もヒットしないだろうが私の気持ちは晴れるだろうくらいの気持ちでやった行為だったのに、意外にも彼の名前が検索サイトに引っかかっていたのだ。

「ネット社会バンザーイ。何々?——えっと…… え?は?き、『期待の新人作家特集』ぅぅぅ?」

 何の話だ。
 と、さっきと同じ言葉が再度頭に浮かび、疑問符が私の頭の中を埋めに埋めた。

「赤の他人だ!ど、同姓同名なだけってやつだろ?ってかさ、お前の話を早くしようって!」

 動揺しながらパソコンの画面を手で覆い隠そうとしているが、彼の大きめの手であろうがディスプレイなんてどうやったて隠しきれるはずが無く、余裕で記事の内容が読み取れる。どうやらこの特集ページは最近新刊を出した方々の中でも、特に注目ないし出版社が推したい新人漫画家さんを集めたものの様だ。ご丁寧にわかりやすく作家本人の描き下ろしイラストや発売済みの本の表紙も一緒に掲載されていて、此処で紹介されている“烏丸透”が、目の前であわあわと情けない顔を晒しながら必死に画面を隠そうとしているコイツの事だと私は確信した。

「君の絵柄、私ちゃんと覚えてんですけどぉー。それでもこの作家さんが同姓同名の他人だって言うのかい?」

 ジト目で見上げると、烏丸がうっと声を喉に詰まらせた。
 そもそもこんな慌て様で、まだまだ話を誤魔化せるかもしれないと思う方が馬鹿というものだ。

 頬をほんのりと赤く染め、烏丸が再び私から不自然に顔を逸らした。
 画面の前から手を下ろしたので隠そうとする事は諦めた様だが、コレが自分の事であると烏丸が認める気配が無い。あと一押しが足りないのだろうが、さてどうしたものか。

 自分が彼を呼び出した用件なんかよりもこっちの話題の方が気になってしまい、カーソルを動かして烏丸がどんなジャンルで漫画を描いているのかをチェックする。表紙のデザイン的にどうやら女性向けの内容っぽいのだが——

「…… ティ、ティーンズラブ作品?」

 キョトンとした声で私がそう溢すと、烏丸は膝から崩れ落ち、フローリングの床の上にばったりと倒れてしまった。
 特集ページの下の方へ移動していくと試し読みの出来るページへのリンクが見付かった。烏丸が床に倒れたままでいる事を確認し、邪魔されぬ今のうちに勢いで読んでしまえと開いてみたのだが、確かに紛れもなくてティーンズラブ作品で間違い無かった。しかもかなりラブラブなだけでなく、一話しか読めずともわかる程に相当濃厚な部類に入る内容だ。新人とは思えぬ絵の仕上がりには感心してしまったが、残念ながらストーリーが正直まだまだ拙い。それとちょっと気になったのは、ヒロインが微妙にもっさくてスタイルが悪い事だった。なのに脱いだ途端にモデルか?ってくらいに化けていて、どうしたって違和感を抱いてしまう。それでも尚続きを読んみたいなと感じされる内容ではあったので、特集を組まれる理由がわかった気がした。

「おめでと、近々ちゃんとお祝いしないとね」

 祝いの言葉を伝えつつ、本の購入ボタンを容赦なく押す。『最後までじっくり読んでやろうじゃないかこの野郎。んなすごい事を幼馴染に隠すとかふざけんなよボケ』と思う気持ちは笑顔の仮面の奥にそっと隠した。
「いやいいから。んなのいらないから」
 バツの悪そうな顔を少しだけ上げて、烏丸が必死に首を横に振る。
「何で?プロとしてデビュー出来たうえに特集まで組んでもらえてすごいじゃん。みんなに自慢出来るよ?」
「出来ねぇだろ!」
「うわぁ。君、全ティーンズラブ作家様達を今完全に敵に回したよ?わかってんの?」
 冷ややかな眼差しを烏丸に向けると、やっと顔をしっかりと上げてその場に正座をし、そしてガクンッと項垂れた。もしかして、彼にとっては不本意なジャンルでのデビューだったのだろうか?
「まぁティーンズラブだったのには正直驚いたけども。男性向けの雑誌ではダメだったの?」
「…… 最初はその予定だったんだ。だけど『このままじゃちょっと違う、男にウケない』って言われた。デビューする事まではそこそこ順当に決まってたのに、何作品も描き直しさせられて、なのにどれも『だからぁ、コレじゃないんだよ!』ってざっくりとした理由で、結局違う雑誌で描く事になって…… 」
 正座を崩さぬまま頬を膨らませ、不貞腐れた顔をしている。確かにそんな感想だけじゃ、何がダメでネタが没になったのかわからないのも当然だ。私だってそんな感想しか貰えなかったら、まともな作品を創り出せるとは思えない。初めてなのに、ろくに説明をしない担当さんに当たってしまった不幸には同情を禁じ得なかった。

 どうやらこの様子だと、デビュー作が十八禁作品である事自体に不満は無い様だが、もしかしてソレを私には秘密にしたくって黙っていたのだろうか?

「んでもプロにはなれた訳だし、誇っていいと思うけどなぁ」
「誇ってはいる!当然だろ!」
「そうか、なら良かった。でもじゃあ何で私には教えてくれなかったの?」
 その場にしゃがみ、膝に頬杖をついて、フローリングに座る烏丸の傍に顔を近づけた。
「烏丸と仲良しだと思ってたのは、私だけだったわけだ?」
「んな訳ないだろ?…… んなふうに思ってたら、理由もわからず締め切り前にこの部屋まで来るわけ無いだろうが」
「ふむ」
 ちょっとだけ嬉しい言葉を貰え、私は満足気に頷き、くしゃりと烏丸の頭を撫でた。その瞬間にふわりとした髪からいい香りが漂い、まるで洗いたての様だなと思った。わざわざウチへ来る直前にシャワーでも浴びたのかな?締め切り前で忙しく、洗いでもしないと外には出られない状況だったのだろうか。だったとしたら悪い事をしたかもしれない。

 少しだけ反省しつつ立ち上がり、仕事用の椅子に座って、「まずはソファーに戻りたまえ。そこは硬いでしょ」と言って、彼もちゃんと座るように促す。すると烏丸が素直に従い、仕事机の近くに置いてあるソファーまで戻って行く。そしてドカッと音をたてながら腰掛けて背もたれに頭を預けると、真っ白い天井を見上げながら、深く長いため息を盛大に吐き出した。

「終わった…… 見られた…… 絶対にバレた…… 」

 ボソボソと呟いているが意味がよくわからない。
「んと、そうだなぁ…… 作品の感想でも話す?お試しの一話だけしか読んでないから詳しくは言えないけど」
「いや、いい!やめろ!この場で公開処刑する気か!」
「ヒロインがなんかもっさいよね。姿勢も悪いし」
「言うなって言ったろうが!」
 構わずに感想を言ったら、真っ赤な顔で喚かれてしまった。
「脱いだら急にモデルみたいな体型になってるし、アレは無いわー。よく『修正しろ』って言われなかったね」
「仕方ないだろ⁉︎脱いだ姿なんか見た事ないんだから!…… 脱いで見せてくれだなんて、言えるはずが無いし…… 」
 ソファーに預けていた体を前に起こし、怒鳴るみたいな声で烏丸が文句を言う。だが後半は急に声が小さくなり、上手く聞き取れなかった。

 そ、そうか。やっぱ君は女性体は苦手か。

 複雑な気分になりつつも、私の知らぬ女性の裸体をリアルでは見ていない事に安堵する。それでもまぁアレだけきちんと描けるのだから、世の中に大量に存在する資料の多さに感謝したくなった。
「俺の友達なんて正直お前くらいしかいないし。異性を描くってなったら、どうしたってああなるんだって!」
 くそっ!と吐き捨てて、烏丸が長い前髪を掻きむしる。

 んんんんー?ちょっと待て。君は今何と言ったのかな?
 もしかしてヒロインのモデルは、私なのかな?
 あの、もっさい冴えないヒロインが、私なのかな?
 背筋の悪いアレが?ちょっと強引な流れであんあん言っちゃってたアレ、私なのかよ!

「ちょっと待てぇぇぇぇ!ちゃんと見ろ!あそこまではスタイル悪くないでしょうがぁ!」
「…… え?あんなもんだぞ?」

 冷静な声で言われ、グサリと私の胸に容赦無い言葉が突き刺さる。

「…… マジで?」
「マジで」

 今度は私が演技過剰気味に項垂れた。机に突っ伏して長い長い溜息をゆっくりと吐き出す。そしてそっと腹筋に力を入れ、何も考えずにただ椅子に座っていた両脚を閉じて無駄な足掻きを試みる。恥ずかしながら、ちょっとでも自分をマシに見せたい一心だった。

「…… 勝手に、人をモデルにした訳だ」
「…… まぁ、うん」
 だから言いたくなかったんだ。そう思っているのがチラッと盗み見た彼の表情から読み取れる。

「おっし!ならばこっちも本題を言いやすくなったぞ!」

 いつまでも一つのことで凹んでいてもしょうがない。姿勢改善とダイエットは明日からと心に決めて、私は今の状況を好転させる事にした。
「な、何…… 」
 この流れで本題に戻ろうとしたせいか、烏丸は警戒心が丸出しだ。

「君は私をモデルにした。ならば私は、君に私のスランプ脱出の手伝いをしてもらう!」

「——いっ」とまで言って、彼の言葉が途切れる。
 そこそこ長くそのまま溜め、やっと口を開いた烏丸が、今度は「いやいやいやいやいや!」と叫んだ。

「無理だろ!だってお前——BL作品の小説家じゃん!」

「おう、そうだな。私は隠さずに言ってるから、当然烏丸君はその事を知ってるよね」
「知ってる知らないの話じゃ無いって!それ以前にお前、昔っから『今はこの推しカプがアツイ』だなんだ言って男キャラの話ばっかしてたじゃねぇか!しかもBLにしか萌えないお前が俺に何をしろと⁉︎ネタなんか微塵も持ってないぞ!今の担当者さんは女性だし、俺にはお前の他に友達がいないってさっきも言ったよな⁉︎」
 烏丸が早口で捲し立てるが、そんな事はどうでもいい。今のままでは仕事にならんのだ。現状を打破する為に、私はエロ作品のモデルにされていようが寛大な心で受け入れよう。だからお前も協力しろ——と、無言のまま圧をかける。
 うっと声をこぼし、「何をしろってんだよ…… 。変な事は絶対に嫌だからな」と、烏丸が観念した様な、諦めにも近い弱々しい声で言った。

「大丈夫。私は小説を書くのがお仕事だよ?モデルにするから脱げとかは言わないし、ちょっと軽くどっかの男性と交際して実体験を聞かせろとか、そんな無茶振りも言いませんって」
「…… お前のネタ作りの為にそこまでやれとか言ってきたら、マジで殴るところだったわ」

 少しはほっとしたのか、姿勢を正して「——で?」と烏丸が私に問う。
「じゃあ俺は、今後は堂々とお前を勝手にモデルとして絵を描く許可をくれるって事でいいのか?」
「ななななな、何でそうなるの⁉︎」
「なるだろ!スランプなんだろ?じゃあ、交換条件を提示する権利が俺にはあるだろ」

 うぐぐっと唸り、しばらく考える。
 絵のモデルになるだなんて嫌過ぎるが、どうせもうすでにされている。しかもこのままでは失業しかねないくらいに追い詰められている事実を天秤に掛け、私は渋々烏丸の条件を飲む事に決めた。

「…… よし、わかった。私がスランプじゃなくなったら、君のモデルは辞める。それでいいなら…… 」
 そうは言ったものの、『勝手にモデルにされていたのに辞めようがあるのだろうか?』とも思ったが、一応釘をさしておいた。
「え?お前を描けなくなるとか…… マジかよ」
 渋い顔をされたが、私なんかを描いて何が楽しいのだろうか。
「とにかくだ!お互い時間も無い事だし」と言って私は椅子から立ち上がると、背筋をピンと伸ばし、腹筋と大臀筋に力を入れたまま拳をぐっと握った。
「——だし?」
 こちらを不思議そうな顔で見上げる烏丸がちょっと可愛い。くそっ!萌える顔をしやがって、と思う気持ちをひた隠し、私は彼の手を取って壁側の方へと連れて行く。壁を背にし、烏丸には私の真正面に立ってもらった。
 緊張する気持ちを宥めようと、二、三度深呼吸をして瞳を閉じる。

 さぁ言うぞ、言ってやるんだ、頼んじゃうんだからね!
 心の中でそう叫び、目蓋をくわっと見開き——

「ネタの為に、私に壁ドンを経験させてくれ!」

 ばっちこい!と追加で言いそうな勢いで、私は自分から、有名シチュエーションの代表格である『壁ドン』を元気よく所望した。
 残念ながら私には妄想以外で誰かと交際した事が無い。イコールで当然壁ドンなんぞも経験が無く、ときめきポイントや、された時に当人が一体どんな心境になるのかなどがわからないのだ。
 小説や漫画、アニメなどのワンシーンではそりゃもう沢山観てはきたし、自分でも仕事で何度も書いたシチュエーションではあるのだが、所詮全ては他人事。どうしたって壁視点で二人を観てしまい、当人の感情を察する事は出来ても、きちんと理解はしていない。そうなってくると書く時にどうしたって表現がワンパターン化してしまうし、自分がときめかないまま書いたって読み手さんだってドキドキなんかするはずが無い気がする。それじゃマズイ、どうにかして心躍る文章にしないとという焦りがあるせいか、何を書いていても『こんなシーンで読者様は満足出来るのか?』『これは嬉しいの?』『そもそも、好きって何だっけ?』などと考えてしまい、段々と文章が書けなくなっていったのだ。
 そのうえ自分の中で萌えが不足すると言う事態まで重なり、益々『書けない』という巨大な壁に追い詰められるという結果に。

 このままではマズイ…… 。

 そう思った私は藁にもすがる思いで幼馴染である烏丸を呼んだ訳なのだが、頼まれた当人は、何とも微妙な顔で私の前に立ったままピクリとも動こうとしていない。
「…… どしたぁ?」
 何故動こうとしないのだろうか?
 疑問に思いながら問いかけると、彼は眉間にシワを寄せて、幸せが逃げる勢いで息を吐き出しまくった。

「こんな色気の無いお誘いをされてやる事なのかよ…… 」

 正論ばかり煩いぞ。
 今の私はそれどころでは無いのだ。

「ささ!時間も惜しいし」
 ヘイヘイ!と挑発ポーズみたいに手を動かし、壁ドンをせがむ。そもそもやられる側からせがんでいる時点で色々アウトな気はするが、そこは目を瞑る事に。

「わかった。…… 逃げるなよ?」

 烏丸は普段よりも少し低い声でぽつりと呟くと、私の体をトンッと軽く押した。背中が壁につき、二人の距離が一気に狭まり、彼の両手が私の耳の横である、理想的な壁ドンの定位置に置かれた。
 彼の大きな体で天井の照明が隠れて自分の体に影が出来る。ほんの少し視界が薄暗くなっただけなのに、ちょっとだけ心がざわついた。熱い吐息が髪にかかり、彼の呼吸音がはっきりと聴こえる。もうほんのちょっとだけ近づけば心音だって聞き取れそうな距離だ。微かに漂う石鹸の香りが鼻腔を擽り、ちょっと混じる彼独自の匂いで不覚にも少し目の前がクラッと揺れた気がした。なのに烏丸はそれを察する事なく更に距離を詰めてくる。そして軽く腰を折って人様の耳元に顔を寄せると、意図してそっと熱い息をかけてきた。

「…… 綾瀬は、コレで満足か?まさか、もっと何かをシ・テ・欲・し・い、とか?」

 吐息混じりにゆっくりと小声で言われ、ビクッと肩が跳ねる。手汗がじわりに溢れ出し、口元が震え、背筋が否応なしにざわついた。
 不快では無い。むしろコレは——

「ありがとう!」

 私は無駄に大きな声を出して烏丸の意外に厚めの胸板を勢いよく、ぐっと押した。こうやって彼の胸に触れたのは初めてだったせいか、過剰に目の前の存在が異性である事を実感してしまう。それと同時に胸の奥から『今この瞬間の感情を早く言葉で表現したい!』と思う気持ちが溢れ出してきた。

 これはどうだ。
 いや、もっとこういった感じで書いてもいいかもしれない。
 
 心が躍る感覚がとても心地いい。この喜色に溢れた感情をそのまま言葉にして並べたらきっと、素晴らしい萌えを読者様にお届けする事すらとても容易い事の様な気さえしてくる。

「早速原稿書くわ!なんか今だったら超大作の一本すらも書ける気がするから!」

 高揚感を感じつつ、その場でしゃがんで烏丸の緩い拘束から逃げると、そそくさと仕事机の方へと脱兎の如く逃げて行く。
 スランプから抜け出す為にも壁ドンをやってくれとお願いしたのは自分なのでもちろん後悔はしていない。していないが…… 刺激的な行為を“好きな人”に頼んだのは間違いだったと反省した。流石にコレはパンチ力があり過ぎた。あのままでは、妄想が暴走して空想だけでは我慢出来なくなる所だった。

「こんなんでいいのか?書けるのか?お前の書く小説って、俺のよりも相当ハードだろ」

 とんでもない言葉が背後から聞こえてきた。
「まさか、読んでるの⁉︎」
「そりゃ幼馴染の作品が市販されてりゃ読むだろ。どうせお前だって、容赦無く俺のも全部読むんだろ?」

 いやいやいや、私の作品は全てBLですよ?読むとは思わないでしょ!

 全部ペンネームで書いているのによくまぁ探し当てたものだと感心もしてしまう。烏丸は私の部屋に遊びに来る機会も多いし、本棚から得られる情報でバレたのだろうか。
「読まんでいいから!もう止めて!」
 慌てて振り返り、悲鳴に近い声が出てしまった。
「お前も読まんでくれるならな」
「え、TLは読むよ。全女性の権利よ、アレは」
「意味わかんねぇわ。今は腐男子だって広く認知されてきている時代だぞ?そっちが止めねぇならこっちだって読んだるわ。何だったらエロシーンの参考にしまくって、ガンガン描いてやるわ」
「何それ、普通に読みたいんだけど」
 真顔で言うと、同時に黙ってしまった。

「…… 共作でもするか?」
「原作書くかい?」

 今度はほぼ同じタイミングで似たような提案をした。

「…… か、考えとく」
 顔を赤く染め、視線を逸らして言葉少なに返事をした。とっても魅力的な提案ではあったが、恥ずかしいと思う気持ちが先立ってしまう。
「おいおい、お前だって提案してきた話なのに。…… でもまぁ、前向きに考えとけよ」
 ニッと笑った顔は完全に悪戯っ子だ。しかもかなり乗り気っぽい。烏丸の作品は絵柄はいいのにストーリーがまだイマイチ弱いなと感じた点を、彼自身も気にしていたのかもしれない。
 私の考えた構成で作品を描いてみたいと思ってくれているのだと思うと、嬉しいやら照れ臭いやらと複雑な気持ちにもなった。

「話がまとまれば、『初めての共同作業』ってやつだな」
「止めてよ!ケーキ入刀みたいな事言うの!」

 面映い気持ちが前面に出て、まともに烏丸の顔が見られない。もうやだ、これ以上萌えネタを本人 公式から提供してくれなくてもいいから。ちょっと黙っていてくれ。

「私はもう仕事に戻ります。君ももう帰っていいよ」

 しっしと手で払い、追い出すみたいな事を言う。だけど烏丸は玄関に向かうどころかソファーに座り直し、持って来ていた鞄の中から大きなタブレットと折りたたみ式のキーボードやタッチペンを取り出し始めた。
「んじゃ俺は此処で原稿描くから、お前も仕事に戻っていいぞ」
「——は?へ?本気で言ってるの⁉︎」
「本気も本気。モデルになってくれんだろ?」
「私はもうスランプではありません。契約は完了しました!」
「はいはい。仕事仕事」
 軽く私をあしらって、彼はさっさとタブレットを使って作業を開始してしまう。締め切り前だという話だし、仕事だとあってはこれ以上邪険にも出来ない。そのせいで私は、うぐっと喉を鳴らして言葉を詰まらせた。
 もう本当にさっさと出て行けと言いたいけれど、どう考えたって大人としては仕事の邪魔なんかしたくない。まだ一話しか読んではいないが、あの絵柄で描かれたどエロい作品を沢山読みたい。何よりも…… 自分の好きな人が何を考えながらあんなシーンを描いているのだろうか?と思うと、不覚にも心臓が鼓動を早めた。

 …… 手汗、さっきよりもひどくなってきたや。

 ギュッと手を握って汗を隠す。あまり音を立てない様に意識しながら定位置に座ると、どうせ勝手に描かれてしまうのなら少しでもマシに描いてもらおうと、またまた姿勢に気を付けてみた。
 烏丸のせいで位置のズレたモニターを真っ直ぐに直してキーボードの上に指を乗せる。

 あぁもう!頭を切り替えろ、この気持ちを全て作品にぶつけてやるんだ。
 このドキドキする感情や高鳴る心境も、何もかも、全て。

 今自分は、長年想いを寄せている片思いの相手と同じ空間で、とんでもない内容の作品を書いているのだと思うと、困った事に今までで一番筆がのってしまったのだった。
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