義弟が私を“オトコの娘”だと言う

月咲やまな

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【幕間の物語(短話詰め合わせ)・その三】

気が付いた事は知らせるべきか?(寺島•談)

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「…… ども」
 一階のロビーから一番近いトイレを出てすぐの所。俺はバッタリと出くわした、見知った顔の人物に短く挨拶をした。
「お疲れ様です」
 向こうも挨拶を返してくれたが、猫みたいに大きな瞳の奥には『誰だろうか?』と思う気持ちが滲み出ている。当然だ、話した事もない奴から用件もなく挨拶をされれば、社内だろうがそう思うだろう。しかも場所も場所だしな、トイレの前で、というのはお互いにちょっと気恥ずかしくもなるってもんだ。

 …… あれ?

 俺はふと大事な事に気が付き、己の居る位置と、彼が出て来た場所がどこかを確認しようと思い、ゆっくり顔を上げた。俺は今男子トイレから出て来た。目を覚まそうと、出先で飲んだ珈琲の量があまりに多かったからだ。いや違う、そんな事今はどうでもいい。待て待て待て、さっきの椿原さん——

 女子トイレから、出て来なかったか?

 男子トイレの入り口横に貼っている案内のピクトグラムは確かに男を指すものである。隣の入り口には、間違いなく女子トイレを表現するものが描かれていた。何度も確認し、己の見間違いではなかったかを確かめたが、どうなら間違い無さそうだ。

 女性かよ!あの見た目で!

 一瞬叫びそうになったが、寸前で堪えた。
 この間こっそり見た人事課の記録も思い出し、あの性別欄は間違い無かったのかと反省する。『間違ってるぞ』と人事課にメールまで出して指摘した事が今更恥ずかしくなってきた。
 マジかよ、青鬼は一体何をもってして椿原さんがお兄さんだと勘違いしたんだ?やっぱりあの容姿か?いや。アイツ『自分はゲイだ』とか言っていたし、“そんな自分が惚れる”=“男”だと思い込んでいるだけなんじゃないのか?
 監視カメラを終始覗いてはニヤニヤしたり、スマホで撮ったであろう盗撮めいたアングルの写真を指でなぞったり、作業の進行度ガン無視で毎日休憩をきっちり取るようになったりしたのは、絶対に椿原さんに惚れている事からの行動だ。

 だけどそれって、“兄さん”だと思っているからなんだよな?
 実は“姉さん”だと知ったら、アイツはどうなるんだ?
 女性に興味はないと、今更一蹴するのか?

 でもせっかく、『歪んでんなぁ』とは感じつつも、やっと青鬼が本当に自分の為になる行為にハマッてくれている状態なのに。
 献身的に盲目的に。湯川社長の為にと尽くす事が悪いとは思わない。俺だって、仕事仕事であまりプライベートの無い身なのだからどっこいだ。人の事は言えん。
 慣れない仕事と勉強内容で日々疲弊し、溜まるストレスを発散する術も無く、ただただ彼の為にと過ごしてきた日々と比べると、最近の青鬼は格段に人間らしくなった。…… 変態的にもなったが、まぁ逮捕されなければ良しと黙認出来る範囲だ。…… 今なら、まだ。

 遠回しに確認するか。んで、そこから教えてやるか否かを判断しよう。

 女性であるという事でテンションが下がる様ならば、秘密にする。仕事の効率にまで影響が出かねないからな。
 だがしかし、上がるようなら教えてやるか。異性だとわかれば、もっと堂々と正面からアプローチしてお付き合いする事だって出来るはずだ。両家内で、兄姉と弟妹とが結婚とかも面白いじゃないか。


       ◇


 秘書課に戻り、席に着く。俺よりも先に戻っていた青鬼は自分の席に座っており、書類を広げながら真面目に仕事をしていて、ちょっと安心した。時折パソコンの画面をチラ見してはいるが、あれは参考資料を見ているというよりは、椿原さんの行動を確認しているといった所か。
「お疲れ様。これ、戻る途中で買って来たんだけど飲むか?」
 そう言って、最近青鬼がお気に入りの缶コーヒーを差し出す。
「あぁ。ありがとう、助かるよ。丁度喉が渇いてきたところだったのに、兄さんの方は休憩を取ってはくれなさそうだったからさ」
「一人でも行けばいいのに」
「嫌だよ、一緒に居られる数少ない機会を逃したくない。こっちだって割ける時間には限度があるんだしね。次のスケジュールとの兼ね合いとかもあるし。あー、いっつも頭使いっぱなしだからか最近甘いコーヒーばっか飲んでる気がする」
「そういやそうだな、前はブラックだったのに。って、お前、前より今の方が頭使ってるって、おい」
「だってそうだろう?仕事だ勉強だはこっちのペースで全て出来たんだから、ただ淡々と決まった事をこなすだけでいいんだ。でも今は違う。相手が常にどう行動するかを把握出来ないから、こっちが合わせられる様に事務処理の手順、量、ペースを組んでいかないといけないんだ。外に出る事も多いから、本社に居られる時間は有効に使わないとね」
「そこまでするかよ。終業後とか、休みの日とかで会えばいいんじゃないのか?」
 話が思いの外長くなりそうなので、席を立って青鬼の机の側にしゃがみ込む。幸い今は他には誰も居ない。電話番の人も含め、俺達以外は出払っているみたいだ。
「無理なんだよね、断られる。“何か”、もしくは“誰か”に気を遣っている感じがするんだよなぁ。夜に出かけてくれたのなんて、食事をした一回きりだよ。休みの日に一度来てくれた事もあったにはあったけど、朝ご飯を食べたら即帰ったしね。長くは…… 側に、居ない」
 切な気に言い、青鬼が手元の紙をくしゃっと掴む。慌ててそれを伸ばしたが、再度印刷をした方が良さそうだ。
「俺が後で印刷しておくから、それだけ後回しにしておけよ」
「あぁ、ありがとう」

「…… なぁ、青鬼」
「ん?」
「もし、もしだぞ?もし…… 」
「電話かよ、もしもししつこいぞ」
「ちょっと念押ししたかっただけだ!」
「——で?何だい?一人でサボっていてごめんねーって話か?」
 クスクスと笑いながらも、青鬼の手元はずっと動いている。きちんと仕事をしている奴からそう言われると耳が痛い。
「すまん。ただちょっと、な?もし、椿原さんが…… 」
「兄さんが、何?何かあったの?どこかで会った?ずるい、どうして私の居ない時に!」
 バッと顔を上げ、悔しそうに青鬼が顔を顰める。
「そういえば、さっきどこかから丁度戻って来た所だったもんな。どこで会ったんだ?兄さんはどこに行っていたの?」
「トイレでバッタリ会っただけで、別に——」

「み、見たのか⁉︎」
「覗くわけねぇだろ!」

 そもそも向こうは女子トイレに入っていたんだ、覗ける訳がない。もっとも、もし椿原さんが同性で、偶然男子トイレでバッタリ出くわしたとしたって、男のモノを覗くワケが無いだろうが。あ、いや…… コイツは、覗く気なんだな、この反応的に。
「…… ちっ!」
 盛大に舌打ちをされた。もし俺が偶然でもアレを見ていたとしたら、それはそれで色々知りたかったのか?この変態め。
「じゃなくだ、そんな話をしたいんじゃない。ただちょっとな、椿原さんがもし、女性だったら、お前はどうするのかなーと思ってさ。嫌いになったり、するのか?興味が無くなるとか、ただの姉と弟の、正しき姿になるとかすんのかなぁと、ちょっと気になってな」

「兄さんが姉さんだったら、監禁婚も厭わないかな」

 カンキンコン?何だそれは、ベルの音色みたいな響きなのに、何でか物騒な言葉にしか聞こえない。
「兄さんと家族になるには今のままじっとお互いの弟妹達が結婚するのを待つのが手っ取り早いかなぁと思っているけど、異性だったら部屋に閉じ込めて、たっぷり愛して先に既成事実を作ってしまってから、後で心も手に入れるって方法もあるからね」
「無い無い!犯罪じゃねぇか!」
 そんな状況から愛してもらえるわけが無いだろうが。それで上手くいくのは、元々両想いだって事に気が付かぬまま、片方が暴走した時だけだ。
「え、みんなやってるよ?」
「どこの世界の“みんな”だよ、お前の周囲は犯罪者集団しかいねぇのかよ」

 流石にドン引きだ。
 勝手にコイツを親友だと思っていたが、ちょっとその考えを改めた方がいいかもしれん。それとも逆に、そこまで話せる相手だと青鬼も思ってくれていると思えばいいのか?

「弟妹同士が結婚する事で私達も家族になるから、イコールで結婚しているみたいなものだよねとは思うけど、正直それじゃ全然足りないからさ」
 持っていたペンを机に置き、青鬼が椅子の背もたれに寄りかかって大きく伸びをする。その後もしばらく天井を見詰めたまま、「“姉さん”…… 何だとしたら…… 今すぐにでも、全部が欲しいなぁ」と呟いた。
 立ち上がるのが怖い。今の奴の表情を知りたくない。深海の奥深く、闇しか存在しない場所を覗く前みたいなそら寒さを背中に感じる。
「…… でもまぁ、こんな妄想はしても仕方がないよね。兄さんは、どんなに可愛かろうが兄さんなんだしさ」
 気を取り直したのか、明るい顔で椅子に座り直し、陽がまたペンを手に取る。

 いや、姉さんだったぞ?
 人事記録くらいお前はとっくに見てるよな?
 何故気が付かない。自制してるのか?本能的に恋しい者を傷付けまいと、気が付くきっかけからわざと目を逸らしているのか?
 だとしたら俺は、どっちの心を優先してやればいいんだ。
 他人の幸せばかりを願ってきた青鬼を満たしてやりたいが、椿原さんの事も気にかかる。研究主任の娘だ、何かあってはマズイ。それは本人だってよくわかっているはずだ。これでも青鬼は、妄執する想いを必死に制御しているのだから。

 じゃあ俺は、どうしてやったらいいんだ——

「…… どうした?寺島。流石に仕事しないとまずいぞ。あと二時間もしたらまた取引先に挨拶に行くんだろう?」
 ペンで頭を軽く叩かれて、やっと我に返った。
「そ、そうだな、ワルイワルイ」
 スクッと立ち上がり、背筋を伸ばして席に戻る。パソコンの電源を入れつつ、鞄を膝に置いて中からファイルを数冊取り出していると、机に頬杖をつきながらこちらをじっと見ている青鬼と目が合った。
「何だ?心配しなくても、ちゃんと仕事するぞ?」

「あ、いや。それは心配していない。ただ…… 何で兄さんが、姉さんだったら何て話をし出したのかなと思ってさ」

 ギクッと内心焦ったが、どうにか俺は表情一つ変える事なく「あんな美人とすれ違えば、『もしかして女性じゃね?』って期待も膨らむってもんだろ?まぁ俺的には、人事課の主任の方が断然好みなんで、『兄さんに手を出すな』とか、馬鹿な文句は止めてくれよ?お前と何かを取り合うとか絶対にごめんだからさ」と返した。
「あぁそうだな、知ってる。んな心配は微塵もしていないよ」
 ニッと笑いながらそう言われ、青鬼に対して『この人たらしめ!』と思った。『お前が男じゃなかったら、絶対に惚れてた』とかまで考えてしまい、慌ててファイルに目を落とす。

 椿原さんが女性であったと教えてやるか否か…… 。すぐには答えを出せそうにないから、しばらくは様子見ってことにしておこう。
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