義弟が私を“オトコの娘”だと言う

月咲やまな

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【初デートは蜜の味(の予定である)】

前夜の確認②——椿原奏視点

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 家を出た奏が腕に大きな鞄を抱えている。壊れ物が入っているので肩にはかけていない。絶対に壊してなるものかと慎重に、慎重に運ぶ。そして頭の中では出る直前にスマートフォンで検索して見付けたサイトの内容を思い出していた。

『義弟・彼女の有無』と最初は検索したが、全然コレだと思える検索結果はヒットしなかった。他のワードで調べても探偵事務所の宣伝が出てきたりするだけで、求める答えが出てこない。
 仕方なく別の言葉で検索しているうちに、やっと見付けたのが『彼氏の部屋をチェックして、浮気していないかはココでわかる!』的なページだった。陽は彼氏では無い。あくまで義弟である。だがしかし、彼女の有無を確認するという点だけは参考に出来そうだ。

 奏はまず一番に『連絡無く、いきなり部屋に押しかけてしまいましょう。上手くいけば浮気の現場を取り押さえる事が出来るかもしれません』と書かれていた事を実行してみようと家を出た。なので一切彼には『今から家に行きます』とは伝えていない。
 “秘密の彼女さん”が部屋に来ていれば謝ってそのまま帰ればいいし、来ていなかったのなら、サイトに書いてあったアドバイスを試してみる気満々だ。それにより引き起こされるかもしれない弊害になど、全く気が付いていない。その点に気が付ける様な経験が、彼女には圧倒的に不足しているのだ。


       ◇


 何度も何度も脳内でシュミレートしているうちに、陽の部屋の前まで着いてしまった。
 慎重に左腕側に鞄を抱え、右手で部屋のチャイムを押す。

 ピンポーン…… ピンポーン…… 。

 一度、二度。押したが反応が無い。前とは違って外出しているのだろうか?だがしかし、もしかしたらまた寝ているのかもしれない。もう少し様子を見て、それでも出ない様だったら帰ろうと奏が心に決める。

 間を少し開け、またチャイムを押す。だが、やっぱり出てくる気配が無く、これは本当に居ないのかもしれないと思い始めた辺りで、目の前の玄関扉の奥からガンッと大きな音が聞こえ、奏の体がビクッと跳ねた。

「今すごい音が聞こましたけど、大丈夫ですか?」

 何事かと思いながらも、中には居るみたいなので奏が声をかける。すると、返答よりも先に解錠の音が聞こえ、一歩奏が後ろへ下がったタイミングで扉が勢いよく開いた。
「…………」
 風呂上り風のラフな格好をした陽が茫然とした顔で奏を見詰める。何が起きているのかわからないと言いたげな顔だ。

(サイトには確か、彼が出て来たらこう言えと書いてあったはず——)

「…… えっと、『来ちゃった♡』」
 小首を傾げ、相当照れる気持ちを胸に隠し甘ったれた声を精一杯出してみる。
 途端に陽は無言のままその場で膝を着くようにして崩れ落ちたのだった。


       ◇


「先程は、失礼しました」
 ソファーに腰掛け、荷物を腕に抱いたまま、奏が陽に向かって頭を下げる。巫山戯過ぎたかもしれない。きっとそのせいで陽は驚いたのだろうと思うと、彼女は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。『これは、参考にしたサイトが悪かったのかもしれない』と奏は後悔した。だがしかし、始めてしまった事を今更変えられる程器用な性格ではない為、後には引けない。

「いやいやいや、生音声でねえさんの素晴らしい『来ちゃった♡』を頂けて、もう最高だったよ!録音して毎夜寝る前に聴き続けたいレベルで嬉し過ぎて、ちょっと体から力抜けただけだから気にしないで」

 陽がそそくさとキッチンスペースに移動して行く。どうやらお茶の用意をするつもりでいるみたいだ。
 そういえば、彼女の有無はキッチンでもわかるとサイトには書いてあった。料理をしない人のはずなのに作り置きのおかずのある無しや、二人分の食器が洗い場に残っていないかどうかで判断するそうだ。
「よし。行こう」
 前にキッチンを借りた事があるので何かしら変化があればきっとわかる。そう思った奏は抱えていた鞄をそっとテーブルの下に押し込み。蹴って倒したりなどしない様にしてから陽の居るキッチンへ向かった。


 鼻歌でも歌い出しそうな陽に向かい、奏が「手伝いますね」と声をかけた。
「いいんだよ、ねえさんは座っていても。あ、でも…… こうやって一緒に台所に立つのって、新婚さんみたいでいいね」
 えへへ、と陽が嬉しそうに笑う。だがしかし、奏は食器棚や冷蔵庫の中身ばかりを気にしていた。
「食器類、随分増えたんですね」
 備え付けの食器棚から勝手にカップを二つ出す。棚の中はどれもこれも前には無かった物ばかりだ。試験管やスポイトなどもまだあるみたいだが、まともな食器の方が随分と多くなっている。
「二セットずつ、ですね」
 茶碗やおわんなど、ほとんど全てが二人分ある。どう考えても彼女の分を用意しましたといった感じだ。

(これはやはり、陽には彼女さんがいる)

 そう思った奏に対し、陽は「あぁ、ねえさんの分だよ。また一緒にご飯を食べるつもりでいたからね。飲み物は紅茶でいいかな。それともハーブティーとかの方がいい?」と、ニコニコ顔で答えた。
「私の分…… ?ふむ…… 」
 何とも便利な言い訳だ。そう言われて嬉しく無い者などいないだろう。だがしかし、鵜呑みにしてもいいものだろうか?と考えてしまい、奏は腕を組んで悩み出した。

ねえさん?聞いてる?」

 ポンッと陽が奏の両肩に手を置いて、彼女の耳の側で声をかける。あまりの近さで吐息がかかり、驚いた奏は「あひゅんっ!」と変な声で鳴いた。

(いいいいいいいいい、今の、今のは何なんですか⁉︎)

 唇もちょっと耳をかすった気がし、奏はゆっくりとした動きで自らの耳を塞いだ。脳髄を直接撫でられたみたいな錯覚が全身に走っていて、経験の無い感覚に戸惑いが隠せない。
「…… 耳、弱いの?」と、吐息まじりに陽が追い討ちをかける。その声は普段の明るい声とは違ってとても低く、淫靡な魔力でもあるみたいに下っ腹へ響く。そのせいで背が反れて「あひゃんっ!」と、変な声がまた奏から出てしまった。

「…… か、か、可愛い…… 」

 陽にそう言われたが、『どこが⁉︎』としか思えない。誰がどう聞いたって変な声だったのに、陽は肩を震わせながら奏のふわりとした髪の中に顔を埋めてくる。
 すんすんっと匂いを嗅がれ、髪を洗った後で良かったと心底思う。汗っぽいベタついた匂いなど、調香師でもある陽には嗅がせたくなど無いからだ。
 だがこのままでいるのも問題がある。まるで後方から抱きつかれているみたいで心臓に悪い。お付き合いをしている人の有無など関係無しにこの状態は、姉弟の距離感の範囲を超えている気がした。
「えっと、えっと…… 紅茶を、頂いてもいいですか?」
 顔を真っ赤にしながら、奏が話を逸らす。応じてくれるか奏はちょっと不安ではあったが、陽はゆっくりと顔を奏の頭から離していき、「紅茶だね?いいよ」と、穏やかに答えてもらえた。


 いざ手伝おうと思っても、カップを出した後は特にする事が無かった。だが、“キッチンをチェックして浮気相手の有無を確認”という当初の目的は達成出来たので、奏に不満は皆無だ。

(えっと、次は何だったろうか?)

 サイトの内容を思い出し、ポンッと手を叩く。陽には大変とっても申し訳ないが、他を見るなら今がチャンスであると気が付いたのだ。
 では善は急げと思った奏が、陽の服の裾を背後からくいくいっと引っ張る。
「んー?どうしたの、ねえさん」
「すみません、お手洗いを借りてもいいですか?」
 こう言えば、この場を離れても不信には思うまい。後は紅茶を淹れてくれている間に戻るだけだ。
「もちろん。場所、わかるかな。玄関の方に行ったらあるんだけど」
「大丈夫です、何となくわかると思うので」と返事をし、奏がキッチンスペースから離れて行く。
「じゃあ私は紅茶の用意が終わったら、居間にあるテーブルにでも出しておくね」
「ありがとうございます。でも…… 結局手伝えずにすみませんでした」
 振り返って陽に対しそう告げたのだが、真正面から彼の顔を見上げると、耳の奥で感じたゾクッとした感覚が再び体の奥でじわりと炎を灯してしまい、また顔が赤く染まってしまった。
「いえいえ。そもそも手伝って貰わないといけない程の事も無かったしね。あ、でもカップを出してくれてありがとう」
 何と優しい義弟なのだ。
 そう思うと、奏はとても嬉しい気持ちになってきた。


 さてと——
 奏は陽の部屋の中で一人きりになった。居間から見える扉の奥には入れないが、洗面所であれば彼に気が付かれる事なく彼女の有無チェックが出来そうだ。
 サイトには確か『洗面所も重要なポイント!化粧品が増えていたりはしませんか?ヘアアイロンや、ゴミ箱には使用済みの使い捨てシャンプーが捨ててあるかも』と書いてあったはずだ。
 そっと足音を立てない様に気を付けつつ洗面所の中に入って行く。綺麗に整頓されていて、ここにも彼の性格が出ていた。
 ざっと見回しても、ここはどれも一人分しか置いていない。ボディクリームくらいは置いてあったが、女性が好んで使いそうな化粧品などはどこを見ても皆無だった。

(あの人は彼女では無いのかもしれない。やっぱり、何か会話の受け取りミスで自分がそう勘違いしてしまっただけなのだろうか?)

 そうは思っても、あぁもハッキリ断言されていた事を思い出すと、どうしても納得が出来ない。『秘密の』と言っていたのだし、ここも徹底している可能性も捨て切れないのだ。
 ならば次はもう——と思いながら、奏が振り返る。洗面所を出て彼女はすぐ、お手洗いとは違う扉に目を付けた。


 そっと扉を開けると、中は暗かったがそこが寝室である事がすぐにわかった。
 大きなベッドがやたらと目を引く。これはキングサイズだろうか?一人で使うには大き過ぎる気がするが…… ゆっくりくつろいで眠れそうなで、奏はちょっと羨ましくも思った。
 室内に入り、ベッドの横を通ってクローゼットの前に立つ。ここを開ければもしかしたら女性物の着替えなどがしまってあるかもしれない。だが、流石に奏は躊躇し、開けはしなかった。プライバシーの宝庫だし、何よりも義弟の下着などを見付けてしまう事に気不味さしか感じないし、そこまではやり過ぎだ。彼女の有無はきっと他でも判断出来るだろう。

 ならば次は…… ベットドだろうか?

 というか、この部屋には後そのくらいしかめぼしい物が無い。寝具以外にはベッドサイドに小さなテーブルがあるくらいだ。やはりここも随分とシンプルな部屋である。彼は物を置くのが嫌いなタイプなのだろうか。

「よっと…… 。お邪魔します」

 人の寝具の上なので一応断りを入れる。本人はいないし完全に無駄な行為なのだが、こればかりは気持ちの問題だった。

(さて、上がったはいいがどうしたらいいのだろうか)

 布団は綺麗に整えられており、まるでベッドメイク済みの様に見える。シーツのデザインなどはモノトーンのシンプルな物で、柄も女性が好みそうな華やかな感じでは無い。几帳面に彼女さんが整えたと言えなくも無い雰囲気だが、居間や洗面所の事を考えると、陽が自分でやったとしか思えなかった。
 後はベッド下だろうか。ちょっとした隙間を収納スペースとして使っている可能性もある。もしかしたら、そこに彼女さんの痕跡があるかもしれない。ベッドと壁の隙間などは特に盲点で、片付け損ねた物が落ちている事だってありえそうだ。
「よし。では、失礼して」
 ゴロンとベッドの上にうつ伏せで寝転がり、隙間を覗く。…… 驚く事にこんな場所すらも綺麗だ。埃もほとんど無く、掃除もしっかり行き届いている。仕事で忙しいはずなのに一体彼はいつ掃除をしているのだろうか。奏は不思議に思いながらも「…… 何も無い、ですね。ここはシロか」と呟いた。

 顔をあげ、ベッドの上で奏がペタンと座る。ふと目に入った枕が気になり近づくと、そこには二人分の枕が置いてあった。
「枕は、二つ。これは黒ですね」と呟き、ポフポフと枕を叩く。お揃いの枕は程よい弾力がありとても寝心地が良さそうだ。きっとこれらは陽のこだわりの一品なのだろうな、と奏は思った。

「——何してるの?」

 突然聞こえた声に驚き、奏の体があり得ない程ビクンッと跳ねた。ベッドのスプリングの効果もあったかもしれない。
 ギ、ギギギッと、音でも鳴りそうな動きで首を動かし、奏が陽を見上げる。表情の乏しい彼女の瞳が激しく動揺に染まり、どう返答するのが最適解なのか必死に考えるが全く思い付かない。『さぁどうする⁉︎』と必死に考え、奏がたどり着いた返答は——

「ま…… 『間違っちゃった♡』」だった。

 何をどう間違ったら人の寝室に入り、ベッドに座って枕を叩くことになるのかツッコミが入ったら絶対に答えられない。しかも自分は何故、媚を売る様な声で言ってしまったのか。後悔ばかりが降り積もり、冷や汗が奏の背中を伝った。

「いいよ、全然問題ない!」

 なのに陽は、満面の笑みを浮かべて理由も聞かずに許してくれたのだった。


 居間に二人が戻り、並びあってソファーに座る。
 気不味い気持ちを誤魔化す様に奏は紅茶を飲んだが、少し冷め始めている。思っていたよりも長い時間、人様の部屋を観察してしまっていたのだと痛感し、彼女は居心地が悪くなってきた。
 …… だが一口、二口と紅茶を飲むにつれ、香りの効果や、すぐ側に居る陽から全く怒っている気配を感じない事から、奏の気持ちがちょっと落ち着いてきた。

「淹れ直すね」と言って陽が立ち上がる。だが奏は即座に彼の袖を引き、首を必死に横へと振った。
「平気ですよ、むしろ飲みやすい温度で嬉しいです。美味しい紅茶ですね。あまり飲む機会は無いですけど、いい香りでホッとします」
 ぱっと袖から手を離し、ほっこりとした気持ちになりながら奏が息を吐く。そんな彼女の姿に対して陽はうっすら笑みを浮かべると、彼はまたソファーに座り直した。
「よかった、私も好きな香りなんだ。お菓子でもあったらもっとよかったんだけど、ごめんね」
「いえ。…… すみません、私が手土産に買って来るべきでしたね」
「そんな、気にしないで。ねえさんが来てくれた事実だけでもう、私はお腹いっぱいだから」と、嬉しそうな陽の声が何となく聞こえるが、ふと目に入った半透明のゴミ箱が奏は気になってしょうがない。
 ゴミ箱も情報の宝庫であるとサイトには書いてあったが、遠目で見る分には残念ながら中身は空っぽだ。こまめに処分しているみたいで、奏が知りたい情報はそこには無いと一眼でわかる。仕方が無い。後は居間の中で何かわかる事はないだろうか?

「特に物は増えていないんですね」
 奏が居間の中をキョロキョロと見回している。相変わらず物も棚も少なく、殺風景のままだった。
「まぁそんな急には、ね。でも本を買ったんだ。童話の本なんだけどね、久しぶりに読むとこれがまた結構面白くって、もうほとんど読み終わっちゃったよ」
 奏は話を聞き、それがテーブルに端に置かれたままになっていた本の事を言っているとすぐに分かった。
「これですか?」と訊きながら、本に手を伸ばしてそれを取る。表紙には『大人になってから読みたい童話の真相』と書かれていた。
「面白そうですね」
「だろう?結構すごいよ、サイコホラー仕立てだったり、ちょっとエッチな話なんかもあったしね」

(…… エッチな、話し?)

 義弟から予想外のワードが出てきて、奏が硬直した。
「え、えっ…… わぁ」
 動揺が隠せず、奏が顔を赤くする。どの程度のものであるか全くわからないが、そういった内容の本を陽が今さっきまで読んでいたかもしれないと思うだけで反応に困ってしまった。
「かーわぃ、耳まで赤いよ?ねえさんは読まないの?」
「よ、読みませんよ⁉︎」
 声を大にして、即座に奏が否定する。自分もそういった類の話を読んでいるかもしれないと、義弟になる陽に思われているかもと考えるだけでも嫌だった。

「童話を、だよ?何?もしかして、エッチな本を読まないか訊かれたかと思ったのかな?」

 ニッと笑われ、陽にからかわれたのだと奏は察した。何と意地悪な義弟だろうか。
「あまり巫山戯ないで下さい。そ、そういうからかいには慣れていないから、どう返していいのかわからず、きっと場の空気を悪くしてしまいますから」
「あはは!うんうん、いいね。その方が私は嬉しいなぁ」
 そう言う陽は、悪戯が成功した子供みたいに笑いながら、ソファーに寄り掛かった。
 義姉をからかうだなんて人が悪い。上手い返しが出来ない事を悔しくも思う。弟の圭とはこの程度の話題すらも一切しない。だがこの先は、こういった会話にも慣れていかねばならないのかと思うと、ちょっと気が重くなりつつも、奏は顔が赤くなるのを感じた。

「ところで、今日は急にどうしたの?」
「あ、すみません。まずはそれを詫びるべきでしたよね。連絡もなしに来てしまって、迷惑でしたよね」
 後ろに軽く振り返り、奏が詫びる。
「いやいや、ねえさんならいつでも大歓迎だよ。なんだったら泊まっていかない?どうせ明日も一緒に出かけるんだし、問題ないだろ?それに——」
 そう言って、陽が奏の足元に置かれた大きな鞄に目をやった。
ねえさんもそのつもりだったんじゃないの?」

「ちが、ち、違いますよ⁉︎」

 大きな声で全否定をする。何をどうしてそう思われてしまったのか、奏にはわからなかった。
「…… あー、どうしましょう」
 口元に手を当て、ボソボソと奏が呟く。陽には彼女がいないと確信出来れば、こういった品を贈っても問題は無いだろうと思うが、いないと断定するにはまだ少し材料が足りない。だがしかし、どうせいるに違いないのでこのまま持ち帰ろうと決断する程に引っかかる素材も、この部屋には無かった。

「ここまで来たし、まぁまぁ問題は無さそうだし…… 。よし」

 何かを決意すると、前屈みになって、テーブルの下から鞄を引っ張り出し、奏はそれを持ち上げた。
「よいしょっと。壊れては…… いない、ですね。よかった」
 鞄を開けて中を見て奏がホッと安堵する。もし割れていたら、贈る以前の問題となってしまうからだ。
「何んだろう?それ」

「贈り物です。こう言ってはなんですが、陽さんのお部屋は殺風景ですからね。何か飾ると雰囲気が少しは変わるのではないかと思いまして」
 そう言って、テーブルの空いたスペースに奏が赤い薔薇の入るガラスケースをトンッと置いた。
 ちょっと項垂れた感じに演出されていて、台座には数枚の花びらが散っている。奏がスイッチを入れると花は下からうっすらと照らされ、薔薇そのものが光っているみたいに見えた。

「…… わぁ」

 陽は絶句し、うっとりとした顔で置物を見詰めてくれている。
「明日観に行く『美女と野獣』に登場する魔法の薔薇をイメージして作ってみたんです。あ、でもあまりまじまじと見ないで下さいね?出来れば遠くから見て頂ければ。かなり頑張って作りはしましたが、所詮は素人細工なので——」

「作ったの⁉︎に、兄さんが?」

 奏が最後まで言い訳を言い終える前に、手作りである事に驚いた陽が言葉を被せた。
「はい。“姉さん”が、作りました」
「あ、ごめん。嬉しくって…… わぁ…… 。ねぇ、触ってもいい?」
「もちろんですよ。で、でも…… 粗探しは、しないで下さいね」
 よく見ればサイズが合っていない物を無理矢理つなぎ合わせた部分や、削りが下手な部分があるので、ちょっとドキドキしてしまう。だけど、純粋に喜んでくれている事が陽から伝わってきて、奏はとても照れくさい気持ちなってきた。

「…… 可愛いなぁ」

 頑張って作った品を褒められたのだと受け止め、奏の頬が少し緩んだ。
 手に取って、陽が置物を四方からじっくりと観察する。台座の引き出しに気が付き、彼はそれを開けてみた。
「小物入れもつけてみたんです。香り袋を入れたりとか出来るかなと思いまして」
「いいね!薔薇の香りがする物を近いうちに作って入れておくよ。ねえさんの分も用意しようかな。ねえさんはとても可愛らしいから、薔薇の匂いも似合うと思うんだ」
「え、いいんですか?…… 彼女——」
 つい、いつもの流れで『——さんに悪いのでは?』と続けそうになった言葉を奏が止めた。八割方、あの女性の話は自分の受け止めミスだったのだろうと答えを出し始めているからだ。

「何度も言うけどね、そんな相手はいないよ?私はねえさんが好きなのに、他に目移りとかするわけがないじゃないか」

 手に持った細工に目を奪われながら、さらっと陽が奏に告白した。
「ありがとうございます」
 だが、奏はいつも通り姉として彼からの『好き』を受け止めた。義理の姉でしかないのに、ここまで好意を寄せてもらえるとはありがたい話だ。素直に感情を表してくれる事を、奏はとても嬉しく思った。


 満足気な陽が周囲を見渡す。どうやら、どこに飾ろうかと考えているみたいだ。
「ひとまずテーブルに置いておいて、近いうちにこれを飾る為の棚でも買おうかな」
「とてもいいと思いますよ。気に入ってもらえてよかったです。こういった品を作るのは初めてでしたが、とても楽しかったので、また何か作ろうかなと思うくらいでした」

「欲しい!ねえさんの作った物なら、全部欲しいな」

 パッと花開いた笑顔で言われ、奏がクスッと笑った。
「えぇ、いいですよ。でも…… いつになるかは何とも言えないので、気長に待っていて下さいね?」
 まさかそこまで喜んでくれるとは。そんなに綺麗な物が好きなのだろうか?もしかしたら、陽は何も好き好んでこんな殺風景な部屋に住んでいるわけではないのかもしれない。
「もちろん!」と答え、割れ物である事も構わず、陽が置き物をギュッと抱き締める。

「あぁ…… 好き、好きぃ——」

 うっとりとした顔で何度も何度も何度も言われ、奏が流石に照れてきた。『好き』という言葉の持つ魔力にはどうしたって抗えず、まるで異性として、自分に対して『好きだ』と言われているみたいに聞こえてきてしまう。『陽には“彼女”と言える存在が居るわけではないかもしれない』と思い始めてしまった弊害だろうか。
 無意識に頬が染まり、陽の顔を直視出来なくなってきた奏が彼から視線を逸らす。『義弟相手に何を勘違いしているのだ』と考えると、もうここには居ない方が良いように思えてきた。

「あ、えっと。えっと…… もう遅いので、私は帰りますね!」

 空っぽになった鞄を慌てて掴み、奏が立ち上がる。だが咄嗟に陽が奏の服を引っ張ったせいで、くんっと後ろに体が仰反った。そのまま倒れ、彼の腕の中にストンッと収まってしまう自分の姿が奏の頭の中に一瞬浮かんだ。が、奏は寸前の所で体に力を入れ、立ち仕事である事も多いおかげで培った脚力により何とか耐え切る事が出来た。

「待って、泊まっていけばいいのに。ほら、枕も二つあるしベッドも大きいし、一緒に寝られるよ?」

(…… い、一緒に寝る?お互いに大人ですよ?異性なのに、一体何を言っているんですか!——あ、いや。そういえば、陽さんは私の事を“兄”だと思っているんでしたっけ。なら余計に、しっかりキッチリお断りを入れておかねば!)

「い、い、い、一緒とか、無理に決まってるじゃないですか!」
 そう叫んだ声は裏返っていて、とてもじゃないが奏から出た声だとは思えないレベルだった。動揺が激しく、何をどうして良いのか冷静に判断出来ない。

「か、帰ります!絶対に、絶対に帰ります!明日の用意もしないと…… 」

 陽に服を掴まれているのに、奏がその事を忘れたまま玄関に向かおうとする。このままでは服が破けると思ったのか、陽はぱっと手を離した。
 足早に歩き、玄関を目指す。途中途中で壁に腕や足をぶつけて痛かったが、とにかく早く帰りたい気持ちでいっぱいでそんな些末事になど構っていられる余裕が無い。
「お邪魔しましたぁ!」
 そう声をかけ、奏は陽の部屋から慌てて逃げて行ってしまったのだった。


       ◇


 ——それからほんの数分後。
 ガチャリと音を立てて陽の部屋の玄関扉が施錠される。

「大好きだよ、奏にぃさん…… 。早くまた逢いたいなぁ」

 金属越しなせいでくぐもってはいたが、扉の前で腰の抜けた状態のまま動けずにいた奏の耳に陽の切なそうな声がハッキリと聞こえ、彼女は一言も発しない様に口元を両手でしっかりと塞いでいた。
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